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其の四 奇術師
二
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放課後、学校を出た安藤は、駅の改札を前に、はたと気付く。
定期券がない。
そこでやっと思い出した。
ロッカーにしまった後、鞄に入れるのを忘れたまま学校を出てしまったのだ。
しまった、と呆然として立ち尽くす。
視線だけで後方を見た。
学校から駅までは、徒歩五分ほどである。戻ったとしても、大したロスにはならない。どうせ家に帰ってもごろごろするだけだ。
小さく嘆息した安藤は、今歩いて来た道を戻ることにした。
間抜けだと内心で思いながら、そんな感情に気付かない振りをする。
駅へ向かっていく学生たちの視線を受けながら、学校に舞い戻るのはやはり間抜けだったが、仕方のないことだ。
クラスメイトの女子とすれ違い、「なっちゃん!」と笑顔で手を振られたのが一番堪えがたかった。向こうにそんな気がないことが分かっていても、だ。
ぎこちない笑顔で手を振り返すと喜んでくれたようだった。
学校に着き、ゆっくりと教室へ向かう。
運動部の声が聞こえた。人気のない橙色は、良い景色とは言い難い。
重怠い空気は、吸っているうちにだんだんと脚が鉛にでもなりそうだった。
さっさと取り戻して帰ってしまおう。
そう思った時、安藤は立ち止まった。
「あれ、なっちゃん。どうしたん?」
不思議そうな声に顔を上げると、そこに立っていたのは石井だった。
「何や、りっきーか」
気の抜けた声が出る。石井力人だから、りっきー。石井をこんな風に呼ぶのは、校内では限られた人間のみだ。
今頃は奇術部でマジックの練習でもしているところだろうに、どうしてこんなところにいるのか不思議に思っていると、石井は大股で近づいて来た。
「なっちゃん部活は?」
こちらの質問を奪われたような気持ちだったが、安藤は答える。
「休みやねん。休養中。りっきーこそ奇術部は?」
「休養中って、何。怪我でもしてんの?」
石井は、安藤の質問に答えることはなかった。代わりに質問をしてくる。
「あー、まあ。夏休み中の練習で、足怪我してな。日常生活は問題ないけど」
「へえ、そやったんか。知らんかったわ。なら女子たちは残念やな。しばらくなっちゃんの剣道着姿、見れへんのか」
安藤が所属する剣道部は、部員の数としてはバスケやサッカーに比べるとかなり劣る。しかし、ギャラリーは多かった。
安藤は、クラスの女子以外からも人気が高いのである。バレンタインにもらうチョコは、それなりの数を誇っている、と安藤は思っていた。
いつも体育館の端の方で練習を見ている女子たちを思い出し、安藤は苦笑いをする。
「全員が俺目当てちゃうやろ」
「お。珍しく謙遜すんのな」
「珍しくないわ」
安藤は、特別強いわけではない。ほどほどには強いが、一番には決してなれない。上には上がいる。いくら練習しても、敵わない相手はたくさんいる。
誰だっていつだって、強い奴が一番格好良い。
「俺なんか、せいぜいクラスで二番目のイケメンやから」
「それは謙遜か? え、ていうかクラスで二番目やと思ってたん? てっきりなっちゃんは、自分が一番やと思ってるんやとばっかり」
「まさか」
「一番は誰なん? 俺?」
「何でりっきーやねん。そりゃあもちろん」
安藤は名前を言おうとして、固まった。
このクラスで一番のイケメンとは?
またもや違和感に襲われ、口を噤む。
その様子を見た石井は、肘で安藤を小突いた。
「やっぱ自分が一番やと思ってるんやんか」
安藤は、唇を尖らせる。違うと言いたいのに、言えない。さっきは二番目だとはっきり思ったのに、改めて考えると、安藤よりイケメンの生徒なんて、このクラスにはいなかった。
心の中に靄がかかっているようで、どうにもすっきりしない。
今日は調子が悪いのかもしれない。
勘違いだろうと思うことにして、「りっきーはどうしたん? 教室に忘れ物?」と声をかける。
石井は力強く頷いた。
「トランプ忘れてん」
「それは間抜けやな」
自分も人のことは言えないと思いながら、苦笑する。
「誰にだって、こういう時はあるもんや。完璧な人間はおらんからな」
石井は廊下を大股で歩くと、教室の前に到着する。扉に手をかけようとして、ふいに動きを止めた。
「どうした」
声をかけながら、安藤も扉の側へ近付いた。すると、至近距離で石井と目が合う。不審そうな目をしていた。
「音がする」
声を潜ませ、石井は言う。
確かに、がさがさと何かを漁るような音が聞こえた。
掃除も終わったような放課後の教室で、誰かが何かをしている?
不思議に思っていると、石井ががらりと扉を開けた。
異空間に繋がっているなんてことはなく、ありふれたいつもの教室だ、と思った時、安藤は呆けた。
蒼井倫太郎が、安藤の机をひっくり返していたからだ。
何で?
安藤は馬鹿面を晒した。
蒼井はなぜか、安藤の机の中を探っていたのだ。
「…………」
ぱっと蒼井は顔を上げた。扉前にいる二人を見て、蒼井は何も言わなかった。
動きを止めるものの、表情すら変えることはない。
広がるのは沈黙だ。
どういう状況?
