上 下
1 / 93
1巻

1-1

しおりを挟む







 ミリヤムはその金色の瞳を見て、ぽかぁんとしたのち、ハッと我に返った。


 あれ私……なんでこの人を押し倒して……?


「……はれっ!?」

 自前のメイド服はずぶ濡れだった。手を突いた下には、ビショビショに濡れた黒い毛並みの男性の姿がある。その男性と視線が絡んだ瞬間、ミリヤムは正気に戻ったのだ。
 その人は狼か犬もしくは狐の獣人男性で、それ自体は特に珍しくもない。
 小柄なミリヤムに突進されてぶっ倒れたのが不思議なくらい体格はよかったが、どうやら律儀りちぎに彼女を受け止めてくれた末に、このような体勢になったらしい。
 とにかくミリヤムは今、彼に向かい合う形でその膝の上にまたがっていた。
 呆れたことに、飛びかかっておきながら、彼女は今初めて相手をちゃんと見たのだ。なんせここに乗り込んできてすぐ、手近にいた相手に無差別に襲いかかったものだから……
 瞳をまたたかせながらよくよく見ると、漆黒しっこくの毛並みに覆われた肉体は鍛えられていてたくましい。今は濡れてばらばらに乱れた毛並みも、きちんと手入れすればさぞかし手触りがいいことだろう。驚きに見開かれた瞳は真ん丸で……まるで小さな月が二つ並んでいるかのようだ。
 ほうけたミリヤムはその瞳をもっとそばで覗き込みたい欲求に駆られた。けれど、なけなしの恥じらいを思い出し――
 そうして次の瞬間、別の感情も思い出した。それは怒りである。ミリヤムは怒りにまかせて、このベアエールデとりでに乗り込んできたのだ。
 ミリヤムの脳裏に、金髪の青年の姿がよぎる。

「は!? そうだ坊ちゃまだ!!」
「……ぼ……?」

 月の双眸そうぼうの主が不可解そうな表情でミリヤムを眺めている。けれども怒りは膨らみ切っていて、歳相応の恥じらいなど吹き飛んでしまった。
 そう、たとえ――己が馬乗りになっているその見知らぬ男が裸であろうとも。
 ここが公衆の浴場であろうとも。
 周囲で裸の獣人族の男達が、湯煙の中あんぐりと口を開けてこちらを凝視していようとも。
 なんか色々見えちゃってても。
 ミリヤムは石けんを割れんばかりに握り締めた。

「さあ! 黒の旦那様……お覚悟なさいませ!!」


     * * *


 侍女ミリヤムの世界の中心は、〝坊ちゃま〟ことリヒター侯爵家の三男フロリアンである。


 物心ついた時には彼のそばにいて、ずっと彼に仕えてきた。幼少期はあんなに愛らしい御子は他にいないと思っていたし、十数年経った今でもミリヤムの中でその認識は変わっていない。
 彼を守ることこそが己の使命、とミリヤムは信じて疑わない。彼の乳母うばを務めた母が亡くなる間際に言い残した言葉も「ミリー、坊ちゃまをよろしくね……」だった。守れなかったら親の遺言を破った沙汰で地獄に落ちる、と、ミリヤムは本気で信じていた。


 そんな彼女が砦にやってきたのは、ほんの数日前のこと。

「え、なんだよ……人族かよ……」

 あからさまにガッカリしたというその表情は、門の前に立つ栗毛くりげの娘――ミリヤムに向けられたものだった。
 ベアエールデ砦の門番は熊の顔をした大男二人で、先ほどミリヤムが手渡した紹介状を彼女に突き返し、「さっさと入れ」とあごうながす。ミリヤムは重そうな鉄製の扉を軽々と持ち上げた大男に軽い会釈えしゃくをして、その内側に足を踏み入れた。
 背後からは「なんで人族なんか……ニーナ婆さんの代わりだって言うから婆さんの孫娘とかが来るのかと思ってたぜ」「可愛い熊族のな。あんな薄毛の細っこいので大丈夫かねぇ」と談笑だんしょうする声が聞こえてくる。
 だがミリヤムはわざわざ相手にするようなことはしなかった。
 この世界には多様な種族達が暮らしている。特にこの国には人族と獣人族が混在しており、種族ごとの文化の違いはあれど皆おおむね平和に共存していると言っていい。
 広い国土は王のもといくつかの領に分かれ、王に任じられた領主達がそれぞれを治めている。その特色は様々で、気候が比較的穏やかな平地の領には人族が集まり、寒さや地形の厳しい領には毛並み豊かな獣人族が集まる傾向にあった。
 この北の辺境伯領は後者の典型で、多くの獣人族の集落が栄えている。逆に人族は極端に少なく、ベアエールデ砦のような国境付近の辺境ではあまりその姿が見られない。ゆえにこうして物珍しげな視線や揶揄やゆを受けることも珍しくはない。
 だが、ミリヤムにはそんなことはどうでもよかった。彼女の目的はただ一つ。
 この〝獣砦けものとりで〟と悪名高いベアエールデ砦を、敬愛してやまない彼女のあるじ、〝坊ちゃま〟にとって相応ふさわしい場所にすることである。


