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「あっという間だったな……」
帰り支度をしながら、思わず零れた言葉は、部屋の静けさに溶けていった。
二日目も、三日目も蓮と一緒に食事をして、外を少し歩いて、また風呂に入って、抱き合って。
特別なことをしていたわけじゃないのに、同じことを繰り返しているうちに、時間だけが静かに先へ進んでいた。
気づけば、もう最終日だった。
「まどか、四日から仕事だっけ」
「うん。蓮は……今夜からだよね」
言葉にした瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
改めて思い出してしまった。
この人は、私の隣にいながら、忙しい世界に戻っていく人だということを。
「そういえば」
渡し忘れてていたラルフローレンの袋を手に取る。
「これ、蓮に」
「え、俺?まどかが選んでくれたの?」
何も言わないまま視線を落とすと、背後から腕が伸びてきた。
蓮が、そっと抱きしめてくる。
「ありがとう。また来ようね」
耳元で、やさしく。
「……うん」
それ以上は、言えなかった。
車に乗り込み、エンジンがかかる。
走り出すと、一定の振動が体に伝わってきて、不思議と心が緩んだ。
景色が流れていくのを目で追いながら、必死にまぶたを持ち上げる。
(眠っちゃダメ……)
(眠ったら、終わっちゃう……)
そう思うほど、意識は遠のいていく。
抗おうとする力も、だんだん薄れていった。
——どれくらい眠っていたんだろう。
「着いたよ」
蓮の声に、はっとして目を開ける。
現実に戻されたみたいで、胸が少しだけ痛んだ。
蓮は、私のアパートの前で静かに車を停めた。
エンジン音が切れると、さっきまでの旅が一気に遠ざかった気がする。
「荷物、持つよ」
そう言って、後部座席からスーツケースを取り出し、何も言わずに部屋の前まで運んでくれた。
鍵を開ける私の横で、蓮は壁にもたれて待っている。
「忘れ物、ない?」
振り返って聞かれて、私は一瞬だけ迷ってから、小さく首を振る。
「……ある」
蓮が不思議そうに眉を上げた、その隙に、背伸びをして唇に触れる。
ほんの一瞬のキスだったのに、胸がきゅっとなる。
「甘えん坊」
蓮はそう言って、屈託なく笑ったあと、今度は逃がさないみたいにもう一度キスをした。
さっきより少しだけ、長く。
「またな」
名残惜しさを隠すような声。
「……うん」
それだけ答えて、ドアを閉める。
階段を降りていく足音が遠ざかり、やがてエンジンがかかる。
走り出した白い車を、
角を曲がって見えなくなるまで、私はずっと見送っていた。
それからの日常は、拍子抜けするほど、何事もなかったかのように流れていった。
会社では、いつも通りの顔をしてデスクに座り、
旅行の土産だと言って温泉まんじゅうを配り、淡々と業務をこなす。
ただ、まんじゅうを手に取った真理だけが、ほんの一瞬、浮かない表情をした。
気づかないふりをして、私は視線を逸らした。
蓮とは、簡単なメッセージをやり取りするだけだった。
おはよう、とか、お疲れ、とか。
次に会う約束も、具体的な話もない。
それなのに、不思議と不安はなかった。
胸元で静かに揺れるネックレスと、
あの夜、確かに聞いた『好きだ』という言葉。
姿が見えなくても、声を聞かなくても、
それだけで十分だと思えた。
あれから1週間。
昼休み、スマホに着信があった。
——蓮だ。
「蓮!?」
『もしもしまどか、いま大丈夫?』
声がどことなく硬い。
嫌な予感がチクリとする。
「大丈夫。何かあった?」
『週刊誌に——撮られた』
淡々とした声。
『油断してた。ごめん。まどかは一般人だから顔に目線が入ると思うけど……身辺気をつけて。今事務所も対応考えてくれてる。また連絡する——』
そういうと電話が切れた。
自分に起こった出来事なのに、現実感がなかった。
頭がふわふわとする。
その後の仕事は、ほとんど上の空でこなした。
木曜日発売の週刊誌を朝イチで買いに行くと、その記事は載っていた。
——佐伯蓮、年上女性とお泊り愛。お相手は会社員Mさん——
——ドア前キス写真を入手——
——12月のハムレット関係者席でも目撃情報——
蓮の言う通り目線は入っていて画質も荒かったが、それでも私のアパートでキスをする写真ははっきりと写っていた。
劇場で目頭を抑えてる姿も。
(私が帰り際にキスしたから……?)
