志村けんさん、知られざる意外な素顔…天才なのに超努力家、シャイでトークが苦手

 志村さんが好んだ音楽は、アメリカのソウルミュージックです。ある日、レコード店で物色していた時に見つけ出したのが、1970年代に一世を風靡したロック・アンド・ブルースのテディ・ペンダーグラスが1979年に出したアルバムです。その中に入っていた『Do me』を聴いた志村さんの天才的な嗅覚は、これをコントの音楽にしようと考えついたのです。

大天才のシャイな素顔

 それ以上に、志村さんが並外れた大天才だと思わせるのは、曲そのものを使わずに、曲のベースリズムを取り出したことです。黒人音楽の奥底に流れているディープであくの強いリズムだけをバンドに演奏させて、加藤茶と燕尾服姿で行うパントマイムでのコントは、日本のすべての子供たちをくぎ付けにし、翌日の小学校の始業時間前には教室で歌われ、踊られて、担任に叱られるまで続いたものです。

 燕尾服とその独特のステップは、喜劇王チャーリー・チャップリンを彷彿とさせるもので、そこにペンダーグラスが同年に出した、まだ日本人のほとんどが知らなかったに違いない新曲のリズムを入れ込むことで懐古と最先端を混在させ、視聴者の興味を引きつけて笑いの世界にも引き込んでいくのです。子供の頃の僕は、ただただ笑っているだけでしたが、その時に聴いた音楽は、一言も言葉を発しないパントマイムという視覚的印象も加えられて、大人になった今もなお口ずさめるだけのインパクトがあったことに、志村さんの凄さを感じます。

 そして、沢田研二の代表曲『勝手にしやがれ』と、当時大ヒットしていたピンク・レディーの『渚のシンドバッド』をコラージュさせるような挑戦もしていました。いつでもみんなが知っている物事を基としながら、最新のものを生み出す挑戦を続けていたのだと思います。その後、これをサザンオールスターズがデビュー曲『勝手にシンドバッド』の制作のヒントにしたことを、あとになって知りました。

 最後に、個人的な話ですが、僕にとっての志村けんさんといえば、ある夫婦の出会いから年老いてからのお別れまでの一生を、パントマイムと音楽のみで表現していたのが一番忘れられないシーンです。新しい家族を持った喜び、人生の苦労、余生の満足、別れを、一言も言葉を発することなく演じ、BGMとして宗次郎さんの素朴なオカリナ演奏だけを流すことで、視聴者は最後になって、一人残された奥様がご主人との幸せだった時間を思い出している光景だったのだとわかるようになっています。

 志村さんは、プライベートではシャイな方だったそうです。最初はトーク番組が苦手で、あえておじさんの恰好をすることで少し話すことができるようになったとおっしゃっていました。今になってみると、コントの番組の中にもかかわらず、どうして笑いがひとつもない、平凡な夫婦の一生を演じたかったのかわかるような気がします。志村さんは、日本人のすべてを笑わせるために、平凡でも幸せな一生を送ることを犠牲になさったのかもしれません。しかし、日本がどんな時であっても、日本中を笑いに包んで下さった方でした。ご冥福をお祈りいたします。

(文=篠崎靖男/指揮者)

●篠﨑靖男
 桐朋学園大学卒業。1993年アントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールで最高位を受賞。その後ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクール第2位受賞。
 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後、英ロンドンに本拠を移してヨーロッパを中心に活躍。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、BBCフィルハーモニック、ボーンマス交響楽団、フランクフルト放送交響楽団、フィンランド放送交響楽団、スウェーデン放送交響楽団など、各国の主要オーケストラを指揮。
 2007年にフィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者に就任。7年半にわたり意欲的な活動でオーケストラの目覚ましい発展に尽力し、2014年7月に勇退。
 国内でも主要なオーケストラに登場。なかでも2014年9月よりミュージック・アドバイザー、2015年9月から常任指揮者を務めた静岡交響楽団では、2018年3月に退任するまで正統的なスタイルとダイナミックな指揮で観客を魅了、「新しい静響」の発展に大きな足跡を残した。
 現在は、日本はもちろん、世界中で活躍している。ジャパン・アーツ所属
オフィシャル・ホームページ http://www.yasuoshinozaki.com/