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弐/偶然にも最悪な邂逅
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◇
時計が刻む秒針の音が聞こえてきた。それはファミリーレストランの静けさを表すには十分なものであり、周囲にあるはずの喧騒は、すべてその音に呑み込まれているような感覚がした。
心地の悪さを感じずにはいられない。それは彼女との距離感を意識しているからなのかもしれない。わからない。どこまでもわからない。
人との距離感について考えている場合だろうか。そういったことを気にしている時間や暇が俺にあるのだろうか。精神的な許容は存在するのだろうか。そういったことを気にしているくらいならば、俺と皐のことについて、なにか言い訳を取り繕う準備を心の中でしておくべきなのではないだろうか。
思考の整理が追い付かない。あそこでの出会いから、ここに来るまでの道中、何も思考は働かなかった。
いや、思考は働いていたはずだ。その思考はただ虚に消えていただけであり、その時間を生かせなかったのは俺自身の問題だ。
そして、ここでさえも頭は働かない。
知らない、考えたくない、何も意識は働かない。心地の悪さの反芻は止まらない。
ファミレスの中の空気については、ひと肌に合わせて温もりが存在するはずなのに、どうしても悪寒が止まらない。悪寒が止まらないのは、そう自分が演出しているからであり、そんな演出をしている自分があまりにも馬鹿らしいような感慨を覚える。
でも、その演出は止められない。無意識的にも、意識的にも。
どこまでも、愚かでしかない。
「何飲む?」と愛莉は聞いてきた。俺は言葉で返事をすることができず、彼女に差し出されたメニュー表を見て、とりあえず適当なものを指すしかなかった。それに愛莉は頷いた。
皐も同じものを頼むらしい、俺と同じ位置に指を合わせて、声に出して気丈さをアピールしている。それでも、彼女の頬のこわばりについてを意識せずにはいられないのだけど。
テーブルの隅にある呼び出しベルを愛莉が鳴らす。奥の方にある電光板らしきものを見つめると、鳴らしたベルの番号が赤く点滅している。それを合図に店員は静かにやってきて、当たり前と言わないばかりに業務を遂行した。
「ねえ」と愛莉は言葉を吐きだそうとした。
店員がいなくなって、数秒の間しかなかった。その間に会話はなかった。息をするのも躊躇うほどに呼吸は重苦しくなっていた。煙草の煙を取り込むときよりも、息苦しさを覚えてしまう。心臓の締め付けも止まることを知らない。
「……なんだ?」
俺はかろうじて、彼女の言葉に返事をした。その返事には戸惑いと恐怖が入り混じっていたかもしれない。震えてはいなかったが、上ずってはいた。喘鳴が声に重なる感覚があった。雑音が身体の震えとして重なる気持ち悪さがあった。
俺の言葉を聞いた愛莉は静かにうなずいて、言うかどうか躊躇うような表情をする。
これまでの間に、彼女は特に笑顔を晒すということはなく、ひたすらに真顔でどこか俺たちを試すような表情を繰り返している。そのどれもが、その仕草が、すべて心に背徳感としてまとわりついてくる感覚が拭えない。
こんな場所にまで来て、話すことは特に思いつかない。思い出話に花を咲かせるのも悪くはないかもしれないが、やはり、俺の精神的な環境は騒然としていて、そんなゆとりを持つことはできなかった。
きっと皐も同じようなものだろう。昔の彼女らの会話を記憶の中で再生して、比較を繰り返してみても、差異がありすぎて、存在が異なるとしか思えない。
「ええと、さ」
彼女は、こちらを吟味するように言葉を呟く。
「──ごめんなさい」
──それは、俺にはよくわからない言葉だった。
◇
