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2.カフェでの日常・非日常
9.過去の至高
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「僕が紅茶に興味を持ち始めたのは、今から8年程前になります」
温かい紅茶の香りに包まれながら、二人は向かい併せのテーブルに座っていた。
セラスは浅井の話よりも、紅茶の味に夢中のようで、彼女の視線は眼前のカップに移動していた。
男としては寂しいところはあるものの、淹れた側としてはこの上のない喜びである。
きっと、あの人もそうだったのかもしれない。
「当時、僕は大学院生でした。修士論文に追われて、心身ともにボロ雑巾。3時間睡眠を繰り返す毎日で、へとへとになっていました」
「そうか、修士課程まで行っていたのか。半端者ではあるが、研究の道を踏み締めていた人間が、何の因果か紅茶専門店の経営者。その道程は興味があるな」
「世の中、どう転ぶか分からないものです。当時の友人とは、あまり連絡をとっていないので、彼らがどうなったかは分かりません。案外、僕みたいに道を踏みはずしているのかもしれませんね」
「踏み外した先が、望む未来の一欠片ならば問題なかろう。まっとうに生きるだけが全てではないし、その『まっとう』の定義すら、人、国、時代によって様々だ。今を生き、今に生きるのが一番だ。未来のことなど、どうせ誰にも分からん」
セラスはそう言って、カップに口をつける。
香りを楽しみながら、風味を味わいながら。
そして、付け加えるように言った。
「神にも、悪魔にも、な」
一瞬、彼女の目がより輝きをました気がした。
蒼く、蒼く。
その色の深みが増したような気がした。
宝石のような。
見るものを魅了する輝き。
「ほら、どうした?続きを話してくれ」
貴族のように、彼女はせがんだ。
雇用者であり、師匠は僕なんだけどな、とも思ったが、浅井は気にせず続きを口にする。
「……それで、そんなぼろぼろの生活に慣れを感じ始めてきた、そんな日、僕はとある喫茶店に入りました。その店は新しい店でもなんでもなく、昔からあったお店。大学への道中、毎日視界の端には捉えていました」
だが、浅井はその店が喫茶店であることを、入ろうと思うまで認識すらしていなかった。
忙しさに押し潰され、視界情報も減衰していた。
「どうして、その店に入ったかは覚えていません。とにかく、その日も疲れていましたから。たぶん、ただの気まぐれの気分転換。その程度の理由だったと思います」
店の名前は、記憶の靄にかかってよく思い出せない。
当時も、特に看板とかを見ずに入った覚えがある。
外装は、ギリギリ飲食店とわかる程度。
店内は、特段綺麗とは言えないものの、昔ながらの喫茶店という雰囲気。
少し暗めな照明に、数席のテーブル。
他にお客は誰もおらず、店主と思われる男性が、目を瞑りながらカップを磨いている姿を覚えている。
「そこで、一杯の紅茶をいただきました。当時は深夜生活もあったせいか、珈琲派でしたが、何故か紅茶を頼んでいました」
「その一杯が、目指す一杯の形、というわけか」
セラスの言葉に、浅井はゆっくりと頷いた。
あの一杯は、浅井の世界をぶち壊すには十分な存在だった。
珈琲のカフェインのような、化学作用ではなく、味と香り、そして心を満たす何か。
元研究者として、あまり抽象的な表現は使いたくないが、そうせざるを得ない一杯。
単純な美味さはもちろん、体中に春風が駆け巡るような爽快感。
たった一杯の紅茶で受ける印象ではなかった。
「とても美味しかった。味の詳細、香りの感覚は思い出せないけれど。とにかく最良の一杯でした、少なとも僕にとっては。……でも、一言二言、店の方にお礼を言ってその日は終わりました。衝撃は凄かったですが、それ以上に当時の僕は疲れ果てていました。なので、ただ美味しい紅茶を飲めた、という満足感だけを抱いて、残りの学生生活を終えました」
「そうなのか。その場で感銘を受けて、弟子入り修行ーーとはならんのだな」
「セラスさん程、決断力がある方ではないので」
「まあ、それはそうだな。だが、卑下することはない。私を満足させる極上の一杯を、作ることをができるのだから」
