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4巻

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 私は長剣の手応てごたえを確かめると、少女の背後からおどりかかって来た三匹の黒豹獣の処分に動く。
 一匹は身を低くして地面を駆け、二匹は左右から私をはさむように跳躍ちょうやくしている。
 常人には黒い風が襲いかかって来たとしか見えまい。

「造られた命か。哀れだが、容赦ようしゃは出来ん」

 私は三度長剣をひらめかせるだけで良かった。私の長剣は、黒い風の如き黒豹獣の爪牙そうがをはるかにしのぐ速さで動き、刃を滑らせる油に濡れる鉄の毛皮から鉛の臓腑ぞうふ、鋼の骨格に至るまで、全てを歯零はこぼれ一つなく断っていた。
 黒豹と各種の金属を錬金術によって融合させて作り出された黒豹獣は、それぞれ首を断たれ、胴を二つにされ、頭から股間までを真っ二つにされて、合計六つの死骸しがいが一斉に濡れた音を立てて地面に落下する。
 ぷん、と私の鼻を突いたのは、燃える水、黒水こくすい、あるいは石油などと呼ばれる液体の臭いだった。黒豹獣の体内をめぐっていた血がこれだ。
 肩で一つ息を吐き、落ち着き払って御者台に戻る私を、セリナが理解出来ないという、非難のこもった瞳で見ていた。
 今まで、セリナがこれほどの激情をたたえて私をにらんだ事があったろうか。
 私はすぐにその誤解を解くべく口を開く。

「セリナ、あの少女はだ。後を追って姿を見せた獣同様に、私達を捕らえるか殺すのが目的だ」

 けわしく寄せられていたセリナの柳眉りゅうびが、困惑を留めつつも離れていく。
 私が左手の人差し指で示した少女の二つのむくろを見て、セリナの唇から、あっと驚きの声がれる。
 私の長剣によって、死の苦痛も知らぬ内に絶命した瞬間、少女はその本性をき出しにした。
 慎ましい唇の下に隠していたのはさめのような牙に、縦にすぼんだ血走った瞳。その顔はまさしく鬼女のそれであった。
 救いを求めて伸ばされていた指先には、一本の例外も無く黄ばんだ太い爪が生え揃っている。

「追う者も追われる者も、両方とも捕獲ほかく者だったという事ですか。ドランさんは良く分かりましたね」

 どこか疲れた響きで呟くセリナから手綱を受け取り、私は御者台に座り直してむちを一打ち。視界をはばむ霧と、霧の向こうから叩きつけてきた殺意に止まっていた馬の足が、再びゆっくりと動き始める。

「馬達が黒豹よりも先に、あの少女もどきに怯えていたからだよ。だが、これでこの先に待つのが良くないモノだと、はっきりしたな」

 私の言葉に、セリナはある事実に気付いて身を強張こわばらせた。私達が行く先に待つフラウパ村には、いまだ魔法学院に戻らぬファティマとネルが居るのだから。

「ドランさん。ファティマちゃんとネルネシアさんは……」
「あの二人の事だ、滅多めったな事にはなるまいが、急ごう」
「はい!」

 私は更に馬に一打ちし、馬車の速度を速めた。願わくば、ファティマのぽやっとした顔とネルのほとんど無表情と変わらぬ笑みが見られるように。手綱を握る私の手にも力がこもる。
 再び馬車を進めると、すぐさま霧が私達を包んできた。やはり、自然現象ではないようだ。この霧には、こちらの五感と方向感覚に作用して、延々と霧の中を彷徨さまよわせる効果があったが、私の知覚能力を騙すには至らない。
 私は白い霧に呑まれた道を正確に把握し、二頭の馬達に正しい道を歩ませ続ける。
 少女もどきと黒豹獣を殲滅せんめつしてからは、私達に襲いかかってくる者の影はなく、私は霧中の道を抜けて夜にはフラウパ村に辿たどり着いた。
 フラウパ村の周囲は、無数の鳴子なるこるしてあるひもを巡らしたさくで囲まれているが、これは名産品である魔法花フロージアを盗もうとする花泥棒どろぼう対策であろう。
 あまり村の自衛に力を注いでいる様子ではなかったが、それでもガロアと繋がる主要な通りには、分厚い木製の門扉もんぴを備えた石積みの門が聳えていた。
 私達が石積みの門の近くに来たところで、ひゅっと風を切る音と共に馬の足元に一本の矢が降って来た。
 私は御者台の上で立ち上がり、声を張り上げた。この距離なら、たとえ霧の只中にあって姿は見えなくても、声くらいは伝わる。それに、どうやら村の敷地に沿って複数の結界が張り巡らされているようで、霧は村の内部への侵入をある一定の線から阻まれているようだ。

