蒼井倫太郎の愉快な夏

糸坂 有

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其の四 奇術師

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 真っ白な空間だ。
 安藤は辺りを見回す。上下も左右もない空間は、ひどく冷ややかで、それでいて妙な居心地の良さがあった。
 ここはどこだろう。
 安藤は歩き出した。
 しばらく歩いて、見つけたのは瓶だ。磯っぽい空の瓶を見て、安藤は思い出す。
 最近、こんな夢を見たばかりじゃないか。
 安藤は慌てて、辺りを見た。散らばる瓶。見つからない炊飯器。
 何かに駆られて走り出す。心臓がどきどきと鳴っていた。
 ここに、あの人がきっといる。
 胸に広がるのは期待感だ。
 何も覚えていないはずなのに、高揚感が広がっていく。
 どこだ、どこだ。
 走った先で、何かが蠢いた。
 安藤は、はっとなって立ち止まる。
 透明な何かが、安藤を見た。透明な中にほんの少し、肌色が見えた。
 目が合った瞬間、モノクロのようだった安藤の感情が鮮やかに色づく。
 忘れるはずのなかった記憶が、一瞬にして胸に広がった。
「有村君!」
 足をもつれさせるようにして、安藤は有村の側へ寄った。
 有村は透明だったが、きょとんとした顔をして、「安藤君やん」と普段と変わらない声を出した。
「うわあ、有村君や、本物や……!」
 有村に届く一歩手前で膝から崩れ落ちると、安藤は祈るようにして身体を折り曲げた。
「うっそやろ! 俺、有村君のこと忘れてたん? 嘘やろ!」
「相変わらず元気やな、安藤君。でもちょっと透明やで」
「それ言うなら有村君の方が透明やんか! え? まじか、嘘やん! 有り得へん!」
 有村の手を取ろうとして、何も掴めないことに驚愕する。
 有村と安藤は、クラスメイトだった。
 そのことを、安藤は今の今まで忘れていたのだ。
 安藤は脱力して手を付く。
「もう何も信じられへん」
 安藤から見た有村は、文武両道のスーパーイケメンだった。クラス一、いや学校一のイケメンと言っても過言ではないこの人は、入学当初から、安藤の特別だった。
 いつもスマートで誰にでも優しい有村を、安藤はずっとリスペクトしているのだ。そんな人を、忘れるはずがなかったのだ。
「いや僕ってただの凡人やけど」
 有村はからりとした様子でいつも言っていたが、そういう有村だからこそ、安藤は好意を抱くのだ。安藤の方がよほどイケメンだと言う有村の方が、よほど格好良いのである。
 安藤の情熱をさらりと交わすクールさは、石井のものとは違って爽やかだった。
「そりゃあ、自分が透明になるって訳分からんもんな」
「いや、有村君を忘れてた自分を信じられへんねん」
「あ、そっち?」
「まじかー、まじか! こんなことって、いやでも蒼井君は覚えてたけど」
「蒼井?」
 有村は目をぱちくりとさせて、「一から説明してくれへん?」と言った。
 安藤は三回力強く頷いてから、夏休み後の話を簡潔に話した。
 存在が消えていたこと。蒼井だけが覚えていたこと。じゃんけん小僧のこと。
 静かに聞き終えた有村は、「そんなことになってんのか」と他人事のように腕を組む。
「じゃあ安藤君も、今頃みんなに忘れられてるってこと?」
「そうかも」
 ふと、最後に聞いた石井の声を思い出す。
 石井はいったい、あの後どうなっただろうか。
 辺りを見回すが、石井は見つからない。ここには連れて来られていないようだ。何もされていなければ良いけれど、さすがにそんなことはないか。
 黒羽の視線を思い出し、安藤はそっと震えた。
 有村は安藤をじっと見ていたようだが、やがて腕を組んで言った。
「不思議なこともあるんやな。蒼井だけ忘れなかったっていうのも、分からんし」
「そうやねんな。俺さえ忘れてたのに。一生の不覚」
「この場合、忘れてない方が異常やろ」
 有村は、透明の手を翳すようにした。
「じゃんけんか」
 しみじみと言うのが面白くて、安藤は少し笑った。
「有村君は勝ったけど、俺は負けたわ。結果としては同じ状況やけど」
「じゃんけんなんて、運みたいなもんやろ。蒼井はじゃんけん必勝法の話をしてたけど、負けたしな」
「必勝法?」
「うん。世界じゃんけん協会っていうのがあるんやって」
「へえー」
 有村は、何気なく近くに転がっていた瓶を掴むと、とん、と置いた。
 辺りに散らばっている瓶を思い出し、安藤は尋ねる。
「この瓶って、有村君が食べたん?」
「うん」
「米は?」
「ないねんなあ、ここ。仕方ないからこれだけ食べてた」
「まじか」
「なぜかこれだけあんねん。あ、安藤君も食べる?」
「いや、俺は腹減ってないし」
 折角だが、安藤は断った。何かを食べるという気分でもない。
 有村は「そう」と言って視線を上げた。
「ここにいると、時間の感覚が分からんようになってくんねん。自分が生きてるのか死んでるのかも分からんから、変な気分で」
 有村は立ち上がると、うんと伸びをした。
「でも安藤君が来たんやから、ぼやぼやしてられへんか。タピオカより寿命短いなあ、なんて悲観してられへん。気合出してかな」
 安藤は有村を見上げた。きらきらして、格好良い、いつもの有村がそこにはいる。
 気分が高揚して、安藤は鼻をこすった。
 一人なら悲観していたが、有村がいるとなれば話は別だ。
「そやな、前向きにいかなな」
 有村は優し気に微笑む。
「僕、いろいろ探し回ってん。出口ないかなとか、ここがどうなってんのかとか。結果的に、何も分からんかった。正直お手上げや。でも安藤君が来てくれて、話聞かせてもらったら、大丈夫やなって思えた」
「そう、なん?」
「うん。そうこうしてる内に、蒼井が何とかするんちゃうかな。石井君も探してくれてるんやろ? あの人、いつもマジックしてるし、器用やし上手くやってくれそうやん?」
「そうか?」
「そうそう」
 有村は、こんな状況にいても、いつもと何も変わらなかった。透明になったって、同じ人間だ。そう簡単に何かが変わるわけもない。
「有村君は、蒼井君のこと信用してんねんな」
「いや、別に?」
 有村はあっけらかんとしたように首を振って、続けた。
「蒼井が変に頑固なこと、知ってるだけ」
 有村に促され、安藤は立ち上がる。ありがとう、と礼を言われたけれど、そんな筋合いはない。けれど折角もらった礼を付き返すのは嫌で、安藤は「どういたしまして」と返す。
 何もしていないけれど。
「安藤君は、やっぱカッコいいな」
「またアホなこと、もうな、有村君は自覚がないねんな。そういうのが良いんやけど。女子たちが有村君のこと陰で何て言ってるか知ってる? 俺もうめっちゃ同感やって思ってるんやけど」
「相変わらず元気やなあ」
「いや、そうでもないで」
「まあ、ちょっとの辛抱やろうし、しばらくここにいよ。何のお構いも出来ひんけど」
「さすが、すっかり自分のテリトリーやな」
 およそ現実とは思えない不思議な空間で、二人は雑談を続けた。
 有村が言うのだから、きっとすぐに元の世界に戻ることが出来る。安藤は確信し、すっかり胡坐を欠いた。
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