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第一章:通達、昔語り
第6話 昔語り(5)
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しばらくの後、正妃オーレリアの葬儀がしめやかに執り行われた。
オーレリアの子であるルドガーを始め、大半の者は彼女の死因を投身自殺と思いこんでいたが、対外的には病死とされた。
大国の正妃が自殺では、外聞が悪すぎるからだ。
葬儀の後、クリスティナはアイシャを伴ってルドガーの元を訪れた。
「この度の正妃様のご不幸はすべてわたし達のせいですわ。誠に申し訳ございません、ルドガー様」
ルドガーに頭を下げるクリスティナ母娘をルドガーは冷めた目で見ていた。
「……まだわたしは王太子ではありません。父王の寵愛を受けているあなたが一介の王子に頭を下げられても困ります」
ルドガーにしてみれば、クリスティナの行動は、彼に謝罪することで己の罪深さから逃げるための自己満足としか受け取れない。
クリスティナ母娘もオーレリアから随分と嫌がらせを受けたのかも知れないが、それでも母は元々は優しい女性だったのだ。
それが、それまで尽くしていた父王にさんざん邪険に扱われれば、徐々に性格が歪んでいっても仕方なかろう。
──そして、今回の悲劇だ。
大国の正妃としては、寂しすぎる死であった。
彼女の息子として、その寂しさを知ることもあまりせず、アイシャを亡き者にしようとした時は叱責までしてしまったことが気に病まれる。
……いや、あの時は彼女のためにも良かれと思って言ったのだ。
それが、母に伝わらなかったことがルドガーには哀しかった。
「ルドガー様……」
アイシャが胡桃色の瞳で哀しそうに見てくる。
この姫は自分を心配してくれているのだろうか。
そう思うと、ルドガーは少し心が温かくなる気がした。
しかし、そう感ずること自体が母を裏切っているような気になり、ルドガーは後ろめたかった。
今回オーレリアが非業の死を遂げたのも、アイシャを亡き者にしようとしていたのがきっと関連しているのだろうから。
「話が済んだのなら、お帰りください。なんと言ってもわたしは母を亡くしたばかりなのですから」
ルドガーははっきりとした拒絶をクリスティナ母娘に示すと、近衛に言って彼女達に早々に帰ってもらうことにした。
「クリスティナ様、アイシャ様、お部屋までお送りします」
「はい」
ルドガーの心を慰めるどころか、多感な時期にある彼を逆に不快にさせてしまったと知って、クリスティナの美しい顔が歪む。
「アイシャ様!」
しかし、近衛の者の手をかいくぐってアイシャがルドガーの傍へ駆けていった。
その大きな瞳には涙が溜まっていて、ルドガーは動揺してしまう。
……だから、こんな子供になんだ。これではまるで──
「ルドガー様、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
アイシャは呆然とするルドガーの前でぽろぽろと涙をこぼす。
「アイシャ」
クリスティナがアイシャの体を抱きしめ、ルドガーの視線から隠した。
アイシャのしたことが、王子の気に障るのではと判断したからだ。
「それでは、失礼いたしますわ。お騒がせしまして本当に申し訳ありませんでした」
クリスティナ母娘はルドガーに淑女の礼をすると、今度こそ近衛に連れられて退室して行こうとした。
けれど、アイシャがその一瞬に彼を切なげに見つめてきて、ルドガーはどきりとする。
母を亡くしたばかりで、その要因であろう少女に気持ちが揺らぐのが少しばかり悔しく、ルドガーはアイシャを睨みつける。
すると、愛らしい姫はびくりと体を震わせて、瞳に涙をたたえながら彼から目を逸らした。
そして、誰もいなくなった室内で、ルドガーは泣きたいような叫びたいような狂おしい気分になった。
──母上が亡くなったのは、あの娘のせいだ。だから、わたしはあの娘を憎もう。それが、わたしが唯一出来る母上への弔いだ。
ルドガーはアイシャに対する淡い感情を憎しみにすり替えて、目の前の哀しみから目を逸らした。
それでも、先程のアイシャの愛らしい泣き顔が脳裏から離れない。
「わたしは、憎む──あの姫を」
そうだ、憎んでしまえばこんなおかしな感情を忘れられる。