 ここへ来る少し前のこと――
 坊ちゃまが、どこかの砦の警備隊に派遣されるという噂を聞きつけたミリヤムは、慌ててその真偽を本人に問いただしに行った。
 彼が侯爵邸からいなくなるということだけでも冗談ではないと思ったミリヤムであったが……その行き先がちまたで噂の〝獣砦〟だと聞かされて――目の前が真っ暗になった。
「そっ、んな!! 馬鹿なっっっ!!」と坊ちゃまの前で大絶叫したミリヤムは、侍女頭じじょがしらにうるさいと目いっぱい叱られた。
 しかし獣砦と称されるベアエールデが、大いに野性味あふれる場所であることは、この侯爵領でも有名な話だった。砦の中は不潔で数多あまたの虫がうごめいているだとか、多くが獣人族であるという隊士達は泥にまみれて生肉を喰うだとか……そんな噂がまことしやかにささやかれている場所なのだ。
 対してミリヤムの〝坊ちゃま〟ことリヒター家のフロリアンといえば、美しく聡明な青年で、普段は侯爵である父や跡取りの兄を補佐し、領地の内務の一端をになっている。その容姿も手伝ってちまたでの評判はすこぶるいいが、本人は兄達に華を持たせて控えめにしていることが多い。そんな彼に心酔しんすいしているのが――彼の侍女たるミリヤムだった。
 彼女が母の乳から離れるのと入れ代わるようにして侯爵家にフロリアンが生まれ、ミリヤムの母が彼の乳母うばとなった。以来、周囲の皆が「フロリアン様は天使だ」と口々にささやき合うのを聞いて育ち、それを信じ切っていた。
 そんなミリヤムが噂の砦にあるじが入っていくさまを想像した時の衝撃ときたらひどかった。それは彼女にとって、戦場に丸腰で立てと言われているくらい恐ろしいことのように思えた。
 もちろん彼女は全力でその話に反対した。

「坊ちゃま正気ですか!? 坊ちゃまがいくら聡明で剣術に優れておられて天使のように美しくても菌には勝てないんですよ! 坊ちゃまのはかない免疫力で獣砦に乗り込んで無事でいられるわけないじゃないですか!? や、やまい……死……やばい!! 汚染される!!」

 ほぼ息継ぎなしでまくし立てたミリヤムは真っ青だった。が、当の本人はというと、のんびり穏やかに、それでいてきらびやかに微笑んでみせる。「ミリー、これは私が志願したことなんだよ」と。
「砦のちょう殿がとてもお困りのようなんだ。私も内務ばかりでまだまだ経験が足りないし、若輩者じゃくはいものの私が助けになれるのなら光栄だ。きっといい経験になるだろう」――と、嬉しそうに言われ、ミリヤムは崩れるように床の上に沈んだ。

「ぉあああああああ!! 坊ちゃまひどい! でもうるわしい!!」

 ……彼女の中に、愛するフロリアン坊ちゃまの望みを妨害するという選択肢は存在しなかった。微笑むフロリアンによしよしと頭を撫でられながら、その〝砦のちょう殿〟を心の底から呪って……――――からの彼女は素早かった。


