失われた右腕と希望の先に

瑪瑙 鼎

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第2章 ハンター

15:カラディナへの道

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第2章-地図


 ヴェルツブルグから西へ馬車で約15日、エーデルシュタイン西部の宿場町オストラは、今日も両国を行き交う旅人で賑わっていた。

 人口約3,000人の小さなこの町は、カラディナとエーデルシュタインを結ぶ街道沿いに位置し、住民達のほとんどは、宿泊、運搬、補給等、両国の流通に携わる事で、日々の糧を得ていた。

 ヨセフの宿は、この町の東の外れにある比較的小さな宿屋であり、どちらかというと安さを売りにしている。そのため、客層も商隊を組めるような大規模なものではなく、せいぜい2~3人組の商人や、個人の旅人が多い。また料金を抑えるために素泊まりを選び、自炊する客もいる。食事がつかないと売上が伸びないのが主人の悩みではあるが、清潔感のあるこざっぱりとした家屋と使い勝手の良さが受け、ヨセフの宿を常宿に選ぶ旅人も多い。そのため、初めて見る男がヨセフの下を訪れた時には、すでに部屋のほとんどが埋まっていた。

「いらっしゃい、旦那。泊まりですかい?」
「ああ、一人だ。空きはあるかい?」
「相部屋と、個室は一つだけ空きがありまさぁ。どちらにしますか?」
「個室で頼む、それと食事は持参しているから、素泊まりで構わない」
「それでしたら、大銅貨5枚になりまさぁ」

 男は左手で懐をまさぐると、不器用な手つきで大銅貨を取り出し、ヨセフに差し出す。よく見ると右手には布がまかれ、胸元に吊り下げられていた。

「失礼ながら旦那、右手を怪我されているんですかい?」
「ああ、仕事でミスをしてね。今まともに動かないんだ」
「そりゃぁ、大変な事で。治りそうですかい?」
「正直なところ、かなり厳しくてね。カラディナに腕の良い治癒師がいると聞いて、藁をも縋る思いで向かうところなんだ」
「こりゃ大変失礼しました。お詫びではないですが、この町にも一人腕の良い医者がいますよ。よろしければ紹介しますが」
「ありがとう。でも厚意だけ受け取っておくよ。傷の進行を抑える施術がしてあってね、カラディナの治癒師に着くまでは、傷口を見せるわけにはいかないんだ」
「そうでしたか。いろいろ失礼な事を言ってすいやせん。大事になさって下さい。部屋は2階の一番奥です。ご案内します」
「ありがとう。一晩厄介になるよ」
「ごゆっくり」

 部屋まで誘導された男は、ヨセフに礼を言うと部屋に入り、扉を閉めた。ヨセフは、男の荷物が比較的少ない事に気づいたが、右腕を怪我している事もあり、そもそもあまり持てないのだろうと同情し、特に気にせず1階に下りた。

 男は部屋に入ると鍵をかけ、床に背嚢を置くと椅子に腰かけた。そして、…突然、空中からおにぎりやらスープやら焼肉やらが出現すると、机の上に並べ、左手で不器用に食べ始めた。右手は胸の下に吊り下がったままだ。

 男…柊也は、リーデンドルフでの災難の後、名を伏せ、徒歩または乗合馬車を使ってこの地を訪れていた。目的地は、隣国のカラディナ共和国。ヴェルツブルグを去った柊也は、エーデルシュタイン王国に別れを告げ、活動拠点をカラディナ共和国に移す事に、決めていた。



 ***

 一瞬の浮遊感の後、2秒にも満たない時間を経て盛大な水飛沫があがる。覚悟はしていたため混乱はしていないが、それでも顔に纏わりつく水から逃れようと、柊也は必死に三肢を動かす。何とか無事に水面に顔を出し、一呼吸ついたところで、少し離れたところにもう一つ大きな水飛沫があがるのを目にした。上を見上げるが、今のところ岩棚から覗き込む者の姿は、見当たらない。

 リーデンドルフの岩棚で御者に襲われた柊也は、躊躇なく岩棚から身を投げた。こちらには右腕がなく、相手は短剣を持っている。その場で踏ん張っていても勝ち目はないし、元々柊也は湖に飛び込む予定だった。全員の目を眩ますのは、この方法しか思いつかなかった。