……そうやって、無理矢理ルドガーはアイシャに憎しみを感じるように自分にし向けた。
そして、その日を境にルドガーはアイシャに冷淡な態度を取るようになった。
それからしばらくは、ルドガーはアイシャに出会うことはなかった。
彼女に会えないのを少し寂しく思う自分が煩わしく、そしてそんな感情に駆り立てるアイシャが憎らしく、ルドガーは唇を噛んだ。
こんなことでは本当に気が滅入ってしまうと思い、ルドガーは庭園に散策に出かけることにした。
「ルドガー様、おはようございます」
同じように侍女のライサに伴われて庭園を散策に来ていたアイシャがルドガーに出会ってきらきらとした瞳で挨拶をしてくる。
それを眩しく感じつつも、ルドガーはアイシャから視線を逸らす。
「……あまり気楽に話しかけないでほしい。おまえはわたしの母の仇なのだから」
ルドガーのその言葉に、アイシャは雷に打たれたかのようにその場に立ちすくんだ。
その瞳にみるみる大粒の涙が浮かぶのを見て、ルドガーは後悔しつつも慌ててその場を立ち去った。
母の仇として、憎もうとしても憎みきれない。
あの愛らしい姿がいけないのだと、ルドガーは歯噛みする。
これで、アイシャがもう少し普通の容姿なら自分はこんなことで取り乱すこともなかったものを。
ルドガーはそんな己の考えを振り払うように首を横に振ると、国王の執務室に向かった。
父王であるディラックは生死をさまよう病を得てから、寝たり起きたりする日々が続いていた。
その代わりに宰相が一時的に政務を執っていたが、それでは体裁が悪い。
それで、王太子となる予定であるルドガーはまだ成人となるには年数があったが、宰相のディルスの教育の元、徐々に政務を執り始めたのだ。
それから三年後、ルドガーは十四歳になっていた。
いつ王がみまかっても、既に彼はいつでも政務を執れるようになっていた。
しかし、未成年のままでは体裁が悪い。
なんとしてでも、父王には成人までは生きながらえてもらわねばならないとルドガーは思っていた。
既にそこには血の繋がりによる愛情や尊敬はない。
ルドガーの中では母の死によって、ディラックが正妃を不当に扱ったただの愚王としか思えなくなっていた。
「お呼びでございますか、父王」
ルドガーが王の寝室に呼び出されたその傍には心配そうにクリスティナ母娘が付いていた。
──こんな男でも愛してくれている者はいるらしい。
皮肉な笑いがこみ上げてくるのを堪えながらルドガーは思う。
骨と皮だけのようになった体は、かつてそれなりの体格だったのが嘘のようであった。
「……ルドガー、そなたに頼みたいことがあります。わたしはもう長くはない」
「……」
ルドガーはそんなことはありません、という下手な諫めの言葉は言わなかった。
どう見ても、ディラックが言うように彼が長く生きられるとは思わなかったからだ。
「わたしはそなたが成人したらすぐに譲位するつもりです。ディルスの報告ではそなたはもう充分王として政務をこなせるはずですから」
……そんなことは承知している。
今現在、政務は全部自分が取り仕切っているのだから。
寝台に縛り付けられている死にかけの病人の言葉をルドガーは冷めきった気持ちで聞いていた。
しかし、その後に続いたディラックの言葉にルドガーは驚愕する。
「わたしが頼みたいのは、このアイシャのことです。わたしが儚くなったら、血も繋がらないこの姫は苦しい立場に追い込まれるでしょう」
「──陛下、なにを……」
クリスティナ母娘も、このディラックの思惑を知らされていなかったのか驚いた顔をしている。
「そこでアイシャが、成人した折りにはそなたの正妃として欲しいのです。……これで、アイシャの立場は確固としたものになるはずです」
「わたしがルドガー様の──」
驚愕したルドガーとアイシャの視線が交わる。
アイシャはあれからますます美しくなって、幼いながらもクリスティナとはまた違った美を醸し出すようになってきていた。
母の仇とは思いながらも、この三年の間にルドガーはアイシャに向かう感情が恋だと既に気づいていた。
……ただ、それは禁忌の感情だった。
これは母を死に追いやるきっかけになった娘。
だから、ルドガーにはどうあっても彼女と結ばれる訳にはいかなかった。
ただ、愛しいと思う感情と憎しみの感情にさいなまれて、まだ幼い彼女を汚してしまおうかと思う日はあった。
それをどうにかやり過ごしていたところに、このディラックの言葉だ。