 同行したいという懇願こんがんをやんわりと、しかしきっぱりとフロリアンに却下されたミリヤム。彼女は落ち込む間もなく、すぐさま伝手つてを辿りまくって、伝手つて伝手つて伝手つて伝手つて伝手つての先くらいで、もうすぐ獣砦の下働きの老婆が退職するだろう……という話を聞きつけた。
 ミリヤムは速攻でその老婆に手紙を送り、速攻で荷物をまとめると、辺境伯領から行商に来ていた獣人族達に金を積んで頼み込み、帰還の一団に同行させてもらった。
 慣れない白雪の道を、時に雪に埋まり窒息しそうになりつつも、彼等に助けられながらなんとか越えて、ミリヤムはくだんの老婆の家に押しかけた。そしてもふもふの熊の老婆に退職祝いと称した賄賂わいろと土下座を贈って――……やっとのことでその後任の紹介状を勝ち取ったのだった。この頃には、長年こつこつ貯めていた貯金はすっかり底をついていた。
 それがつい先日のこと。
 暇をもらいたいむねを書いた手紙を郵便馬車に託しておいた……のはついさっき。
 事後承諾の強硬手段に出たのは、周囲に止められないためだ。獣砦に行くなんて事前に申し出れば、猛烈に止められることを彼女もよく分かっていた。しかし、ハンカチの端をかじって泣きながら、やしきで大人しくあるじを見送るという選択肢はなかった。フロリアンの健康は何よりも大事だった。

「こうするしかないんだわ……坊ちゃまの健康にさわらないよう、私が砦の水準を引き上げるしか……ないっ!!」

 ミリヤムはそびえ立つ砦をにらんでこぶしを突き上げた。
 ――ちなみにミリヤムがやしきへ送った手紙の中には、「坊ちゃまの健康と美を損ねたら領地の女達の間で暴動が起きる」「領地間の和平のために戦ってまいります」と書かれていた。
 ミリヤムは――ちょっと(?)思い込みの激しい娘だった。
 後日、侯爵邸でその手紙を読んだ者達は、恐ろしい行動力だと評価しつつも、ひどい頭痛に悩まされたという。「あいつ、砦長とりでちょうに絶対嫌がらせするぞ!!」……とは、青ざめた執事長談。


 砦の門をくぐったあと、ミリヤムはその聞きしに勝る環境に思い切り顔をしかめた。

「ぅ……なんなのこのにおい……」

 かばうように鼻を手で覆ったが、それでも辺りはひどい臭気だった。何かが腐敗したようなにおいと獣臭さ、泥臭さのようなものが濃厚に混じり合ってとにかく臭い。
 においの元はどこかと周囲を窺うと、所々雪に覆われた黒土の広場の先に、古い石造りの城砦じょうさいがそびえ立っていた。重厚な雰囲気の、威厳ある建築物だった。
 だが残念なことにほとんど手入れがされておらず、あちこちいたみや汚れが目立っていた。何よりゴミが多すぎる。壊れた武具の破片から食べ残し、丸めた紙、なんだかよく分からない塵芥ちりあくた……年代物とおぼしき黒い染みはもしかして血の痕か。ミリヤムはその有様に絶句した。
 そうして途方に暮れながら重い足取りで敷地の奥へと進んでいくと、数名の隊士達とすれ違った。武装した男達は皆一様にボサボサだ――何がって、毛並みが。いかにも野性味あふれる彼等は足に泥がついていようが、毛並みが乱れていようがつゆほども気にならないらしい。時折身体をボリボリと掻きながら、異臭漂う広場の中でゲラゲラと笑っている。
 そりゃあ身体だってかゆいでしょうよと思いながら、ミリヤムは青ざめた。今すぐ全員おけに突っ込んで丸洗いにして天日干しにしたい衝動に駆られる。

「こ、こんな不潔なところに……いずれフロリアン坊ちゃまが来てしまう……」

 昔は喘息ぜんそくが出るといって、やしきの飼い犬や馬にも触らせてもらえなかったフロリアン。成長と共にその症状も鳴りをひそめているとはいえ、彼がここに来たら一体どうなってしまうのか。なんとかという砦のちょうの役に立ちたいなどとあるじは言っていたが、その前にあの妖精のような人は一発で雑菌に侵され死んでしまうのではないか、とミリヤムはおびえた。その秀麗な笑顔を思い出すと、栗色の瞳にじわりと涙が浮かぶ。

「……お可哀想なフロリアン坊ちゃま……」

 ミリヤムはベソをかきながら、雪のちらつく灰色の景色の中をとぼとぼと歩いた。そうして鼻を寒さに赤らめ、うつむいて歩いていると――ミリヤムは不意に、ドンッと何かにぶつかった。

