蒼穹(そうきゅう)の約束

星 陽月

文字の大きさ
58 / 74

【第58話】

しおりを挟む
 正吉は布団を出ると、隣で眠る弟を起こさぬように、枕元の軍服に着替えはじめた。
 身支度を整え布団を上げると、そっと弟の顔を覗きこんだ。

「正雄、元気でいるんだぞ。兄ちゃんは必ず帰ってくるからな」

 小さな声でそう言い、静かに障子を開けて部屋を出た。
 玄関に行くと、上がりがまちに、笹の葉に包まれた握り飯が置かれていた。
 紐の結び目のところには、なにやら折りたたまれた一枚の便箋が挟まれている。
 手にすると、握り飯はまだ暖かかった。
 正吉は紐の結び目から便箋を抜き取った。
 開いてみると、それは母からの手紙だった。
 母らしい、しっかりとした文字で書かれてあった。

 正吉、母さんは見送りには行きません。
 だってあなたは、戦争に行くのではなく、隣町へ用事をすませに出かけていくだけなのですから。
 それなら、あなたは間違いなく帰ってくる。
 私はなにも心配することなどありません。
 だからあなたも、家族のことを考えることはないのですよ。
 そして早く帰ってきなさい。
 いいですね。
 真っ直ぐ寄り道などせずに帰ってきなさい。
 父さんも母さんも、そして正雄も、あなたの帰りを待っているのですから、必ず、必ず帰ってきなさい。
 ほんとうは、もっと書きたいことがたくさんあるのだけれど、きっと女々しくなっていくばかりでしょう。
 それではあなたに笑われてします。
 母としての想いは、この胸にしまっておきます。
 おにぎりを握っておきました。
 行く途中でお食べなさい。
                                       母より

 ほんの短い手紙だった。
 だが、そこには、気丈な母のやさしさが込められていた。
 正吉はこみ上げる涙をぐっとこらえ、手紙を折ると握り飯と一緒に軍服の懐に入れた。
 そして靴を履いてふり返り、

「父さん、母さん。行ってまいります」

 姿勢を正し、閉じている障子に向かって別れの挨拶をした。
 玄関を出ると、昇り始めた陽の光がまばゆく耀いていた。
 その朝日に向かって、正吉は歩き出した。
 すると、

「兄ちゃん!」

 背後に弟の呼ぶ声が聴こえた。
 正吉がふり返ると、朝日に照らされた寝巻き姿の弟が駆け出してきて、胸の中に飛びこんできた。

「どうした、正雄」

 きつく抱きしめてくる弟の頭を、正吉はやさしくなでた。

「兄ちゃん、こんな朝はやくにどこへいくの? へいたいさんのかっこなんかして、せんそうに行くんか? だから、ゆうべはみんな泣いてたんか?」
「…………」

 正吉は何も答えることができなかった。

「なァ、兄ちゃん。もしそうなら、おいらいやだよ。おいらを、ひとりぼっちにしないでおくれよ」

 胸が詰まる。
 正吉は弟の肩に手をやり、身体から引き離すと膝を折って屈んだ。
 弟の顔は涙に濡れていた。

「正雄、よく聞け。お前も男だろ。男はどんなに辛くても、我慢をしなくちゃいけないんだ。それに、お前はひとりぼっちじゃない。父さんや母さんがいる。兄ちゃんだって、どんなに遠いところにいても、いつだってお前のことを想ってる。だから泣くな、な。いいか? 兄ちゃんが留守のあいだは、父さんと母さんの言うことをちゃんと聞いて、いい子でいなきゃだめだぞ。兄ちゃんはすぐに帰ってくるから。いいな」

 そう言い聞かせると、弟の顔を指先で拭ってやり、正吉は立ち上がった。

「さあ、男らしく、兄ちゃんを見送ってくれ」

 笑顔を向けて、そのまま正吉はうしろ向きに歩き出した。

「いってらっしゃい。兄ちゃん」

 正雄の顔がくしゃくしゃになる。
 正吉は大きくうなずき、足を止めると、背筋を伸ばして敬礼をしてみせた。
 正雄もそれを真似る。

「元気にしていろよ!」

 最後にそう言うと、正吉は弟に背を向け走り出した。

「兄ちゃーん!」

 走りゆく兄の背に、正雄が叫ぶ。
 だが、その声に正吉はもうふり返ることはなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

一億円の花嫁

藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。 父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。 もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。 「きっと、素晴らしい旅になる」 ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが…… 幸か不幸か!? 思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。 ※エブリスタさまにも掲載

ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした 会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。 シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。 無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。 反社会組織の集まりか! ヤ◯ザに見初められたら逃げられない? 勘違いから始まる異文化交流のお話です。 ※もちろんフィクションです。 小説家になろう、カクヨムに投稿しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
胸がきゅんと、甘い音を立てる。 相手は、妻子持ちだというのに。 入社して配属一日目。 直属の上司で教育係だって紹介された人は、酷く人相の悪い人でした。 中高大と女子校育ちで男性慣れしてない私にとって、それだけでも恐怖なのに。 彼はちかよんなオーラバリバリで、仕事の質問すらする隙がない。 それでもどうにか仕事をこなしていたがとうとう、大きなミスを犯してしまう。 「俺が、悪いのか」 人のせいにするのかと叱責されるのかと思った。 けれど。 「俺の顔と、理由があって避け気味なせいだよな、すまん」 あやまってくれた彼に、胸がきゅんと甘い音を立てる。 相手は、妻子持ちなのに。 星谷桐子 22歳 システム開発会社営業事務 中高大女子校育ちで、ちょっぴり男性が苦手 自分の非はちゃんと認める子 頑張り屋さん × 京塚大介 32歳 システム開発会社営業事務 主任 ツンツンあたまで目つき悪い 態度もでかくて人に恐怖を与えがち 5歳の娘にデレデレな愛妻家 いまでも亡くなった妻を愛している 私は京塚主任を、好きになってもいいのかな……?

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

✿ 私は彼のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい 

設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀ 結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。 結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。 それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて しなかった。 呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。 それなのに、私と別れたくないなんて信じられない 世迷言を言ってくる夫。 だめだめ、信用できないからね~。 さようなら。 *******.✿..✿.******* ◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才   会社員 ◇ 日比野ひまり 32才 ◇ 石田唯    29才          滉星の同僚 ◇新堂冬也    25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社) 2025.4.11 完結 25649字 

課長と私のほのぼの婚

藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。 舘林陽一35歳。 仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。 ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。 ※他サイトにも投稿。 ※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。

処理中です...