「私はガロア魔法学院の生徒、ドランです。薬学部のアルプレイル教授の御依頼で、フロージアの引き取りに参りました。開門を!」
「そこから動くな! どうやってこの霧の中をやって来た!? お前のような怪しい奴を村の中に入れるわけにはいかない!!」

 弓矢を構えた若者を筆頭ひっとうに、たちまち門の上に武装した村の男達が十人ほど姿を見せた。
 どうやら、この霧を発生させた者の魔の手は、既にフラウパ村にも伸びていたようだ。
 次々と弓に矢がつがえられ、やじりの鋭い先端が私と傍らのセリナへ向けられる。
 一人の例外もなく、村人達の顔には恐怖と焦燥しょうそうの色がべったりと貼り付いていた。よほどの恐怖体験をしたものと見える。気の毒に。私は心から同情した。
 震える手で弓を構えた若者が、つばを飛ばしながらわめき立てる。

「これまで何度もガロアに救援要請を出した。だが、まだ助けは来やしねえ。それどころか助けを呼びに行った連中のほとんどが帰って来ない。命からがら戻って来た連中も、霧の中で化け物に襲われたと言う。どうしてお前らが無事に来られる!? ましてや、お前の隣にいる女は何だ! お前こそ人間のふりをしておれ達を騙すつもりだろう」

 どうせ中に入れば姿を見せなければならないのだから、とセリナを御者台に乗せたままにしていたのだ。フラウパ村の人達が想像した事さえない未知の恐怖に、疑心暗鬼ぎしんあんきおちいるのも無理はない。
 セリナもそう思っているのか、矢を射られた事や厳しい視線を向けられた事に傷ついた様子は欠片かけらもなく、むしろ焦燥している村人達を案じているようだった。
 セリナは使い魔である事を証明するメダルを手に、下半身を伸ばして立ち上がり、自分達の潔白けっぱくを訴える。

「私はドランさんの使い魔です。この通り、きちんと魔法学院にも認められた正規の使い魔ですから、皆さんに危害を加える事は致しません」
「信じられるものか!」

 まるで取り付く島のない村人達の様子に、セリナもそれ以上何を言えばよいか分からず、苦悩している様子だ。私は霧の中で遭遇そうぐうしたアレらの事を口にした。

「霧の中に入ってすぐに、助けを求める少女と、その後を追う獣に遭遇した。ガロアへ助けを求めに行った人達を襲ったのは、そいつらだろう」

 私の言葉によって、若者の全身から噴きだしていた敵意が揺らぎ、信じられないと言うように表情がゆがむ。

「う、嘘だ。村に滞在していた冒険者にも頼んだんだ。その冒険者達さえ生きて帰ったのは一人きりだった。それを、傷一つ負わずに……」

 混乱した様子の若者の声からは、すっかり力が失われていた。

「少女は長い黒髪と切れ長の瞳を持ち、獣は黒いつややかな毛並みを持った黒豹。黒豹の毛皮は鉄、筋肉は青銅、臓腑は鉛、骨格は鋼、血は黒水だった。私達が来た道を戻れば、少女一人と黒豹三匹分の死骸が転がっているはずだ」

 ふむ、こんな事になるなら、馬車に死骸を積んでくれば良かったかもしれない。
 私の言葉を聞いた村人達の間に、明らかに動揺どうようが走った。こちらを油断させる罠ではないかと疑う声も上がり、私達を村に入れて良いものかどうか意見は割れている。
 声を潜めて意見を交わし合う門の上に、新たな人影が姿を見せた。
 その人影の顔が明らかになり、私とセリナは一つ、安堵あんどする。