「おうっ!?」

 大きな荷物をかついでいたミリヤムは、その重みで簡単によろめく。

「ひっ!?」

 身体が斜めになった瞬間、ミリヤムは脇から抱えられ、気がつくと誰かにぶら下げられていた。おかげで冷たい雪の上に転倒することはまぬがれたのだが、大きな荷物を背負っている己が軽々持ち上げられたことに、ミリヤムは目を丸くする。
 その相手は小柄なミリヤムからすると、山のように大きな人物だった。頭から足元まである黒い外套がいとうに身を包み、フードを目深まぶかにかぶっている。口元も分厚い防寒用の布で覆われていて顔がほとんど見えず、どんな種族なのかは不明だが、外套がいとうの下からわずかに黒い尻尾が覗いている。

「すまない。……なんだ泣いているのか?」

 男はすぐにミリヤムを雪の積もった地面に下ろしたが、その目の端に光るものを見て取ると、そんなに痛かったのかと尋ねるように首を傾げた。
 それを察した瞬間、ミリヤムは何故だか無性に泣きたくなる。針で突かれた風船が破裂したかのように、瞳から涙がこぼれ、怒りが一気にあふれ出してきた。

「っ!?」
「泣きたくもなりますよ! なんですかこの砦の有様は!! まるでゴミ溜めじゃないですかっ! こんな、こんなところに(坊ちゃまが)お勤めしなければいけないなんて……砦のちょう様は一体何をなさっておいでなのですかっ!?」

 いきなり汚い汚いとわめき出した娘に、男は外套がいとうの奥で一瞬目を丸くして――それからぽりぽりと頬を掻いた。

「……すまない。むさ苦しい男所帯ゆえ……許せ」

 男がそう言うも、ミリヤムは殺気を放たんばかりの顔で彼をにらんだ。ただ、鼻水が出ている顔はかなり間抜けだったが。

「男所帯だと言えば済むと思わないでください!! 男性だって獣人族だって不潔にしすぎたら病気になるんですよ!?」

 くそお、と男をにらみながら、ベソかきミリヤムは地団駄じだんだを踏んだ。

「私がきっと……ここを貴婦人でも暮らしていけるような清潔な場所にしてみせる!!」

 ヤケっぱち気味の叫びが周囲に響く。正面でそれを見下ろしていた顔の見えない男は、その外套がいとうの内側で呆気あっけにとられているようだった。
 しかしミリヤムはヤケにならざるを得なかった。彼女はこの恐ろしいほど不潔な砦を、あるじが到着する前に綺麗にしておかなければならないのだ。それも恐らくたった一人で。
 男は雪を踏みつけて怒っている娘を無言で見ていたが、不意に、その外套がいとうの中でくすりと笑った。

「……そうか、頑張るといい」

 何かが顔に迫ってきて、ミリヤムは咄嗟とっさに目をつむる。

「っ!? ぅぐっ……」

 ……手ぬぐいだった。
 男はどこからか取り出したそれでミリヤムの顔をぐいぐいとぬぐう。こんな場所で暮らす男のふところから出てきたのかと、ミリヤムは一瞬身構えたが……柔らかな布からは清潔な香りがした。
 少しほっとして、されるがままになっていると、次いで頭にぽんぽんと軽い重みを感じる。どうやら――ちらつき始めた雪を彼女の頭の上からはたき落としてくれたらしい。そのなだめるようなリズムに、ミリヤムはなんだか肩から力が抜けていくような気がした。

「おそれ、いります……」
「早く中に入りなさい。人の子にこの寒さは辛かろう」

 それは雪の中で心が温かくなるような、穏やかで優しい声音こわねだった。

「あ」

 外套がいとうの男はミリヤムが背負っていた荷物を取り上げて数歩歩き、彼女を手招いた。ミリヤムが慌ててついていくと、通用口らしき扉の前まで彼女を導き、その戸を開いて中を指し示す。

「通路を右に行きなさい」
「あ、りがとうございます……」

「……衛生状態の件は――」と、男が言いかけた時、遠くから慌ただしく隊士が駆け寄ってきた。

「ヴォルデマー様! そこにいらしたのですか!」

 ミリヤムに荷物を手渡しながら、男はその隊士の耳打ちに耳を傾けている。すると不意に、男が防寒用の布の内で小さくため息を落とした。

「……?」

 その響きにミリヤムは首を傾げる。なんだか男は、ひどくくたびれているように見えた。
 それから男は隊士に向かって「分かった」とだけ頷き、身を返した。

「あ……ちょっ」

 去っていこうとする男を引き止めるように、ミリヤムは慌ててその腕にかじりつく。

「それ! ください!」
「……? ……それ?」

 ミリヤムは、彼の手の内を指差した。

「昔から私めは粗忽者そこつもので有名ですが、いくらなんでも己の鼻水がべったりついた手ぬぐいを人様に押しつけるほどではございません! 洗ってお返しします。およこしください」