そう言って、彼女は僕の頭をぽんと撫でる。
さらり、さらりと。
悪い気はしなかった。
温かい紅茶の香りに包まれながら、二人は向かい併せのテーブルに座っていた。
セラスは浅井の話よりも、紅茶の味に夢中のようで、彼女の視線は眼前のカップに移動していた。
男としては寂しいところはあるものの、淹れた側としてはこの上のない喜びである。
きっと、あの人もそうだったのかもしれない。
「当時、僕は大学院生でした。修士論文に追われて、心身ともにボロ雑巾。3時間睡眠を繰り返す毎日で、へとへとになっていました」
「そうか、修士課程まで行っていたのか。半端者ではあるが、研究の道を踏み締めていた人間が、何の因果か紅茶専門店の経営者。その道程は興味があるな」
「世の中、どう転ぶか分からないものです。当時の友人とは、あまり連絡をとっていないので、彼らがどうなったかは分かりません。案外、僕みたいに道を踏みはずしているのかもしれませんね」
「踏み外した先が、望む未来の一欠片ならば問題なかろう。まっとうに生きるだけが全てではないし、その『まっとう』の定義すら、人、国、時代によって様々だ。今を生き、今に生きるのが一番だ。未来のことなど、どうせ誰にも分からん」
セラスはそう言って、カップに口をつける。
香りを楽しみながら、風味を味わいながら。
そして、付け加えるように言った。
「神にも、悪魔にも、な」
一瞬、彼女の目がより輝きをました気がした。
蒼く、蒼く。
その色の深みが増したような気がした。
宝石のような。
見るものを魅了する輝き。
「ほら、どうした?続きを話してくれ」
貴族のように、彼女はせがんだ。
雇用者であり、師匠は僕なんだけどな、とも思ったが、浅井は気にせず続きを口にする。
「……それで、そんなぼろぼろの生活に慣れを感じ始めてきた、そんな日、僕はとある喫茶店に入りました。その店は新しい店でもなんでもなく、昔からあったお店。大学への道中、毎日視界の端には捉えていました」
だが、浅井はその店が喫茶店であることを、入ろうと思うまで認識すらしていなかった。
忙しさに押し潰され、視界情報も減衰していた。
「どうして、その店に入ったかは覚えていません。とにかく、その日も疲れていましたから。たぶん、ただの気まぐれの気分転換。その程度の理由だったと思います」
店の名前は、記憶の靄にかかってよく思い出せない。
当時も、特に看板とかを見ずに入った覚えがある。
外装は、ギリギリ飲食店とわかる程度。
店内は、特段綺麗とは言えないものの、昔ながらの喫茶店という雰囲気。
少し暗めな照明に、数席のテーブル。
他にお客は誰もおらず、店主と思われる男性が、目を瞑りながらカップを磨いている姿を覚えている。
「そこで、一杯の紅茶をいただきました。当時は深夜生活もあったせいか、珈琲派でしたが、何故か紅茶を頼んでいました」
「その一杯が、目指す一杯の形、というわけか」
セラスの言葉に、浅井はゆっくりと頷いた。
あの一杯は、浅井の世界をぶち壊すには十分な存在だった。
珈琲のカフェインのような、化学作用ではなく、味と香り、そして心を満たす何か。
元研究者として、あまり抽象的な表現は使いたくないが、そうせざるを得ない一杯。
単純な美味さはもちろん、体中に春風が駆け巡るような爽快感。
たった一杯の紅茶で受ける印象ではなかった。
「とても美味しかった。味の詳細、香りの感覚は思い出せないけれど。とにかく最良の一杯でした、少なとも僕にとっては。……でも、一言二言、店の方にお礼を言ってその日は終わりました。衝撃は凄かったですが、それ以上に当時の僕は疲れ果てていました。なので、ただ美味しい紅茶を飲めた、という満足感だけを抱いて、残りの学生生活を終えました」
「そうなのか。その場で感銘を受けて、弟子入り修行ーーとはならんのだな」
「セラスさん程、決断力がある方ではないので」
「まあ、それはそうだな。だが、卑下することはない。私を満足させる極上の一杯を、作ることをができるのだから」
そう言って、彼女は僕の頭をぽんと撫でる。
さらり、さらりと。
悪い気はしなかった。
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