 後から落ちてきた御者は必死に藻掻いているが、頭が水の上に出てこない。完全に溺れている様だ。自分が予想した通りだ。やはりこの世界は日本と違い、泳げる人間が少ない。柊也は安堵したが、しかし柊也自身もあまり余裕がない。右腕がない以上、立ち泳ぎも後1分程度しかもたないだろう。それまでに計画通り進めなければ、全てが水の泡だ。

「汝に命ずる。闇を纏いし衣となり、我を抱擁せよ」

 まずは、闇魔法の「ダーク」を詠唱する。柊也の周囲が暗く染まり、外部から柊也の姿が見えなくなる。
 続けて、予め右腕で持ち続けていたスキューバ用のタンクを取り出す。タンクにはすでにレギュレーターやBCD(浮力調整装置)も取り付けられており、水中で悪戦苦闘しながらも、何とか背負う事ができた。右腕の能力で、対象の知識は得る事はできるが、経験はついてこない。王城の自室で何度か練習はしたが、この夏休みに旅行先でスキューバダイビングを体験してなかったら実行できなかっただろうなと、柊也は過去の自分の行動に感謝した。

 最後に上を見上げ、誰も湖面を覗いていない事を確認する。マスクやフィン(足ヒレ)がまだだが、これ以上時間をかけるのは危険だ。そう柊也は判断し、水中へ潜り始めた。フィンの取り付けがまだなので推進力が足らないが、とりあえず右腕でダンベルを取り出して持つ事で自重をかさ上げし、深度だけ稼ぐ。

 リーデンドルフ湖は、上から見ると暗青色の暗い雰囲気だったが、潜ってみると思ったより透明度があった。水質の違いか、ある一定の深度から急に暗くなるのと、湖底が暗緑色の水草に厚く覆われているのが、上から暗く見えた原因のようだ。潜水前に仕掛けた「ダーク」の効果と相まって、上から柊也を見つける事はできないだろう。光合成が活発に行われているのか、水草から泡沫が散発的に吹き出しており、柊也の呼吸を目立たなくしていた。

 柊也は一瞬、水中の幻想に目を奪われていたが、やがて右腕でフィンを取り出すと足に装着し、一定の水深を保ったまま、泳ぎ始める。目標は、ハインリヒ達のいる岩棚の対岸だが、一旦岩棚に沿って泳いで視角をずらし、その後湖の中心へと乗り出した。

 30分後、柊也は湖の中央にある小島の陰に身を潜めていた。タンクの残圧計を見ると残りは3割程度。交換が必要だ。

 そっと岩棚の方を覗くと、辛うじて何人かの人間が立っているのが見えるが、その姿は小さく、すでに顔の判別もつかない。柊也は一安心するが、人里とは違い遮蔽物のない湖面だ。対岸に到着するまでは油断すべきではないだろう。柊也は休憩して疲労を回復しつつ、対岸の地形を確認する。対岸は岩棚側とは異なってなだらかな湖岸が続いており、上陸に支障はなさそうだ。あとは適度に草木が生い茂り、身を隠しやすい場所を探し出すだけだ。

 こうして柊也は対岸の候補を定めると、タンクを交換し、再び湖水へと潜航する。そしてリーデンドルフから、単身での脱出を成功させた。



 ***

 元々柊也は、王城から脱出するためには「行方不明=死」と連想できる環境が必須と考えており、それは溺死以外にないという結論に達していた。また、場所については、切り立った崖の下に湖面が広がるリーデンドルフが最も適していると判断していた。この世界では、泳げる人間は少数派だ。湖面に落ちて行方不明になれば、そのまま溺死したと思うのが自然であった。

 次は、どうリーデンドルフで行方不明になるかだ。当然、平穏無事の状態からいきなり行方不明にはならない。特に柊也は被召喚者という事で、王城の者たちの目を逃れる事が難しい。そのため、行方不明に繋がる大きなトラブルが必要になるのだ。