ルドガーは絶句したまま、愛しくも憎いアイシャの顔を見つめていた。
「これは王命です。……ルドガー従いなさい」
病人とはいえ、この時ばかりは王の威厳を露わにして、ディラックはルドガーに命じた。
王命となれば、逆らうことは不可能だ。
「……御意」
「それでは、婚約の誓約書に署名を」
ディラックは近くにいた侍女から書面を受け取ると、ルドガーとアイシャの署名を求めた。
仕方なくルドガーが署名した後、アイシャが震えながら署名する。
どうやらアイシャは己に起こっていることにかなり動揺しているらしい。
それを見守っているクリスティナも震えながら口元を押さえている。
その中でディラックだけが余裕すら感じさせる笑顔を浮かべていた。
「……それでは、この誓約書をディルスに渡しておきます」
「はい。頼みます、ルドガー」
そして、王の間を退室したルドガーはまだ幼いが、才能は王宮随一を誇る魔術師を呼びだした。
「ライノス」
「はい、お呼びでございますか。ルドガー様」
気配を消して先程の一部始終を見ていた魔術師がその姿を現した。
「この誓約書を燃やせ」
それを聞いたライノスは絶句した。
誓約書を燃やすことは、王命である婚約を破棄することを意味する。
「しかし──」
「責はわたしが負う。もう一度命ずる。燃やせ」
「……あなた様のお心のままに」
ルドガーの意志が変わらないと諦めたのか、まだ幼さを残す魔術師は誓約書に炎をつける。
すると、瞬く間に灰も残さずに誓約書は消え去った。
──これで、わたしを縛るものはなくなった。
清々した気分でルドガーは歩き出す。
その後を心配そうな顔つきでライノスが付いてきていたが、ルドガーは気にしなかった。
一年の後、ルドガーは成人するとトゥルティエールの国王の座に着いた。
すると、それを待っていたかのようにディラックが亡くなった。
そして驚いたことに、それに衝撃を受けたらしいクリスティナがその後を追って服毒死したらしい。
あんなろくでもない男でもそれ程までに愛していたのかと、その報告をルドガーは冷めた気持ちで聞いていた。
ルドガーとアイシャの婚約誓約書は焼いてしまったので、二人の婚約はもちろん無効となっている。
その結果、なんの後ろ盾もないアイシャが残された。
そしてその日から王宮でのアイシャの苦難の日々が始まったのである──
オーレリアの子であるルドガーを始め、大半の者は彼女の死因を投身自殺と思いこんでいたが、対外的には病死とされた。
大国の正妃が自殺では、外聞が悪すぎるからだ。
葬儀の後、クリスティナはアイシャを伴ってルドガーの元を訪れた。
「この度の正妃様のご不幸はすべてわたし達のせいですわ。誠に申し訳ございません、ルドガー様」
ルドガーに頭を下げるクリスティナ母娘をルドガーは冷めた目で見ていた。
「……まだわたしは王太子ではありません。父王の寵愛を受けているあなたが一介の王子に頭を下げられても困ります」
ルドガーにしてみれば、クリスティナの行動は、彼に謝罪することで己の罪深さから逃げるための自己満足としか受け取れない。
クリスティナ母娘もオーレリアから随分と嫌がらせを受けたのかも知れないが、それでも母は元々は優しい女性だったのだ。
それが、それまで尽くしていた父王にさんざん邪険に扱われれば、徐々に性格が歪んでいっても仕方なかろう。
──そして、今回の悲劇だ。
大国の正妃としては、寂しすぎる死であった。
彼女の息子として、その寂しさを知ることもあまりせず、アイシャを亡き者にしようとした時は叱責までしてしまったことが気に病まれる。
……いや、あの時は彼女のためにも良かれと思って言ったのだ。
それが、母に伝わらなかったことがルドガーには哀しかった。
「ルドガー様……」
アイシャが胡桃色の瞳で哀しそうに見てくる。
この姫は自分を心配してくれているのだろうか。
そう思うと、ルドガーは少し心が温かくなる気がした。
しかし、そう感ずること自体が母を裏切っているような気になり、ルドガーは後ろめたかった。
今回オーレリアが非業の死を遂げたのも、アイシャを亡き者にしようとしていたのがきっと関連しているのだろうから。
「話が済んだのなら、お帰りください。なんと言ってもわたしは母を亡くしたばかりなのですから」
ルドガーははっきりとした拒絶をクリスティナ母娘に示すと、近衛に言って彼女達に早々に帰ってもらうことにした。
