彼に30歳の誕生日に捨てられた平凡OLですが人気俳優の絶倫ダーリンに溺愛されています

人妻あず。

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 「……っつ……」

 ほんの一瞬。
 けれど、そのわずかな間に、世界の音がすっと遠のいた。

 触れたのは、想像していたよりずっと柔らかな唇。
 軽く重なるだけなのに、そこから伝わってくる熱に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
 アルコールのせいか、それとも彼の体温のせいか――頭がじんわり痺れて、時間が止まったみたいだった。

 蕩ける、という言葉は、きっとこういう感覚を言うのだと思う。

 「……おねーさん、名前は?」

 名残惜しそうに唇が離れ、蓮が囁く。

 「す……鈴木、円……」

 「円。まどかちゃんね」

 そう言って、彼は少しだけ笑った。

 「俺のことは、蓮って呼んで」

 その直後、カウンターの下で、私の右手が包まれる。
 蓮の左手が、迷いなく指を絡めてきて、ぎゅっと握った。

 逃げ場を塞がれたみたいなのに、不思議と嫌じゃない。

 「まぁまぁ……若いって、いいわねぇ」

 マスターが呆れ半分、楽しさ半分の声で茶化す。

 「マスター。俺、まどかちゃん気に入っちゃった」

 蓮は二ッと人懐っこく笑い、ハイボールをぐいっと流し込んだ。
 氷の音が、やけに大きく響く。

 「お会計、カードで。まどかちゃんの分も入れて」

 「はいはい」

 「そ、そんな……! いいです、自分の分くらい払います!」

 慌ててバッグを開けた、その瞬間だった。

 がさっ――。

 手元が狂い、中身が床に散らばる。
 ポーチから転がり出る口紅とファンデーション。
 少しくたびれた長財布、ハンカチ、ボールペン、メモ帳。
 会社帰りそのままの、生活感丸出しの持ち物。

 「あ……」

 顔が、かっと熱くなる。

 「いいからいいから」

 蓮はそう言いながら、屈んで一緒に拾おうとする私を制した。

 「その代わり――この後、付き合って」

 バッグの中身を拾い集めている間に、彼はさっと会計を済ませる。
 そして、何事もなかったみたいに、私の手を引いた。

 「行こ」

 抗う暇もなく、ドアへと導かれる。

 「また来てね~♡」

 マスターが楽しそうに手を振る。
 その声を最後に、バーの扉が静かに閉まった。

 夜の空気が、ひんやりと頬に触れる。

 ――三十歳の誕生日。
 私は今、信じられないくらい非現実な一歩を、踏み出していた。

 階段を降り、雑居ビルの外に出ると蓮は慣れた様子でタクシーを拾った。

 「中目黒まで」
 蓮はそれだけ言うと、迷いなく私をタクシーの後部座席へと押し込み、自分も続いて乗り込んだ。
 ドアが閉まる音が、やけに重く響く。

 エンジン音とともに車が走り出すと、窓の外で夜の街が滑るように流れていった。
 ネオン、街灯、コンビニの白い光。
 すべてがガラス一枚隔てた向こう側の出来事みたいで、現実感がない。

 ――この夢は、いつになったら覚めるんだろう。

 ぼんやりと隣を見る。
 マスク越しでもわかる整った輪郭。街灯の光が当たるたびに、長い睫毛が影を落とす。

 本当に、芸能人だ。

 「ね、まどかちゃんっていくつ?」

 不意に、蓮がこちらを向いた。

 「……今日で、三十」

 「今日でってことは、誕生日だったんだ?」

 「うん。……蓮は?」

 「俺? 二十三」

 (若いなぁ)

 声に出さず、胸の奥で小さくため息をつく。

 真剣な付き合いなんて、最初から期待していない。
 もう、ワンナイトで泣くほど若くもない。
 平凡な三十歳の私が、こんなイケメン俳優とセックスする機会なんて――たぶん、一生に一度だ。

 (だったら……)

 考えを振り切るように、私は窓の外を見た。

 (……三十歳の記念に、少しくらい刺激的な夜を過ごしてもいいよね)

 そうこうしているうちに、タクシーは中目黒の一角で静かに停まった。
 目の前にそびえるのは、夜空に溶け込むようなタワーマンション。

 「着いたよ。俺んち」

 まるで「コンビニ行こう」くらいの軽さで言われて、心臓が跳ねる。

 蓮はカードで会計を済ませると、自然に私を促した。
 夜風が、火照った頬にひんやりと触れる。

 エントランスは無音に近く、間接照明が大理石の床を淡く照らしている。
 足音だけが、やけに大きく聞こえた。

 エレベーターに乗り込み、蓮が十二階のボタンを押す。
 低い駆動音がする。

 密室。
 二人きり。

 ――次に何が起きても、おかしくない。

 ドアが閉まった、その瞬間。

 ふいに、蓮の腕が伸びてきて、私は引き寄せられた。
 息が重なり、逃げ場もなく唇を塞がれる。

 舌が押し込まれ上あごをなぞった。

 さっきより深く、確かめるみたいなキス。

 力が抜ける。

 鼓動の音が、耳の奥でうるさい。

 ――もう、後戻りはできない。

 エレベーターは、静かに十二階へ向かっていた。
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