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1巻

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   第一章


 急いで行動すると、ろくなことにならない。だから時間に余裕を持って行動しなさい。
 ――それは古籍こぜきあすかが、昔から母親に言い聞かせられてきた言葉だ。
 だが、マイペースでうっかり者なあすかにとって、母の言葉を実行することはなかなか難しい。女子大への進学を機に地元を離れて二年が経ち、ひとり暮らしに慣れてきたと同時に、気の緩みも出てきたのかもしれない。
 時間に余裕を持って行動できなかった結果、あすかは今まさに窮地きゅうちおちいっている。
 今日は大学の定期試験の初日だった。寝坊してしまい、アパートを飛び出したのは数分前。大学までは自転車で十分もかからない距離で、今ならなんとかに合う。そう思いながら全速力でペダルをこぎ、脇道から大通りに出ようとした際、突然ブレーキがきかなくなってしまった。
 そして「あれ? あれ?」と焦っているうちに、停車していた黒塗りの高級外車にぶつかったのだ。
 目の前に停まっている高級外車のバンパーには、くっきりと傷跡がついていた。

「うわ……。やばい……どうしよう」

 幸いなことにあすか自身は無傷で済んだが、車のバンパーの傷は酷い。また、自転車はぶつかった衝撃で前輪がくにゃりと曲がり、もう動かせないほどの有様ありさまだ。

(と、とりあえず警察に電話っ! いや、保険会社に連絡するほうが先……? っああ違う、まずはぶつかった相手に謝らないと! それから怪我がないか確認して……あとはお母さんたちに知らせなきゃ。……うう、絶対に叱られる。しかもこんな高級な黒塗りの外車に乗ってるなんて、ヤのつく人のイメージしかないんだけど……)

 動揺したあすかの思考はまとまらず、傷ついたバンパーに視線がくぎづけになってしまう。

「おい、このくそガキ、聞いてんのか!」

 突然怒鳴り声が聞こえて、あすかはやっと顔を上げた。すると屈強な男が怒り心頭という様子で迫ってきて、こちらに手を振り下ろそうとしている。

「わあ!?」
「何度声かけても無視しやがって……! まさかこの車にどなたが乗ってるのかわかっていて、ぶつかったんじゃねえだろうな!」

 その言葉で、あすかは状況を理解した。故意ではないものの、自分は謝罪もせず男を無視したかたちになったのだと。車の運転席のドアが開けっ放しだから、この男はきっと運転手なのだろう。
 殴られる――あすかは咄嗟とっさに首をすくめ、目をつぶった。

「やめなさい」

 その声で、男は動きを止める。声を発したのは助手席から降りてきた新たな人物だ。びしっとしたスーツに身を包んだその人は、女性と見まがうほどの美貌びぼうの男性だった。

「……っ、佐賀里さがり幹部」
「女性を脅してどうするのです」
「も、申し訳ありませんっ」

 佐賀里という人物に注意されただけで、威勢のよかった男の態度が豹変ひょうへんする。
 あすかは、佐賀里の顔をまじまじと見つめてしまった。こんなに美しい男を、あすかは今まで見たことがない。まさに花顔かがん玉容ぎょくようだ。いつまでも眺めていたくなるほど美しい。しかし瞳はするどくどこか冷たい印象で、近寄りがたい雰囲気をかもし出している。

「お怪我はありませんか」

 佐賀里はあすかのほうを向くと、声をかけてきた。
 彼に見とれていたせいで、あすかは反応が遅れてしまう。

「へ……? あ、な、ないです! あのっ、そちらのほうは、お怪我は?」
「それはよかった。こちらも怪我はありません。……あなた、学生の方ですか」
「そうです。……って、あっ、あの、急に飛び出してすみませんでした!」

 自分の失態に気づき、あすかは勢いよく頭を下げた。やっと謝罪を口にできて、ほっと吐息を漏らす。

「おや」

 佐賀里はわずかに目を見開き、そうつぶやく。あすかは続いて運転手に向き直り、頭を下げた。

「あの、先ほどはすみませんでした。事故に驚くあまり、無視するみたいになってしまって……本当にすみませんでした」

 いくら茫然ぼうぜん自失じしつしていたとしても、謝罪もせずに相手を無視するなんて、どれほど礼儀に欠けていたか。冷静さを取り戻した今なら理解できる。
 あすかの謝罪を受け、運転手の男は怒りをおさめた。