心臓がバクバクする。
そして次の行——事務所からのコメントを見て、私は息を止めた。
——本人からは、仲のいい友人の一人だと聞いています——
(仲のいい、友人)
その一言が心に重くのしかかった。
会社に行くと幸い、里奈は体調不良で休みだった。
会社では誰からも何も言われなかったけれど、それがかえって怖かった。
なるべく人と目を合わせないようにして、
定時になると同時に席を立ち、そのまま逃げるように帰宅した。
玄関のドアを閉めた、その瞬間。
スマホが震えた。
——蓮。
胸が跳ねて、指先が震える。
期待と恐怖が入り混じったまま、トーク画面を開いた。
そこにあったのは、たった一行。
——しばらく距離を置こう。今までのことは忘れて——
視界が歪む。
画面に、ぽたぽたと雫が落ち、文字が滲んで読めなくなる。
——分かった。仕事、頑張って——
返信を打ち込むとすぐ既読がついた。
「……夢……醒めるの、遅いよ……」
力が抜けて、ベッドに突っ伏した。
声を殺して泣くしかなかった。
——もっと早く言ってくれたら。
——そしたら、こんなに好きにならずに済んだのに。
胸の奥が、ぎゅうっと潰れる。
息がうまく吸えない。
ひどい苦しさと、黒く澱んだ感情が、
逃げ場もなく、私の心を押しつぶしていた。
帰り支度をしながら、思わず零れた言葉は、部屋の静けさに溶けていった。
二日目も、三日目も蓮と一緒に食事をして、外を少し歩いて、また風呂に入って、抱き合って。
特別なことをしていたわけじゃないのに、同じことを繰り返しているうちに、時間だけが静かに先へ進んでいた。
気づけば、もう最終日だった。
「まどか、四日から仕事だっけ」
「うん。蓮は……今夜からだよね」
言葉にした瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
改めて思い出してしまった。
この人は、私の隣にいながら、忙しい世界に戻っていく人だということを。
「そういえば」
渡し忘れてていたラルフローレンの袋を手に取る。
「これ、蓮に」
「え、俺?まどかが選んでくれたの?」
何も言わないまま視線を落とすと、背後から腕が伸びてきた。
蓮が、そっと抱きしめてくる。
「ありがとう。また来ようね」
耳元で、やさしく。
「……うん」
それ以上は、言えなかった。
車に乗り込み、エンジンがかかる。
走り出すと、一定の振動が体に伝わってきて、不思議と心が緩んだ。
景色が流れていくのを目で追いながら、必死にまぶたを持ち上げる。
(眠っちゃダメ……)
(眠ったら、終わっちゃう……)
そう思うほど、意識は遠のいていく。
抗おうとする力も、だんだん薄れていった。
——どれくらい眠っていたんだろう。
「着いたよ」
蓮の声に、はっとして目を開ける。
現実に戻されたみたいで、胸が少しだけ痛んだ。
蓮は、私のアパートの前で静かに車を停めた。
エンジン音が切れると、さっきまでの旅が一気に遠ざかった気がする。
「荷物、持つよ」
そう言って、後部座席からスーツケースを取り出し、何も言わずに部屋の前まで運んでくれた。
鍵を開ける私の横で、蓮は壁にもたれて待っている。
「忘れ物、ない?」
振り返って聞かれて、私は一瞬だけ迷ってから、小さく首を振る。
「……ある」
蓮が不思議そうに眉を上げた、その隙に、背伸びをして唇に触れる。
ほんの一瞬のキスだったのに、胸がきゅっとなる。
「甘えん坊」
蓮はそう言って、屈託なく笑ったあと、今度は逃がさないみたいにもう一度キスをした。
