彼に30歳の誕生日に捨てられた平凡OLですが人気俳優の絶倫ダーリンに溺愛されています

人妻あず。

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 「……大丈夫ですか?」

 客席に明かりが戻っても、私は席を立てずにいた。  隣から、透き通るような声がかかる。

 「……あ、はい。大丈夫です……すみません」

 慌ててハンカチで目元を押さえ、顔を上げた瞬間——言葉を失った。

 (……きれい)

 思わず、そう思ってしまう。  
 小さな顔に、長いまつげ。 
 ぱっちりした目と、すっと通った鼻、控えめな口元。  
 作りものみたいに整っているのに、近寄りがたい感じはない。

 (芸能人……?)

 そんな考えが、頭をよぎる。

 「いい舞台だったけど……」  
 彼女は少し首を傾げて、柔らかく言った。
  「そんなに泣くほど?」

 「舞台、初めてで……」  

 声がまだ掠れる。 

 「免疫がなくて……すみません」

 「ああ」

 短く頷いて、彼女はふっと微笑んだ。

 「それだけ感動してもらえたなら」 
 「演者のみんなも、嬉しいと思うわ」

 そう言って、バッグからポケットからティッシュを取り出し、そっと差し出す。

 「……鼻水、出てる」

 「あ……」

 慌てて受け取り、鼻をかんでいるうちに、  彼女はもう立ち上がっていた。

 「お大事に」

 それだけ残して、迷いなく出口の方へ歩いていく。

 振り返ることもなく、人波に紛れていく後ろ姿。

 私はしばらく、手に残ったティッシュを握ったまま、  何となくその背中を目で追っていた。

 フラフラと劇場の外に出る。

 吐く息が白く揺れ、夜の空気が少し冷たい。
 それでも、体の内側にはまだ舞台の熱が残っていた。

 外は、観劇帰りの女の子たちで溢れかえっている。
 興奮した声、感想を語り合う笑い声。
 誰もが少し浮き足立っていて、街全体がきらきらして見えた。

 ——クリスマスイブ。

 その言葉が、今さらのように胸に落ちてくる。

 なぜか、まっすぐ家に帰る気になれなかった。

(……Arcadia、寄って帰ろうかな)

 マスターの顔が浮かぶ。
 あのカウンターの、落ち着いた灯り。

 今日は特別な夜だ。
 少しくらい夜更かししたっていいだろう。

 そう思ったら、胸の奥がふわっと軽くなった。

 私はコートの襟を直し、人波を避けながら、
 イルミネーションの続く街を、駅へと足を向けた。

「あら、いらっしゃい。カウンター、空いてるわよ」

 クリスマスだというのに、店内は意外なほど静かだった。
 テーブル席に、カップルが一組いるだけ。

「何にする?」 「モスコミュールで」

「はいはい。ちょっと待ってて」

 マスターは慣れた手つきでジンジャーエールを取り出し、ウォッカを割ってステアする。
 ほどなく、冷えたグラスがカウンターに置かれた。

「舞台、観てきたの?」 
「うん」

「どうだった?」

 グラスを持ち上げる前に、私は少しだけ間を置いた。

「……泣いちゃった。感動して」

「そう」  
マスターは意外でもなさそうに頷く。
 「で、会ったの?」

「え?」 
 思わず聞き返す。 
「会えないよ? 客席も多いし……」

 すると、マスターは目を細めた。

「違うわよ」  
 少し呆れたように言う。 
「関係者席だったんでしょ? 楽屋、入れたはずじゃない」

「あっ……」

 言われて初めて気づいた。
 そんな発想、これっぽっちもなかった。

「ほんと、欲がないのはアンタのいいとこね」

 煙草に火をつけながら、くすっと笑う。

 私はグラスに口をつけ、ゆっくりと一口飲んだ。

「……私は、欲張りだよ」

 小さく、独り言みたいに呟く。

 前よりずっと。
 蓮との関係を、曖昧なままじゃなく、もっと――

 そう思っている自分に、もう気づいていた。

「まあ、蓮にLINEしてみなさいよ」

「えっ」

「どうせ、遠慮して連絡取ってないんでしょ」

「……うん」

「ちゃんと言わなきゃ。気持ちなんて、案外伝わってないものよ」  
グラスを拭きながら、マスターはさらっと言う。
 「今日のお礼でいいから。ほら、今すぐ」

 私は深呼吸して、蓮とのトーク画面を開いた。

 あれほど連絡が欲しかったのに、
 自分から送るのは、これが初めてだ。

 ――既読がつかなかったらどうしよう。
 ――迷惑だったら?

 そんな不安ばかりが先に立つ。

 それでも、指を止めなかった。

 ——今日、舞台のチケットありがとう。
  感動して、泣いちゃった。
  蓮、すごくかっこよかったよ——

 震える指で、送信。

 ほとんど間を置かずに、既読がついた。

「……え」

 その直後だった。
 スマホが震える。

 ——着信。
 ——蓮。

「ちょ、ちょっと……蓮から電話!」

「だから言ったでしょ。ほら、出なさい」

 背中を押されるように、息を詰めて通話ボタンを押す。

『……もしもし』

「れ……蓮……」

 耳元に届く声だけで、胸がきゅっとなる。

『来てくれたんだ。よかった』

「うん。ネックレス、着けて行ったよ。ありがとう」

『気に入ってくれた?』

「うん、すごく」

 一瞬の沈黙のあと、少しだけ声のトーンが変わる。

『……まどか、年末年始、休み取れそうなんだ』 
『どこか、行かない?』

 胸の奥が、ぱっと明るくなる。

「うん。行きたい」

『じゃあ、空けておいて』

 すぐに、いつもの蓮に戻る。

『ごめん。これから打ち上げで——また連絡する』

「うん。電話くれて、ありがとう」

 通話が切れても、しばらくスマホを握ったまま動けなかった。

 目の前のモスコミュールのグラスが、じわりと滲んで輪郭を失っていく。

「……アンタ、最近ほんと泣いてばっかりねえ」 
 マスターが呆れたように笑いながら、ティッシュを差し出してきた。
 「前の彼氏に振られたときなんて、愚痴は山ほど言ったくせに、涙ひとつこぼさなかったのに」

 ティッシュを受け取り、鼻をすする。

「蓮が……」
  声が掠れる。
 「年末年始、どっか行こうって……空けておいて、って……」

 言葉にした瞬間、実感が押し寄せて、また目が熱くなる。

「よかったじゃない」 
 マスターはグラスを磨く手を止めずに言った。 
「ちゃんと、アンタのこと大事に思ってるってことでしょ」

 その一言が、胸の奥にすとんと落ちた。

 ——大事に、されてる。

 それを認めるのが、怖くて、嬉しくて。  
 私はもう一度、静かに涙を拭いた。
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