輪廻の果てに咲く桜

臣桜

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 二〇一三年 七月

「きゃあっ、あはは!」
 ――子供たちの声がする。
 チラチラと日差しが目を刺すその季節も、梅雨明けの初夏だった。
 時人はやはりトマトジュースを手にして、公園のベンチでやはりぐったりと座っていた。

 暑い。
 日差しが眩しい。
 子供の声がうるさい。
 ――乾く。

 目を細めながら目の前の風景を見ていると、遊具で遊んでいる子供たちがいる。
 本当なら子供たちのいない公園通りのベンチに座りたかったのだが、そこは既に休日を楽しむ学生や大人たちで占領されていたのだ。
 子供が特別嫌いという訳ではない。
 けれど、具合が悪い時に聞く甲高い声は、なかなか頭に響く。
 時人の体調の悪さなど知らぬというように子供たちが元気に走り回り、水場で飛沫を上げる。
(ほら、そんなに前を見ないで走ってたら転ぶぞ)
 ぼんやりとそう思っていた時だった。
 べしゃあっと時人の目の前で小さな女の子が転び、サイレンのように泣き出した。
(ほら……やっぱり)
 そう思い、すぐに保護者が駆けつけるのだろうな、と思って気だるそうにトマトジュースのペットボトルをラッパ飲みにするのだが、しばらくしても保護者が現れない。
 他の大人たちは自分の子供を見るのに手一杯で、女の子はこの世の痛み全てを引き受けたかのように、わんわんと泣いていた。
 子供に目の前で泣かれると、それが自分とは関係のない子供だとしても居心地が悪くなってしまうのが、通常の大人の感覚だ。
(……面倒だな)
 正直そう思いながらも時人は立ち上がり、困ったような表情を浮かべながら女の子に声を掛けに行く。
 幾ら彼が子供が苦手だからとはいえ、目の前で小さな子が泣いているのを放っておく非情な人間ではない。また、このシーンでは子供の真ん前にいる自分が声を掛けに行くのが適切だと思ったのだ。
「大丈夫? ほら、痛くないよ」
 身内に小さな子などいないので、どうやって話し掛けたらいいのか分からない。
 それでもできるだけ優しい声を出して、うつ伏せになったまま涙と鼻水を垂らしているおさげの女の子の小さな背中をさすってやる。
「ぶわああああ! いだいいいいいい!」
 だが女の子は豪快に泣いたまま、顔面全体で泣いている。
「ええと……」
 こんな時に甘い物でも持っていればそれであやす事もできるのかもしれないが、生憎手持ちは飲みかけのトマトジュースしかない。
「トマトジュース好きかい?」
「ぶわああああああ!」
「……参ったな」
 助けようとしたのに余計に女の子が泣いてしまい、時人は困って周囲を見回す。
 子持ちの主婦たちは遠巻きにこちらを見、時人が変質者ではないのかと窺っているようにも見える。
 このままだと通報されかねない。
 だが、ここで逃げたら絶対に怪しい男だと思われる。
 そんな葛藤に苛まれながらも、時人は何とか女の子を立たせて服についた土を払ってやる所までこぎつけられた。
 そこに、やっと保護者らしき女性の声が掛かったのだ。

 ――いい匂いがする。

 それが彼女に声を掛けられる前に、時人が感じた事だった。
 何を食べても不味い、どんな匂いを嗅いでもいい匂いと思えなかった時人の鼻に、初めて嗅覚の快楽をもたらしたのが彼女の香りだった。
 こちらに近づいてくる気配よりも、持ち前の鋭敏な嗅覚でその香りを拾ってボウッとしていると、関西訛りの声が飛んでくる。
「すんまへん! その子、うちの子です!」
 やっとそちらを見ると、芸能人かと見まごうような美貌なのに、とてもシンプルな服装の女性が、泣いている女の子より小さい子の手を引いて慌ててこちらへ来る所だった。
 きりりとした眉、猫のように大きくて少し釣った目。黒く艶やかな髪は緩くうねっていて、軽く一本に束ねられていた。
 小さな頭と均整の取れた体は、モデルと言っても過言でないほどにバランスがよく、それがシンプルな服を高級な物に見せている。
 ふわりとした黒髪が彼女の一歩一歩に上下する度、そこから「いい匂い」が発せられている気がした。
「あ……」
 良かったという安心感の前に、時人は自分の中に急速に広がってゆく未知の感覚におののいていた。