「お、おう。ま、まあ、わかればいいんだよ」
「はい。すみませんでした」
「……話を続けても? 状況を整理しましょう」

 再び佐賀里に声をかけられ、あすかは「あ、はい。お願いします」とうなずく。
 まずは互いに身分を証明できるものを示すということで、相手は名刺を差し出し、あすかは学生証を提示した。すると佐賀里はスマホで学生証の写真を撮る。

「自転車はずいぶん酷いことになっていますが、本当にお怪我はありませんか?」
「はい、なんともないです。あの、そちらも本当に大丈夫ですか」
「私と運転手、それにもうひとり同乗者がいますが、怪我をした者はおりません。ちょうど車に乗り込んだところで、発進していなかったのが救いでした」
「も、もうひとり乗ってらっしゃるんですか」

 あすかは車の後部座席へ視線を向ける。しかし窓はスモークガラスで人の姿を確認できない。

「はい。上司――うちの社長が」
「社長……って、社長さん、ですかっ?」
「ええ」

 あすかの顔から血の気が引いた。社長ということはヤのつく職業の人ではなさそうだが、きっと多忙だろう。対応を急がねばならない。

「……警察、呼びます」

 あすかはスマホを取り出そうとするが、佐賀里がそれを制止する。

「いいえ。その必要はありません」
「え、でも……」

 事故が起きたとき、怪我がなくとも警察へ連絡する義務がある。損害賠償ばいしょう額が関係する過失割合を決めるためにも、警察が作成する実況見分調書じっきょうけんぶんちょうしょが必要だからだ。
 しかし佐賀里は淡々と述べた。

「先ほどご自分でもおっしゃったでしょう? 飛び出してきたのはあなたですよ。ほら、車に傷がついています。弁償していただかなくてはいけませんね」
「だから、あの、警察を呼ばないと……」
「ええ、その必要はありませんね」
「へ? いや、け、警察……」

 何故か話が噛み合わない。あすかは不安に襲われた。
 警察を呼ぶべき状況なのに、佐賀里はそれに応じようとしない。そんなやり取りが続いたのだから、マイペースでにぶいと言われることのあるあすかでも不審に思った。
 警察を呼ばれるとなにかまずい事情でもあるのか、と。

(……どうしよう……)

 内心で頭を抱えながら思案する。

(どうすれば――っ!)

 そのとき、ふと自分の手首に巻かれた腕時計が目に入り、あすかはハッとした。

「――ああっ! 時間が……っ」
「時間?」
「きょ、今日、大学の試験なんです! それで急いでいたら、突然自転車のブレーキがきかなくなって、飛び出しちゃって……。ああ! やばい、遅れる!」
(このままじゃ試験にに合わない……! でも、事故現場から離れちゃまずいよね!? 本当にどうしよう……っ)

 こうやって考えている間も時間が過ぎていくばかりだ。
 おたおたと慌て出したあすかをよそに、佐賀里はおもむろに車の後部座席へ近づく。するとスモークガラスがわずかに下がり、車中の人物と佐賀里が短くやり取りをした。そして彼はあすかに向き直る。

「失礼」
「……っ。あの、すみませ――」
「先ほど渡した名刺、出していただけますか」

 いきなりの話題転換にあすかはしばし目をみはったが、言われたとおり名刺を取り出す。

「……これ、ですよね」
「ええ、それです。このあと試験なのですよね? では試験が終わりましたら、そこに書いてある住所のビルにいらしてください。受付で私の名刺を出せば済むよう、話を通しておきます」
「え……それはどういう……」

 あすかは理解が追いつかず、まごつく。

「ところで時間は平気ですか」
「あっ!」

 佐賀里の一言ではっと我に返り、あすかは手渡された名刺と佐賀里の顔を何度も見比べる。彼はすでに話を終えたつもりらしく、それ以上はなにも言わなかった。
 このままでは本当に試験に遅れてしまう。しかし接触事故の相手との話し合いが終わっていないのに、この場を離れても平気なものなのか。
 あすかはしばらく逡巡しゅんじゅんしたが、天秤てんびんは目先のことに傾いた。

