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皇帝とは

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 蒼花が目を覚ますと英麟の姿はすでになかった。
 肩にかけられた布に触れる。
 自分でかけたのかと思いかけて、すぐに否定した。
 我を忘れ、結局、気絶してしまった蒼花がそんなところに気を回せるはずがない。
(陛下が……?)
 気のせいかも知れないが、いつもよりも心地よい目覚めだった。
 これまでは、散々、嬲られたあとの目覚めは、疲労感にぐったりして目覚めてもすぐあとは半ば呆け、すぐには動けなかった。
 今日は衣服をすぐにまとう余裕があった。
「蒼花様」

 扉越しに、蔡両の声が聞こえた。

「……入りなさい」

 身支度を調え、臥榻に座り、言った。
 蔡両が拱手をして部屋に入ってくる。

「どうしました」

 蔡両の表情には普段よりも余裕がないようだった。

「宰相の経綸殿が謀反を起こした模様です。朝廷内はその話でもちきりでございます」
「経綸殿が……」

 経綸はこの朝廷に芳皇太后による粛正の嵐が吹き荒れた際、宰相を罷免された人物で、皇太后の死後、英麟が再び登用した人物のはず。

「その他にも官僚や将軍のなかに同心する者がおり、経綸殿を除いて、ことごとく首をはねられたそうにございますっ」
「陛下はご無事なのですかっ」
「はい」
「……そうですか」

 強張っていた全身から力が抜け、ほっと胸を撫で下ろす。

「経綸殿は投獄されたそうでございます。噂によりますと、羌大将軍の専横を憎み、義旗を揚げたとか……」

 その証拠に血判状や武具などが首謀者たちの屋敷より発見されたという。
 相槌を打ちながらも、引っかかるものを感じていた。
 家屋敷から武具が多数見つかったというのであれば、まさか朝廷に武装した集団で押し入り、羌士忠を討とうとでも考えていたのか。
 相手は大将軍。禁軍以外を手足の如くつかえる立場にいる。
 それと真っ向からぶつかって討とうというのはいかにも稚拙だ。
 やろうとするならば闇討ちや暗殺だろう。しかしそれなら大量の武具はいらない。
 血判状に関してもおかしい。
 そんなものを迂闊に残しておくとはとても思えない。
 そんな不用意で考えの足りない人物に芳皇太后が一時とはいえ、宰相職を担わせるとも思えなかった。

「経綸殿が助かったのは陛下が馬を走らせ、羌大将軍を諭したというのが兵士どもが噂しておりました」
「陛下が……そうですか」

 ということは、英麟は経綸が謀反を計画したと、頭から信じてはいないということかもしれない。

「また何か分かったら教えてください」
「畏まりました」

 明かり取りの窓を見上げた。
 気持ち良いくらいの晴天が覗いているが、蒼花の表情は曇ったままだった。



(皇帝というのはかくも不自由で無力なものか)

 宣室殿の執務室にいながら、英麟はほおづえをつき、その目は虚空を彷徨っていた。
 経綸が失脚し、新たに宰相には次点にいる者を昇格させた。
 経綸に比べると数段劣る小才だったが、それでも宰相が空位なままではそれはそれで政が回らなくなるから仕方なかった。
 朝議の空気はがらりと変わった。
 いや、誰もが羌士忠の顔色を窺いながら発言しているように聞こえてしょうがなかった。
 経綸の謀反騒ぎが影響していることは明らかだった。
 しかし士忠がそのことで格段、得意になっていたり横柄になったりしているわけではない。
 ただ昨日とおなじようにその場にいて、相変わらず宰相の意見に異を唱えることもなく、矩を超えることもない。
 それでも確かにこの場で並々ならぬ存在感を放っていた。
 その空気に近いものを英麟は見知っている。
 芳皇太后だ。
 しかしあの時と決定的に違ったのは、芳皇太后の時は政治がつつがなく回り続けていた。 今はどうだ。
 明らかに差し障りのないことばかりが仰々しく語られ、奥歯に物の挟まったような雰囲気がある。
 たまりかねた英麟が、堤の進捗状況や西方の屯田の話を振ってようやく応える、という有り様だった。
 もちろん士忠は一言も口を差し挟んだりはしていない。
 経綸がいかに優れていたが分かった。
 しかし投獄された経綸に会いに行くこともままならない。
 疑念はあっても証拠がでている以上、大将軍を殺そうとした賊徒に面会を求めようとすれば、英麟が罪人を罪人とは考えていない――ひいては、今度のことで立ち上がった士忠はもちろん、その下について賊の討伐にむかった将兵たちを評価していない、それどころか朝廷で僅かにだが語られる、えん罪説を信じ、士忠に同心した重臣すべてを疑うということになりかねない。
 皇帝はこの国の象徴であり、頂き。
 だからこそ、ちょっとした動作のいちいちによって巻き起こされる、さざ波一つっても、無視できない。
 英麟は今の自分が、無数の何かに縛り付けられているような気がした。
 呼吸一つすることすら、周囲の同意を得なければならない、かのような……。
 今となって思い出されるのは芳皇太后との一幕。