「ネル」
「ネルネシアさん、良かった。無事だったんですね!」

 セリナの弾む声に、ネルはかすかに口元をほころばせたが、それもすぐに引き締められた。
 ネルの右手には身の丈ほどもある魔法の杖が握られている。魔法学院で支給されるのとは違う、ネルの私物であろう。年を経た霊樹れいじゅの枝から削り出し、先端に握り拳ほどの高純度の魔晶石ましょうせきを埋め込み、その石に魔法の威力を増強する術式を刻んだミスリルの環が被せられている。

「二人とも、よく無事にここまで来た。でも少し確かめないといけない事がある。二人とも、首筋を見せて。左右両方」

 このネルの言葉で、私はフラウパ村を襲っている事態の黒幕が分かった。首筋を確かめねばならぬ脅威きょういなど、多種多様な亜人や魔物が棲息するこの地上世界においても限られている。
 私はネルに頷き返し、セリナにも目配めくばせをして、私は魔法学院の制服のえりを、セリナは空の青に染めたブラウスの襟を緩めて、左右の首筋をネルと村人達に示した。
 ネルが見たくないと心から願っているだろう二つの傷痕きずあとは、私とセリナの首筋には当然なく、ネルと村人達の間に大きな安堵が広がる。

「良かった。二人とも毒牙どくがには掛かっていない」
「ですが……アピエニア様、あの二人は信用出来るのですか?」

 王国北部において、戦火あらばアピエニアありとうたわれ、貴族の中でも武闘派中の武闘派として知られるアピエニア家の子女とあって、村人達がネルに向ける視線には、畏敬いけいの念さえ込められている。

「大丈夫。男の子の方は私と同じかそれ以上に強い魔法使いだし、ラミアの女の子も優しい良い子」
「あ、アピエニア様と同じくらい強いのですか……」

 村人達の瞳から敵意が消え、その代わりネルに対するのと同じ程度の畏怖いふの念が浮かび上がった。

「そう、だから彼らが来てくれたのはとても助かる。本当に」

 ネルは私達の姿を見た時よりも更に大きな安堵の吐息といきを零し、すぐに周囲の村人達に私達を迎え入れるよう指示を飛ばす。
 重々しい音と共に木製の門扉が開き、私は中で待ち構えていたネルの傍らまで馬車を進める。

「とんでもない事になっているようだね、ネル」
「うん。魔法学院を出た時には想像もしていなかった。えず、村長のところまで来て。そこで詳しく説明する」
「分かった。ネルも馬車に乗ってくれ。その方が楽だろう?」
「合理的」

 ネルは同意を示して、御者台を上って私の左側に座り込む。セリナの下半身の大部分は荷台の中だから、三人でも座れるわけだ。

「こんな状況でなかったら、セリナとゆっくり花畑の見物をするところなのだがな」
「仕方がないですよ。でも、機会はまだありますから、また今度です」
「ふむ、そうだな。また今度だ」

 ほどなくして、私達は村の中で最も広い敷地の屋敷に到着した。水を張り巡らせた堀と石壁でぐるりと囲まれたこの屋敷は、言うまでもなく、フラウパ村の村長の屋敷だ。
 迎えてくれたメイドはセリナの姿におっかなびっくりの様子で、ぴかぴかに磨かれたかしの扉を開いて、私達を屋敷の主の下へ案内した。
 応接室には、裕福な村の長に相応ふさわしい、他の村ではちょっと見られないような豪勢な調度品が溢れている。
 いつかベルン村もこの村以上に豊かにしてみせるぞ、などと私が心の内で決意の炎を燃やしていると、がっしりとした体躯たいくに豊かなしろひげで口元をおおった村長が出迎えた。

「おお、ネルネシア様、よくぞ御無事でお戻りになられました」

 村長の笑みは、ネルへの信頼を湛えている。

「門に様子を見に行っただけ。何もしていないに等しい。村長、こっちの男の子はドラン。私の級友で、私と同じくらいの実力者。あっちのラミアはセリナ。ドランの使い魔だから怖がる必要はないし、とても頼りになる」

