万人の災厄を愛して

三石成

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第一章 竹林の家

一 予兆

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 家から半刻ほど馬を駆り続けると、ようやく近くの村に辿りつく。

 この『松柏しょうはくホ』と呼ばれている村は、漁業を主な生業としながら、他の地からの物流もあり、賑わう漁村である。村へ入っただけで、特有の潮の香りが漂ってくる。通りを行き交う人々の声や生活の音に満ちていて、活気があった。

 村中心部の市へと差しかかると、藤は鹿毛から降りて手綱を引き始める。

「あら藤さん、ちょっと寄っていってよ、良い魚が上がっているわよ」

「今日もお米はうちで買っていってね」

「藤さん、お酒は足りているの? おまけいっぱいするわ」

 藤の姿を見て、さっそくあちこちから声がかかる。市で物を売っているのは大半が女で、食料品においては、買いに来るのも大多数が女だ。そんな中で、一人買い出しに来る若い男の藤は珍しい。その上、彼はいつも清潔な身なりをしていて見目好く、女たち皆に礼儀正しいので、ここではかなりの人気を誇っている。

 外行きの微笑みを浮かべた姿からは、先程まで彼が男に組み敷かれていたとは、とても想像できない。

「おはようございます、椿つばきさん。良い魚って何ですか?」

「ほらこれ、姫鯛よ。味がとってもいいの。今日は藤さんが来るだろうからって、とっておいたんだから」

 呼び込みにつられて魚屋へ向かう。示されたのは、桶に入った赤い魚だ。新鮮さは、澄み切った大きな目を見ればすぐにわかる。

「ああ、良さそうだ。ではいただきます。あと、いつものように干物をいくつか見繕ってください」

「はいよ、まいどあり」

 藤はおよそ五日に一回の頻度で、この村まで買い出しに来る。新鮮な魚はその日のうちに食べてしまい、後は干物の魚が主な食事だ。魚を包んでもらっている間、袂に手を入れ財布を出した藤は、村の中の微かな違和感に気づいた。

「今日は見慣れない人が多いですね」

 いつもはほぼ女しかいない市だが、今日は男の姿もちらほらと見かける。けれども男たちの様子からいって、買い物をしに来たというわけではない。彼らの表情は険しく、商品ではなく、通りを歩く人々の方を観察している。

「おとといの夜に、強盗殺人があったのよ」

 馴染みの魚屋である椿の言葉に、藤は軽く眉を寄せた。この村は治安が良く、いさかいごともほとんど起こらない。そんな村の中での強盗殺人とは、おおごとだ。

「それは物騒ですね。どなたが亡くなったのですか」

しまっていう大工さんよ。知り合いだったかしら?」

 藤は首を振る。だが、これは嘘だった。

 他言無用を頼み、藤と浄の今住んでいる家を建ててくれたのが、他ならぬ嶋である。まさかここで聞くことになるとは思わなかった名前に、無意識に藤の瞬きの回数が増える。だが椿は藤の戸惑いに勘づいた様子もなく、話を続けた。

「嶋さんもあんまり愛想がいいお方じゃなかったようだからね、知り合いも少ないみたい。まあでも、強盗殺人なんて起こったものだから、昨日から松柏の人たちが犯人を探してくれているのよ」

 「なるほど」と藤は頷いた。噂話をしながらも手は動かし続けていた椿から、品物を受け取って代金を支払う。

 この世は表向き、帝が司る朝廷が治めていることになっている。しかし実際は、「松柏」「六堂りくどう」「白虎びゃっこ」という各々独自の武力を持つ三つの組織が、勢力を争いながら各地を取り仕切っているのだ。

 ここ松柏ホは、松柏組が治める五番目の村という意味である。朝廷から与えられている昔ながらの「鳴海村なるみむら」という地名があるが、今はそんな名前で呼ぶ人間は誰もいない。

 名目上の話をすれば、武力組織は不当に村々を支配下に置き、民から金品をせしめているぞくということになる。

 だがしかし、組は警察としての機能を持ち、日頃から治水や道の整備なども行い、有事の際には民を守る。いっぽうで、朝廷は一〇〇年も前から政治を放棄し、都に閉じこもって贅の限りを尽くしている。