 その申し出に男は「不要」と言いかけたが、彼女は手ぬぐいを問答無用でひったくった。
 もちろん親切に対する感謝の念もあったが、この砦の有様を見るに、このままでは男のポケットの中で十年くらい寝かされるんじゃないかと疑ってもいた。自分の鼻水がだ。

「大丈夫、親御様のお形見のように丁寧に扱わせていただきます! では!」
「あ、おい……」

 ミリヤムは「ありがとう存じますー」と叫びながら、スタコラさっさと逃げ出した。取り返されてなるものかと思いつつ、なんにせよ親切な人がいるようでよかったと少し安堵していた。
 の、だが――

「……しまった……」

 砦の中に入ったあと、ミリヤムは冷たい廊下に両手と膝をついてうなだれていた。
 手ぬぐいを洗って返すと言っておいて、その相手をきちんと確認していなかったことに今更ながらに気がついた。
 隊士が男の名前を呼んでいた気もするが、坊ちゃま関係以外では、人物――特に男性の名を覚える気のない残念思考のミリヤムは、それをまったく覚えていなかった。

「……私は一体どなたの親御様の形見を預かったの……?」

 しかも勝手に、ただの手ぬぐいを形見にしてしまっている。ミリヤムはうんうんうなった挙句あげく呟いた。

「……〝黒い外套がいとうの君〟……いや……〝お疲れ気味の手ぬぐいの君〟で……いいか……な……」


 ミリヤムは、アア、ナルホド、と思った。嗚呼ああ……なるほど……と。
 ミリヤムが遠い遠い目をしたのにはわけがある。
 猫族の上役に連れてこられた部屋の中には、これからミリヤムが共に働く砦の使用人仲間達が顔を揃えていた。その面々を見て、ミリヤムは意気消沈したのである。
 新人娘をのほほんと見やる十数名の同僚達は、全員が毛がふさふさで腰の曲がった――ご老体で。

「あらあらマックスさん、新しい人? ニーナさんの代わりの?」
「まあまあ……随分可愛らしい……え~と猿族さん……あら、人族のお嬢さんなの? よく見えなかったわぁ。ふふふ」

 彼等はにこにこしながらよかったよかったと口々に言い、ほのぼのと頷き合う。

「ここに若い人族のお嬢さんが来るなんて珍しいこと。お嬢さん、おいくつ?」

「……えっと……二十歳はたち、で、す……」とミリヤムが答えると、周囲からは歓声が湧き上がった。

「まぁまぁ……上の階のお掃除を頼める人が来てよかったこと。最近本当に階段がきつくてねぇ……」
「重いものも、高いところのものだって取ってもらえるわよ」

 ホントね~とのんびりメルヘンに微笑む同僚達。ミリヤムは瞳孔開き気味の顔で上役を見た。
 どうりで色々と行き届いていないわけである。先日紹介状をくれた熊族のニーナも結構なご老体だと思ったが、同僚達もまた同じくらいの年代に見えた。
 ミリヤムは、思わず声を上げる。

「上役様……この布陣には異議があります……大体……こんなご老体にむち打つような……」

 水の入ったコップを持ち上げるだけでも手がプルプルしている灰色の犬系の老獣人を見て、ミリヤムはそのコップを取り、彼の口元にそっと当てた。

「ゆっくり、ゆっくりお飲みください……」
「おやおや……ご親切に」

 可愛らしいお爺さんの笑顔に頷いてみせてから……ミリヤムは上役に鋭い横目を向けた。どう見ても、この戦力で広い砦を手入れしたり維持したりするのは無理がある。
 しかし猫の上役はきょとんとしてミリヤムを見た。

「どうかしたか? 壮絶に気持ち悪い顔だぞ」
「だって……」

 ミリヤムが尚も眉間みけんしわを寄せたままでいると、上役は「まあまあ」と笑う。

「彼等はベテランだ。これまで大した問題も起きていないし、隊士達からの苦情も特にない。人手はちょっと足りていないが……とても居心地のいい砦だ」

 けろりとしたその言葉に、ミリヤムは耳を疑った。
 部屋の外はもちろん、今見えている限りの場所ですら、隅や高いところにはほこりが溜まっていた。蜘蛛くもの巣だってかかっていて、そこに更にほこりが絡まっている。きっと高いところは彼等には掃除がしづらいのだろう。そもそも目が悪く、見えていないのかもしれない。