 これに、ハインリヒの害意を利用した。いずれ彼の黒い感情は爆発する。であれば、期限を設けた隙を見せる事で爆発するタイミングを合わせ、王城からの脱出に利用した。

 ただ、そのメニューの作成を全て彼に一任するわけにはいかない。一任してしまうと、例えば同行者が全て彼の息のかかった者となり、結果、柊也は罠を逃れ得ず死を迎える事になってしまう。ゆえに、事前に王太子に打診し、リーデンドルフへの同行者に騎士を加えた上で、ハインリヒに話を振ったのだ。これで彼は足枷をはめたままでの謀略を強いられる事となり、彼の罠は、小細工へとダウングレードする。

 もちろん、ハインリヒの有能さを知っていた柊也は、それでも危険な賭けになると考えていたが、柊也はその賭けに勝ち、目を眩ます事ができたのである。

 対岸に上陸し、岩棚からの完全に身を隠した柊也は、まず右腕の力で衣服を取り出し、着替えを始める。元の世界の衣服の中から、素材や形状がこちらの世界に近いものを選び、身に着けた。その後、同じく右腕の力で靴や背嚢、最小限の食料等、徒歩での移動に必要な物品を揃えていく。

 着替えの後食事を取り、体力が回復した柊也は、当初人の目を避けて進むつもりでいたが、しかし草木が生い茂る未開の地を前にして、1時間もせずに音を上げる事になる。リスクが高くなるが、幹線道路を使わざるを得なくなった。

 それでも、リーデンドルフから近い間は人の目を避ける必要がある。そう判断した柊也は、1週間、夜間のみ移動を行い、昼間は原野に身を隠す生活を続けた。この辺りは、魔物はおろか大型動物もいない事がすでにわかっており、右腕のおかげで食料の心配もないからこその判断である。夜間は「ダーク」と風魔法の「サイレンス」で身を隠し、闇魔法の「ナイトアイ」で視界を確保する事で、行動の自由を確保した。

 1週間が経過し、リーデンドルフから150km近く離れた所で、柊也はようやく日中行動するようになる。この時も自分を偽るために、十分な準備を行った。

 まず、元の世界から義手を取り出し、それを首から吊るした布で支え、右腕を怪我したように見せかける。義手は指先から肘の上までを模した物であり、上腕部及び肩口は存在しない。右肩部分については、元の世界の服の袖を切り裂き、右肩の暗黒面を露出させた。その上から、リーデンドルフで着ていたこの世界の外套を羽織り、上腕部を隠した。つまり外套を捲ると、上腕部が存在しない、違和感のある方法を取ったのだ。

 これには、柊也の右腕特有の事情がある。実は、右腕を元の世界の衣類及び手袋で覆うと、通常の腕と同じように動かすことができるのだ。そのため、最初はこの方法で右腕を「復活」させるつもりでいた柊也だったが、次の3つの問題が発覚し、断念する事になった。

 一つ、元の世界の物質越しにこちらの世界の物に触れても、触感が存在しない。

 二つ、元の世界の物質に外部から力が加わると、右腕の存在に関係なく、その物質の性質に応じて変形してしまう。つまり、「復活」した右腕を服越しに押すと、押された部分の生地が、不自然に右腕にめり込んでしまうのだ。同じ理由で、手袋越しにこちらの物質を掴む事ができない。

 そして三つ、この問題が一番大きい。右腕を元の世界の物質で覆うと「出口」が塞がってしまい、元の世界から物を持ち込めなくなるのだ。右袖を肩から切り裂いた理由は、このためである。当分の間は、ヴェルツブルグから持ち出したこの外套だけが頼りだ。いずれ、右腕がすり抜ける、こちらの世界の衣類を入手する必要がある。

 ともあれ、これにより右腕のない男はいなくなり、右腕を怪我した男が現れた。以後は、通常の旅人と同じ様に行動するだけである。

 エーデルシュタイン王国は柊也が逃げ出したとは考えていないため、リーデンドルフの遥か西は捜索しない。右腕のない男の噂は気にするかもしれないが、右腕を怪我した男の話題は気にも留めない。

 こうして柊也は白昼堂々と西へ向かい、無事にカラディナ共和国へと入国した。リーデンドルフで行方不明になってから、40日目の事である。
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