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本編~1ヶ月目~
第10話~玉子とじのおうどん~
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~新宿・歌舞伎町~
~テルマー湯2F・男性大浴場~
白亜の宮殿を思わせる壁。
広々とした中に立ち上り、視界を曇らせる湯気。
時折聞こえてくる、湯のばしゃっと床に跳ねる音。
僕は大浴場の湯船に肩まで浸かりながら、ぼんやりと湯に身を委ねていた。
「(はー……)」
全身がぽかぽかと温かくなるのを感じながら、ほぅと息を吐く。
「こちらの世界で、風呂は全裸になって入るもの」ということは分かっていたし、自室のシャワーで慣れてこそいたが、公衆浴場でもそうだとは思わず、最初は大いに戸惑った。
慣れてしまえばどうということはないのだろうが、人目のある場所で全裸というのは、やはりどうにも落ち着かなくなる。
脱衣所に掲示が無かったら、館内着のまま浴場に入ってしまっていたかもしれない。
僕の元いた世界にも風呂はあったが、こうして湯船になみなみと湯を張って、そこに浸かるという形ではなかった。
そもそもあちらの世界で湯を沸かす設備は、魔法の力を借りてのもので、どうしても大規模な給湯を行うものには、相応のリソースが必要になるもの。
正直、自室のシャワーだって最初は信じられなかった。スイッチを入れて蛇口をひねれば、それだけでお湯が滾々と湧き出すなんて、あちらの世界で実現したら国中がひっくり返る。
やはり、この世界の「技術」は非常に恐ろしい。恐ろしく、便利だ。
あまりに便利すぎて、あちらの世界に戻った時に暮らしていけるかどうか、不安になってくる。
「(……いやいや、なにを考えているんだ僕は。大丈夫、あっちの世界はあっちの世界で便利だったじゃないか)」
僕は頭を振って妙な考えを追い払うと、タオルで汗を拭って立ち上がった。
股間部分をタオルで隠しながら湯船を出ると、ふと右手に見える扉が目に付く。
扉に近づき、傍らのプレートを見ると、そこに書かれている文字は「ミストサウナ」とある。
「ミスト、サウナ……あ、なるほど。蒸し風呂か」
懐かしい。元いた世界で風呂と言えばこういうタイプだった。
密室の中で蒸気を充満させ、そこに入って汗を流す。そうして身体を温めて、体内の血のめぐりを良くすることで、リフレッシュするのが心地よかったものだ。
折角その設備があるなら入っていこう。僕は意気揚々と扉を開けた。
~テルマー湯地下1F・山水草木《さんすいそうもく》~
浴場から出て、館内着に袖を通し。僕はレストランのカウンター席で水を呷っていた。
身体は温まった。汗も充分に流した。だが正直、流しすぎてしまった感じがある。
つまるところ、のぼせてしまったのだ。
脱衣所に飲料水を出す機械も設置されていたらしいが、使い方が分からなかったのでそこで飲むのは早々に諦めた僕である。
「ふぅっ……」
水を飲み干し、提供されたポットから自分でグラスに注ぎ、僕は大きく息を吐く。
気持ちよかった。非常に気持ちよかった。だが程度を見誤ると、痛い目を見てしまうのは何事にも言えることだ。
僕は気を取り直してメニューを開き――そして瞠目した。
「日本酒、焼酎、カクテル……え、こんなにあるのか?」
そう、メニューの一番後ろ、独立したページになっているドリンクメニュー。
そこに記載されているお酒のメニューの充実度が凄まじいのだ。正直、陽羽南よりもよっぽど充実している。
日本酒と焼酎などその最たるもので、その数、実にそれぞれ15種類。温浴施設のレストランというより、立派に一軒の居酒屋レベルだ。
すごい、と言わざるを得ない。下地がしっかりしているのか、それとも店長の趣味嗜好か、いずれにしてもこれだけのレベルを保つのは並大抵ではないだろう。
僕はその情報量に圧倒されつつ、呼び鈴を鳴らした。近くを歩いていた店員が、僕の元へとやってくる。
「ご注文はお決まりですか」
「えーと、この……ボン、でいいのかな。
これと、もろ味噌胡瓜、チキン南蛮と、あと玉子とじのおうどんを、お願いします」
「梵《ぼん》、もろ味噌胡瓜、チキン南蛮、玉子とじのおうどん、ですね。かしこまりました。
梵は冷やでよろしいですか?」
店員の問いかけに、僕は一瞬思考が停止する。そういえば日本酒は、提供する温度によって味わいや風味が変わるんだったか。
「はい、冷やでお願いします」
「かしこまりました、リストバンドのご提示をお願いいたします」
