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4. 怜、不測の事態に困惑し、結果突っ走ることにした

怜、不測の事態に困惑し、結果突っ走ることにした ③

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   ***
 

 何度も逃げ出すチャンスを窺った。
 壁に手を押さえ付けられた時の圧倒的な力の差に恐怖した。
 手を使えない様に抱き上げられ、自由である筈の脚で蹴飛ばしても怜には少しも堪えていなかった。

 タクシーに乗れば隙が出来るかもと期待したけど、膝の上に抱きあげられた時に希望は潰えた。彼の腕を振り切って逃げられると思う程、怜という男を知らないわけでも見くびってもいない。彼の腕から逃げ出せるとしたら、怜の興味が薄れた時か、死んだ時くらいだろう。
 興味を失わせればいいと分かっているのに、梓の何が彼の興味を惹いているのか見当が付かないから、逸らしようもない。

 いや。逸らそうと努力はした。
 彼が呆れるであろう行動を取ってまんまとそれに乗ってくれたら簡単だけど、十四年の付き合いは伊達ではなく、軽くいなされるか笑いツボに入っただけだった。
 後は押し問答になって、行きつく先は怜の都合がいい結論にたどり着く。
 タクシーに乗る直前まで、こんな話をしていた。

「“その理由を探る” って何ッ!? それなら一人でやってよ。あたしを巻き込まないで!」

 首から下をまるで簀巻きにされたように腕でガッチリ拘束された梓は、出来るだけ背中を反って怜の顔を睨みつけた。けれど彼は可笑しなことを言うとばかりに大仰な溜息を吐き、やれやれと首を振る。

「巻き込むも何も、アズちゃんから派生しているから、君が根源だよ? 僕にだってどうして自分がこんな行動を取るのか、知る権利あるよね?」
「だからってこれは違うと思うの!」
「ならどうやって確証を取ればいい? その具体案を指し示してくれる?」

 具体案と言われて、何も提示できなかった。
 本来彼の恋愛嗜好は、ストレートの梓にとって特殊だ。その怜が突然一般的に正常とされる方向へ、怜にとっては異常でしかない方向にうねり出したのだから、男女の恋愛論が普通に適用されるのか、甚だ疑問な訳で。
 しかもそこに持って来て、梓には実体験が全くない。恋愛偏差値ゼロの女だという事が大きく仇なしている。

 何だかんだと考えているうちにマンションに到着し、あれよあれよと逃げを打つことも叶わないまま、怜の寝室に連れ込まれていた。
 怜のマンションに遊びに来たことはこれまで何度もあったけど、寝室に入ったのは初めてだ。
 ここは梓が立ち入ってはいけない場所だった。つい先刻まで。

   床に直置きされた複数の間接照明が天井に向かって射し、モノトーンのシックな部屋を柔らかな光で照らしている。家具は殆どが見当たらない。その代わり壁の一面が扉になっていて、恐らくクローゼットになっているのだろう。部屋の中心に敷かれた黒のラグの上にガラス天板のテーブルが置かれ、大の男二人が寝ても余裕の大きなベッドが有るだけだった。

 入ることを許されていたのは、翔だけの筈だったのに、何故この部屋に自分は通されて、剰え二人が愛し合ったベッドの上に寝転がされているのだろう?
 想像もしたくない二人の交歓を想像し、震えが走った。
 雄の顔をし、互いを求めあっていた二人の姿を、未だにふと思い出すことがある。それだけ鮮烈な記憶だった。

 そのうちの一人が、今まさに雄の顔をして目の前にいる。
 上半身を梓に覆い被せ、彼女の髪をゆっくり指で梳きながら、時折耳朶に触れた時の梓の反応を愉しんでいる。

 こんな状況になっても、梓には信じられないでいた。
 十四年もの間、翔だけを愛して来た人の裏切りを、簡単に信じられるわけがない。況してや兄の恋人を奪うのが、自分だなんて絶対に嫌だ。
 今ならまだ引き返せる。
 なかった事にしてもいい。梓の胸にずっと留めて置けば、兄を悲しませることは避けられるから。



