蒼井倫太郎の愉快な夏

糸坂 有

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其の四 奇術師

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 生きていれば、人間、悩みは尽きない。
 子供も大人も、ライフステージが変わったところで悩みが消えるわけではなく、いくら完璧に見える人間であっても、大なり小なりコンプレックスを抱えていたり、己の境遇、人間関係に不満を持っていたりと、現状に満足のいっている場合はそう多くはない。
 安藤夏樹もそうだった。
 自他共に認めるイケメン、かつ文武両道なんて言われる彼であっても、悩みはある。
 例えば名前だ。
 なっちゃんと親しみを込めて呼ばれている彼は、名前を聞いても性別がはっきりと分からないこの名前を、あまり気に入ってはいなかった。夏生まれだから夏樹、と言われても、安藤は気怠い夏があまり好きではない。
 彼が気に入るとすれば、剛力つよし、といったような力強い名前だ。強さに対する憧れは幼い頃からあるものの、具体的なビジョンはなく、表面上だけでも取り繕っていたいという思いでいた。
 また、文武両道と言われるものの、全てにおいてトップを取れないことに対しても、中途半端でしょうもないと思っている。
 全てをそつなくこなすけれど、中の上から上の中といったところで、一番になったことはない。昔からずっとやっている剣道でも、学校の成績でも、そこそこなのだ。悪いわけではなくとも、なんだか中途半端。
 安藤は、本当に欲しいと思ったものを手に入れたことがない。
 今までも、きっとこれからも。
 しょうもない人生である。
「なっちゃんは目標が高すぎんのちゃう?」
 感情の浮き沈みのない低い声は、顔を見ずとも誰のものか分かる。
 また適当なことを言っている、と思いながら、安藤は小さく息を吐いた。
 安藤と同じクラスの石井力人は、安藤の一つ後ろの席だ。
 夏休みが終わり、学校が始まっても、相変わらず石井は安藤の一つ後ろの席で、クールな顔でいた。
 同じクラスになって約半年、夏休みを挟んでも、石井は何も変わらない。日焼けをしたとか、髪を切ったとか、背が伸びたとか、少しくらい何かあっても良さそうなものの、安藤から見た石井に変化はなかった。
 安藤は椅子に横向きに座って、石井へ視線を投げた。
「そんなこともないけど」
「ふうん」
 適当な相槌を売ってから、石井は何気なく机の上にあった消しゴムを手に取った。どこにでもある、ごく普通の消しゴムだ。
 石井はじっと見つめると、消しゴムを勢いよく口に入れ、もぐもぐと咀嚼した。美味しそうに飲み込んだと思うと、眉間に皺を寄せ首を傾けた。とんとん、と頭を叩くと、右耳から消しゴムを取り出す。にっこりとしてそれを机に置いて、今度は口からトランプを吐き出す。相変わらずである。
「器用やな」
「タネも仕掛けもありません」
 基本的にクールなタイプの石井だが、手品を披露する時だけやたらと表情豊かになる。気味の悪いほどだ。どちらが彼の本性なのか、安藤はよく分からなかった。
「ほんまに仕掛けなかったら、ただのびっくり人間やな」
「お、ほーら見ろ、親指が消えたで」
「急にクオリティ落ちたな」
 クラスメイトたちからマジック野郎と呼ばれる石井は、マジックに関して学内一位を自称する。馬鹿だが手先だけは器用なのだ。石井は奇術部に所属し、毎日マジシャンの夢を追いかけている。暇さえあれば、ずっとマジックを披露するのだ。
 本人に言うことはないけれど、安藤は石井がとても羨ましかった。
 自分が何者で、何を目指しているのかがはっきりしているからだ。
 周りから変な奴だと言われても、真っ直ぐ自分の道を突き進もうとする彼が、安藤はとても羨ましかった。
 悩みがあっても、現状に不満があっても、打破の仕方が分からない自分とは大違いだ。
 安藤夏樹は何を目指し、何のために生きているのか。