 組への上納金と朝廷への年貢、その両者に苦しめられた民の怒りは、武力組織ではなく朝廷へ向いている。

 民からすれば、自分たちには何もしてくれないにも関わらず、年貢だけを要求してくる朝廷の方を嫌うのは当然の摂理だ。

「早く犯人が捕まってくれたら安心できるんだけれど。藤さんも確か村の外れの方に住んでいるのよね、気をつけてね?」

 椿の言葉に、藤は曖昧に微笑み、「ありがとうございます」と感謝を述べて店を後にした。藤の住んでいる場所は、殺されたと噂の嶋以外、誰も知らないのだ。

 その後もあちこちの店に寄り、米や野菜、酒に調味料、油と必要な食料と必需品の買い物を続け、品物を鹿毛につけた籠へ入れていく。

 普段であれば、藤は買い物を終えると、真っ直ぐに来た道を戻って家へ帰る。だが今日は鹿毛を引き、村の中を通っている川辺の方へと向かった。

 護岸に沿って歩いていくと、次第に松柏組らしき男たちの姿が増えてきた。

 藤は、道端で独楽こまを回して遊んでいた少年へ声をかける。少年の身なりからいって、そう貧しい家の子でもなさそうだと踏んだ。

「坊、ちょっとここで、わたしの馬の番をしてくれないか。四半刻も経たずに帰ってくるから」

「馬を見ていれば良いの?」

 問いかけに頷き、藤は少年の手に四文銭を二枚乗せる。

「そうだ。馬を受け取りに来る時、倍払う」

 少年はキラキラと瞳を輝かせて四文銭を見ると、大きく頷いた。たいした金額ではないが、少年にとっては十分な駄賃だ。

 藤は少年に鹿毛の手綱を握らせると、人波の中へと紛れていく。

 向かったのは、嶋の家である。製材所の横に構えた大きな一軒家へとさしかかると、その玄関前に男が一人、見張りで立っているのが見えた。勝手口の方にも一人立っている影がある。事件が起きた家を、松柏組が警備しているのだ。

 藤はそれを、家の方へは視線を向けずに視界の端で確認する。そうして、立ち止まることなくそのまま通り過ぎた。少し大回りをして通りを抜け、嶋の家の側面にあたる路地に身を滑り込ませる。

 人々の視界から遮られた空間に入った途端、藤は地面を蹴った。常人ならざる跳躍力で一階の軒に手をかけると、さしたる苦労もなく体を持ち上げる。地面の上を走るのと変わりない様子で軒の上を伝い、ためらうことなく二階の窓から中へと侵入する。

 板張りの床の上へ降り立って、しばらく耳を澄ませた。外の通りの喧騒が聞こえるばかりで、内部から物音はしていなかった。中には誰もいないようだ。

 足音をたてずに家の中を歩き、探索をはじめる。二階の様子を見て回るが、変わった所はない。強盗殺人と言われていたが、家の中が物色された様子もないのが、変わっているといえば変わっている。

 階段を降りて一階へ着くと、そこでようやく、藤の鋭い嗅覚が血の匂いを捕らえた。匂いに導かれるまま向かったのは、玄関に繋がる土間から、すぐ横の部屋だった。

 慎重に障子を開き、藤は眉を寄せた。部屋の中には、一般人であれば目を覆いたくなるような惨状が広がっていた。天井にまで飛び散った血飛沫に、畳の上に落ちた幾本もの頭髪と、なにかの肉片。

 嶋の遺体はすでに運び出された後だが、遺体がなくとも、ここで何が行われたのかは予想できる。物盗りのために人を殺しただけでは、このような惨状にはならない。

 藤はさらに部屋の中へと入っていく。部屋の中へ散った血は乾いている。血の跡が襖の引き手についているのを見つけ開くと、奥にはもう一つの部屋があった。

 奥の部屋は先程のような惨状ではないが、畳の上に点々と血の跡が続いている。藤にはその跡が、血に濡れた刀を下ろした状態で、持って歩いたために落ちた血痕であることが分かる。

 血痕の続く先へと向かい、重々しい金具が打ち付けられた箪笥の前に立つ。そして、一つだけ開かれたままの、ひきだしの中を覗き込んだ。

 そこには、嶋が手がけた様々な家の図面や、所在等が書かれた紙がしまわれていた。彼の几帳面な性格を象徴するように、それぞれの紙には家ごとに番号が振られている。

 紙の束を捲っていた藤の手が止まる。

 二四番の家の情報が、失われていた。
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