安藤は混乱した。
蒼井は何をやっている?
石井はおもむろに広げたハンカチの中から、一輪の薔薇を取り出した。石井も動揺しているようだ。いや、いつも通りか。
「え、っと、蒼井君、どうかした?」
声をかけると、蒼井は無表情のまま両手を上げる。降参、ということだろうか。
無言が、重たくのしかかる。
何かを盗もうとした?
何かを探していた?
安藤は考えるが、どれもしっくり来ない。
蒼井とは大して会話をしたことはないが、彼が盗みをするなんて思えない。そもそも、安藤の机には、授業のプリントか教科書くらいしか入っていない。
「はは」
石井は隣で、無表情で笑う。
「蒼井君、間違えてんで。そこ、なっちゃんの席。蒼井君の席は、一番前やで」
表情のない声が教室に響く。虚無だった。
石井は手に持ったままの薔薇を宙に投げると、ステッキに変えた。そしてステッキを宙に放り、からんと床に落とす。
「何してんの?」
困惑した石井の声は、責めているというよりは、心から理由を知りたがっているようだった。
安藤もそうだ。
地味で空気的でいる蒼井倫太郎が、なぜ一人で教室に残り、こんなことをしているのか。
湧き上がって来るのは探求心ばかりだ。
橙色の教室で、ぎこちない距離感の学生服の少年が、三人。
現実感のなさに、安藤は夢見心地のような気分になってくる。白昼夢でも見ているのだろうか。
「確かにここは僕の席ではありません」
やがて聞こえたのは、他人行儀な声だった。会話をしようという意思はあるようで、少しほっとする。
石井は「じゃあ何で?」と話を続けた。
「なっちゃんの机なんて探っても、良いもん一つもないで? なあ?」
「まあそうやけどさあ」
寡黙な蒼井の口は、なかなか開かない。言い訳を考えているというよりは、石井と安藤の人間性を見極めるような、品定めをする目つきだった。この状況で、蒼井の方が立場が上だというのだ。居心地が悪くて、つい目を斜め上に逸らしてしまう。
外から運動部の声が聞こえてきて、やがて、蒼井はぽつりと言った。
「僕が覚えている限り――ここは、安藤さんの席じゃなかったからです。夏休み前までは、別の人物が座っていました。だから、何かの間違いじゃないかと思って、手がかりはないかと探っていました」
安藤はまたもやぽかんとした。
蒼井が言っている意味が、分からなかった。
安藤の記憶では、夏休み前から席はずっと変わっていない。安藤は、ずっと彼の一つ後ろの
席で授業を受けていた。蒼井倫太郎の背中を、見続けていたはずだ。
どういうこと?
安藤と石井は目を合わせる。石井は眉間に皺を寄せている。
呆けた安藤に視線を送った蒼井は、やがて目を伏せた。
落胆の色が目に見えるようで、なんだか申し訳ない気分にさえなってくる。
石井は黙っていて、口を開く様子はない。無表情のこの男の思考なんて、安藤に読めるはずもない。
蒼井が下手な嘘を吐くとは思えなかった。蒼井のことなんて、安藤は一つも知らないけれど、何となくそうだと思った。もし、万が一やましいことをしていたとしても、こんな訳の分からない言い訳をするはずないだろう。
「頭が……イカれてる……?」
石井は、無表情のまま困惑していた。
蒼井倫太郎の頭がイカれているのなら、確かに話は簡単だ。
安藤の席は、ずっと安藤のものだったのだから。
「僕からすれば、そっちの方がよほど頭がイカレてる」
蒼井は吐き捨てるように呟いて、視線を上げた。
大人しい、地味で空気。
そんな印象とは程遠い、強い意志が宿った瞳は、はっとするほどに強烈だった。眩暈がしそうな予感に、安藤は思わず足を踏ん張る。大きな何事かを成し遂げようとしている先駆者のような輝きが、確かに蒼井を覆っていた。
彼らしくない物言いに、安藤は静かに汗をかいた。
蒼井のいつもの静かな立ち振る舞いとは程遠い。いや、別人のようだ。
いったい、蒼井の身に何が起こっているというのだろうか?