「クリスティナ様、アイシャ様、お部屋までお送りします」
「はい」
ルドガーの心を慰めるどころか、多感な時期にある彼を逆に不快にさせてしまったと知って、クリスティナの美しい顔が歪む。
「アイシャ様!」
しかし、近衛の者の手をかいくぐってアイシャがルドガーの傍へ駆けていった。
その大きな瞳には涙が溜まっていて、ルドガーは動揺してしまう。
……だから、こんな子供になんだ。これではまるで──
「ルドガー様、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
アイシャは呆然とするルドガーの前でぽろぽろと涙をこぼす。
「アイシャ」
クリスティナがアイシャの体を抱きしめ、ルドガーの視線から隠した。
アイシャのしたことが、王子の気に障るのではと判断したからだ。
「それでは、失礼いたしますわ。お騒がせしまして本当に申し訳ありませんでした」
クリスティナ母娘はルドガーに淑女の礼をすると、今度こそ近衛に連れられて退室して行こうとした。
けれど、アイシャがその一瞬に彼を切なげに見つめてきて、ルドガーはどきりとする。
母を亡くしたばかりで、その要因であろう少女に気持ちが揺らぐのが少しばかり悔しく、ルドガーはアイシャを睨みつける。
すると、愛らしい姫はびくりと体を震わせて、瞳に涙をたたえながら彼から目を逸らした。
そして、誰もいなくなった室内で、ルドガーは泣きたいような叫びたいような狂おしい気分になった。
──母上が亡くなったのは、あの娘のせいだ。だから、わたしはあの娘を憎もう。それが、わたしが唯一出来る母上への弔いだ。
ルドガーはアイシャに対する淡い感情を憎しみにすり替えて、目の前の哀しみから目を逸らした。
それでも、先程のアイシャの愛らしい泣き顔が脳裏から離れない。
「わたしは、憎む──あの姫を」
そうだ、憎んでしまえばこんなおかしな感情を忘れられる。
……そうやって、無理矢理ルドガーはアイシャに憎しみを感じるように自分にし向けた。
そして、その日を境にルドガーはアイシャに冷淡な態度を取るようになった。
それからしばらくは、ルドガーはアイシャに出会うことはなかった。
彼女に会えないのを少し寂しく思う自分が煩わしく、そしてそんな感情に駆り立てるアイシャが憎らしく、ルドガーは唇を噛んだ。
こんなことでは本当に気が滅入ってしまうと思い、ルドガーは庭園に散策に出かけることにした。
「ルドガー様、おはようございます」
同じように侍女のライサに伴われて庭園を散策に来ていたアイシャがルドガーに出会ってきらきらとした瞳で挨拶をしてくる。
それを眩しく感じつつも、ルドガーはアイシャから視線を逸らす。
「……あまり気楽に話しかけないでほしい。おまえはわたしの母の仇なのだから」
ルドガーのその言葉に、アイシャは雷に打たれたかのようにその場に立ちすくんだ。
その瞳にみるみる大粒の涙が浮かぶのを見て、ルドガーは後悔しつつも慌ててその場を立ち去った。
母の仇として、憎もうとしても憎みきれない。
あの愛らしい姿がいけないのだと、ルドガーは歯噛みする。
これで、アイシャがもう少し普通の容姿なら自分はこんなことで取り乱すこともなかったものを。
ルドガーはそんな己の考えを振り払うように首を横に振ると、国王の執務室に向かった。
父王であるディラックは生死をさまよう病を得てから、寝たり起きたりする日々が続いていた。
その代わりに宰相が一時的に政務を執っていたが、それでは体裁が悪い。
それで、王太子となる予定であるルドガーはまだ成人となるには年数があったが、宰相のディルスの教育の元、徐々に政務を執り始めたのだ。
それから三年後、ルドガーは十四歳になっていた。
いつ王がみまかっても、既に彼はいつでも政務を執れるようになっていた。
しかし、未成年のままでは体裁が悪い。
なんとしてでも、父王には成人までは生きながらえてもらわねばならないとルドガーは思っていた。
既にそこには血の繋がりによる愛情や尊敬はない。
ルドガーの中では母の死によって、ディラックが正妃を不当に扱ったただの愚王としか思えなくなっていた。
「お呼びでございますか、父王」
ルドガーが王の寝室に呼び出されたその傍には心配そうにクリスティナ母娘が付いていた。
──こんな男でも愛してくれている者はいるらしい。
皮肉な笑いがこみ上げてくるのを堪えながらルドガーは思う。
