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「……メメル。貴様、今度は一体何をしているんだ」
学園の廊下。
放課後の静まり返った空間に、ヴィルフリート殿下の頭を抱えた声が響きました。
殿下の視線の先には、廊下の隅、大きな観葉植物と壁の隙間に、不自然なほど直立不動で佇む私の姿があります。
今日の私は、壁の色に極限まで近づけたグレーの特注ドレスを身に纏っておりますの。
「…………」
「無視か? 無視なのか? さっきから目がバッチリ合っているのに、微動だにしないのは何の嫌がらせだ」
私はそっと口を開き、感情を排した無機質な声で答えました。
「……殿下、お気になさらず。今の私は、この学園の調度品の一部……いえ、ただの『壁面装飾』ですわ。壁は喋りませんし、殿下の視界を汚すこともありません」
「喋ってるじゃないか! しかも装飾にしては、そのドレスの刺繍が凝りすぎていて逆に目立っているぞ!」
「これは保護色です。殿下の高貴な瞳に、私という不純物を映し込ませないための配慮にございます。どうか私のことは空気か、あるいは通りすがりの塵だと思って、そのままリリアンさんと仲睦まじく通り過ぎてくださいませ」
私の隣には、今日も今日とてセバスが控えています。
彼はなぜか、廊下の掃除をするふりをして、私の位置をミリ単位で調整していました。
「お嬢様、右肩が三センチほど壁から浮いております。それでは『完璧な壁』とは言えません」
「あら、いけない。修行が足りませんわね」
「貴様ら、私の前でコントを始めるな!」
殿下が声を荒らげると、後ろからリリアンさんが恐る恐る顔を出しました。
「あの……メメル様。そんなところに挟まっていては、お体が痛くなりませんか……?」
「リリアンさん、ご心配なく。殿下を近くで拝めるという栄養素があれば、私の細胞は活性化され、痛みなど感じない仕組みになっておりますの。それより早く、殿下に寄り添って歩いてください。その『身長差』という尊い供給を、私は壁として記録したいのです」
「き、記録……?」
「ええ。脳内のハードディスクに高画質で。さあ、私を無視して! さっさと行って! 私の存在を消させて!」
私が必死に壁になりきろうと目を閉じると、殿下の深いため息が聞こえてきました。
「……メメル。貴様は昨日、学食のメニューを永久欠番にしようとしただろう。おかげで今日の私のランチは、全校生徒に配られた『私の顔つきマフィン』一ダースだったぞ。あれを食べる私の身になれ」
「光栄ではありませんか! 殿下が殿下を召し上がる……。それはある種の自己愛の究極形、すなわち神話的な美しさですわ!」
「不気味すぎて食欲が失せたと言っているんだ! いいか、私に迷惑をかけるなと何度も……」
殿下が言いかけたその時。
私はスッと、壁から離れて殿下の前に跪きました。
「……殿下。今の言葉、深く胸に刻みましたわ」
「お、ようやく分かってくれたのか?」
「はい。私は気づいてしまいました。私が『壁』として存在していても、殿下が私を認識してしまった時点で、それは殿下の脳の容量を無駄遣いさせているということ。すなわち、推しのリソースを奪うという重罪を犯していたのですね……!」
私はショックのあまり、よろりとよろめきました。
セバスが素早く背後から支えます。
「お嬢様、落ち着いてください。呼吸を整えて。殿下のマイナスイオンを吸うのです」
「……吸うわ。スゥー……ハァー……。殿下、決心がつきましたわ。今日から私は、殿下の前で『壁』になることすら辞めます」
「おお、そうか! ようやく消えてくれるんだな!」
「いいえ。これからは『概念』になります」
「……概念?」
ヴィルフリート殿下の顔が、見たこともないほど引きつりました。
「そうです。姿は見せず、しかし殿下の行く先々に『良い事』が起きるように裏から手を回す、守護霊のような存在。例えば、殿下が歩く廊下にはあらかじめワックスをかけ、殿下が座る椅子には常に最高級のクッションを用意し、殿下の嫌いなピーマンは王宮のキッチンからすべて消し去る……。私は、殿下の人生の『デバッグ作業』に徹することにいたしましたわ!」
「余計なお世話だ! 私のプライバシーはどうなるんだ!」
