万人の災厄を愛して

三石成

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第四章 日常の瓦解

三 川下り

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 翌日、藤は船に乗っていた。

 此度は、藤と浄が白虎から松柏へ来たような、海を渡るための大型の帆船ではない。川を移動するための手漕ぎの屋形船だ。

 川を上る時には船員が総出で櫂を漕ぐが、今は松柏ホから松柏の町へと下っているので、船は漕ぎ手なしに、穏やかな川の流れに従って順調に進んでいる。

 役人たちの本来の予定では、今日はそのまま馬で一日かけて陸地を突っ切り、松柏イという港まで向かって、そこから船で都へ帰る予定だった。しかし、馬での移動はあまりに藤への負担が大きすぎる。

 梧は昨日、役人から朝廷の思惑を聞くと、松柏の町へ船を使って川を下り、そこからさらに船を乗り換えて都へ戻る道を提案した。さらに、その全ての手配を、松柏の組長である梧自ら務めるとまで申し出た。役人たちにとって、これ以上心強いことはない。

 はじめは困惑していた役人だったが、梧の他意のなさそうな様子を見て、結局はその案に乗ることになった。梧の思惑は不明だが、朝廷に恩を売っておいて損はないという勘定をした上での行動だと判断したのだ。朝廷の者らしい、傲慢な物事の理解の仕方だ。




 そして今、揺れの少ない船の床の上で寝ている藤の横には、のんびりと船の縁に凭れ掛かり、川の流れを眺めている梧が座っていた。

 役人と武士たちは、少し離れた位置で賑やかに酒盛りをしている。

「お前。いったい、何のつもりだ」

 未だに朦朧とする意識の中で、しかし藤は梧を見上げ、問いかける。

「特に何のつもりもないけど? 見かけた怪我人を放っておくことができなかっただけさ。医者も言っていたけど、下手をすれば死ぬよ、君」

 川の流れから視線を逸らさぬまま、梧は気負った様子もなく答える。

「わたしのことを、知らないのか」

「藤、ね。昨日まで名前は知らなかったけど。もちろん、存在は知っていたよ、白虎の羅刹、浄は相棒と行動を共にしているとね。まあ、どうやら相棒なんてものじゃなかったみたいだけど」

 梧は口角を上げ、意味ありげに笑った。暗に浄との肉体関係を揶揄されても、藤は動じることなく浅く息を吐き出す。

「わたしたちは、松柏ソの……」

「私が知らないと思うのかい?」

 藤が言いかけた言葉を、梧は遮る。松柏ソ近くの集落。そこは、月のない夜に藤と浄が共に壊滅させた場所。松柏の組員も、組員ではなかった者も皆殺しにした。無論、その話が松柏組長の耳に入っていない訳がない。

 藤は口を噤んだ。代わりに梧が言葉を続ける。

「私も事件の報を受けて、実際にあそこへ向かったよ。可哀想だった、何も組員の家族まで殺すこともなかっただろうに。ただ、実に白虎らしいやり方だと思ったね」

 梧は浅く息を吐き出すと、ようやく川から視線を離して藤の方を見た。梧の瞳には、怒りではなく、哀れみに近い穏やかな色が浮かんでいる。

「君たちが松柏のどこかにいるという情報も入ってきていた。でもね、私は君たちを探す気はなかった。興味がなかったんだ」

 松柏の組長という立場であれば、集落を壊滅させられた報復をするにしろ、浄の強さに惹かれ利用したがるにしろ、藤と浄を追うのが普通だ。「興味がない」という言葉は意外なもので、藤は軽く眉を上げる。

 梧は、変わらず穏やかな表情のまま藤を見つめている。

「君たちは組に命じられて任務を遂行していただけ。加えて、君たちは白虎から抜けたというじゃないか。そんな君たちを捕らえて何になる? 松柏ソの集落は可哀想だったが、あれは白虎に対する私の政策の至らなさが招いた悲劇だよ」

 その言葉の一言一句を聞き、藤はゆっくりと口内に溜まった唾液を嚥下した。藤はかつて、自身が号へ言い放った台詞を思い出す。

 「お前は刀で斬られたら、その刀を恨むのか」と。似たようなことを言う者がいるとは思っていなかった。胸の奥が締め付けられるような感覚がして、眉を寄せる。そこには、自身の決して赦されない、そして赦せない罪の核心が含まれている。

「浄のことを、利用しようとは思わなかったのか」

 藤は掠れた声で問いかける。梧は軽く笑いながら肩をすくめた。

「頼まれればどんなことでもやる羅刹? 金をやるからもらってくれと言われたって、御免こうむるね。そんな者を近くに置いておくなんて、無謀にも程がある。だから寿は痛い目を見たんだろうさ。賢者は過去から学ぶべきだ」

 少し離れた所で、笑い声が上がった。酒が入って上機嫌になっている役人と、武士たちの声だ。梧は彼らの方をちらりと見ると、僅かに声を低めた。

「彼らも羅刹のことを甘く見すぎている」

「どうして奴らがわたしのことを都へ連れて行こうとしているのか、聞いたのだろう。教えてくれないか」

 藤もあわせて声を潜める。梧はどこか悪戯めいた色を浮かべた眼差しで、藤のことを見返した。

「羅刹といっても人の子だね。朝廷は、君が羅刹の唯一の弱点だと判断したみたいだよ。君を手中に収めてさえいれば、羅刹を思うままに操れると考えているみたいだ。決して裏切らないなら、浄という男はあまりにも利用価値があるからね」

 梧の言葉を聞き、藤は一瞬不意をつかれて目を瞬かせた。そして、こみ上げる笑いに肩が揺れる。笑えば全身が痛むが、それでも笑いを堪えきれない。

「何がおかしいんだい?」

「わたしが浄の弱点だと……? 見当違いも甚だしい。あいつらは何の役にも立たない男を迎えに来て、わざわざ都まで運んでいるというわけだ」

 吐き捨てるように言いながら、笑みを浮かべる瞳が、じわりと潤んだ。

「あいつはわたしのことなど、何とも思っていやしない。通りすがりの誰かにわたしを殺せと言われれば、浄は何の躊躇もなくわたしを斬る。そういう男なんだ、あれは」

 痛みを堪えながら、藤は左手を上げると、目元を隠すように手の甲をあてた。そこに嵌っていたはずの竹の腕輪は、竹林の家に置き去りになっている。

「わたしは、ただ都合の良いだけの愚かな男だった」

 目元にあてた拳が、小刻みに震える。

 黙って藤の様子を見守っていた梧だったが、そんな藤の手に、そっと自身の手を重ねた。

 突然体温の低い滑らかな手に手を握られ、藤はぎょっとして梧を見返す。梧の柔和な顔には、穏やかな、しかし油断ならない笑顔が浮かんでいる。

「私は、そうは思っていないけどね」

 梧は話しながら、藤の指と自身の指を絡めるようにして。藤が手を引こうとしても、離さない。

「どういう意味だ」

「浄はきっと、何をしてでも君を手放さないよ。何をしてでも、ね」

 梧がゆっくりと動かした親指の腹が、藤の人差し指の側面を意味ありげに辿る。その手付きと眼差しに、浄と同種のものを感じて、藤はビクッと体を震わせた。

 その反応に満足げに笑って、梧は藤の手を開放する。

「お前……何を考えてる」

 藤はゾワリと粟立った自身の手を、もう片方の手で庇う。

「私が考えてるのは、誰に恩を売っておくのが一番良いのかってことだけだよ」

 底が知れない梧の言葉に、藤は再び眉を寄せていた。
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