彼女は、ごめんなさい、と言葉を吐いた。その言葉の意味は捉えられても、その言葉の咀嚼をすることはできなかった。なにせ、意図が全くわからなかったのだから、それを咀嚼することは困難に近かった。
「なにが」と俺は言葉を吐いた。先ほどまで感じていた気まずさのようなものは死んでいた。死んでいた、というか、一気に度外に置いてしまった。
愛莉は呼吸を繰り返す。未だに躊躇いが見られるそんな仕草の中、無理に微笑もうとしているのが、幼馴染だからこそ伝わってしまう。
「なんというか、無遠慮だったというか」
「……何が?」
俺は同じ返事を繰り返した。何についてかを考えているまもなく、彼女は言葉を紡いだ。
「翔也、お母さんとお父さんが離婚……、しちゃったでしょ。その時期、私は大変なことをしちゃったのかなって、ずっと思っててさ」
彼女がそう言葉を吐き終わると、そのタイミングを見計らったように、店員が飲み物を乗せたトレイをテーブルに運んでくる。ひとつひとつ置かれた飲み物、その陶器の音が机に擦れる。高い音が耳に障って、言葉に対する咀嚼は遅延した。
「なんかあったっけ」
俺は、いつの間にかにそう言葉を吐いていた。
思考の反芻、記憶の投影、どこまでも探してみる過去のこと。
それでも正解は見つからなくて、俺はそういう言葉を出すことしかできなかった。
「……覚えてないの?」
愛莉は戸惑った。
「……申し訳ないけど、本当に何のことかわからないんだ」
「……そっか」
愛莉は、苦笑した。
「……そうだよね。あの時の翔也、上の空だったから、覚えていないのも仕方ないよね。そっかぁ、そっかぁ……」
語尾に間延びした空気を孕ませて、彼女は言葉を吐いた。彼女は納得しているような表情を浮かべて、そうして苦笑がきちんと笑顔になるけれど、俺には何が何だかわからなかった。
「結局、何が『ごめん』なんだ?」
「えーと、そのさ」
彼女は気まずそうに笑いながら、頼んだ飲み物を口に含む。しばらく静かになった後、彼女は深い呼吸を繰り返すと、そうしてこう言った。
「あの時、実は告白してたんだよね」
──確かに、彼女はそう言った。
時計が刻む秒針の音が聞こえてきた。それはファミリーレストランの静けさを表すには十分なものであり、周囲にあるはずの喧騒は、すべてその音に呑み込まれているような感覚がした。
心地の悪さを感じずにはいられない。それは彼女との距離感を意識しているからなのかもしれない。わからない。どこまでもわからない。
人との距離感について考えている場合だろうか。そういったことを気にしている時間や暇が俺にあるのだろうか。精神的な許容は存在するのだろうか。そういったことを気にしているくらいならば、俺と皐のことについて、なにか言い訳を取り繕う準備を心の中でしておくべきなのではないだろうか。
思考の整理が追い付かない。あそこでの出会いから、ここに来るまでの道中、何も思考は働かなかった。
いや、思考は働いていたはずだ。その思考はただ虚に消えていただけであり、その時間を生かせなかったのは俺自身の問題だ。
そして、ここでさえも頭は働かない。
知らない、考えたくない、何も意識は働かない。心地の悪さの反芻は止まらない。
ファミレスの中の空気については、ひと肌に合わせて温もりが存在するはずなのに、どうしても悪寒が止まらない。悪寒が止まらないのは、そう自分が演出しているからであり、そんな演出をしている自分があまりにも馬鹿らしいような感慨を覚える。
でも、その演出は止められない。無意識的にも、意識的にも。
どこまでも、愚かでしかない。
「何飲む?」と愛莉は聞いてきた。俺は言葉で返事をすることができず、彼女に差し出されたメニュー表を見て、とりあえず適当なものを指すしかなかった。それに愛莉は頷いた。
皐も同じものを頼むらしい、俺と同じ位置に指を合わせて、声に出して気丈さをアピールしている。それでも、彼女の頬のこわばりについてを意識せずにはいられないのだけど。