「プライバシー? それは推しに提供されるべき『供物』ではありませんか? あ、もちろん私は直接見ません。セバスに訓練させた隠密部隊に報告させるだけですから、殿下の視界に私は入りません。ご安心ください!」
「全然安心できない! セバス、お前からも止めろ! 隠密部隊ってなんだ、初耳だぞ!」
セバスは無表情に、手帳をめくりました。
「殿下、ご安心を。彼らは皆、お嬢様の洗脳……いえ、徹底した教育を受けた『殿下愛好家』の精鋭でございます。殿下の着替えや入浴の際は、当然ながら目を閉じ、心眼のみで殿下の安全を確認するよう指導しております」
「心眼で覗いてるじゃないか! 不敬だぞ、全員捕縛してやる!」
殿下が真っ赤になって叫ぶ姿は、まさに絶品。
怒りで震えるその指先、そして少しだけ潤んだ瞳。
「困惑」を通り越して「パニック」に近いその表情……。
「……ああ、今日の殿下も最高に輝いていらっしゃる。リリアンさん、今の殿下、撮りました?」
「撮ってませんよ! 私はカメラなんて持ってませんし!」
「そうですか。では、私の心のシャッターで連写しておきますわね。カシャ、カシャカシャ!」
「……もういい、リリアン。行こう。こいつらと喋っていると、私の知能が吸い取られていく気がする」
殿下はリリアンさんの手を引いて、逃げるように走り去っていきました。
その背中を見送りながら、私は深く、深く満足げなため息をつきました。
「セバス。今の殿下、少しだけ足取りが軽やかだった気がしないかしら?」
「左様でございますね。きっと、お嬢様という重荷から解放された喜びと、隠密部隊への恐怖でアドレナリンが出ているのでしょう」
「素敵……。殿下の健康維持に貢献できて、私、本当に幸せですわ」
私は再び、グレーのドレスを整えて壁に背を預けました。
婚約者だった頃は、こんなに自由に殿下の反応を楽しめませんでした。
「婚約破棄」という名の解放。
それは、私にとって最高のご褒美だったのです。
「さあ、セバス。次は殿下の寝室の湿度を最適に保つための『加湿魔法陣』を、こっそり床下に埋め込む相談をしましょうか」
「承知いたしました。工兵部隊の手配をしておきます」
私は、殿下との新しい距離感に胸を躍らせながら、夕暮れの廊下で優雅に笑うのでした。
学園の廊下。
放課後の静まり返った空間に、ヴィルフリート殿下の頭を抱えた声が響きました。
殿下の視線の先には、廊下の隅、大きな観葉植物と壁の隙間に、不自然なほど直立不動で佇む私の姿があります。
今日の私は、壁の色に極限まで近づけたグレーの特注ドレスを身に纏っておりますの。
「…………」
「無視か? 無視なのか? さっきから目がバッチリ合っているのに、微動だにしないのは何の嫌がらせだ」
私はそっと口を開き、感情を排した無機質な声で答えました。
「……殿下、お気になさらず。今の私は、この学園の調度品の一部……いえ、ただの『壁面装飾』ですわ。壁は喋りませんし、殿下の視界を汚すこともありません」
「喋ってるじゃないか! しかも装飾にしては、そのドレスの刺繍が凝りすぎていて逆に目立っているぞ!」
「これは保護色です。殿下の高貴な瞳に、私という不純物を映し込ませないための配慮にございます。どうか私のことは空気か、あるいは通りすがりの塵だと思って、そのままリリアンさんと仲睦まじく通り過ぎてくださいませ」
私の隣には、今日も今日とてセバスが控えています。
彼はなぜか、廊下の掃除をするふりをして、私の位置をミリ単位で調整していました。
「お嬢様、右肩が三センチほど壁から浮いております。それでは『完璧な壁』とは言えません」
「あら、いけない。修行が足りませんわね」
「貴様ら、私の前でコントを始めるな!」
殿下が声を荒らげると、後ろからリリアンさんが恐る恐る顔を出しました。
「あの……メメル様。そんなところに挟まっていては、お体が痛くなりませんか……?」
「リリアンさん、ご心配なく。殿下を近くで拝めるという栄養素があれば、私の細胞は活性化され、痛みなど感じない仕組みになっておりますの。それより早く、殿下に寄り添って歩いてください。その『身長差』という尊い供給を、私は壁として記録したいのです」
「き、記録……?」
「ええ。脳内のハードディスクに高画質で。さあ、私を無視して! さっさと行って! 私の存在を消させて!」
私が必死に壁になりきろうと目を閉じると、殿下の深いため息が聞こえてきました。