「蒼井君って、もしかして……じゃんけん、した?」
ぽつりと聞こえたのは、石井の声だ。
石井は確かに、じゃんけんと言った。
じゃんけんとはつまり、グーチョキパーの、あれである。
「じゃん、けん?」
こっちもこっちで、相当頭がイカレているらしい。
石井が変な奴だということくらい知っているけれど、今は正気の沙汰ではない。まさかこれが、マジックに関する何かというわけもでもあるまい。
安藤は気をしっかり持つことにして、なるべく優し気な表情を作り、石井の肩をぽんと叩く。
「とりあえず落ち着け、な?」
石井は安藤を黒い瞳に映すと、数秒してから頷いた。
「……確かに落ち着いてはなかったな。話の順番間違えた」
分かってくれたかと思いきや、大して理解は得られていないようで、安藤は続けて口を開きかける。すると、蒼井がそれを遮った。
「何の話だ」
蒼井は眉を潜めていた。
それも無理はない。石井のじゃんけん話は、突然降って湧いて来たものだからだ。
石井は、蒼井の表情を見ると、あれ、と呟く。
「違った? じゃんけん少年じゃない? いや、いやな。俺もやねん。頭がイカレてるのは俺も同じでな、俺がやってる奇術とは大違いの、まじもんのやつ」
「おいりっきー、何言ってんの」
石井は少し興奮しているようだった。普段の様子とも、マジックを披露している時の様子とも違う、異様な気配である。
「今の俺の悩みって、弟が弟じゃないってことやねん」
「は?」
安藤は思い出す。
石井には、年の離れた小学生の弟がいた。まだ小学一年か二年くらいで、可愛い可愛いと石井は無表情で語っていた。ただ、ある日からぱったりと聞かなくなっていた。それを、安藤は違和感とすら思わなかった。大して、石井との付き合いがあるわけでもなかったからだ。夏休みを隔てたことで、安藤はすっかり忘れていた。
「それで?」
蒼井は興味が出たようで、石井を促す。
「三か月くらい前かな。弟が、見た目は弟やのに、中身が全然別人になっててん」
安藤は言葉を失った。しかし話は続く。
「分かったのは俺だけや。奴に違うやろって言ったら、本性現しよった。あいつ、上手いこと猫かぶってて、親の前では一向にボロ出さへん。こんなん有り得へんと思ってんけど、ほんまやねん。こいつ弟ちゃうって言ったら、親は俺を変な目で見たわ。弟は、俺の可愛い拳ちゃんは、あんな訳の分からん奴ちゃうねん!」
石井拳。
そういえば、弟はそんな名前だったと聞いたことがある。力人にしろ拳にしろ、強そうで良い名前である。
「それとじゃんけんと、何の関係がある?」
蒼井は冷静だった。石井の言葉を、否定も肯定もせず、判断をしようとしている。
「弟は、じゃんけん小僧とじゃんけんをして負けたから、身体盗られたんや」
「はあ?」
思考が追い付かず、安藤は素っ頓狂な声が出る。
蒼井は考え込むように腕を組んだ。
「聞いたことはあってん。妖怪、なんかな。じゃんけん小僧とかいうやつ。弟が言っててん。最近、そういうのが流行ってるって。俺は全然知らんかってんけど。じゃんけん小僧は、じゃんけんして負けたらこっちの願いを叶えてくれるけど、負けたら向こうの願いを叶えなあかんっていうやつやねん。弟は、不運にも小僧に遭遇してしまった。それで、気軽な気持ちで勝負してしまって、負けたんや。そうなると、相手の願いを何でも叶えなあかんようになる。それで、拳ちゃんは身体を盗られた」
「そんなアホなこと」
「嘘やと思うか」
口を挟んだ安藤に、石井は強い口調で言う。
「嘘やったら良いって、何度も思いながら寝たよ。でもこれが現実やねん。何回寝て、何回起きてもこれが現実や。変わらへん。夢とは違う」
初めて聞く真剣な声は、悲痛である。
とても現実とは思えない。
こんな石井を見るのは初めてだった。
嘘を吐いているとは、とうてい思えない。
しかし、現実だとも思えなかった。
じゃんけん小僧を頭に思い浮かべて、安藤は宙を見つめる。
妖怪なんて、想像上のものだとばかり思っていた。
この世には、本当にそういうものがいるのか?
石井は苦し気な声で続けた。
「俺もじゃんけん小僧に勝負を申し込んだ。勝ったら拳ちゃんを返してくれってな。俺の身体と引き換えでも良いからって。結果はあいこやった。普通、決着が着くまで勝負するやろ。でもな、奴は一回こっきりやって言って、俺とはもう勝負しいひんって言った。じゃんけん小僧との勝負は、誰であっても何があっても一回きりやねんて。そんなん知らんやん」
石井の視線は、蒼井に向けられた。
蒼井は床を睨み付けるようにしていて、やがて口を開いた。
「僕はじゃんけん小僧なんか知らない」
もし蒼井の探し人が、じゃんけん小僧に身体を盗られたのだとしたら、状況は石井のケースと同じになる。
しかし蒼井は、知らないと断言した。
