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3 一斉催眠

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 聴蝶が私の胸のなかに倒れこんだ。観空も崩れ落ちる。2人とも意識がない。
 ――何か臭う! 姿勢を低めた。
 廊下全体に白い霞がたちこめている。霞は濃密な膜と化しつつ沈みこんでくる。
 ……いや,自分の視界が霞んでいるだけなのだろうか。床も壁も照明も形を失いぐにゃぐにゃに溶けていく。曲線をなしながら上へ下へと激しく起伏する廊下を上手に歩く人物がある。黒ずくめの衣装に黒いマントを靡かせ,肩までのびるウェーブの毛先が方々好き勝手なむきに弾んでいる……悪魔なのか。天井まで達しそうな頭を傾けて上目遣いの視線を寄越す――悪魔ならまだしもよかった。
 右腕が摑まれる。抵抗できない。手首を残虐な殺人鬼に捻じり折られてしまう――
「よかった。けがはないね」手の甲に頰ずりされる。「でも痛かっただろう。屈強な男を繰り返し殴ったのだから指の数本も折れているだろうと心配したよ」
「2人に手だしするな――」
「ひどいな……君と僕の話をしているのに他人のことをもちだすなんて」顔面を接近させる。深く刻まれる二重の大きな目が群青やエメラルドの色を帯びた。「取り調べに君を呼んだのに一向に来てくれやしない。僕はね,君相手なら大抵のことは話したのさ――本名は陶禹錫とううしゃく。日本と中国の血を引いている。職業は 10 年ぐらい前には教鞭をとっていたが,現在は株やネット通貨で食べている――」
「もういい!――何が目的だ!」
 ガウジに引き寄せられた。眼前に突起する喉仏が1度うねる――「君は僕に興味はないの? 僕は逮捕されてまで君と話をしようとしたのに――富総館ふそうかん結良ゆらさん」
「な,何で私の名前を……」
「君が教えてくれないから警察署の情報システムを使って調べたのさ。署内の人間を全て眠らせて」
「何をした――みんな死ぬのか」
「安心して。眠らせただけさ。1時間もすれば全員目覚める。さあ,僕たちは行こう――」ガウジが抱きあげようとする。必死に抵抗する。だが手足に力が入らない。
「暴れないで。手荒な真似はしたくないから」視界に浮遊する微笑が消える――
「結良をつれてくな……」観空がガウジの両足にしがみついている。ガウジが振り払おうとするが決して離れない。「結良をつれてくと……破滅するぞ……おまえが……違う,おまえじゃない……弟だ……おまえの弟だ」
 私を抱きかかえるガウジの全身に動揺が走った。
「おまえの弟が破滅することになる」
 ガウジが観空を蹴りあげようとする。
「やめて!」
 ガウジが私を庇うようにフロアに突っ伏した。何かが睫毛を掠めて過ぎる――
 銃弾だ――立て続けに何発も撃ってくる。
 ガウジを押しのけ聴蝶に覆いかぶさった。
「結良――君は――そうなのか」ガウジと視線がかちあう。心のなかをすっかり読まれたらしい。「うん……それでもいい。僕は君を愛している」そう言うなり身を起こし,射撃手のいる方向へ走りだした。「明日の夜,電話するよ」
 男たちの怒号が乱れ飛び,何十発もの銃声。そしてガラスの割れる音。一瞬にして喧騒が過ぎ去る。
 聴蝶を抱きしめた。静かな寝息をたてている。
「生きてるか……」観空が手をのばす。
 その手を握りかえした。「平気だ。聴蝶もね」
「おまえ,マジ疫病神だな」観空が白目を剝いて気絶した。イケメンはいかなる状況でもイケメンなのだと思いつつ意識の埋没を受けいれた。
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