僕は頷くと、右手首にはめたリストバンドを店員に差し出す。店員は手元の機器をリストバンドに当てると、一礼して去っていった。
リストバンドで館内の会計ごとが全て完結するというのは、実に便利だ。さらにロッカーキーも兼ねているのだから恐れ入る。
右手のリストバンドに視線を落としていた僕は、すっと顔を上げる。店員が升に入れられたグラスと、日本酒のボトルを盆に乗せて、こちらに持ってきていた。
「お待たせしました、梵でございます」
丁寧な所作で、紙製のコースターの上に升が乗せられる。そして栓を外されたボトルから、日本酒が静かに注がれていった。
なるほど、席で注ぐやり方もありなのか。新発見だ。
「お待たせしました、玉子とじのおうどんでございます」
日本酒をだいぶ飲み進めて、胡瓜やチキン南蛮を食べていた僕のところに、店員が巨大な、それは巨大な丼を持ってきた。
丼を僕の目の前に置き、蓋を外す。中から湯気を伴って、溶き卵でとじられた熱々のうどんがその姿を現した。
「おぉ……」
思わず感嘆の声が漏れる。店員はすっと目を細めると、空いた器を盆に乗せて下がっていった。
器の大きさに慄くが、うどんの量そのものは普通に食べる分量と同程度に見える。うどんの汁に浸かり、出汁を吸った玉子がてらてらと輝いていた。
僕は箸を取り、うどんを摘まむ。まだ箸の扱いには慣れないが、こればかりは練習しないとどうにもならないだろう。
しっかと掴んだうどんを口元に運び、軽く吹き冷まして、口に含んだ。むぐむぐと食むと、小麦の味が感じられて、実にいい。
次いで玉子を摘まんだ。が、ほろりと崩れてうまく掴めない、随分と柔らかな質感だ。
何とか箸にかかった玉子を口に入れると、出汁の強い風味と卵のコクが合わさって、上質な玉子焼きのような、それでいて綿のような何かを食べているような気分になる。
「美味しい……」
そんな感嘆の声が、思わず漏れた。
と、そこで僕はグラスの中に日本酒がまだ残っていたことを思い出す。ちびりと口に含むと、芳醇な味わいと香りが出汁の風味と綯い交ぜになって、より幸福さを感じられた。
「あー……だし巻き玉子、もっと練習しないとなぁ……」
幸福の余韻を感じながら、僕は一人ぼそっと呟く。
明日からの仕事も、また頑張ろう。そう思わされながら、僕はまたうどんをすすった。
~第11話へ~
=====
小説への登場許可をいただきました、テルマー湯様のご協力に感謝します。
テルマー湯
http://thermae-yu.jp/
山水草木
http://hitosara.com/0006060647/
~テルマー湯2F・男性大浴場~
白亜の宮殿を思わせる壁。
広々とした中に立ち上り、視界を曇らせる湯気。
時折聞こえてくる、湯のばしゃっと床に跳ねる音。
僕は大浴場の湯船に肩まで浸かりながら、ぼんやりと湯に身を委ねていた。
「(はー……)」
全身がぽかぽかと温かくなるのを感じながら、ほぅと息を吐く。
「こちらの世界で、風呂は全裸になって入るもの」ということは分かっていたし、自室のシャワーで慣れてこそいたが、公衆浴場でもそうだとは思わず、最初は大いに戸惑った。
慣れてしまえばどうということはないのだろうが、人目のある場所で全裸というのは、やはりどうにも落ち着かなくなる。
脱衣所に掲示が無かったら、館内着のまま浴場に入ってしまっていたかもしれない。
僕の元いた世界にも風呂はあったが、こうして湯船になみなみと湯を張って、そこに浸かるという形ではなかった。
そもそもあちらの世界で湯を沸かす設備は、魔法の力を借りてのもので、どうしても大規模な給湯を行うものには、相応のリソースが必要になるもの。
正直、自室のシャワーだって最初は信じられなかった。スイッチを入れて蛇口をひねれば、それだけでお湯が滾々と湧き出すなんて、あちらの世界で実現したら国中がひっくり返る。
やはり、この世界の「技術」は非常に恐ろしい。恐ろしく、便利だ。
あまりに便利すぎて、あちらの世界に戻った時に暮らしていけるかどうか、不安になってくる。
「(……いやいや、なにを考えているんだ僕は。大丈夫、あっちの世界はあっちの世界で便利だったじゃないか)」
僕は頭を振って妙な考えを追い払うと、タオルで汗を拭って立ち上がった。
股間部分をタオルで隠しながら湯船を出ると、ふと右手に見える扉が目に付く。
扉に近づき、傍らのプレートを見ると、そこに書かれている文字は「ミストサウナ」とある。
「ミスト、サウナ……あ、なるほど。蒸し風呂か」
懐かしい。元いた世界で風呂と言えばこういうタイプだった。
密室の中で蒸気を充満させ、そこに入って汗を流す。そうして身体を温めて、体内の血のめぐりを良くすることで、リフレッシュするのが心地よかったものだ。
