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しおりを挟む第一章 ヤンデレ王子の逃げ腰シンデレラ
1
長い人生には必ず、何度か転機が訪れる。
例えばそれは進学、就職、結婚といったライフイベントであったという人もいれば、信頼できる友人や恩師、または一冊の本との出会いであったという人もいるだろう。
今がまさに人生の転機だと自覚している場合もあれば、あとになってから、『あれが転機だった』と気付く場合もある。
そんな多種多様の転機だが、この物語のヒロインである彼女――高野寿々にとってのそれは一本のストローだった。
うんざりするくらいぐんぐんと気温が上がり、立っているだけでも汗ばむようになってきた五月末の水曜日。
ぎゅうぎゅうに押し込められた満員電車の中から、寿々は弾き出されるようにして地下鉄のホームに降り立った。うしろでひとつにまとめていた髪が乱れていないかそっと触って確認し、肩から掛けたバッグを抱え直す。そしてはぁ、とため息をついた。
「疲れた……もっと会社の近くに引っ越そうかなぁ」
新卒で就職してから今年で五年目。毎日この時間、この路線で通勤しているが、いまだにこのすしづめ状態の電車には慣れない。
こんな満員電車では席に座れるはずもなく、当然立ちっぱなしだし、見知らぬ人と密着するのも気を遣う。揺れて倒れそうになった時には、見た目重視で選んだ高いヒールで踏ん張るのも大変だ。
短い足を少しでも長く見せようとして先週末に買ったばかりだが、もう少し歩きやすいヒールの靴にするべきだったと思っている。
小さな後悔を胸に改札へ続く階段を上がると、連絡通路の壁面に巨大な化粧品広告が出ているのに気がついた。
昨日までなかったそれには、今人気の若手女優のキラキラした写真と共に『あなただって、シンデレラになれる』というキャッチコピーが躍っている。誰より可愛い女優がそれを言っても説得力がないのでは? なんてイジワルな考えが寿々の頭に浮かんで消えた。
「シンデレラ、かぁ……」
シンデレラ、それは世の中の女性達の憧れである。
義理の母と姉達にいじめられていたシンデレラは、魔法使いの助けによって美しいドレスをまとい、かぼちゃの馬車に乗って舞踏会に出掛ける。
その舞踏会で王子様に見初められて結婚し、ハッピーエンド――というこの物語は、シンデレラ・ストーリーという雛形まで生み出した。
だが、自他共に認める平凡OLの寿々は思う。
お話は王子様と結婚して『めでたしめでたし』で終わったけれど、シンデレラは本当にずっと幸せだったのだろうか、と。
召使いのような生活で大した教育も与えられていなかっただろう彼女は、突然投げ込まれた上流階級の生活に戸惑わなかったのだろうか。権力に群がる人々によって足元を掬われることはなかったのだろうか。夫である王子との身分差や考え方の違いに、悩む瞬間はなかったのだろうか。
そう、人には自分に合ったレベルというものがある。
例えば寿々は、太すぎず細すぎないスタイルで、顔面偏差値は中の中。一度も染めたことのない黒髪をひとつにまとめて、清潔感のある服装を心がけているが流行には疎い。
こんな〝超〟がつくレベルの普通な自分は、誰が見ても王子様には相応しくないだろう。おとぎ話の世界だったら、せいぜい一言喋って退場する町娘Bといったところだ。
一応二十六歳という微妙な若さだけはあるが、大人しい性格のせいでこの年までまともな恋愛経験はない。一度も彼氏がいたことのない枯れ女となれば、華やかな男性には敬遠されるだろう。
だから寿々はずっと、自分の身の丈に合った人生プランを描いている。ごくごく普通の男性と結婚して、ごくごく普通のマンションを買って、ごくごく普通の安定した生活を送る。