 私達の代わりにネルが簡潔に紹介を済ませると、村長は私達に握手を求めてくる。

「これは、思わぬ味方のご到着となりましたな。初めまして、フラウパ村の村長をしておりますボルダンと申します」
「ドランです。私に敬語は不要です。ネルと同じまなに通っていますが、私自身は貴族ではありません。ベルン村の農民ですので」
「そうでしたか。なに、それでもネルネシア様と同じく魔法学院に通っているとなれば、将来有望な若者ですな。しかし、ベルン村とは。の地の逸話は私の耳にも届いておりますぞ」
「故郷の皆が聞けば喜ぶでしょう。アルプレイル教授の依頼でフロージアを引き取りに来たのですが、どうやら尋常じんじょうならざる事態に陥っている様子。こうなった以上は微力を尽くして御助力いたします」
「私も精一杯頑張ります!」

 気合いが十二分に入ったセリナの言葉に、ボルダン村長は少し驚いたようだったが、そこに恐怖や不安はなかった。後を絶たぬ花泥棒や、人面獣心じんめんじゅうしんの商人達を相手にしてきたこの老人は、セリナの言葉と表情に嘘がない事を見抜いたのかもしれない。

「では、今この村が陥っている事態についてお話しします。立ったままではなんですから、ひとまず腰を落ち着けてからにしましょう。飲み物もすぐに持って来させますので」

 そう言って来客用のソファを勧めるボルダン村長だったが、私はそれを手で制した。

「失礼、詳しくご説明願うつもりでしたが、どうやらこの状況を招いた張本人が出向いて来たようですね」
「なん、ですと……!?」

 私の瞳は先ほど私達がやって来た通りとは正反対の、フラウパ村の西を見据みすえていた。
 フラウパ村の四方しほうばかりか、空さえ覆い尽くす白い濃霧の只中を、何者かが急速にこちらへ向かってきている。
 私とネルとセリナの行動は素早かった。すぐさまきびすを返す。
 私の言葉に受けた衝撃から村長を正気に返したのは、部屋の扉をくぐる際にネルが発した命令だった。

「自衛団を西の門に集めて。ただし、決して門の外には出ないように。私とドラン達で相手をする」

 屋敷を飛び出すと、今度は馬車ではなく自分達の足で村の道を走る。
 私はネルと合流してからまだ一度も姿を見ていない友人の事を、静かに問うた。

「ネル、一つ聞く」
「うん」

 ネルも私がなにを聞こうとしているのか悟ったのだろう。ネルが短く答えた呟きには、いつも以上に硬くこごえるような冷たい響きがあった。

「ファティマはどうした? いや、なにがあった?」

 ネルの答えは沈黙であった。そして、瞳の中には吹きすさぶ憤怒ふんぬと憎悪。
 これだけでも、ファティマの身に歓迎せざる事態が起きたのだと、はかる事が出来る。

「ネルネシアさん、ファティマちゃんに何かあったの?」

 たまらずセリナがネルに問う。セリナはことほかファティマを可愛がっているが、きっと一人っ子のセリナにとっては、実の妹のように思えてならないのだろう。
 セリナの問いにもネルは無言。それ以上重ねてネルに問う事は憚られ、セリナは不安に揺れる瞳を私に向ける。

「大丈夫だ、セリナ。まだ間に合う」

 私の言葉に救いとともに新たな不安を抱いたのか、頷き返すセリナの顔には変わらぬ心配の色がべったりと残っていた。

「……はい」

 そのまま無言で走り続けていると、西側の門と、その番をしている村人達が見えてきた。
 地をうセリナの姿にぎょっとする村人達だったが、ネルの切迫した声が村人達の意識を集めた。

「彼女は味方。それよりも敵が来る。貴方達は下がって門の守りを固めて」
「あ、アピエニア様……ですが、敵が来るのならおれ達も」
「いいから下がって。貴方達を巻き込むわけにはいかない。それに、周りを気遣きづかえる相手ではない」

 まるで目の前の村人達さえも敵だと言わんばかりの、鬼気きき迫るネルの様子に、普段は魔法花を育てて平和に暮らす村人達は門から遠ざかってゆく。

「いささか乱暴すぎるが、ネルの言う通り、彼らが近くに居ない方がやりやすいか」
「ん。そういう事」
「それと、セリナをかばってくれてありがとう」
「結果的にそうなっただけ」