「……メメル。貴様は昨日、学食のメニューを永久欠番にしようとしただろう。おかげで今日の私のランチは、全校生徒に配られた『私の顔つきマフィン』一ダースだったぞ。あれを食べる私の身になれ」
「光栄ではありませんか! 殿下が殿下を召し上がる……。それはある種の自己愛の究極形、すなわち神話的な美しさですわ!」
「不気味すぎて食欲が失せたと言っているんだ! いいか、私に迷惑をかけるなと何度も……」
殿下が言いかけたその時。
私はスッと、壁から離れて殿下の前に跪きました。
「……殿下。今の言葉、深く胸に刻みましたわ」
「お、ようやく分かってくれたのか?」
「はい。私は気づいてしまいました。私が『壁』として存在していても、殿下が私を認識してしまった時点で、それは殿下の脳の容量を無駄遣いさせているということ。すなわち、推しのリソースを奪うという重罪を犯していたのですね……!」
私はショックのあまり、よろりとよろめきました。
セバスが素早く背後から支えます。
「お嬢様、落ち着いてください。呼吸を整えて。殿下のマイナスイオンを吸うのです」
「……吸うわ。スゥー……ハァー……。殿下、決心がつきましたわ。今日から私は、殿下の前で『壁』になることすら辞めます」
「おお、そうか! ようやく消えてくれるんだな!」
「いいえ。これからは『概念』になります」
「……概念?」
ヴィルフリート殿下の顔が、見たこともないほど引きつりました。
「そうです。姿は見せず、しかし殿下の行く先々に『良い事』が起きるように裏から手を回す、守護霊のような存在。例えば、殿下が歩く廊下にはあらかじめワックスをかけ、殿下が座る椅子には常に最高級のクッションを用意し、殿下の嫌いなピーマンは王宮のキッチンからすべて消し去る……。私は、殿下の人生の『デバッグ作業』に徹することにいたしましたわ!」
「余計なお世話だ! 私のプライバシーはどうなるんだ!」
「プライバシー? それは推しに提供されるべき『供物』ではありませんか? あ、もちろん私は直接見ません。セバスに訓練させた隠密部隊に報告させるだけですから、殿下の視界に私は入りません。ご安心ください!」
「全然安心できない! セバス、お前からも止めろ! 隠密部隊ってなんだ、初耳だぞ!」
セバスは無表情に、手帳をめくりました。
「殿下、ご安心を。彼らは皆、お嬢様の洗脳……いえ、徹底した教育を受けた『殿下愛好家』の精鋭でございます。殿下の着替えや入浴の際は、当然ながら目を閉じ、心眼のみで殿下の安全を確認するよう指導しております」
「心眼で覗いてるじゃないか! 不敬だぞ、全員捕縛してやる!」
殿下が真っ赤になって叫ぶ姿は、まさに絶品。
怒りで震えるその指先、そして少しだけ潤んだ瞳。
「困惑」を通り越して「パニック」に近いその表情……。
「……ああ、今日の殿下も最高に輝いていらっしゃる。リリアンさん、今の殿下、撮りました?」
「撮ってませんよ! 私はカメラなんて持ってませんし!」
「そうですか。では、私の心のシャッターで連写しておきますわね。カシャ、カシャカシャ!」
「……もういい、リリアン。行こう。こいつらと喋っていると、私の知能が吸い取られていく気がする」
殿下はリリアンさんの手を引いて、逃げるように走り去っていきました。
その背中を見送りながら、私は深く、深く満足げなため息をつきました。
「セバス。今の殿下、少しだけ足取りが軽やかだった気がしないかしら?」
「左様でございますね。きっと、お嬢様という重荷から解放された喜びと、隠密部隊への恐怖でアドレナリンが出ているのでしょう」
「素敵……。殿下の健康維持に貢献できて、私、本当に幸せですわ」
私は再び、グレーのドレスを整えて壁に背を預けました。
婚約者だった頃は、こんなに自由に殿下の反応を楽しめませんでした。
「婚約破棄」という名の解放。
それは、私にとって最高のご褒美だったのです。
「さあ、セバス。次は殿下の寝室の湿度を最適に保つための『加湿魔法陣』を、こっそり床下に埋め込む相談をしましょうか」
「承知いたしました。工兵部隊の手配をしておきます」
私は、殿下との新しい距離感に胸を躍らせながら、夕暮れの廊下で優雅に笑うのでした。
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