石井の眉が、ゆるゆると下がっていくのを見た。
この男の情けない表情は、かなりレアである。
突っぱねられたことで、石井は「そうか」と残念そうに言った。
「じゃんけん小僧のせいかと思ったけど、そもそも状況もちょっと違ったな。そっちは、みんなの記憶すら残ってへんねんもん」
「……そもそも、彼は得体の知れない奴とじゃんけんなんかするタイプじゃない、面倒くさがるよ」
「そっか」
「僕ならやるかもしれないけど」
「はは、蒼井君ってそうなんや」
蒼井は視線を下げて、靴先を見ているようだった。醸し出される雰囲気が何となく不穏で、安藤は明後日の方向を見て後ろで腕を組む。
「蒼井君は勝負をしてへんのやったら、やってみる価値はあるかもしれんな」
石井は、顔を上げた蒼井の前に人差し指を突き出した。
「一回こっきりの、真剣勝負」
探し人がどんな理由で消えたかは知らないが、じゃんけん小僧と勝負をして勝てば、何でも願いを叶えてもらえる。
自分の身体が奪われるリスクを冒してでも、やりたいのならば。
安藤は、蒼井の瞳に映る石井を見た。
蒼井から見て、石井は天使に見えるのか、悪魔に見えるのか。
蒼井の返答がいったいどんなものか、安藤は黙って考えた。
少なくとも安藤は、自分を犠牲にしてまで誰かを救おうなど、考えたことがない。
蒼井の返答は早かった。
「そいつはどこにいる」
「俺の家やけど……今はまだ帰って来てへんかもな。普通に学校行ってるし」
「案内をしてほしい」
「それはいいけど……え、勝負すんの?」
「しない手はない」
即決である。
安藤はぽかんとした。本日何度目だというほどの馬鹿面をお披露目してしまっている。
言い出しっぺの石井ですら、「本当にいいの?」という顔をしていた。
「どうして僕がしないなんて言うと思ったんだ」
「そりゃあ、まあ」
蒼井が当たり前のような顔をしているので、石井は安藤へ視線を送って、「本当にいいの?」という顔をした。こっちに訊かれても困る。
とはいえ、確かに蒼井の返答は早すぎた。考える時間などないまま、勢いに任せたといった感じかもしれない。
「待ってや、蒼井君。もし負けたら、自分が身体盗られるかもしれんねんで? ちょっとくらい考えた方が良くない?」
安藤は言った。
誰だって、自分が大事だ。他人が死んでも世界は続くが、自分が死ねば世界は終わる。身体を盗られるなんて、いったい自分がどういう状況になるか分かったものではない。死ぬのか、意識が彷徨うのか、辛い目に合うのか。未知だ。石井の弟が今どういう状況にいるのか、考えたって分かる訳もない。
「僕の時間は無限じゃない」
蒼井はそれだけ言うと、鞄を背負った。さっそく行こうというのである。
意思は固かった。何を言ったところで、聞く耳を持たないだろう。
そのまま教室を出ようとして、安藤たちを振り返る。
「僕は勝つ」
続けた。
「彼を必ず見つけ出す」ぼ
胸の奥を真っ直ぐに突き刺すような言葉は、安藤の意識の底へ広がり、動揺を誘った。
何なんや、この人。
大人しいだけなんて、大間違いだ。これほどまでに情熱的な人間だなんて、思ってもみなかった。
蒼井倫太郎が見つけ出したいその人とは、いったい誰だ?
安藤には、どうやったってこんな熱など持てない。持ったことなどない、はずだった。
蒼井の目に映る誰かを見た時、安藤は不思議な感覚に襲われた。
ざわつくような、落ち着かないような。
知っているような。
「その人の名前は?」
安藤は尋ねた。
聞いたところで知っているはずがないと思いながらも、どうしても知りたいと思ったのだ。
「――――――」
蒼井は、喪失感に溢れた名を呟いた。
確かに、はっきりと声を聞いた。しかし、安藤はすぐに忘れてしまった。
知っている名だった気もするが、忘れてしまってはもう判断が付かない。
不思議な感覚だったが、それも一瞬にして駆け抜けていく。
「今、聞こえた?」
石井は神妙な顔をして安藤を見た。
安藤は首を横に振る。聞こえたけれど、何も覚えていないからだ。
何度も聞いた名前だった気がするし、口にしたことのある名前だった気もするけれど、もう何も分からない。
安藤は歯がゆい気持ちでいた。
いったいこれは何なのだ。
妖怪なんて。
人が消えるなんて。
蒼井は少し、悲しそうな表情になった。しかし気のせいだったと思うほどの間だけで、すぐに蒼井は力強い目になった。
安藤は好奇心が抑えきれず、もう一つ質問をする。
「その人は、どんな人やった?」
「変な奴だよ」
蒼井の視線が揺れる。
「一見スマートで気さくだけど、実は引きこもりの大食いで、ラーメンばっかり食べてる奴」
蒼井が見つめる先には誰かがいて、微かに蒼井は微笑んでいた。
安藤の心は揺れる。
確かに、そんな人がいた気がする。
いや、いたか?