「…………」
「ははは」

 ミリヤムのじっとりとした視線に、上役もさすがに苦笑いしながら頬を掻く。

「まぁ、ここ十数年、隣国の国力がいちじるしく衰退したおかげで国境戦線も落ち着いてな。配属される隊士の数は減らされる一方だし……あまり使用人の増員もできないんだ。新人が入ってきたのもだいぶ前で……何より爺さん達が働きたいって言うんだ、職を奪うわけにもいかないだろう? ま、平和なのはいいことだ」
「…………」

「慣れればどうってことないさ、ははは」と、毛深いしま模様の手で背を叩かれ、ミリヤムは彼に殺気を放った――が、それと同時に、牝牛の顔の老婆がよろめき、カゴに入っていた豆を床にぶちまけた。

「あらぁ~?」
「おわーっ!?」

 ミリヤムは慌てて豆を拾う。そのちょこまかした動きを見て、周囲からはほのぼのとした賛辞が贈られた。

「やっぱり若い人は動きが機敏だわぁ」
「さすがだねぇ、私はもうかがむのも億劫おっくうで……」

 来てくれてありがとうと嬉しそうな同僚達の声を聞きながら、ミリヤムは複雑な気持ちで豆を追うのだった……


「……終わりが、見えない……」

 数日後、ミリヤムは休憩時間に砦の内部を徘徊はいかいしていた。
 大きな麻袋を引きずり、燃料庫から拝借した炭バサミを駆使して、とにかくゴミを拾って歩く。袋がいっぱいになると焼き場へ持っていき、空になった袋で再びゴミを拾って回る。延々その繰り返しだ。だが、拾っても拾っても砦は絶望的にゴミだらけだった。
 その上地味に苦痛なのが、石造りの砦はとても寒いということだ。厚着をしていても身体は芯から冷えてきて、手がかじかむと炭バサミが上手くあやつれなかった。

「これは……かなり根気が要るわ……」

 ため息まじりにゴミを拾っていると、そばを通りかかった隊士達がげらげらと笑いながら何かをポイ捨てしていった。どうやら、かじりかけの食べ物のようだ。

「…………」

 それを見たミリヤムは、せめて袋の中に捨ててくれればと腹が立ったが……とても疲れていたので彼等を叱り飛ばすのを諦め、ゴミで丸々と膨らんだ麻袋を引きずって焼き場の方へ足を向けた。
 ――と、その時、視界の先を歩いていった黒毛の隊士にハッと顔を上げる。が――

「違う……? か……な……ぁ?」

 相手はミリヤムをちらりと見たものの、そのまま視線を外して立ち去っていく。
 ミリヤムが探しているのはもちろん〝お疲れ気味の手ぬぐいの君〟である。先日彼から借りた手ぬぐいは既に洗ってエプロンのポケットに忍ばせてある。

「……いないなぁ……」

 というか分からないのだ。黒い毛の獣人男性はたくさん見かけるものの、顔も見ていないがゆえに、あちらから声をかけてもらわなければ識別しようがない。顔を見ていたところで、獣人族の顔がミリヤムに判別できるかどうかはとても怪しかったが。
 こうして徘徊はいかいしているうちに〝お疲れ気味の手ぬぐいの君〟と鉢合わせしないかと期待しているのだが……未だそれらしき相手に行き当たってはいなかった。

「どうしよう……〝お疲れ気味の手ぬぐいの君〟が親御様の形見が返ってこないとおなげきになられてたら……困ったなあ……」

 ただでさえお疲れ気味のようだったのに、とミリヤムはため息をつく。彼には親切にしてもらったこともあって、尚更気になっていた。


「ただいま戻りました……あれ?」

 へとへとで下働き達の食堂に戻ったミリヤムは、ふと扉のそばにあったカゴに目を留める。

「ミリーちゃんお帰り。まぁまぁ……休憩時間くらいのんびりしたらいいのに……早く晩ご飯をお食べなさいな」

 暖炉のそばで鍋をかき回していた、灰色の犬のような老婆がミリヤムを手招く。

「はい……あの……サラさん、ここに置いてあるカゴの中身って……石けん、ですよね……こんなたくさん……ほこりかぶってますけど……」
「ああ。これねぇ……隊士さん達の大浴場用の石けんなんだけど、五年くらいここに置いてあるかしら。ふふふ……ここじゃ、石けんってなかなか減らなくって」


しおりを挟む
1 / 2

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!


処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。