さっきより少しだけ、長く。
「またな」
名残惜しさを隠すような声。
「……うん」
それだけ答えて、ドアを閉める。
階段を降りていく足音が遠ざかり、やがてエンジンがかかる。
走り出した白い車を、
角を曲がって見えなくなるまで、私はずっと見送っていた。
それからの日常は、拍子抜けするほど、何事もなかったかのように流れていった。
会社では、いつも通りの顔をしてデスクに座り、
旅行の土産だと言って温泉まんじゅうを配り、淡々と業務をこなす。
ただ、まんじゅうを手に取った真理だけが、ほんの一瞬、浮かない表情をした。
気づかないふりをして、私は視線を逸らした。
蓮とは、簡単なメッセージをやり取りするだけだった。
おはよう、とか、お疲れ、とか。
次に会う約束も、具体的な話もない。
それなのに、不思議と不安はなかった。
胸元で静かに揺れるネックレスと、
あの夜、確かに聞いた『好きだ』という言葉。
姿が見えなくても、声を聞かなくても、
それだけで十分だと思えた。
あれから1週間。
昼休み、スマホに着信があった。
——蓮だ。
「蓮!?」
『もしもしまどか、いま大丈夫?』
声がどことなく硬い。
嫌な予感がチクリとする。
「大丈夫。何かあった?」
『週刊誌に——撮られた』
淡々とした声。
『油断してた。ごめん。まどかは一般人だから顔に目線が入ると思うけど……身辺気をつけて。今事務所も対応考えてくれてる。また連絡する——』
そういうと電話が切れた。
自分に起こった出来事なのに、現実感がなかった。
頭がふわふわとする。
その後の仕事は、ほとんど上の空でこなした。
木曜日発売の週刊誌を朝イチで買いに行くと、その記事は載っていた。
——佐伯蓮、年上女性とお泊り愛。お相手は会社員Mさん——
——ドア前キス写真を入手——
——12月のハムレット関係者席でも目撃情報——
蓮の言う通り目線は入っていて画質も荒かったが、それでも私のアパートでキスをする写真ははっきりと写っていた。
劇場で目頭を抑えてる姿も。
(私が帰り際にキスしたから……?)
心臓がバクバクする。
そして次の行——事務所からのコメントを見て、私は息を止めた。
——本人からは、仲のいい友人の一人だと聞いています——
(仲のいい、友人)
その一言が心に重くのしかかった。
会社に行くと幸い、里奈は体調不良で休みだった。
会社では誰からも何も言われなかったけれど、それがかえって怖かった。
なるべく人と目を合わせないようにして、
定時になると同時に席を立ち、そのまま逃げるように帰宅した。
玄関のドアを閉めた、その瞬間。
スマホが震えた。
——蓮。
胸が跳ねて、指先が震える。
期待と恐怖が入り混じったまま、トーク画面を開いた。
そこにあったのは、たった一行。
——しばらく距離を置こう。今までのことは忘れて——
視界が歪む。
画面に、ぽたぽたと雫が落ち、文字が滲んで読めなくなる。
——分かった。仕事、頑張って——
返信を打ち込むとすぐ既読がついた。
「……夢……醒めるの、遅いよ……」
力が抜けて、ベッドに突っ伏した。
声を殺して泣くしかなかった。
——もっと早く言ってくれたら。
——そしたら、こんなに好きにならずに済んだのに。
胸の奥が、ぎゅうっと潰れる。
息がうまく吸えない。
ひどい苦しさと、黒く澱んだ感情が、
逃げ場もなく、私の心を押しつぶしていた。
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