「……っ、すみません。絶対に、試験が終わったらそちらへうかがいます!」

 勢いよく頭を下げ、急いで壊れた自転車を押し始める。
 あすかは去り際に振り返って、もう一度叫んだ。

「絶対に! 試験が終わったら、謝罪と話し合いに行きますからー!」

 それだけ言うと全速力で大学への道筋を辿った。


 そして、定刻のぎりぎりで試験会場に滑り込み、あすかは試験を受けることができた。しかし事故後で平静ではなかったからか、出来は散々だった。単位取得に必要な点数を取れたかどうか、微妙なくらいだ。
 試験が終わり事故後の対応を思い返すと、血の気が引いた。その場で警察に連絡しなかったばかりか、証拠として接触箇所を写真に残すことを忘れていた。これでは、今朝の事故でついた傷がどれなのか明確にできない。なんと間抜まぬけなのだろう。
 もしも朝まで時間を戻せたら、絶対に警察を呼んだのに。
 考えてみれば、病欠で試験を受けられない学生のための再試験が、来週おこなわれるはずだ。事故があったことを証明できれば、今日の試験にに合わなかったとしても、あすかも再試験を受けられたかもしれなかった。
 けれど後悔しても後の祭り。あすかは渡された名刺に記載された住所へバスでおもむいた。

「ここ……だよねえ」

 七月の太陽に照らされながら、悠然とそびえ立つビルを見上げる。周りはオフィス街で、自分のような学生はほとんど見かけない。スーツに身を包んだ大人ばかりで居心地が悪い。
 しかしこのまま逃げるなんてできない。事故を起こして責任も取らずに逃げるなど、許されぬ行為だ。

「女は度胸、女は度胸だ……!」

 妙に男らしい台詞せりふを唱え、ひたいにじむ汗をぬぐってから、あすかは近代的なビルに足を踏み入れる。清潔感のあるエントランスに圧倒されつつ、とりあえず受付に向かった。
 受付嬢に今朝もらった名刺を見せると、彼女は「少々お待ちください」と電話で連絡を入れる。そして一言二言話をすると、電話を置いてあすかに笑みを向けた。

「そちらのエレベーターで最上階まで行ってください」
「あ、はい。わかりました」
(最上階……)

 緊張を隠せないまま、言われたとおりエレベーターで最上階に向かう。その最中、もらった名刺を何度も見直した。そこには『社長秘書』と印刷されている。

(このビル全部、この会社のものってことはないよね。そんな大物の車を傷つけちゃったとしたら、とんでもない弁償額を提示されるかも……。うう、駄目だ、怖くなってきた)

 嫌な想像をふくらませているうちに、エレベーターは最上階に到着して、扉が開く。おそるおそる降りると、今朝会った美貌びぼうの男――佐賀里がいた。

「お待ちしていました」
「あ、の……こんにちは」

 あすかはぺこりと頭を下げる。そのとき、「まさか本当に来るとは」という小さな声が聞こえた。

(……あたし、信用されてなかったんだなあ)

 あすかの顔に自嘲じちょう気味な苦笑がにじむ。
 顔を上げると、佐賀里は廊下の奥にある扉を示した。

「どうぞこちらへ、古籍あすかさん」
「あ。はい」

 ばっちり名前まで覚えられている。学生証を見せたので当然といえば当然なのだが、名乗る前に呼ばれると背中がひやりとする。

「あ、改めまして、古籍といいます。今朝は本当にすみませんでした」
「いいえ。謝罪は中でお待ちの社長にお願いします」
「あ、社長さんに……」

 重い扉を開けて、さらに奥にある部屋へうながされた。
 ぶつかった車に乗っていた最高責任者が社長なのだから、その人物と話をしなくてはならない。わかっていたのに、いざ対面するとなると、とてつもなく緊張する。なにせ今まで、社長なんて立場の人に会ったことすらないのだ。
 粗相をしないか心配でたまらない。どくどくと鼓動が大きく響き、まるで耳元で心臓が鳴っているみたいだ。
 そんなあすかをよそに、佐賀里は二枚目の扉をノックして声をかける。

「社長、いらっしゃいました」

 彼は返事を待たずに扉を開けた。その部屋の中央には重厚なテーブルと革張りのソファーセットが置かれている。さらに奥にある格式高い執務机に男が座り、電話をしていた。
 しかしこちらに気づくと、躊躇ちゅうちょなく受話器を置く。相手の都合などお構いなしの行動だ。

(……すご。いいのかな)

 あすかは目が点になる。執務机に座る社長とおぼしき人物は、顔を上げてこちらを見た。

「よう。来たな」
「あ、あの、今朝は本当にすみませんでしたっ」

 あすかは気づけば、男の視線をけるように頭を下げていた。

(……やっちゃったー……!)