テーブルの隅にある呼び出しベルを愛莉が鳴らす。奥の方にある電光板らしきものを見つめると、鳴らしたベルの番号が赤く点滅している。それを合図に店員は静かにやってきて、当たり前と言わないばかりに業務を遂行した。
「ねえ」と愛莉は言葉を吐きだそうとした。
店員がいなくなって、数秒の間しかなかった。その間に会話はなかった。息をするのも躊躇うほどに呼吸は重苦しくなっていた。煙草の煙を取り込むときよりも、息苦しさを覚えてしまう。心臓の締め付けも止まることを知らない。
「……なんだ?」
俺はかろうじて、彼女の言葉に返事をした。その返事には戸惑いと恐怖が入り混じっていたかもしれない。震えてはいなかったが、上ずってはいた。喘鳴が声に重なる感覚があった。雑音が身体の震えとして重なる気持ち悪さがあった。
俺の言葉を聞いた愛莉は静かにうなずいて、言うかどうか躊躇うような表情をする。
これまでの間に、彼女は特に笑顔を晒すということはなく、ひたすらに真顔でどこか俺たちを試すような表情を繰り返している。そのどれもが、その仕草が、すべて心に背徳感としてまとわりついてくる感覚が拭えない。
こんな場所にまで来て、話すことは特に思いつかない。思い出話に花を咲かせるのも悪くはないかもしれないが、やはり、俺の精神的な環境は騒然としていて、そんなゆとりを持つことはできなかった。
きっと皐も同じようなものだろう。昔の彼女らの会話を記憶の中で再生して、比較を繰り返してみても、差異がありすぎて、存在が異なるとしか思えない。
「ええと、さ」
彼女は、こちらを吟味するように言葉を呟く。
「──ごめんなさい」
──それは、俺にはよくわからない言葉だった。
◇
彼女は、ごめんなさい、と言葉を吐いた。その言葉の意味は捉えられても、その言葉の咀嚼をすることはできなかった。なにせ、意図が全くわからなかったのだから、それを咀嚼することは困難に近かった。
「なにが」と俺は言葉を吐いた。先ほどまで感じていた気まずさのようなものは死んでいた。死んでいた、というか、一気に度外に置いてしまった。
愛莉は呼吸を繰り返す。未だに躊躇いが見られるそんな仕草の中、無理に微笑もうとしているのが、幼馴染だからこそ伝わってしまう。
「なんというか、無遠慮だったというか」
「……何が?」
俺は同じ返事を繰り返した。何についてかを考えているまもなく、彼女は言葉を紡いだ。
「翔也、お母さんとお父さんが離婚……、しちゃったでしょ。その時期、私は大変なことをしちゃったのかなって、ずっと思っててさ」
彼女がそう言葉を吐き終わると、そのタイミングを見計らったように、店員が飲み物を乗せたトレイをテーブルに運んでくる。ひとつひとつ置かれた飲み物、その陶器の音が机に擦れる。高い音が耳に障って、言葉に対する咀嚼は遅延した。
「なんかあったっけ」
俺は、いつの間にかにそう言葉を吐いていた。
思考の反芻、記憶の投影、どこまでも探してみる過去のこと。
それでも正解は見つからなくて、俺はそういう言葉を出すことしかできなかった。
「……覚えてないの?」
愛莉は戸惑った。
「……申し訳ないけど、本当に何のことかわからないんだ」
「……そっか」
愛莉は、苦笑した。
「……そうだよね。あの時の翔也、上の空だったから、覚えていないのも仕方ないよね。そっかぁ、そっかぁ……」
語尾に間延びした空気を孕ませて、彼女は言葉を吐いた。彼女は納得しているような表情を浮かべて、そうして苦笑がきちんと笑顔になるけれど、俺には何が何だかわからなかった。
「結局、何が『ごめん』なんだ?」
「えーと、そのさ」
彼女は気まずそうに笑いながら、頼んだ飲み物を口に含む。しばらく静かになった後、彼女は深い呼吸を繰り返すと、そうしてこう言った。
「あの時、実は告白してたんだよね」
──確かに、彼女はそう言った。
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