始まりは、身体でも

彼方 紗夜

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2. その先は心で

10.

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 胸の動悸は一向に治まる気配がなかった。
 頰に昇った熱も。
 抱き締められた瞬間全身に広がった、泣きたくなる程力強くて優しい、懐かしいとさえ思える感覚さえも。

 決めた筈だ。もう誰にも心を揺らめかせないと、決意したのだから。
 まだ間に合う、ううん、間に合わせなければ。
 また、あんな風にはなりたくない。堕ちたくない。もう醜い自分を見たくないし見せたくない。



 それも──また、同じ人にだなんて。



 心の一番奥が、この場所に──この胸の中に居たいと弱々しく訴える声には気付かない振りを続けた。
 焦土だった筈の其処に芽吹きそうなものは、枯らさなければ。
 今の内に。今なら、まだ。

 何度も繰り返し自分に言い聞かせて、彼を諫めたのに。
 体調の所為でないのなら、誰かを抱き締めるだなんてことを、──気の無い相手にはしない方がいいよ、と。



 なのになんで、あんな。
 あんな傷付いたような、顔、するの。

 







 その日の仕事中、ずっとミレイユからの何か訊きたそうな視線を浴びていたから覚悟はしていたけれど、それでも直球の質問には一瞬絶句してしまった。

 「昼間の方はシエナの恋人?」

 夜、勤めを終えてすぐにミレイユが幾分不機嫌そうに昼間の事を問い質してきて、やっぱり見て見ぬ振りはしてもらえなかった、とシエナは心の中で溜息をついた。これがセシリアならきっとシエナの様子を見て踏み込んではならない線を見極めてくれただろうけれど、ミレイユではそうはいかないに違いなかった。今日は珍しく上がりの時間がほぼ同じになったので、地下の食堂へ2人で向かっていた時だった。
 半分白旗を上げながら、シエナはそれでもどうにかあまり追求されませんようにと祈る思いで返事を返した。

 「違うわよ。唯の幼馴染で」
 「ふうん……でも抱き合ってたよね?」
 「……」

 ミレイユの訊き方は無邪気だが、何故か声がいつもより低く探るような視線を向けてくる。シエナは無意識の内に目が泳いでしまっていた。取り繕おうとして、でも自分でもわからないものをどう説明すれば良いのか思いつかず、結局下手な言い訳だなと自嘲しながら弁解した。

 「違う違う、あれは、その、私の髪にごみが付いてたから、それで」
 「男の人、背中に手を回してた」
 「あ、背中だった、背中に塵が付いてて」
 「ふぅん……」
 「あの、本当に違うから」

 今日は仕事中も何度もその時の事を思い返してしまって大変だった。心の隙を突いては容赦無く侵入してくるその記憶や肌に残ったままの感覚が、シエナを揺さぶろうとする。ミレイユの目を見ていられず、無意識の内に早足になった。

 それでもミレイユと話したことで少し落ち着いてものが考えられるようになった気がする。
 ウォーレンが自分に触れたのは、案外本当に背中に塵でもあったのかもしれない。もしかして、塵じゃなくて虫かも。背中に虫が付いている様子を想像してしまった瞬間怖気が走ったが、そう考えるとシエナはあの時の彼の行動を説明付けられる気がした。
 ウォーレンが何か言おうとしていたのも、虫が居るから取ってやるとかそんなものだったのかもしれない。そう結論付ければ途端にさっきまで心の深い所が浮かされていた熱が嘘のようにすうと引いていった。
 何を1人で狼狽えていたんだろう、と少し気が抜けたようになる。
 親切心でしてくれたことを、しない方がいいと言ってしまったから。だから彼はあんな顔で否定したのか。そう思い至って申し訳ない気持ちすら抱いた。
 やけに遠く思えた食堂の前まで来てドアを開けると、ふわりと食欲を刺激する匂いが鼻腔をくすぐった。

 「それなら良いんだけど。私、兄様を応援してるんだもの」

 シエナに続いて食堂に足を踏み入れたミレイユが、何処か納得いかないながらも頰を緩めた。その変わりように、シエナはやっとミレイユのそれまでの不機嫌の理由に思い至った。

 「ミレイユはお兄様が好きなのね」

 ミレイユは先日の一件の顛末を聞いていないのだろう。思わず苦笑の交じった溜息が漏れた。

 「兄様もだけど……、シエナにお義姉様になって欲しいもの」

 ミレイユが甘えた声で上目遣いにシエナを見たので、シエナは思わず破顔した。それでもミレイユの願いを叶えてやれるかというと頷けないのだが。

 「ミレイユにそう言われるのは光栄だけど、お義姉さんにはなれないわ……ごめんね。アイザック様にもそうお伝えしたの」

 先日の事を思い返す。ウォーレンの友人でミレイユの兄は優しい人だった。何も考えずにあの手を取れたら楽になれたんだろうか。ほんの一瞬だけそんなことを思って、失礼にも程があると我に返った。後ろめたさに思わず目を伏せると、隣でミレイユが拗ねた様子で呟いた。

 「そうだったの?……あーあ、残念。兄様ももっと押せばいいのに」

 ミレイユが頬を膨らませる。その様子が可愛らしくて、脳裏を過ぎった記憶がさっと遮断された。ふふ、と思わずシエナは笑ってしまったが、続いた彼女の言葉に足が止まった。

 「でもあの人、シエナのこと好きで堪らないっていう感じの目で見てたもんね。あれじゃ兄様は敵わないかぁ」

 何、言ってるんだろう、この子は。驚きのあまり寸時思考がぷつりと途絶えた。的外れにも程がある。突拍子もない憶測は正直堪えた。大体それが本当なら自分は今此処に居ないし、だからそんなことがあるわけがないのだ。つきりと胸が痛んだ。
 表情が抜け落ちそうになっていることにはっと気付いて、シエナは慌てて笑顔を貼り付けた。再びぎこちなく歩き出す。

 「まさか……ミレイユの勘違いだわ。貴女は何でも恋愛に結び付けたがるのね。なんだか羨ましいな」
 「ええっ、そんなことないよー。あ、恋はしたいけど。早く社交界にデビューしたいなあ」
 「そうね、デビューまでいよいよ後もう少しね。準備は進んでる?」

 どうにか繕った笑みが不自然にならないように最大限の注意を払う。暗にこれは恋愛事なんかじゃないのだという含みを持たせれば、ミレイユはやっと引き下がってくれた。きっとこの子にとっては間近に迫ってきた社交界入りのことで頭が一杯なのだろう、あっさりと自身のことに切り替えてくれた。ミレイユが、自身のデビューにあたって今頭に詰め込んでいる国内の貴族達の顔と名前について、嬉々として話し始める。
 シエナはこっそり胸を撫で下ろしながらミレイユが話すのを聞くともなしに聞いていた。手元のトレイに自分の食事を乗せて空いているテーブルに向かう。隣で話す彼女の声が、耳をするりと通り抜けていくのをぼんやりと感じていた。

 
 またにする、と言って雨の中背を向けたウォーレンの姿が脳裏に蘇る。
 その姿からは、以前はあった少年ぽさが少し薄れていたような気がした。

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