「俺、全然覚えないなあ」
石井はあっけらかんとして腰に手を当てている。
安藤は必死に考えた。思い出せそうで、思い出せない。蒼井の視線を感じて顔を上げると、そこにはいつも通りの大人しい蒼井が立っていた。
「別にいいよ、僕は勝つから」
迷う安藤とは違い、蒼井の意志は固かった。
「案内してくれ」
善は急げというわけで、蒼井はさっさと進めようとする。迷いはないのである。
「……分かった」
石井は頷く。
一回きりの、じゃんけん小僧との勝負だ。
敗者である石井は、もう蒼井に何の言葉をかけようともしなかった。
歩き始めようとして、振り向く。
「なっちゃんは?」
勝負をする必要のない安藤は、しかしすぐに答えた。
「そりゃあ行くよ。じゃんけん小僧、見たいし」
「おっけー。じゃ、付いてき」
石井は言って、思い出したようにトランプを手に取った。いつの間にか、回収していたようである。
すっかり忘れていたが、石井は奇術部の活動中だったはずだ。忘れ物のトランプを取りに来ただけのはずである。
石井は手の中のトランプを魔術のように消してしまうと、にっこりと笑った。
「石井は、のっぴきならん理由で部活早退や」
定期券がない。
そこでやっと思い出した。
ロッカーにしまった後、鞄に入れるのを忘れたまま学校を出てしまったのだ。
しまった、と呆然として立ち尽くす。
視線だけで後方を見た。
学校から駅までは、徒歩五分ほどである。戻ったとしても、大したロスにはならない。どうせ家に帰ってもごろごろするだけだ。
小さく嘆息した安藤は、今歩いて来た道を戻ることにした。
間抜けだと内心で思いながら、そんな感情に気付かない振りをする。
駅へ向かっていく学生たちの視線を受けながら、学校に舞い戻るのはやはり間抜けだったが、仕方のないことだ。
クラスメイトの女子とすれ違い、「なっちゃん!」と笑顔で手を振られたのが一番堪えがたかった。向こうにそんな気がないことが分かっていても、だ。
ぎこちない笑顔で手を振り返すと喜んでくれたようだった。
学校に着き、ゆっくりと教室へ向かう。
運動部の声が聞こえた。人気のない橙色は、良い景色とは言い難い。
重怠い空気は、吸っているうちにだんだんと脚が鉛にでもなりそうだった。
さっさと取り戻して帰ってしまおう。
そう思った時、安藤は立ち止まった。
「あれ、なっちゃん。どうしたん?」
不思議そうな声に顔を上げると、そこに立っていたのは石井だった。
「何や、りっきーか」
気の抜けた声が出る。石井力人だから、りっきー。石井をこんな風に呼ぶのは、校内では限られた人間のみだ。
今頃は奇術部でマジックの練習でもしているところだろうに、どうしてこんなところにいるのか不思議に思っていると、石井は大股で近づいて来た。
「なっちゃん部活は?」
こちらの質問を奪われたような気持ちだったが、安藤は答える。
「休みやねん。休養中。りっきーこそ奇術部は?」
「休養中って、何。怪我でもしてんの?」
石井は、安藤の質問に答えることはなかった。代わりに質問をしてくる。
「あー、まあ。夏休み中の練習で、足怪我してな。日常生活は問題ないけど」
「へえ、そやったんか。知らんかったわ。なら女子たちは残念やな。しばらくなっちゃんの剣道着姿、見れへんのか」
安藤が所属する剣道部は、部員の数としてはバスケやサッカーに比べるとかなり劣る。しかし、ギャラリーは多かった。
安藤は、クラスの女子以外からも人気が高いのである。バレンタインにもらうチョコは、それなりの数を誇っている、と安藤は思っていた。
いつも体育館の端の方で練習を見ている女子たちを思い出し、安藤は苦笑いをする。
「全員が俺目当てちゃうやろ」
「お。珍しく謙遜すんのな」
「珍しくないわ」
安藤は、特別強いわけではない。ほどほどには強いが、一番には決してなれない。上には上がいる。いくら練習しても、敵わない相手はたくさんいる。
誰だっていつだって、強い奴が一番格好良い。
「俺なんか、せいぜいクラスで二番目のイケメンやから」
「それは謙遜か? え、ていうかクラスで二番目やと思ってたん? てっきりなっちゃんは、自分が一番やと思ってるんやとばっかり」
「まさか」
「一番は誰なん? 俺?」
「何でりっきーやねん。そりゃあもちろん」
安藤は名前を言おうとして、固まった。
このクラスで一番のイケメンとは?
またもや違和感に襲われ、口を噤む。
その様子を見た石井は、肘で安藤を小突いた。
「やっぱ自分が一番やと思ってるんやんか」
安藤は、唇を尖らせる。違うと言いたいのに、言えない。さっきは二番目だとはっきり思ったのに、改めて考えると、安藤よりイケメンの生徒なんて、このクラスにはいなかった。
心の中に靄がかかっているようで、どうにもすっきりしない。
今日は調子が悪いのかもしれない。
勘違いだろうと思うことにして、「りっきーはどうしたん? 教室に忘れ物?」と声をかける。
石井は力強く頷いた。
「トランプ忘れてん」
「それは間抜けやな」
自分も人のことは言えないと思いながら、苦笑する。
「誰にだって、こういう時はあるもんや。完璧な人間はおらんからな」
石井は廊下を大股で歩くと、教室の前に到着する。扉に手をかけようとして、ふいに動きを止めた。
「どうした」
声をかけながら、安藤も扉の側へ近付いた。すると、至近距離で石井と目が合う。不審そうな目をしていた。
「音がする」
声を潜ませ、石井は言う。
確かに、がさがさと何かを漁るような音が聞こえた。
掃除も終わったような放課後の教室で、誰かが何かをしている?
不思議に思っていると、石井ががらりと扉を開けた。
異空間に繋がっているなんてことはなく、ありふれたいつもの教室だ、と思った時、安藤は呆けた。
蒼井倫太郎が、安藤の机をひっくり返していたからだ。
何で?
安藤は馬鹿面を晒した。
蒼井はなぜか、安藤の机の中を探っていたのだ。
「…………」
ぱっと蒼井は顔を上げた。扉前にいる二人を見て、蒼井は何も言わなかった。
動きを止めるものの、表情すら変えることはない。
広がるのは沈黙だ。
どういう状況?