折角その設備があるなら入っていこう。僕は意気揚々と扉を開けた。
~テルマー湯地下1F・山水草木《さんすいそうもく》~
浴場から出て、館内着に袖を通し。僕はレストランのカウンター席で水を呷っていた。
身体は温まった。汗も充分に流した。だが正直、流しすぎてしまった感じがある。
つまるところ、のぼせてしまったのだ。
脱衣所に飲料水を出す機械も設置されていたらしいが、使い方が分からなかったのでそこで飲むのは早々に諦めた僕である。
「ふぅっ……」
水を飲み干し、提供されたポットから自分でグラスに注ぎ、僕は大きく息を吐く。
気持ちよかった。非常に気持ちよかった。だが程度を見誤ると、痛い目を見てしまうのは何事にも言えることだ。
僕は気を取り直してメニューを開き――そして瞠目した。
「日本酒、焼酎、カクテル……え、こんなにあるのか?」
そう、メニューの一番後ろ、独立したページになっているドリンクメニュー。
そこに記載されているお酒のメニューの充実度が凄まじいのだ。正直、陽羽南よりもよっぽど充実している。
日本酒と焼酎などその最たるもので、その数、実にそれぞれ15種類。温浴施設のレストランというより、立派に一軒の居酒屋レベルだ。
すごい、と言わざるを得ない。下地がしっかりしているのか、それとも店長の趣味嗜好か、いずれにしてもこれだけのレベルを保つのは並大抵ではないだろう。
僕はその情報量に圧倒されつつ、呼び鈴を鳴らした。近くを歩いていた店員が、僕の元へとやってくる。
「ご注文はお決まりですか」
「えーと、この……ボン、でいいのかな。
これと、もろ味噌胡瓜、チキン南蛮と、あと玉子とじのおうどんを、お願いします」
「梵《ぼん》、もろ味噌胡瓜、チキン南蛮、玉子とじのおうどん、ですね。かしこまりました。
梵は冷やでよろしいですか?」
店員の問いかけに、僕は一瞬思考が停止する。そういえば日本酒は、提供する温度によって味わいや風味が変わるんだったか。
「はい、冷やでお願いします」
「かしこまりました、リストバンドのご提示をお願いいたします」
僕は頷くと、右手首にはめたリストバンドを店員に差し出す。店員は手元の機器をリストバンドに当てると、一礼して去っていった。
リストバンドで館内の会計ごとが全て完結するというのは、実に便利だ。さらにロッカーキーも兼ねているのだから恐れ入る。
右手のリストバンドに視線を落としていた僕は、すっと顔を上げる。店員が升に入れられたグラスと、日本酒のボトルを盆に乗せて、こちらに持ってきていた。
「お待たせしました、梵でございます」
丁寧な所作で、紙製のコースターの上に升が乗せられる。そして栓を外されたボトルから、日本酒が静かに注がれていった。
なるほど、席で注ぐやり方もありなのか。新発見だ。
「お待たせしました、玉子とじのおうどんでございます」
日本酒をだいぶ飲み進めて、胡瓜やチキン南蛮を食べていた僕のところに、店員が巨大な、それは巨大な丼を持ってきた。
丼を僕の目の前に置き、蓋を外す。中から湯気を伴って、溶き卵でとじられた熱々のうどんがその姿を現した。
「おぉ……」
思わず感嘆の声が漏れる。店員はすっと目を細めると、空いた器を盆に乗せて下がっていった。
器の大きさに慄くが、うどんの量そのものは普通に食べる分量と同程度に見える。うどんの汁に浸かり、出汁を吸った玉子がてらてらと輝いていた。
僕は箸を取り、うどんを摘まむ。まだ箸の扱いには慣れないが、こればかりは練習しないとどうにもならないだろう。
しっかと掴んだうどんを口元に運び、軽く吹き冷まして、口に含んだ。むぐむぐと食むと、小麦の味が感じられて、実にいい。
次いで玉子を摘まんだ。が、ほろりと崩れてうまく掴めない、随分と柔らかな質感だ。
何とか箸にかかった玉子を口に入れると、出汁の強い風味と卵のコクが合わさって、上質な玉子焼きのような、それでいて綿のような何かを食べているような気分になる。
「美味しい……」
そんな感嘆の声が、思わず漏れた。
と、そこで僕はグラスの中に日本酒がまだ残っていたことを思い出す。ちびりと口に含むと、芳醇な味わいと香りが出汁の風味と綯い交ぜになって、より幸福さを感じられた。
「あー……だし巻き玉子、もっと練習しないとなぁ……」
幸福の余韻を感じながら、僕は一人ぼそっと呟く。
明日からの仕事も、また頑張ろう。そう思わされながら、僕はまたうどんをすすった。
~第11話へ~
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