 正直に言えば怖気おじけづいたのだ。事故を起こしてしまった非があるあすかは、相手の視線に耐えられる自信がなくて、おびえてしまった。
 車を傷つけた上に、相手の視線をけるなんて失礼な態度をとっては、きっと男は怒るだろう。
 怒鳴られるかもしれない。ぎゅっと唇を噛んだ。

「ああ、いい。顔を上げろ」

 ――しかし予想と反してどうしたことか。相手の声に怒りは含まれておらず、むしろ機嫌がよさそうだ。

(……あ、あれ。怒って、ない、……? もしかして聞き間違い、とか)

 いや、そんな都合のよい間違いがあるはずもない。あすかは不安を覚えながらも、そろそろと顔を上げる。
 そして、社長らしき人物の顔を目にした瞬間――

(……は?)

 それまで胸中で渦巻うずまいていた不安や迷いなど、完全に消え去った。思わず、ぽかんと口を開けてしまう。
 三十歳そこそこの社長とおぼしき男は、色味の濃いスーツを身にまとっている。座っていてもわかるほど長身だ。一見軽そうに見えるものの、自信に満ち満ちた精悍せいかんな顔つきと少し垂れた目尻が印象的な美丈夫びじょうふである。あまり異性に興味を持たないあすかでさえ、れするほどの容貌ようぼうだ。

「どうした」

 男は怪訝けげんそうに問いかけてくる。しかしそれに答えず、あすかは叫んだ。

「……わかっ!」

 端整な男が眉間にしわを寄せる。

「……なに?」
「社長さん、若い! え、本当に社長さん!? うわあ、しかもめちゃくちゃ格好いい! 全然想像してたのと違った! 社長さんっていうから、てっきりもっとおじさんなのかと……っ」

 そこまで言ったところで、あすかははっと自分の失言に気づく。慌てて口を押さえたがもう遅い。
 ちらりと視線を向けると、社長と佐賀里は予想外のことを言われた、という顔をしている。
 やってしまった。ありえない大失態をおかしてしまった。

(ひいっ、しまったああああ!)

 あすかはうなれ、目を閉じた。うっかりにもほどがある。

(なんてことを……っ。やばいやばいやっちゃった、やってしまったよ! あたしのあほーっ!)
「……すすす、すみませんごめんなさいっ」

 まるで子どものように身体を小さくして謝った。謝って許される失言じゃないことはわかっているけれど、謝ることしかできない。じわりと涙が浮かんでくる。

(絶対怒られる……!)

 ところが、社長の反応はまたも予想外のものだった。

「俺は想像していたよりも若いか」
「……へ?」

 顔を上げると、彼は楽しそうに口元に笑みを浮かべていた。
 あすかは呆気にとられ、内心で首をひねる。こういう場合は怒鳴り散らされるものではないのか。そのために呼び出されたのではないのか。
 理解の追いつかないあすかに、社長が唐突に言う。

「それより腹が減ったな」
「……っ、はい?」
「昼はまだだろ? 付き合え」
(は、え、い、いきなりっ? 昼って、お昼ご飯? 今? 今から? え、ええっ?)

 男は椅子から立ち上がり、まだ頭が混乱しているあすかに近づいた。

「名前は」
「古籍あすかさんです」

 そばに控えていた佐賀里がすかさず答える。

「あすかか。よし、あすか。おまえはなにが食いたい?」
「え、あ、う、っと、お、お寿司っ」

 思わず素直に好きなものを答えてしまう。しかし答えた直後、こんな状況で馬鹿正直に返事をする者などいないと気づく。
 社長もそう思ったのか、くっとのどを鳴らして笑う。そしてあすかの肩に腕を回した。

「行きつけの店に連れて行ってやる」
「……っ」
(肩! ぎゃあっ)

 あすかは心の中でかわいくない悲鳴をあげたが、幸いにも唇から漏れ出ることはなかった。

(え、ほ、本気? 本気で言ってるの? これ)

 社長は決定事項だとばかりに歩き出す。それを、秘書の立場にある佐賀里が引きめた。

「社長。このあと会食の予定が入っていることをお忘れですか」
「断っとけ。俺はあすかと飯を食う」
「……っ」
(なんでもいいから、肩を抱く手を外してーっ)

 反論をしようにも声が出てこない。あすかは事態についていけず固まるのみだ。
 そんなあすかをよそに、佐賀里は上司に向かってため息をついた。

「まったく……勝手な都合で予定をキャンセルなさるのは、社長としていかがなものかと思います」
「おまえこそ俺の目を盗んでは楽しんでるだろうが」
「人聞きの悪い。私は自分の仕事に責任を持っていますよ。仕事を放って会ったばかりの女性を強引に食事に連れ出したりはしません」
「思っていた以上に面白いからな。もっと知りたくなった」
(……? なんの話をしてるんだろ?)

