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「……っつ……」
ほんの一瞬。
けれど、そのわずかな間に、世界の音がすっと遠のいた。
触れたのは、想像していたよりずっと柔らかな唇。
軽く重なるだけなのに、そこから伝わってくる熱に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
アルコールのせいか、それとも彼の体温のせいか――頭がじんわり痺れて、時間が止まったみたいだった。
蕩ける、という言葉は、きっとこういう感覚を言うのだと思う。
「……おねーさん、名前は?」
名残惜しそうに唇が離れ、蓮が囁く。
「す……鈴木、円……」
「円。まどかちゃんね」
そう言って、彼は少しだけ笑った。
「俺のことは、蓮って呼んで」
その直後、カウンターの下で、私の右手が包まれる。
蓮の左手が、迷いなく指を絡めてきて、ぎゅっと握った。
逃げ場を塞がれたみたいなのに、不思議と嫌じゃない。
「まぁまぁ……若いって、いいわねぇ」
マスターが呆れ半分、楽しさ半分の声で茶化す。
「マスター。俺、まどかちゃん気に入っちゃった」
蓮は二ッと人懐っこく笑い、ハイボールをぐいっと流し込んだ。
氷の音が、やけに大きく響く。
「お会計、カードで。まどかちゃんの分も入れて」
「はいはい」
「そ、そんな……! いいです、自分の分くらい払います!」
慌ててバッグを開けた、その瞬間だった。
がさっ――。
手元が狂い、中身が床に散らばる。
ポーチから転がり出る口紅とファンデーション。
少しくたびれた長財布、ハンカチ、ボールペン、メモ帳。
会社帰りそのままの、生活感丸出しの持ち物。
「あ……」
顔が、かっと熱くなる。
「いいからいいから」
蓮はそう言いながら、屈んで一緒に拾おうとする私を制した。
「その代わり――この後、付き合って」
バッグの中身を拾い集めている間に、彼はさっと会計を済ませる。
そして、何事もなかったみたいに、私の手を引いた。
「行こ」
抗う暇もなく、ドアへと導かれる。
「また来てね~♡」
マスターが楽しそうに手を振る。
その声を最後に、バーの扉が静かに閉まった。
夜の空気が、ひんやりと頬に触れる。
――三十歳の誕生日。
私は今、信じられないくらい非現実な一歩を、踏み出していた。
階段を降り、雑居ビルの外に出ると蓮は慣れた様子でタクシーを拾った。
「中目黒まで」
蓮はそれだけ言うと、迷いなく私をタクシーの後部座席へと押し込み、自分も続いて乗り込んだ。
ドアが閉まる音が、やけに重く響く。
エンジン音とともに車が走り出すと、窓の外で夜の街が滑るように流れていった。
ネオン、街灯、コンビニの白い光。
すべてがガラス一枚隔てた向こう側の出来事みたいで、現実感がない。
――この夢は、いつになったら覚めるんだろう。
ぼんやりと隣を見る。
マスク越しでもわかる整った輪郭。街灯の光が当たるたびに、長い睫毛が影を落とす。
本当に、芸能人だ。
「ね、まどかちゃんっていくつ?」
不意に、蓮がこちらを向いた。
「……今日で、三十」
「今日でってことは、誕生日だったんだ?」
「うん。……蓮は?」
「俺? 二十三」
(若いなぁ)
声に出さず、胸の奥で小さくため息をつく。
真剣な付き合いなんて、最初から期待していない。
もう、ワンナイトで泣くほど若くもない。
平凡な三十歳の私が、こんなイケメン俳優とセックスする機会なんて――たぶん、一生に一度だ。
(だったら……)
考えを振り切るように、私は窓の外を見た。
(……三十歳の記念に、少しくらい刺激的な夜を過ごしてもいいよね)
そうこうしているうちに、タクシーは中目黒の一角で静かに停まった。
目の前にそびえるのは、夜空に溶け込むようなタワーマンション。
「着いたよ。俺んち」
まるで「コンビニ行こう」くらいの軽さで言われて、心臓が跳ねる。
蓮はカードで会計を済ませると、自然に私を促した。
夜風が、火照った頬にひんやりと触れる。
エントランスは無音に近く、間接照明が大理石の床を淡く照らしている。
足音だけが、やけに大きく聞こえた。
エレベーターに乗り込み、蓮が十二階のボタンを押す。
低い駆動音がする。
密室。
二人きり。
――次に何が起きても、おかしくない。
ドアが閉まった、その瞬間。
ふいに、蓮の腕が伸びてきて、私は引き寄せられた。
息が重なり、逃げ場もなく唇を塞がれる。
舌が押し込まれ上あごをなぞった。
さっきより深く、確かめるみたいなキス。
力が抜ける。
鼓動の音が、耳の奥でうるさい。
――もう、後戻りはできない。
エレベーターは、静かに十二階へ向かっていた。