 ぷいっと顔をそむけるネルに、私は素直すなおじゃないな、と少しのあきれと感謝を込めて心の中で呟いた。
 私達が門の外に出た後、村人達は一旦下がり、門内で他の自衛団の到着を待つ事になった。
 フラウパ村の外、より正確に言うのならばフラウパ村を囲っている結界の外に出れば、そこは一面、白一色に染まった霧の世界へと変わる。
 ほどなく、霧の中に黒々とした巨影きょえいが浮かび上がると、それは人間の背丈の倍はある馬六頭が引く馬車となってその全容をあらわにした。
 馬車の車体上部の四隅には翼を広げた蝙蝠こうもりの彫刻があり、車体を染める色は太陽が燦々さんさんと輝く蒼穹そうきゅうの青。装飾には、金銀その他、ありとあらゆる宝石が惜しげもなく使われている。一体どれだけの権勢と財力を持つ王侯貴族なら、これほど豪奢ごうしゃな馬車を用意出来るのだろうか。

「ドランさん、なんだか、寒くありませんか? 急に秋に、ううん、冬にでもなったみたいに……」

 私の傍らに立つセリナがぶるりと体を震わせる。
 セリナの抱いた疑問は当然のものだ。事実、馬車が姿を現してから、周囲の空気は急激に熱を失い、まるで冬が訪れたかのように寒くなっていた。
 吐く息さえ白く変わる中、私達から約二十歩のところで、馬車はこれまでの疾走しっそうが嘘だったかのように急停車する。馬車の車体に掛かる負荷や慣性を打ち消す処置が施してあり、馬自体も主人に相応しい魔性ましょうの馬なのだ。
 車体の側面に設置された扉の黄金のドアノブが、がちゃりと音を立てて回る。その音さえも優美であった。

「ネル、アレがファティマとこの村にもたらされた災厄の張本人だな?」

 ゆっくりと開く扉の奥から、大雪山だいせつざんの頂上もかくやという冷風が吹きつけてくる。風にはただならぬ気配が込められていた。
 ある者はそれを鬼気と呼び、またある者は妖気と呼ぶだろう。

「そう、あいつが、あいつらが……」

 ネルの全身から殺気が絶え間なく噴き出し、吹きつける鬼気と真っ向からぶつかりあう。
 霊的な視力を持つ者ならば、ネルの周囲で激しく荒れ狂う二種の気配を見る事が出来たであろう。
 車体横のステップを踏み、馬車の主が私達の前に姿を見せた。それと同時に上空を覆っていた霧が晴れ、皓々こうこうと照る満月が姿を覗かせる。しかし、その者の足元に月光が影を落とすことはなかった。

「ほう、知らぬ顔が二つある」

 もし、ここが紳士淑女しんししゅくじょの集う社交場であったなら、誰もが聞きれるであろう、美声が響く。
 そこには、ひたすらに典雅てんがな顔立ちで、周囲を埋め尽くす霧のように白く透けた肌と異様に赤く映える唇が目を引く若者の姿があった。

「ドランさん、あの人、とても怖いです。とても、とても危険な、なにか……」

 セリナが目の前の若者に怯えるのは、生物としての格差からくる本能的恐怖。死を恐れる、あるいはそれ以上のモノを恐れるが故のもの。
 だが、私が傍にいる限り、怯える必要はない。私がセリナの手をそっと握ると、見事にセリナの身体の震えは止まった。
 姿を現しただけで周囲の熱までもが臣下の如く頭を垂れ、そしてなにより、夜と降り注ぐ月光がこれほどまでに似合うのは、なぜか。
 深い海の色をしたマントに月光の粒を何万と輝かせながら、若者は朱唇しゅしんを開いた。

「我らの糧となる他に存在する価値の無い下賤げせんの者とはいえ、私の名を知らぬままでは不便か。その脆弱ぜいじゃくな命の尽きるわずかな時間憶えておくが良い。私はブラン・グルーデン・グロースグリア。えあるグロースグリア王家の嫡子ちゃくしである」