ごくごく普通の自分にはそれが一番だと思っていたのに、なぜか今寿々は絶対に釣り合わない〝王子様〟に恋をしている。
相手は、どんなに手を伸ばしても届かない雲の上の人。彼に比べたら自分なんて、控えめに言っても鼻をかんだあとのティッシュ程度の存在。
むしろ好きになってしまってごめんなさいと土下座するべきかもしれない。
そんな寿々にできることと言えば、身の程をわきまえてこの想いを隠し通すことだ。もしかしたら両想いかもしれない、なんてメガトン級の勘違いをかまして告白をするなんてありえない。
その王子様は会社の上司で同じチームに所属しているため、仕事では彼を支えられる立場にある。寿々はそれに感謝して、毎日を地味に過ごしていた。
「ふぁ……」
取り留めもないことをつらつらと考えて歩きながら、寿々はあくびを噛み殺した。
昨夜は少し遅くまで資格試験の勉強をしていたせいで睡眠不足気味なのだ。しかも今日は水曜日。週末まで今日を入れてあと三日もあるから、精神的な疲労感が半端ない。
「寿々ちゃん、おはよう。どうした、大きなあくびして」
そんな時、突然うしろから肩を抱くようにぽんと叩かれて、寿々は内心飛び上がった。慌てて横を見ると、そこにいたのはよく見知った人物である。
「せ、芹沢主任……っ!?」
「ははは、そんなに驚かなくてもいいんじゃない?」
寿々の反応に苦笑を漏らした彼は、直属の上司である芹沢主任。寿々が密かに想いを寄せる〝王子様〟である。今日もセンスのいいスーツをスマートに着こなしていてかっこいいし、穏やかな声が胸をくすぐる。
朝から声を掛けてもらった喜びはありつつも、大あくびを見られてしまった恥ずかしさで頬がかーっと熱くなった。
「どうせまた遅くまで勉強してたんだろ。今度はなに?」
色素の薄い茶色の瞳が優しく覗き込んできて、寿々の頬はどんどん熱を増した。心拍数だって、もしも今、計測器を付けていたら余裕で針が振れ切れているはずだ。
あっさりと夜更かしを見破られた寿々は、しどろもどろに答える。
「あの、えっと……ビジネス実務法務です。契約書のチェックをする時に、法律の知識がもっと必要だと思うことが多くて……」
寿々の仕事は営業事務だが、身に付けなければならない知識は無限にある。五年目になっても自分はまだまだだと思うことばかりで、時間を見つけては毎日自宅でコツコツと勉強していた。
今は、もう少しで開催されるビジネス実務法務の検定試験のために追い込みをかけているところである。
寿々の答えを聞いた芹沢はわずかに眉をひそめた。
「勉強熱心なのは寿々ちゃんのいいところだけど、体を壊したら元も子もないよ。ちゃんと睡眠時間は確保すること。わかった?」
「は、はいっ」
「うん、いい返事」
よしよし、と頭を撫でられて寿々はきゅっと体をすくめる。
芹沢にとってはただの部下、もしくは近所に住む小学生を褒める程度の意味合いでこういうことをするのだろう。わかってはいても彼に対して〝ただの上司〟以上の感情を抱いている寿々には堪ったものではない。今にも暴れだしそうな心臓に、平常心、平常心、と言い聞かせる。
「じゃあ僕はちょっと急ぐから。ごめんね」
「いえっ! お時間を取らせてすみません」
腕時計をチラリと見た芹沢は、軽く右手を上げて人混みに消えて行った。
その直前、『月曜から言おうと思ってたけど、新しい靴すごく似合ってる』と彼が言い残したため、寿々の頭は爆発寸前だ。まさか自分が靴を買い換えたことに、気付いてくれているとは思っていなかった。
そうやって朝から寿々の心をかき乱した〝王子様〟は、大手総合商社の紙・パルプ部門営業一課に所属する芹沢透主任である。