骨と皮だけのようになった体は、かつてそれなりの体格だったのが嘘のようであった。
「……ルドガー、そなたに頼みたいことがあります。わたしはもう長くはない」
「……」
ルドガーはそんなことはありません、という下手な諫めの言葉は言わなかった。
どう見ても、ディラックが言うように彼が長く生きられるとは思わなかったからだ。
「わたしはそなたが成人したらすぐに譲位するつもりです。ディルスの報告ではそなたはもう充分王として政務をこなせるはずですから」
……そんなことは承知している。
今現在、政務は全部自分が取り仕切っているのだから。
寝台に縛り付けられている死にかけの病人の言葉をルドガーは冷めきった気持ちで聞いていた。
しかし、その後に続いたディラックの言葉にルドガーは驚愕する。
「わたしが頼みたいのは、このアイシャのことです。わたしが儚くなったら、血も繋がらないこの姫は苦しい立場に追い込まれるでしょう」
「──陛下、なにを……」
クリスティナ母娘も、このディラックの思惑を知らされていなかったのか驚いた顔をしている。
「そこでアイシャが、成人した折りにはそなたの正妃として欲しいのです。……これで、アイシャの立場は確固としたものになるはずです」
「わたしがルドガー様の──」
驚愕したルドガーとアイシャの視線が交わる。
アイシャはあれからますます美しくなって、幼いながらもクリスティナとはまた違った美を醸し出すようになってきていた。
母の仇とは思いながらも、この三年の間にルドガーはアイシャに向かう感情が恋だと既に気づいていた。
……ただ、それは禁忌の感情だった。
これは母を死に追いやるきっかけになった娘。
だから、ルドガーにはどうあっても彼女と結ばれる訳にはいかなかった。
ただ、愛しいと思う感情と憎しみの感情にさいなまれて、まだ幼い彼女を汚してしまおうかと思う日はあった。
それをどうにかやり過ごしていたところに、このディラックの言葉だ。
ルドガーは絶句したまま、愛しくも憎いアイシャの顔を見つめていた。
「これは王命です。……ルドガー従いなさい」
病人とはいえ、この時ばかりは王の威厳を露わにして、ディラックはルドガーに命じた。
王命となれば、逆らうことは不可能だ。
「……御意」
「それでは、婚約の誓約書に署名を」
ディラックは近くにいた侍女から書面を受け取ると、ルドガーとアイシャの署名を求めた。
仕方なくルドガーが署名した後、アイシャが震えながら署名する。
どうやらアイシャは己に起こっていることにかなり動揺しているらしい。
それを見守っているクリスティナも震えながら口元を押さえている。
その中でディラックだけが余裕すら感じさせる笑顔を浮かべていた。
「……それでは、この誓約書をディルスに渡しておきます」
「はい。頼みます、ルドガー」
そして、王の間を退室したルドガーはまだ幼いが、才能は王宮随一を誇る魔術師を呼びだした。
「ライノス」
「はい、お呼びでございますか。ルドガー様」
気配を消して先程の一部始終を見ていた魔術師がその姿を現した。
「この誓約書を燃やせ」
それを聞いたライノスは絶句した。
誓約書を燃やすことは、王命である婚約を破棄することを意味する。
「しかし──」
「責はわたしが負う。もう一度命ずる。燃やせ」
「……あなた様のお心のままに」
ルドガーの意志が変わらないと諦めたのか、まだ幼さを残す魔術師は誓約書に炎をつける。
すると、瞬く間に灰も残さずに誓約書は消え去った。
──これで、わたしを縛るものはなくなった。
清々した気分でルドガーは歩き出す。
その後を心配そうな顔つきでライノスが付いてきていたが、ルドガーは気にしなかった。
一年の後、ルドガーは成人するとトゥルティエールの国王の座に着いた。
すると、それを待っていたかのようにディラックが亡くなった。
そして驚いたことに、それに衝撃を受けたらしいクリスティナがその後を追って服毒死したらしい。
あんなろくでもない男でもそれ程までに愛していたのかと、その報告をルドガーは冷めた気持ちで聞いていた。
ルドガーとアイシャの婚約誓約書は焼いてしまったので、二人の婚約はもちろん無効となっている。
その結果、なんの後ろ盾もないアイシャが残された。
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