 ――何だろう。
 ――すごくいい匂いだ。
 ――彼女から香ってくる。

 それまで時人が生きてきた世界はモノクロのようだったのに、見知らぬ彼女に出会えた今この瞬間から、全てがカラフルになった気がする。
 世界が変わったと、大袈裟ではなくそう思った。
「いっちゃん、転んでもたの?」
「葵ちゃん!」
 涙で歪んだ女の子の声が保護者の名を呼び、血の滲んだ膝で走り出した「いっちゃん」は「葵ちゃん」の胸に飛び込んでまた泣き始めた。
「えらいすんまへん。この子のおトイレに付き合うてたんですけど、いっちゃんが急に走って行ってもて」
「あ……、いえ」
 今までどんな女性に対しても感じた事のない胸のときめきに慌てふためき、時人の口からやっと出たのはかすれた声だった。
「いっちゃん転んでもたんやね、よしよし、痛いの痛いの飛んでけー!」
 母性の塊のような笑顔が眩しく、小さな女の子二人を連れている葵という女性を、時人はボウッとして見つめていた。
 そしてそんな時人を、葵が連れてきたもう一人の女の子が不思議そうに見上げている。
 時人の熱のこもった視線や切なく鳴り響く鼓動など、その子は知る由もない。
 それなのにおかっぱをサラサラとさせた女の子は、ただ不思議そうに時人を見つめ――歩み寄ってそのTシャツの裾をキュッと掴んだ。
「……え?」
 小さな手が思いの外しっかりとTシャツを握ってきて、きょとんとして見下ろす時人に、おかっぱの女の子が白い歯を二カッと見せて笑う。
「お兄ちゃん、葵ちゃんにヒトメボレしたんだ!」
「えっ?」
 一目惚れをしたという事をまさか小さな子に見透かされ、時人が慌てふためき、葵も「これ、さっちゃん」とおかっぱの女の子をたしなめる。
「ほんまにすんまへん。いっちゃん、歩ける?」
「……歩けない」
 葵の問いに「いっちゃん」が唇を尖らせる。葵に駆け寄った時は元気に走ったというのに、その現金な態度に思わず時人が笑ってしまった。
「っはは、いっちゃん、どうしたら歩ける?」
「……歩けない」
 時人が笑ってくれたので葵も笑い、柔和な笑みをたたえて「いっちゃん」を覗き込む。
「あらぁ、いっちゃん歩けへんのかなぁ? この後のお昼ご飯はどないすんのかなぁ?」
 葵が悪戯っぽくそう言うと、「いっちゃん」がパッと顔を上げた。
「食べる! 食べれるよ!」
「ほな歩ける?」
「……うん」
「良かったね、いっちゃん。美味しいご飯食べておいで」
「うん!」
 時人の声に「いっちゃん」は元気な返事を出し、溜まった涙を手で拭う。
 その穢れを知らない透明な雫を、時人は見知らぬものを見た気持ちで眺めていた。
「ええと……、お世話さんになりましておおきに」
「いいえ、どう致しまして。小さいお子さんがいると大変ですね」
 母親にしては若いなと思いながらそう言うと、葵は柔らかく微笑んだ。
「いえ、この子たち姪っ子なんです。姉が美容室に行ってまして、その間私が預かってるんです」
「あぁ……、そうなんですか。てっきりあなたがお母さんなのかと思ってしまいました」
 鼻孔に入り込む芳しい香りにうっとりしながら、何とか理性を保って笑顔を浮かべると、葵が恥ずかしそうに笑う。
「いやや、私そんな歳に見えましたか? まだ二十歳なんですけど」
「えっ? あ、いや、すみません! そういうつもりで言ったんじゃないんですが」
「お兄ちゃんいやだぁ」
 焦る時人の足元でおかっぱの女の子が笑いながら言い、時人の腕にぶらさがりながら体を揺らす。
「お兄ちゃん、葵ちゃんはいちのママより年下なんだよ?」
 さっきまで大泣きしていた「いっちゃん」も、何事もなかったような顔になって妹に加担している。
「ごめんね、いっちゃん。葵さん? もすみません」
 小さなレディにも責められて時人が笑い、しゃがんで「いっちゃん」とおかっぱの女の子の目線で謝ってみせる。
「葵ちゃん! お腹空いた! ご飯食べよう! お兄ちゃんも一緒!」
「いっちゃん」が勝手にそう決めてしまい、ぐいぐいと時人を引っ張る。それに気付いて妹も反対側の手を引っ張り出した。
「えっ?」
 困った時人が葵を見ると、葵も困った顔をしていたが、時人が人の好さそうな若者だと思って笑い、提案してくる。
「初対面やのに難ですけど、もしこの後お時間あるんでしたら一緒にご飯頂きませんか?」
 綺麗に笑う彼女は、初対面の時人の心にスルリと入り込み、じわじわと温かな光で彼を照らしてゆく。
 まるで春の女神のようだと思った。
「……いいんですか?」
「ええ、この子たちも懐いてますし、もしお時間があれば」
 その笑顔は聖母のようで、時人は彼女の目の前に全てを曝け出したくなる。
 自分が抱えている障碍も、友人にも誰にも言えず欝々としている悩みも、それら黒々としたものを目の前の葵なら、全部受け入れてくれるような気がした。
 そんな、自分勝手な幻想を葵に抱いたのだ。
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