 梓の大好きな怜の綺麗な指が耳朶を掠めるように擽り、頬を滑って顎から喉を伝う。鎖骨をなぞった指先がまた喉元を這い上がり、親指がくいっと顎を持ち上げた。
 全身を駆け巡る恐怖と、虫がザワザワと這い回る様な感覚に、梓の顔は完全に引き攣っている。
 怖くて歯の根が合っていない彼女を怜は静かな眼差しで眺め、薄く開いた唇から吐息が漏れた。
 ちろりと覗く赤い舌先が怖いのに、その淫靡さに見惚れる自分もいる。  

(だ……ダメだ。怜くんの美貌にこれ以上を中てられたら、流されてダメダメな自分になるッ!)

 兄の為にも一線を越えられない。
 怜の顔が近付いて来て、梓は咄嗟に彼の口元を覆った。

「怜くん、ゲイだよねッ!?」

 ギッと目に渾身の力を込めて怜を睨んだ。
 元々ストレートで、好きになった人が偶々男だった、と言うパターンではない。だから下手な期待を持たせないために、家族にはカミングアウトして、実家を出たと大学の頃言っていたのだ。
 怜は口を覆う手を外し、「その筈だったんだけど」と小さく首を傾げた。

「なのに何故だかアズちゃんに欲情してる」

 女神さまのような微笑みを湛え、世間話でもするような口調で言われて、言葉の理解が少し遅れた。
 欲情と口の中で反復すると、一気に理解が進んで顔がブワッと火を噴いた。唇を戦慄かせている梓に怜はふふと笑いを漏らす。

「よく……ッ!? や…やめてっ! あたし女だから! 怜くんの性的嗜好から大きく外れてるのに、何であたしなの!? そんなの絶対におかしいから!!」

 腕を突っ張って怜を遠ざけようとしているのに、上から掛かって来る圧の方が大きいうえに、見た目より怜は筋肉質だ。梓の腕力など怜には造作もない。
 必死の抵抗を見せる梓を見下ろし、う~んと唸った。

「そこなんだよ。今日はかなり精神的にキタから、僕も最初は疲れマラかと思ったんだけどね。どうも違うらしい。先刻からアズちゃんに反応してる」

 怜はそう言って梓の右手を取った。
 その意味が分からないでボケッとしていた梓は、持って行かれた手の先に熱を帯びて固くしこったモノを感じ取り、怜の「ほらね?」の言葉で思い切り目を瞠らいた。
 手の中で脈打ち、更に質量が増した気がする。
 怜の唇から熱い吐息が漏れ、細めた双眸が潤んで梓を捉えていた。その溢れ出て来る淫靡なまでの色香にゾクリとし、同時に恐怖する。

「ぃ……いやーいやーいや――――ッ!! て、手放してッ!! 怜くんの、下半身事情なんか、あたし知りたくな――――いッ」

 怜の下でバタバタ暴れ、掴まれた手を解こうと必死の形相を見せる梓に、怜は顔を曇らせ溜息を吐いた。

「僕とアズちゃんの仲でツレないなぁ」
「いやッ! そこはツレなくていいでしょッ!?」
「僕を助けてよ。今までたっっっくさん、アズちゃんを助けてあげたよね?」
「だから! これって助けるとか、関係なくなくない!? 欲求不満はお兄ちゃんにどうぞッッッ!!」

 翔の名前を出した途端、怜の顔が素になった。梓はシメタとばかりに言を継ぐ。

「怜くんはお兄ちゃんの恋人でしょッ! ダメだよこんな事ッ! お兄ちゃんを裏切るなんて事、あたしは無……ッ!? んん――――ッ!!」  

 無理と言いかけて、唇を塞がれた。
 目を白黒させて唇を塞いでいる怜を見、獣を目の当たりにした。
 獲物を前にしてギラついた狩人の双眸が、被捕食者を刺し貫く。梓は喉の奥で悲鳴を漏らした。
 怜の指が顎を引き下げ、固く食いしばっていた口中へ彼の舌が滑り込んでくる。怜の舌先が触れて咄嗟に舌を引っ込めると、興味を失った様に口蓋に移り、擽るように舐り始めた。

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