 まだ母の死が芳皇太后によるものとは分かっていない時のこと。
 英麟は芳皇太后から部屋に来るよう言われた。
 いつものように叱られるのかと、母の死から間もないこともあって落ち着かなかった時のことだ。
 しかしいざ皇太后のもとを尋ねると、趣が少し異なっていた。

「皇帝とは何ですか」

 挨拶もそこそこにそう尋ねられた。
 あまりに唐突なことにやや遅れながら応える。

「この国のいただきに立つ者です」
「いただきに立ち、何をするのですか」
「あらゆることを」
「皇帝があらゆることをするのですか」
「家臣に命じます」
「あらゆることを?」
「そうです」
「家臣がそれを拒めばどうするのです」
「拒む……?」

 英麟は皇太后が何を言っているのか分からなかった。皇帝の命令を家臣が拒否することなどあるはずがない。
 家臣は皇帝を支えるために存在しているのだ。

「そんなことはありえません」
「英麟。皇帝とは無力なものです。あらゆることを望むがままに叶うことなどありえはしません。無理を通せば、どこかでひずみがくる。それをかぶるのは皇帝です」
「ですが、皇太后様は文武百官に命令を下しています。それを拒否する者は誰もいないではありませんか」

 心なし、その反論の語気は強かったかもしれない。
 日頃からの不満も少なからずあった。
 そう。皇太后の言葉は誰も否定しない。否定できない。
 皇帝である自分すら皇太后の言葉を拒むことはできない……。
 すると、芳皇太后は目をつり上げた。

「愚か者っ!」

 その怒声に、英麟はぎょっとしてしまう。

「そんなことを考えているようでは、お前は、すべてをなくすでしょう。皇帝は無力であり、その地位は決して安逸なものではない。常に努力し励まなければ、たちまち皇帝といえども失墜する……左様心得なさい」

 しかし芳皇太后が何を言いたいのか、最後まで分からなかった。
 自分を棚に上げ、謙虚になれとでも言いたかったのか。
 芳皇太后の生きている間は英麟は有名無実な存在であり自由に振る舞っても、芳皇太后以外はほとんどまともに諫めようとはしなかった。
 朝廷の誰もが己に課せられた役目だけを粛々とおこない、未熟な皇帝を本気で諫める暇などなかったのだ。
 実際、芳皇太后とその下の宰相をはじめとする重臣たちの朝議のもと、恵国は何の障りもなく動きつづけていたのだから……。
 それが当たり前のことだと思った。
 だが、それは間違いだったのかもしれない。
 それを今、英麟は痛いくらい思い知らされていた。

「陛下」

 執務室に入ってきた侍中の声で思考の波が揺らぐ。

「……邪魔をするな、今は執務の最中だ」
「今日は――」
「羌? 大将軍がどうかしたのか」
「い、いえ……。本日、という意味で」

 何を神経質になっているのか。英麟は眉間を揉む。

「それで」

 ため息混じりに先を促す。

「はい。栄国からの使いが前殿にあがり、拝謁を願っております」
「……そうか」

 数日前からその旨は伝えられていたが、すっかり忘れていた。
 栄国は、南方にある国だ。
 恵国と同じ帝という存在を戴いているが、宗教が異なることや、広大な国境線を接するということもあり長年、争乱が絶えなかったが、数代前の皇帝が、栄国の内紛に乗じて侵略。攻略され、服属していた。

「分かった」
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