 自らをブランと名乗った若者の唇からは、鋭く尖った二本の牙が覗いていた。血の管を破り、そこから溢れる血潮を飲む為の牙が。
 この若者こそは他者の血を吸い自らの生命を長らえ、夜に蔓延はびこる生ける死者、バンパイアなのだ。

「〝夜の国の人々〟か。グロースグリアとなれば始祖しそ六家の一つ。大物が出てきたな」

 いにしえのバンパイアの別名を口にしながら、私は腰の長剣をゆっくりとさやから抜く。
 目の前の若者が誰であろうが、なんであろうが、ファティマに危害を加えた以上は、私が彼に与えるべき運命さだめはただ一つ。
 それが生者ならば死を。生ける死者――不死者ならば滅びを。

「ほう、夜の国の人々と私を呼ぶか、人間よ」
「ああ、呼んだとも、〝夜の国の人々〟よ。あるいは〝月と夜闇やあんの子〟、〝夜天の君臨者〟、〝てつく冬の荒野を歩む者〟、お前達の呼び名は歴史の闇の中に数多あまた存在した」

 ブランと名乗ったバンパイアの若者は、興味なさそうに私へ視線を向ける。
 先ほど口にした通り、この者にとって人間とは――おそらくバンパイア以外すべての種族が、であろうが――自分達の不死の生命を支える糧でしかないのだろう。
 バンパイアは数ある不死者の中でも、〝不死者の王〟と呼称される極めて強力な種族だ。
 たとえ胴を真っ二つにされようが、八つ裂きにされようが、すぐさま元通りになる再生能力。人間を紙屑かみくずのように引き千切ちぎる身体能力。知能の低い生物に対する下知げち能力。瞬時に相手を支配下に置く催眠眼さいみんがん
 これで全てというわけではないが、数多くの異能を備えている上に、なによりその牙で血を吸った相手を同じバンパイアの下僕に変え、その生命と力を取り込む能力が、バンパイアを他種族にとってむべき存在としている。
 生命を奪われるばかりか、意思と肉体を支配され変えられてしまう恐怖は、ただ死を与えられ、その血肉を食べられるよりも大きい。言わば、存在のり方そのものに関わる恐怖なのだ。

「いずれも、かつて我らの世界を知った他種の詩人達が残した呼び名。今ではもう人間達に忘れ去られ、歴史の闇に埋もれた書物にしか残っていない筈だが……。学生か、勉強熱心と見える。かつて我らをそう呼んだ詩人達を当時の同胞どうほうは讃え、彼らが望まぬ限り決して血は吸わぬと約定やくじょうし、多くの財宝を与えたという」

 ブランはそこで一旦言葉を切り、口元にかすかな微笑みを浮かべた。花の盛りを過ぎた女性もつぼみですらない少女も、心の底まで魅了みりょうせずにはおかぬ、文字通り魔性の笑みであった。

「――だが私はそうは思わぬ。私は古の同胞とは考えを別にするのでな。我らの古の呼び名を知る者よ、その血潮を私にささげよ。最も身になるのは、若くたくましい男の血なのだ」
「自ら進んで首筋を差し出す趣味はない。古の血脈けつみゃくに生まれた者よ、血を欲するのならば力をもって私を屈服させるが良い」
「ほう、私の気配と眼差しを受けてなお顔色一つ変えぬとは。これは思わぬところで益荒男ますらおと出会ったものだ」

 ブランを彩る月光が徐々に色褪いろあせていった。ブランの全身から滲む気配の変質に、月が怯えたのかもしれない。

「このような霧を生み、己の領土とこの地を置き換えるとは、随分と凝った真似をするな。その心臓に鉄のやいばを突き立てる前に問おう。なぜ、この地を選んだ? そして今一つ。我が友たるファティマに害をしたのは貴様か?」

 私の言葉に、ブランの眉がかすかに動いた。
 白い霧に呑まれたフラウパ村周辺は、既にフラウパ村であってフラウパ村にあらず。空間が歪められ、グロースグリア王国とやらが支配する土地が現出し、私達の頭上に輝く月も、本来グロースグリアの領土から見えるものが映し出されているのだ。

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