少し長めの前髪を横に流していて、そこから覗く優しげな瞳は薄茶色。全体的に色素が薄くて透明感があり、まさに正統派王子様といった外見だ。
いつも穏やかな笑顔を絶やさず、誰にでも公平で、彼が声を荒らげた場面は今まで一度も見たことがない。
優しげな雰囲気と甘い顔立ち。そのうえ、驚くほど仕事ができる。野心的な社員が多く、体育会系の社風の中では異色の存在と言えるだろう。寿々の所属する紙・パルプ部門は芹沢が引っ張っていると言っても過言ではなく、世界各地に広がる人脈を駆使して大きな取引をいくつも成功させている。
そして寿々が最も尊敬しているのは、彼は誰よりも優秀であるにもかかわらず、まったくそれを鼻に掛けないところ。少しくらい天狗になっても誰も責めはしないというのに、決して驕り高ぶらず、慢心しない。いつも謙虚で誠実な人柄によって、上司からも部下からも一目置かれている。
つまり彼は、寿々なんて遠く及ばない、雲の上の存在。
この条件で独身、彼女なし、三十歳とくれば社内にファンはたくさんいて、女子社員達はこっそり『芹沢王子』とまで呼んでいる。三ヶ月ほど前に、同じく社内で人気のあった建設機械部門の真山課長が結婚してしまってからは、さらに人気が高まったように思う。
だからそんな人に片想いをしているなんて分不相応だと、寿々は十分承知していた。同じチームで彼の仕事を支えられるだけで幸せだと満足しなければならない。
地味で平凡な町娘Bは、同じく地味で平凡な青年A辺りとくっつくのがセオリーだ。
そうはわかっていても気持ちばかりはどうにもならず、寿々は絶対に実ることのない恋に身を焦がしていた。
彼が好きで、好きで、本当にどうしようもなく好きで。身の程知らずなのはわかっているけれど、せめてこんな気持ちを抱えることだけは許してほしい。
ただ近くにいられるだけで満足するからと、心の中で言い訳をしていた。
2
「おはよ! どしたの、ニヤニヤしちゃって?」
「わっ……美波? おはよう、偶然だね」
芹沢に靴を褒めてもらった幸せを噛み締めながら駅の構内を歩いていると、またしてもうしろから肩を叩かれた。今日はよくうしろから声を掛けられる日だ。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは同期の安藤美波である。彼女とは新入社員研修の際に仲良くなり、それ以来プライベートでも一緒に遊んでいる仲だ。お互い同じ路線を使い、ほぼ同じ時間に通勤しているため、こうして朝に出会うことも多い。
「えへへ、ちょっといいことがあったの! 今日の予約十九時だよね。その時に話すから、仕事遅くなりすぎないようにしようね」
寿々は美波ににっこりと笑いかける。
今日の夜は美波と話題のイタリアンの店に行くことになっているのだ。予約が一ヶ月待ちの店で、先月予約してからずっと楽しみにしていた。今日は芹沢に靴を褒めてもらったし、話題のイタリアンにも行けるし、電車を降りた時のブルーな気持ちが嘘のように消えてしまう。
「そういえばね、こないだ女優の大島初音が来店したってお店のブログに書いてあったの! 他にもサッカーの内藤宏選手とか、アイドルの松山流星クンとか!」
「へぇ、そうなんだ」
「すごいでしょ!? もしかしたら今日も誰か来てるかも。どうしよう、サイン色紙とか持って行っちゃおうかなぁ」
「えぇー、そんなの必要? 美波はミーハーなんだから」
きゃっきゃと盛り上がる美波の隣で、芸能人にあまり興味がない寿々は少しだけ呆れ顔になった。そもそも誰か来るのかも確かではないのに、色紙まで持って行くのは大袈裟ではないだろうか。
美波はそんな寿々の反応を不満に思ったらしく、チラッと意味ありげな視線を投げてよこす。