安藤は混乱した。
蒼井は何をやっている?
石井はおもむろに広げたハンカチの中から、一輪の薔薇を取り出した。石井も動揺しているようだ。いや、いつも通りか。
「え、っと、蒼井君、どうかした?」
声をかけると、蒼井は無表情のまま両手を上げる。降参、ということだろうか。
無言が、重たくのしかかる。
何かを盗もうとした?
何かを探していた?
安藤は考えるが、どれもしっくり来ない。
蒼井とは大して会話をしたことはないが、彼が盗みをするなんて思えない。そもそも、安藤の机には、授業のプリントか教科書くらいしか入っていない。
「はは」
石井は隣で、無表情で笑う。
「蒼井君、間違えてんで。そこ、なっちゃんの席。蒼井君の席は、一番前やで」
表情のない声が教室に響く。虚無だった。
石井は手に持ったままの薔薇を宙に投げると、ステッキに変えた。そしてステッキを宙に放り、からんと床に落とす。
「何してんの?」
困惑した石井の声は、責めているというよりは、心から理由を知りたがっているようだった。
安藤もそうだ。
地味で空気的でいる蒼井倫太郎が、なぜ一人で教室に残り、こんなことをしているのか。
湧き上がって来るのは探求心ばかりだ。
橙色の教室で、ぎこちない距離感の学生服の少年が、三人。
現実感のなさに、安藤は夢見心地のような気分になってくる。白昼夢でも見ているのだろうか。
「確かにここは僕の席ではありません」
やがて聞こえたのは、他人行儀な声だった。会話をしようという意思はあるようで、少しほっとする。
石井は「じゃあ何で?」と話を続けた。
「なっちゃんの机なんて探っても、良いもん一つもないで? なあ?」
「まあそうやけどさあ」
寡黙な蒼井の口は、なかなか開かない。言い訳を考えているというよりは、石井と安藤の人間性を見極めるような、品定めをする目つきだった。この状況で、蒼井の方が立場が上だというのだ。居心地が悪くて、つい目を斜め上に逸らしてしまう。
外から運動部の声が聞こえてきて、やがて、蒼井はぽつりと言った。
「僕が覚えている限り――ここは、安藤さんの席じゃなかったからです。夏休み前までは、別の人物が座っていました。だから、何かの間違いじゃないかと思って、手がかりはないかと探っていました」
安藤はまたもやぽかんとした。
蒼井が言っている意味が、分からなかった。
安藤の記憶では、夏休み前から席はずっと変わっていない。安藤は、ずっと彼の一つ後ろの
席で授業を受けていた。蒼井倫太郎の背中を、見続けていたはずだ。
どういうこと?
安藤と石井は目を合わせる。石井は眉間に皺を寄せている。
呆けた安藤に視線を送った蒼井は、やがて目を伏せた。
落胆の色が目に見えるようで、なんだか申し訳ない気分にさえなってくる。
石井は黙っていて、口を開く様子はない。無表情のこの男の思考なんて、安藤に読めるはずもない。
蒼井が下手な嘘を吐くとは思えなかった。蒼井のことなんて、安藤は一つも知らないけれど、何となくそうだと思った。もし、万が一やましいことをしていたとしても、こんな訳の分からない言い訳をするはずないだろう。
「頭が……イカれてる……?」
石井は、無表情のまま困惑していた。
蒼井倫太郎の頭がイカれているのなら、確かに話は簡単だ。
安藤の席は、ずっと安藤のものだったのだから。
「僕からすれば、そっちの方がよほど頭がイカレてる」
蒼井は吐き捨てるように呟いて、視線を上げた。
大人しい、地味で空気。
そんな印象とは程遠い、強い意志が宿った瞳は、はっとするほどに強烈だった。眩暈がしそうな予感に、安藤は思わず足を踏ん張る。大きな何事かを成し遂げようとしている先駆者のような輝きが、確かに蒼井を覆っていた。
彼らしくない物言いに、安藤は静かに汗をかいた。
蒼井のいつもの静かな立ち振る舞いとは程遠い。いや、別人のようだ。
いったい、蒼井の身に何が起こっているというのだろうか?