 分からないまま、高校一年生の夏は過ぎ去ってしまう。
 石井はトランプを仕舞い込むと、表情を消す。
「人間、悩みはつきものやな」
 石井の突然の言葉に、安藤は思考を読まれたのかと思い、言葉に詰まる。
「なっちゃんには分かるやろ。俺、今人生最大の壁にぶち当たってんねん」
「いや、悩みなんかなさそうな顔してんなーってずっと思ってた」
「まじ? 俺、めっちゃ暗い顔してんで?」
「いつものことやん?」
 マジックをしている時以外はずっとこんな顔だと指摘すれば、石井は心なしか肩を落とした。
「俺の悩みを分かってくれる人なんか、この世にはおらんねんな」
「めんどくさ」
 他人の悩みなんて、理解出来るはずがない。
 自分の悩みを他人と共有しようだなんて、安藤は思ったこともない。恥を晒したくはないし、理解してもらいたいとも思わない。
 安藤は前を向くと、次の授業まで何分あるかを確認する。あと三分ほどだ。
 それまでぼんやりしていようと思って頬杖を付くと、すぐ目の前で会話が始まった。
「なあ蒼井君」
 口を開くのは、黒羽一輝だ。
 安藤の斜め前の席に座る黒羽一輝は、出席番号一番、左隣の席の蒼井倫太郎にやたらと絡む。夏休みを挟んだところで、それは変わらなかった。相変わらずの光景に、安藤はつい目をやった。
「蒼井君は夏休みに何してた? 僕とは一回も会わなかったけど」
「何で会う必要がある」
「つれないな」
 そっけない蒼井に笑顔を向ける黒羽を見つめ、よくやる、と安藤は内心で思った。
 出席番号一番、真面目で大人しい優等生である蒼井倫太郎は、いつも静かで、頑なな貝のように口を開かない少年だ。言い方を変えれば、地味、空気。関東の方から引っ越してきたという大して印象のない彼は、クラス内でも存在感は薄い。同じクラスになって半年近く経つが、ほとんど関りはない。こんなに席が近いのに、驚くほど接点がない。あるとすれば、プリントの受け渡しくらいだ。安藤とだけではなく、蒼井はクラスメイトと話したことすら、数えるほどだった。
「僕は夏休みを満喫したよ。いやあ、楽しかったなあ」
「…………」
「とはいえ、学校が始まっても楽しいことは盛りだくさんだからねえ」
「…………」
 蒼井は、完全に黒羽を無視していた。明後日の方向を見て、むっつりとしている。
 絡まれるのが嫌なのか、黒羽が生理的に合わないのか、蒼井は黒羽を毛嫌いしているようなのである。特定の人間とつるむことをせず、基本的に他人への好意も嫌悪も持っていなさそうな蒼井にとって、黒羽はある意味特別な存在なのだ。いつからか、最初からか、蒼井は黒羽に対してだけ素っ気ない。
 沈黙を通す蒼井へ、黒羽は楽しそうに話しかけ続けていた。変わらない光景である。
「一方通行やな」
 そっと苦笑いをしていると、ぼそりと背後から声が聞こえた。石井も見ていたようだ。
 前の二人には聞こえなかったようで、反応する素振りはない。
 安藤も前を向いたまま、確かにと同感する。
 そもそも、黒羽は相手にされない蒼井に対して、なぜここまで絡もうとするのだろうか。明らかに嫌われている人間に絡んでいくメリットなんて、あるとは思えない。
 同じ、関西弁を話さない者同士ということで、勝手に親近感を覚えているのだろうか?
 蒼井は終始黒羽に素っ気なく、仲良くしようなんて感情は一切見られない。
 理由なんて知らないけれど。
 授業が始まり、二人の会話は強制的に終了となった。いや、最初から会話など成り立っていなかった。
 黒羽はなぜか満足気で、蒼井は不機嫌そうに眉を潜めていた。
 安藤は教科書とノートを取り出して、ふと前方を見る。
 蒼井の背中と、黒板と、先生。
 機嫌の良さそうな黒羽と、教卓。
「…………」
 相変わらずの光景に、ふいに違和感を覚えた。
 しかしそれは一瞬で、すぐに消え去る。
 不思議な感覚に、安藤は頭を振った。
 いったい今のは何だ?
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