「ま、寿々は芹沢王子一筋だからね。芸能人なんて興味ないのかしら?」
「ちょ、ちょっと待って! こんなとこで言わないでよっ!」
美波の爆弾発言に、寿々は大慌てで辺りを見回した。ここは通勤時間の会社最寄駅という危険すぎる場所だ。社内の誰かに聞かれていないかと、冷や汗をかきつつ周囲を確認する。
大勢の人の流れに沿って歩いていた途中だが、幸いにも近くにいる人々はみんな知らない顔ばかりだった。どっと体の緊張が解ける。
「もう! 誰かに聞かれてたらどうするのよ!」
「ごめんごめん。だって寿々があんまりにも冷たいからさぁ」
「そんなの言い訳になりませんっ」
「ごめんってば。じゃあ、カルガモ珈琲館でなにかおごるから許してよ」
「う……。……仕方ない。じゃあ、キャラメルラテなら許してあげてもいいけどっ」
「おっけー」
交渉が成立して、寿々はもったいつけながらも機嫌を直すことにした。
仲の良い美波とは、こうしておごったりおごられたりするのもコミュニケーションのうちのひとつだ。
もともと二人が知り合ったのも、新入社員研修で筆記用具を忘れた美波にペンを貸したのがきっかけだった。お礼にとコンビニのシュークリームをもらい、そのまたお礼にと持っていたチョコをおすそ分けしたりしてどんどん仲良くなっていったのである。
だが、大好きなカルガモ珈琲館のキャラメルラテで懐柔されてしまったとはいえ、芹沢についての話題がトップシークレットなのは変わらない。
なにしろ彼は、平凡・地味・目立たないの三拍子揃った寿々とは月とスッポン、いや月と消しゴムのカスくらい格が違う相手なのだ。寿々は感情が顔に出やすいらしくて美波にはすぐにバレてしまったが、他の人に想いを悟られるのだけは絶対に避けたい。
駅を出てしばらく歩くと、お目当ての店についた。
寿々お気に入りのコーヒーチェーン店『カルガモ珈琲館』は、駅と会社のちょうど真ん中に位置している。
イメージキャラクターは、親子のカルガモ。羽に白抜きのハートマークが入っているお母さんカルガモのカルルと、三羽の黄色い子ガモ達の大きな看板が店の目印だ。
カップに印刷してある親子のイラストもとても可愛いし、クオリティの高い味のわりにお手頃な値段なので、ついつい手が伸びてしまう。
しかも今は五百円購入ごとにスクラッチカードを配布していて、運が良ければカルルと子供達のオリジナルグッズが当たるのだ。
「寿々、スクラッチ集めてるんだよね? 私はいらないからあげるよ」
「うそ! 本当!? ありがとーっ!」
商品の受け取りを待っていると、なんと美波がスクラッチカードを譲ってくれた。目指すはA賞の特大ぬいぐるみ、せめてD賞のステッカーをゲットしたいと夢見ている寿々は大喜びだ。いそいそと財布から取り出した硬貨でスクラッチを削る。
「あー、ハズレ? 期待させちゃってごめんね」
「いいのいいの。ハズレ券十枚で敗者復活賞のタンブラーに応募できるから」
結果は残念だったが、ハズレ券は大事にバッグにしまった。寿々が熱心にスクラッチカードを集めているのは部署の中でも有名なため、あちこちから『これ、よかったら』と渡されてたくさん溜まっているのだ。これだけあれば一つくらいタンブラーが当たるのでは? と期待も高まる。
ちなみにだが、実は芹沢からも先週スクラッチカードを譲ってもらった。そんなこと予想もしていなかった寿々は舞い上がり、うっかり本人の目の前で『芹沢主任にいただいたものなんてもったいなくて使えません! 大事に取っておきます!』と言ってしまい、大慌てだった。
幸い冗談と受け取ってもらえたようだが、本当に応募には使わず残しておく予定だ。現在はカードの端に赤いペンでハートマークの目印をつけて財布に入れ、たまに取り出して眺めてはにまにましている。誰にも言えない秘密の幸せタイムだ。