「蒼井君って、もしかして……じゃんけん、した?」
ぽつりと聞こえたのは、石井の声だ。
石井は確かに、じゃんけんと言った。
じゃんけんとはつまり、グーチョキパーの、あれである。
「じゃん、けん?」
こっちもこっちで、相当頭がイカレているらしい。
石井が変な奴だということくらい知っているけれど、今は正気の沙汰ではない。まさかこれが、マジックに関する何かというわけもでもあるまい。
安藤は気をしっかり持つことにして、なるべく優し気な表情を作り、石井の肩をぽんと叩く。
「とりあえず落ち着け、な?」
石井は安藤を黒い瞳に映すと、数秒してから頷いた。
「……確かに落ち着いてはなかったな。話の順番間違えた」
分かってくれたかと思いきや、大して理解は得られていないようで、安藤は続けて口を開きかける。すると、蒼井がそれを遮った。
「何の話だ」
蒼井は眉を潜めていた。
それも無理はない。石井のじゃんけん話は、突然降って湧いて来たものだからだ。
石井は、蒼井の表情を見ると、あれ、と呟く。
「違った? じゃんけん少年じゃない? いや、いやな。俺もやねん。頭がイカレてるのは俺も同じでな、俺がやってる奇術とは大違いの、まじもんのやつ」
「おいりっきー、何言ってんの」
石井は少し興奮しているようだった。普段の様子とも、マジックを披露している時の様子とも違う、異様な気配である。
「今の俺の悩みって、弟が弟じゃないってことやねん」
「は?」
安藤は思い出す。
石井には、年の離れた小学生の弟がいた。まだ小学一年か二年くらいで、可愛い可愛いと石井は無表情で語っていた。ただ、ある日からぱったりと聞かなくなっていた。それを、安藤は違和感とすら思わなかった。大して、石井との付き合いがあるわけでもなかったからだ。夏休みを隔てたことで、安藤はすっかり忘れていた。
「それで?」
蒼井は興味が出たようで、石井を促す。
「三か月くらい前かな。弟が、見た目は弟やのに、中身が全然別人になっててん」
安藤は言葉を失った。しかし話は続く。
「分かったのは俺だけや。奴に違うやろって言ったら、本性現しよった。あいつ、上手いこと猫かぶってて、親の前では一向にボロ出さへん。こんなん有り得へんと思ってんけど、ほんまやねん。こいつ弟ちゃうって言ったら、親は俺を変な目で見たわ。弟は、俺の可愛い拳ちゃんは、あんな訳の分からん奴ちゃうねん!」
石井拳。
そういえば、弟はそんな名前だったと聞いたことがある。力人にしろ拳にしろ、強そうで良い名前である。
「それとじゃんけんと、何の関係がある?」
蒼井は冷静だった。石井の言葉を、否定も肯定もせず、判断をしようとしている。
「弟は、じゃんけん小僧とじゃんけんをして負けたから、身体盗られたんや」
「はあ?」
思考が追い付かず、安藤は素っ頓狂な声が出る。
蒼井は考え込むように腕を組んだ。
「聞いたことはあってん。妖怪、なんかな。じゃんけん小僧とかいうやつ。弟が言っててん。最近、そういうのが流行ってるって。俺は全然知らんかってんけど。じゃんけん小僧は、じゃんけんして負けたらこっちの願いを叶えてくれるけど、負けたら向こうの願いを叶えなあかんっていうやつやねん。弟は、不運にも小僧に遭遇してしまった。それで、気軽な気持ちで勝負してしまって、負けたんや。そうなると、相手の願いを何でも叶えなあかんようになる。それで、拳ちゃんは身体を盗られた」
「そんなアホなこと」
「嘘やと思うか」
口を挟んだ安藤に、石井は強い口調で言う。
「嘘やったら良いって、何度も思いながら寝たよ。でもこれが現実やねん。何回寝て、何回起きてもこれが現実や。変わらへん。夢とは違う」
初めて聞く真剣な声は、悲痛である。
とても現実とは思えない。
こんな石井を見るのは初めてだった。
嘘を吐いているとは、とうてい思えない。
しかし、現実だとも思えなかった。
じゃんけん小僧を頭に思い浮かべて、安藤は宙を見つめる。
妖怪なんて、想像上のものだとばかり思っていた。
この世には、本当にそういうものがいるのか?
石井は苦し気な声で続けた。
「俺もじゃんけん小僧に勝負を申し込んだ。勝ったら拳ちゃんを返してくれってな。俺の身体と引き換えでも良いからって。結果はあいこやった。普通、決着が着くまで勝負するやろ。でもな、奴は一回こっきりやって言って、俺とはもう勝負しいひんって言った。じゃんけん小僧との勝負は、誰であっても何があっても一回きりやねんて。そんなん知らんやん」
石井の視線は、蒼井に向けられた。
蒼井は床を睨み付けるようにしていて、やがて口を開いた。
「僕はじゃんけん小僧なんか知らない」
もし蒼井の探し人が、じゃんけん小僧に身体を盗られたのだとしたら、状況は石井のケースと同じになる。
しかし蒼井は、知らないと断言した。
石井の眉が、ゆるゆると下がっていくのを見た。
この男の情けない表情は、かなりレアである。
突っぱねられたことで、石井は「そうか」と残念そうに言った。
「じゃんけん小僧のせいかと思ったけど、そもそも状況もちょっと違ったな。そっちは、みんなの記憶すら残ってへんねんもん」
「……そもそも、彼は得体の知れない奴とじゃんけんなんかするタイプじゃない、面倒くさがるよ」
「そっか」
「僕ならやるかもしれないけど」
「はは、蒼井君ってそうなんや」
蒼井は視線を下げて、靴先を見ているようだった。醸し出される雰囲気が何となく不穏で、安藤は明後日の方向を見て後ろで腕を組む。