ほんの一瞬。
けれど、そのわずかな間に、世界の音がすっと遠のいた。
触れたのは、想像していたよりずっと柔らかな唇。
軽く重なるだけなのに、そこから伝わってくる熱に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
アルコールのせいか、それとも彼の体温のせいか――頭がじんわり痺れて、時間が止まったみたいだった。
蕩ける、という言葉は、きっとこういう感覚を言うのだと思う。
「……おねーさん、名前は?」
名残惜しそうに唇が離れ、蓮が囁く。
「す……鈴木、円……」
「円。まどかちゃんね」
そう言って、彼は少しだけ笑った。
「俺のことは、蓮って呼んで」
その直後、カウンターの下で、私の右手が包まれる。
蓮の左手が、迷いなく指を絡めてきて、ぎゅっと握った。
逃げ場を塞がれたみたいなのに、不思議と嫌じゃない。
「まぁまぁ……若いって、いいわねぇ」
マスターが呆れ半分、楽しさ半分の声で茶化す。
「マスター。俺、まどかちゃん気に入っちゃった」
蓮は二ッと人懐っこく笑い、ハイボールをぐいっと流し込んだ。
氷の音が、やけに大きく響く。
「お会計、カードで。まどかちゃんの分も入れて」
「はいはい」
「そ、そんな……! いいです、自分の分くらい払います!」
慌ててバッグを開けた、その瞬間だった。
がさっ――。
手元が狂い、中身が床に散らばる。
ポーチから転がり出る口紅とファンデーション。
少しくたびれた長財布、ハンカチ、ボールペン、メモ帳。
会社帰りそのままの、生活感丸出しの持ち物。
「あ……」
顔が、かっと熱くなる。
「いいからいいから」
蓮はそう言いながら、屈んで一緒に拾おうとする私を制した。
「その代わり――この後、付き合って」
バッグの中身を拾い集めている間に、彼はさっと会計を済ませる。
そして、何事もなかったみたいに、私の手を引いた。
「行こ」
抗う暇もなく、ドアへと導かれる。
「また来てね~♡」
マスターが楽しそうに手を振る。
その声を最後に、バーの扉が静かに閉まった。
夜の空気が、ひんやりと頬に触れる。
――三十歳の誕生日。
私は今、信じられないくらい非現実な一歩を、踏み出していた。
階段を降り、雑居ビルの外に出ると蓮は慣れた様子でタクシーを拾った。
「中目黒まで」
蓮はそれだけ言うと、迷いなく私をタクシーの後部座席へと押し込み、自分も続いて乗り込んだ。
ドアが閉まる音が、やけに重く響く。
エンジン音とともに車が走り出すと、窓の外で夜の街が滑るように流れていった。
ネオン、街灯、コンビニの白い光。
すべてがガラス一枚隔てた向こう側の出来事みたいで、現実感がない。
――この夢は、いつになったら覚めるんだろう。
ぼんやりと隣を見る。
マスク越しでもわかる整った輪郭。街灯の光が当たるたびに、長い睫毛が影を落とす。
本当に、芸能人だ。
「ね、まどかちゃんっていくつ?」
不意に、蓮がこちらを向いた。
「……今日で、三十」
「今日でってことは、誕生日だったんだ?」
「うん。……蓮は?」
「俺? 二十三」
(若いなぁ)
声に出さず、胸の奥で小さくため息をつく。
真剣な付き合いなんて、最初から期待していない。
もう、ワンナイトで泣くほど若くもない。
平凡な三十歳の私が、こんなイケメン俳優とセックスする機会なんて――たぶん、一生に一度だ。
(だったら……)
考えを振り切るように、私は窓の外を見た。
(……三十歳の記念に、少しくらい刺激的な夜を過ごしてもいいよね)
そうこうしているうちに、タクシーは中目黒の一角で静かに停まった。
目の前にそびえるのは、夜空に溶け込むようなタワーマンション。
「着いたよ。俺んち」
まるで「コンビニ行こう」くらいの軽さで言われて、心臓が跳ねる。
蓮はカードで会計を済ませると、自然に私を促した。
夜風が、火照った頬にひんやりと触れる。
エントランスは無音に近く、間接照明が大理石の床を淡く照らしている。
足音だけが、やけに大きく聞こえた。
エレベーターに乗り込み、蓮が十二階のボタンを押す。
低い駆動音がする。
密室。
二人きり。
――次に何が起きても、おかしくない。
ドアが閉まった、その瞬間。
ふいに、蓮の腕が伸びてきて、私は引き寄せられた。
息が重なり、逃げ場もなく唇を塞がれる。
舌が押し込まれ上あごをなぞった。
さっきより深く、確かめるみたいなキス。
力が抜ける。
鼓動の音が、耳の奥でうるさい。
――もう、後戻りはできない。
エレベーターは、静かに十二階へ向かっていた。
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