「そういえばさ、芹沢王子の新しい噂聞いた? なんか中東に油田持ってるらしいよ」
「は?」
キャラメルラテのカップを持って会社へ向かう途中、美波が唐突に言い出した。あまりにも突飛な内容に、寿々は思わず足を止める。さすがにこれはナイ。
社内で大人気の芹沢に関する噂話はたくさんあるが、どれも現実味のない内容ばかりだ。
曰く、実は大手ホテルチェーンの御曹司だとか、総資産は十億円だとか、百億円だとか、欧州某国の王族と縁戚だとか。彼の王子様的ルックスとその噂が『芹沢王子』というあだ名の由来である。みんなふざけ半分で噂をしているだけだろうとは思っているが。
「油田? もう、美波は本当にそんな噂信じてるの?」
「ちょっとーっ! 今回は確実なんだってば!」
明らかに本気にしていない寿々の表情に、美波がぷんぷんと怒り出した。
彼女の説明によると、中東で出資する予定の石油関連事業が頓挫しかけた際に、まったく関係ない部署である芹沢の人脈を使って事業継続が決定したことがあったのだとか。その時に実は彼が現地に油田を持っていると判明したらしい。
「じゃあ美波は油田の権利書とか見たの?」
「……それは見てないけど。でも今度こそ本当だと思うのよ!」
「それじゃ信じられないなぁ」
芹沢の石油王説を熱弁する美波をハイハイとなだめながら、寿々は会社のエントランスへと足を踏み入れる。途端に冷房のきいた快適な空気に包まれて、わずかに汗ばんでいた肌がクールダウンした。
そうやってホッと息をついたその一瞬後、寿々の心拍数はふたたび急上昇する。なんと、ちょうど会社から出て行こうとしている芹沢にまた鉢合わせしたのだ。
「芹沢主任! 今から外出ですか?」
しかも、ばちりと目が合ってしまう。こんな些細な偶然にも胸が弾んだ。今日はなんて運のいい日なんだろう。
「うん、大宮でアポが九時半からなんだ。帰りは昼前かな」
受付の正面に掲げられている大きな時計を見ると、時刻は八時三十五分。
九時より前に出発せねばならない場合は自宅からの直行が許可されているが、必ず会社に顔を出してから出掛けるのが芹沢だ。そんなところが彼の真面目な人柄を表していると思う。
お気を付けて、と頭を下げると、芹沢は嬉しそうに目を細めた。
「そう言ってもらえるとやる気が出るんだよね。寿々ちゃんに会いたくて一旦出社したけど、やっぱり来てよかった」
「…………え?」
「はは、冗談だよ。じゃあ、いってきます」
「……っ、もう! からかわないでくださいっ!」
顔を真っ赤にして叫ぶ寿々に手を振って、芹沢は足早に自動ドアから出て行く。やっぱり主任はうしろ姿もかっこいいなぁ、などと見惚れながらスラリとした長身を目に焼き付けていると、隣に立っていた美波に肘で小突かれた。
「なに、朝からイチャついちゃって」
「な……っ、イチャついてなんかないよ! ちょっとからかわれただけだもん」
「またまたぁ。どう見たって相思相愛の恋人同士みたいだったよ。だいたい〝ちゃん〟付けで呼ばれてるの寿々だけじゃん」
「その理由は美波だって知ってるでしょ!?」
相思相愛だの恋人同士だの、自分と芹沢を表す関係からは最も遠い言葉に寿々は憤慨する。そんな誤解をするなんて彼に失礼だ。
自分だけ特別に〝寿々ちゃん〟と呼ばれているのは、入社当時、同じ部署にもう一人高野姓の社員がいたからである。簡単な話し合いの結果、基本的にはどちらも〝高野さん〟と呼ばれることになったが、彼だけは違った。
『高野さんには僕のサポートをフルでお願いすることになると思う。頻繁に呼ぶのに同じ呼び方だと紛らわしいから、僕は〝寿々ちゃん〟って呼ぶね』