「蒼井君は勝負をしてへんのやったら、やってみる価値はあるかもしれんな」
石井は、顔を上げた蒼井の前に人差し指を突き出した。
「一回こっきりの、真剣勝負」
探し人がどんな理由で消えたかは知らないが、じゃんけん小僧と勝負をして勝てば、何でも願いを叶えてもらえる。
自分の身体が奪われるリスクを冒してでも、やりたいのならば。
安藤は、蒼井の瞳に映る石井を見た。
蒼井から見て、石井は天使に見えるのか、悪魔に見えるのか。
蒼井の返答がいったいどんなものか、安藤は黙って考えた。
少なくとも安藤は、自分を犠牲にしてまで誰かを救おうなど、考えたことがない。
蒼井の返答は早かった。
「そいつはどこにいる」
「俺の家やけど……今はまだ帰って来てへんかもな。普通に学校行ってるし」
「案内をしてほしい」
「それはいいけど……え、勝負すんの?」
「しない手はない」
即決である。
安藤はぽかんとした。本日何度目だというほどの馬鹿面をお披露目してしまっている。
言い出しっぺの石井ですら、「本当にいいの?」という顔をしていた。
「どうして僕がしないなんて言うと思ったんだ」
「そりゃあ、まあ」
蒼井が当たり前のような顔をしているので、石井は安藤へ視線を送って、「本当にいいの?」という顔をした。こっちに訊かれても困る。
とはいえ、確かに蒼井の返答は早すぎた。考える時間などないまま、勢いに任せたといった感じかもしれない。
「待ってや、蒼井君。もし負けたら、自分が身体盗られるかもしれんねんで? ちょっとくらい考えた方が良くない?」
安藤は言った。
誰だって、自分が大事だ。他人が死んでも世界は続くが、自分が死ねば世界は終わる。身体を盗られるなんて、いったい自分がどういう状況になるか分かったものではない。死ぬのか、意識が彷徨うのか、辛い目に合うのか。未知だ。石井の弟が今どういう状況にいるのか、考えたって分かる訳もない。
「僕の時間は無限じゃない」
蒼井はそれだけ言うと、鞄を背負った。さっそく行こうというのである。
意思は固かった。何を言ったところで、聞く耳を持たないだろう。
そのまま教室を出ようとして、安藤たちを振り返る。
「僕は勝つ」
続けた。
「彼を必ず見つけ出す」ぼ
胸の奥を真っ直ぐに突き刺すような言葉は、安藤の意識の底へ広がり、動揺を誘った。
何なんや、この人。
大人しいだけなんて、大間違いだ。これほどまでに情熱的な人間だなんて、思ってもみなかった。
蒼井倫太郎が見つけ出したいその人とは、いったい誰だ?
安藤には、どうやったってこんな熱など持てない。持ったことなどない、はずだった。
蒼井の目に映る誰かを見た時、安藤は不思議な感覚に襲われた。
ざわつくような、落ち着かないような。
知っているような。
「その人の名前は?」
安藤は尋ねた。
聞いたところで知っているはずがないと思いながらも、どうしても知りたいと思ったのだ。
「――――――」
蒼井は、喪失感に溢れた名を呟いた。
確かに、はっきりと声を聞いた。しかし、安藤はすぐに忘れてしまった。
知っている名だった気もするが、忘れてしまってはもう判断が付かない。
不思議な感覚だったが、それも一瞬にして駆け抜けていく。
「今、聞こえた?」
石井は神妙な顔をして安藤を見た。
安藤は首を横に振る。聞こえたけれど、何も覚えていないからだ。
何度も聞いた名前だった気がするし、口にしたことのある名前だった気もするけれど、もう何も分からない。
安藤は歯がゆい気持ちでいた。
いったいこれは何なのだ。
妖怪なんて。
人が消えるなんて。
蒼井は少し、悲しそうな表情になった。しかし気のせいだったと思うほどの間だけで、すぐに蒼井は力強い目になった。
安藤は好奇心が抑えきれず、もう一つ質問をする。
「その人は、どんな人やった?」
「変な奴だよ」
蒼井の視線が揺れる。
「一見スマートで気さくだけど、実は引きこもりの大食いで、ラーメンばっかり食べてる奴」
蒼井が見つめる先には誰かがいて、微かに蒼井は微笑んでいた。
安藤の心は揺れる。
確かに、そんな人がいた気がする。
いや、いたか?
「俺、全然覚えないなあ」
石井はあっけらかんとして腰に手を当てている。
安藤は必死に考えた。思い出せそうで、思い出せない。蒼井の視線を感じて顔を上げると、そこにはいつも通りの大人しい蒼井が立っていた。
「別にいいよ、僕は勝つから」
迷う安藤とは違い、蒼井の意志は固かった。
「案内してくれ」
善は急げというわけで、蒼井はさっさと進めようとする。迷いはないのである。
「……分かった」
石井は頷く。
一回きりの、じゃんけん小僧との勝負だ。
敗者である石井は、もう蒼井に何の言葉をかけようともしなかった。
歩き始めようとして、振り向く。
「なっちゃんは?」
勝負をする必要のない安藤は、しかしすぐに答えた。
「そりゃあ行くよ。じゃんけん小僧、見たいし」
「おっけー。じゃ、付いてき」
石井は言って、思い出したようにトランプを手に取った。いつの間にか、回収していたようである。
すっかり忘れていたが、石井は奇術部の活動中だったはずだ。忘れ物のトランプを取りに来ただけのはずである。
石井は手の中のトランプを魔術のように消してしまうと、にっこりと笑った。
「石井は、のっぴきならん理由で部活早退や」
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