彼に30歳の誕生日に捨てられた平凡OLですが人気俳優の絶倫ダーリンに溺愛されています

人妻あず。

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 表の看板は小さく、知らなければ通り過ぎてしまうような店。
 店の名前は「Arcadia」 
 扉を開けると、紫がかった間接照明が静かに灯り、甘い煙草と柑橘系のリキュールが混じった匂いが鼻をくすぐった。

 カウンターの向こうに立つマスターは、スキンヘッドで、シャツの襟元を少しだけ開けている。
 彫りの深い目元に、筋骨隆々。指先も太いのに、グラスを扱う仕草が妙に色っぽい。
 誰がどう見ても“そっち”の人で、だからこそ私は、この店でだけは取り繕わずにいられた。

 「……その男、見る目ないわねぇ」

 ため息まじりにそう言いながら、マスターはシェイカーを置いた。

 私は返事の代わりに、目の前のグラスを掴む。
 ロングアイランドアイスティー。紅茶みたいな顔をして、実際はウォッカもジンもラムも全部入りの、悪魔みたいなカクテルだ。

 グラスの中で氷が鳴り、琥珀色の液体が揺れる。
 口に含むと、最初はほんのり甘くて飲みやすい。
 ――次の瞬間、喉の奥を刺すようなアルコールの冷たさが、一気に落ちてきた。

 「……っ」

 ぐいっと、勢いのままあおる。

 ――もう、どうにでもなれ。

 今夜のことは、全部夢だと思いたかった。
 アルコールの力で、七年も、三十歳も、裏切りも、全部溶かしてしまいたかった。

 「もう三十だし……今から恋愛できる気がしない……」

 ぽつりとこぼすと、マスターは呆れたように肩をすくめる。
 グラスを磨きながら、鏡越しに私を見た。

 「あんたねぇ。三十なんて、まだまだこれからよ」

 その声は、妙に優しかった。

 「で? あんた、どういう男がタイプだったっけ?」

 私は少し考えるふりをして、すぐに笑った。
 どうせ、今夜は正気じゃない。

 「お金はそんなに持ってなくてもいいけど……次付き合うなら、イケメンで絶倫がいいなあ」

 アルコールに背中を押されて、本音みたいな軽口が口から滑り落ちる。

 マスターは一瞬手を止めて、にやりと笑った。

 「ああ、彼氏、淡泊だって言ってたわね。
 それなら……ちょうどいいのが――」

 ――カラン。

 店の扉のベルが、小さく鳴った。

 視線を向けると、若い男が一人、店に入ってくる。
 長身で細身。夜だというのに、帽子にサングラスにマスクという完全防備。

 その場の空気が、ほんの少しだけ変わった。

 ……なに、あれ。

 ――不審者?

カウンター越しに、マスターの顔がぱっと明るくなった。

 「噂をすれば……レンちゃん! いらっしゃい♡」

 さっきまで私を心配そうに見ていた人と同一人物とは思えないほど、声のトーンが跳ね上がる。
 マスターは慣れた動きで男の腕を取り、私の座っているカウンター席の、すぐ隣へと案内した。

 「ほら、ここ。今日は特等席よ」

 “レンちゃん”と呼ばれた男は、何も言わずに席に座り、マスクを外した。
 その仕草だけで、この店に何度も来ている常連だとわかった。

 「ハイボールで」

 低めで落ち着いた声。
 短い注文なのに、やけに耳に残る。

 私はつられてグラスを持ち上げた。

 「……私も、これもう一杯もらおうかな」

 すると即座に、マスターが水のグラスを差し出した。

 「ダメ。あんたはもう十分。水にしときなさい。倒れるわよ」

 ビシッと叱られて、私は肩をすくめる。

 「もう今夜は……酔って忘れたい……」

 「なぁに、おっさんみたいなこと言ってるの!」

 マスターは鼻で笑うと、ちらりと隣の男を見る。

 「レンちゃーん。この子、フラれたばかりなの。
 七年付き合った男に捨てられて、今どん底」

 やめてほしい。
 恥ずかしさで顔が熱くなる。

 「ちょっと、言わなくていいから……」

 でもマスターは止まらない。

 「しかもねぇ。次付き合うなら――」

 そこで一拍置いて、にんまりと笑った。

 「絶倫が好みなんだって。慰めてあげて?」

 私は思わず顔を覆いたくなった。

 そのとき、隣の男が、ゆっくりこちらに視線を向けてきた。

 サングラス越しでもはっきりわかる、長い睫毛。
 すっと通った鼻筋に、形のいい薄い唇。
 妙に整った顔立ちだ。

 (……なんか、見たことあるような……?
 誰だっけ……)

 記憶の奥を探るより先に、男が口を開いた。

 「……おねーさん、絶倫が好みなの?」

 その一言で。

 「ぶっ――!」

 私は盛大に、水を噴き出した。

 「ちょ、ちょっと! 汚いわね!」

 マスターの声が飛ぶ中、私は咳き込みながら必死に弁解する。

 「ま、まぁ……その……」

 視線が合う。
 サングラスの奥から、興味深そうな気配が伝わってきて、心臓が嫌な音を立てた。

 ……声に出して言われると。
 今さら、ものすごく恥ずかしい。

  「はい、ハイボールお待たせ♡
 ……って、あんた。この子のこと知らないの?」

 マスターが、わざとらしく肩をすくめる。

 「俳優の――佐伯蓮よ」

 「……え、ええ……っ!!」

 言われた瞬間、点と点が一気につながった。

 そうだ。
 どこかで見たことがあると思ったら――。

 イケメン俳優の登竜門として知られる特撮番組で一躍注目を浴び、
 今ではドラマに映画、CMまで引っ張りだこのスーパースター。

 佐伯蓮。

 テレビで見ない日はない、その人が――
 なんで、こんな場末のバーに?

 「前にね、撮影帰りに監督さんと来てくれたのよ。それから気に入ってくれたみたいで」
 マスターは楽しそうに続ける。
 「最近は一人でもふらっと来てくれるの。あんたとは初対面だったわね」

 あまりの情報量に、私は言葉を失ったまま固まってしまった。

 その様子を見て、マスターはくすっと笑う。
 そして、まるで私の心を読んだみたいに、レンちゃん、もとい蓮が短く言った。

 「ここ、居心地いいから」

 サングラスの奥で、目元が柔らかく細められる。

 「……は、はぁ……」

 相づちしか打てない。
 現実感がまるでなかった。

 三十歳の誕生日。
 七年付き合った恋人に捨てられて。
 泣きながら逃げ込んだバーで、国民的俳優と並んで座っている。

 ――そんなの、現実なわけがない。

 「でさ」

 蓮が、何でもないことみたいに言った。

 「さっきの続きなんだけど。
 おねーさん……俺としてみない?」

 また、心臓が跳ねる。

 冗談?
 それとも、アルコールが見せている幻覚?

 きっとこれは夢だ。
 三十歳の誕生日に、神様がくれた、都合のいい夢。

 私は一度、ゆっくり息を吸って――吐いた。

 「……私で、よければ」

 自分の声が、思ったより落ち着いていて驚く。

 蓮は、即答だった。

 「じゃあ、決まり」

 その瞬間。
 私と佐伯蓮との距離はゼロになっていた。
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