当時まだ主任という肩書きのなかった彼は、みんながいる前でにこやかに告げたのだ。あまりにもさらりと言うものだから、寿々も流されて頷いてしまった。あとで冷静に考えて初めてその重大性に気が付き慌てたが、逆に自分を女として意識していない証拠だろうという結論に達した。
「はいはい、そういうところがイチャついてるっていうの」
「だから違うってば」
満員のエレベーターの中、最後まで小声で言い合いをしてから美波は降りて行った。資源・エネルギー部門の美波は五階、紙・パルプ部門の寿々は六階で働いている。もし時間が合えばお昼も一緒しようと約束したので、今日の仕事はサクサク片付けるぞ! と寿々は気合いを入れ直した。
3
『ごめん! この埋め合わせは絶対にするからーっ!』
その電話がかかってきたのは昼休みに入ってすぐのことだった。
今からどこかに食べに行かないかと美波に連絡しようとした瞬間、手に取ったスマホがちょうど震え始めたのだ。画面に表示されている発信者名はまさに今電話を掛けようと思っていた相手で、あまりのタイミングのよさに笑ってしまった。
半分笑ったまま受話のボタンを押したのだが、それは残念ながら夜のイタリアンをキャンセルしたいという申し出だった。
「そんなに謝らなくていいって。駿ちゃんと会うの久しぶりなんでしょ?」
『そうだけど……』
現在話題の駿ちゃんは、南米に長期駐在中の美波の彼氏である。元々は同じ会社で働いていたのだが、今は子会社に出向している。現地で新規事業の立ち上げに携わっており、多忙を極めているため滅多に帰国しない。それを美波が寂しがっているのを寿々はよく知っていた。
そんな彼が本社での報告会のためにひょっこり帰って来たそうで、美波は今晩駿ちゃんと過ごしたいと言ってきたのだ。もちろん寿々の答えは決まっている。
「私はいつでも美波に会えるんだから大丈夫だよ! あ、でも今度からはちゃんと帰国する前に連絡してって言っておいてね」
『言う! 絶対言っておく!』
「そうだ、せっかく予約してるんだからイタリアンも駿ちゃんと行って来なよ。今度どんなだったか教えて」
『いいの!? 寿々~ありがと~っ』
今にも土下座しそうな雰囲気が伝わってくる電話を終えて、寿々はこっそりと肩を落とした。
一ヶ月も前から予約していたイタリアンだが仕方ない。滅多に会えない恋人が帰国したのだから、美波を笑顔で送り出してあげるべきだろう。
だが楽しみにしていた予定が潰れて残念なのも事実だ。そういえば昼食に誘うのを忘れていたが、これも駿ちゃんと食べるのだろうなと思い直した。
「あの、寿々先輩」
その時、隣の席からトントンと肩を叩かれた。遠慮がちに声を掛けてきたのは、くるんとカールしたまつ毛と大きな瞳が印象的な後輩・今井リナである。新入社員の彼女は、今月全体研修を終えて、紙・パルプ部門の営業課に配属されたばかりだ。
「もしかして今日、人気のイタリアンに行くって話、なくなったんですか?」
「うん、一緒に行く予定だった子の都合が急に悪くなっちゃって。……ところで何度も言うようだけど、会社は学校じゃないから〝先輩〟はやめてね?」
「あっ、すみません! いつも忘れちゃうんです」
会社にもよると思うが、寿々の働く会社では基本的に〝先輩〟と呼ぶのはNGだ。いつも注意している内容を優しく繰り返すと、まだ学生気分が抜けない彼女は、てへ、と首をかしげた。
普通の人間がやればどつきたくなるようなぶりっこ仕草だが、リナには意外と似合ってしまうから恐ろしい。
応援ありがとうございます!
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