 すぐそばで会話が飛び交っているのに、さっぱりついていけない。

「どうせ、役に立たないくだらねえ話を延々とするような相手だ。俺じゃなくてもいいだろ。佐賀里、代わりにおまえが会食に行けよ」
「お断りします。そうですね、私も先方の無駄話にはほとほと呆れていましたから」

 綺麗な顔をして辛辣しんらつな言葉を吐く佐賀里に、あすかはびっくりした。しかしこれが彼の本来の姿なのだろう。社長はまったく驚いていない。

「キャンセルします」
「ああ、任せた」

 そして結局、会食はキャンセルされる運びとなった。
 呆然としていたあすかは、再び歩き出した社長に肩を抱かれたまま、部屋から連れ出される。それから彼は、会社の裏に停まっていた車に乗り込むまで一言も発しなかった。そんな彼に気圧けおされつつ、あすかは車に押し込まれたのだった。


 人間とは実にゲンキンな生き物だと思う。
 車が向かった先は、社長がひいきにしているという寿司屋だった。カウンターに座って、頼んだ寿司を職人が目の前で握ってくれる店だ。回転寿司屋でしか寿司を食べたことがない庶民のあすかは恐縮しきりで、借りてきた猫のように寿司が握られる様子をただ眺めていた。
 ところが、トロのあぶりを目にした途端、テンションが上がってしまった。そういえば、今朝は寝坊して朝食を食べられず、実はかなり空腹だったのだ。

「すごい! すごく、美味おいしそう!」

 自分が何故社長に会いに来たのか、あすかの頭からは抜け落ちていた。隣に座る社長に対して当初いだいた緊張など、今はすっかり忘れている。
 気づけばあすかは、ひとつずつ握ってもらう寿司を、次から次へと頬張っていた。

「……美味おいしいっ! こんなに美味おいしいウニを食べたの、初めてです!」
「ありがとうございます」

 思わず素直に職人に感想を伝えると、相手の表情はやわらかく緩んだ。隣で寿司を食べている社長もどことなく機嫌がよさそうである。

美味うまいか」
「んっ、すごく美味おいしいです。社長さんっていつもこんなに美味おいしいお寿司食べてるんですか?」
「社長はやめろ。長門ながとだ。長門隆二りゅうじ

 なにを言われているのかわからず、あすかは首を傾ける。彼は社長なのだから、呼び方として間違っていないはずだ。
 すると社長――長門は、言い聞かせるように言葉を続けた。

「あすかは俺の部下じゃないだろ? 俺もおまえのことは名前で呼んでる。それなら、おまえも同じように名前で呼ぶのが妥当だろ」

 長門としてはすじの通った話らしいが、どう見ても自分より十歳ほど年上の相手を名前で呼ぶなど無茶な要求だ。ついでに、初対面である自分に対して『あすか』と抵抗なく下の名を呼ぶのもおかしい。

「えっと……」

 無理だ。さすがに呼べない。

「ほら、呼んでみろ」
「……あの」
「ほら。どうした」

 何度も催促される。当然躊躇ちゅうちょしたが、どうやら呼ばないという選択肢は与えてくれないようだ。
 あすかは仕方なく言ってみた。

「長門さん……で、いい、ですか?」
「な、ま、え、だ」
「う~……」

 どうしても曲げそうもない意思を感じ、あすかは困り果て両眉を下げる。
 すると、あすかの目の前に出された甘エビが一貫、長門の指にさらわれていく。

「ああーっ!」
「ちゃんと呼べたら食わせてやる」
「ずるい! 横暴!」

 相手が年上であることも社長だということもすっかり忘れ、感情のまま叫んでいた。

「言ってみろ。早く言わなきゃ俺がもらうぞ」
「だ、駄目! ……です!」

 ふふん、と意地悪く笑われる。どうやらこれは従う他ないらしい。あすかは渋々しぶしぶ、長門の望みどおりにした。

「リュー……ジさん、でいいんですよねっ」
「よくできたな。ご褒美だ」

 長門はにやりと口元に笑みを浮かべ、あすかの前に甘エビを戻す。あすかは戻ってきた甘エビを見て、もやもやした気持ちなど吹き飛んだ。

「いただきます! うーん、ぷりぷり~」


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