輪廻の果てに咲く桜

臣桜

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「……時人さん?」
 はじめ、葵はその色を光の角度によるものだと思った。
 時人はどこか日本人離れした顔立ちの美形で、恐らくクオーターとか言われても頷けると思っている。
 髪も眼も色素が薄くて、何度も彼の目を見ながらその色素の薄い目が綺麗だな、と密かに思っていた。
 けれど、これは……。
「……え?」
 不思議そうにこちらを見つめ返す時人の目は、葵が懸命に体の角度を変えてみても『赤』い。
 葵のその動作にハッとしたのだろうか、時人が何かに気付いて急に狼狽し、立ち上がる。
「……すみません、急用を思い出したので帰ります」
「?」
 愛の告白をしていたというのに、この人は一体どうしたんだろう?
「待って」
 そのたくましい腕にぶらさがるようにして葵がしがみつき、時人の頬に手を当てて彼の顔を覗き込んだ。
「……時人さん、目ぇが赤く光ってるように見えます。それと何か関係ありますか? 私、何か余計な事言ってまいましたか? 今、大切なお話をしてるんです。逃げんといて下さい」
 言いたい事がまとまらず、口に出した言葉のどれが主題なのか自分でも分からない。
 けれど、全てが言いたい事だ。
「その……、見ないで下さい」
 だが時人は長身をよじるようにして葵の視線からなんとか逃れようとし、そんな様子が葵を更に不安にさせ、彼の秘密を暴こうとする。
「お願いします。時人さんの事なら、何でも受け入れます。隠してはる事があんなら、私に教えて下さい」
 普段の葵なら、絶対にしないような相手の領域に入る行為。
 けれど、なりふり構わず無神経な事を言ってしまうほどに、葵は時人という男に既に惚れ込んで、彼の事を知りたいと思っていた。
 夕陽が差し込むマンションのリビングで、黒くなった二人のシルエットがもつれ合い、抵抗する時人を強く引っ張った葵がバランスを崩して――、二人がソファに倒れ込んだ。
「…………」
「…………」
 どアップになった時人の目は、血のように赤かった。
「見ないで……、下さい」
 弱々しく言った時人の赤い目が常人を逸していてとても綺麗で、自分から逃げようとする時人がどこか腹立たしく、大胆になった葵はそのまま彼の首に両手を回して、またキスをした。
 二人共自分の体温が上がってゆくのを感じ、時人は目を閉じた世界に葵のいい香りが映像化して、光の花となって辺りを包む幻想を見た。
 湿った音がし、リップ音が何度も繰り返される。
 ごくっと喉を鳴らす音がして、また息を吸い込む音がする。
 舌先も、耳も、嗅覚も、全てが興奮していて――、
 ――時人が『人』としての理性を失った。
「!?」
 血の味がした。
 はじめ、葵は深すぎたキスで舌を噛んでしまったのかと思った。
 もしかしたら、やはりキスが激しくて唇の皮が剥けたのかとも思った。
 けれど、違う。
『何か』がぶつりと自分の皮膚を破って突き刺さり、二人の口の中で葵の血が二人分の唾液に混じって出血していた。
「とき、……ひと、さん」
 折角キスをしていたのに、と思って謝ろうとし、目を開けて少し顔を離した葵が絶句する。
 残光を背にした時人が、闇夜の狼のように爛々と目を赤く輝かせ、異様な雰囲気を纏って葵を見下ろしていた。
 ひとつ、唇を食むようにして唇が合わされ、舐められる。
 血を出していたのは葵の唇だった。
 また時人が顔を近づけ、キスをするというよりも明らかに葵の唇に滲んだ血を舐める目的で、何度も何度も彼女の唇を味わう。
(どうしたの? 私の血を……、舐めてる?)
 混乱した葵はとにかく時人と話そうとして体をずり上げ、顔を背けるが、時人はそれまでの大人しい印象とは打って変わって、貪欲に葵の唇を求め続けた。
 抵抗する葵の手首を掴み、何度も、何度も。
 唇の間から僅かに見えるのは、牙のようにも見える白い歯。そして、苦しそうな吐息。
 やがて葵は抵抗する事を諦めて、時人の気が収まるのをじっと待つ事にした。
 これはただのキスではない事も、時人の様子が普通とは違うのも分かったからだ。あまり抵抗しては時人に罪悪感を与えてしまうのではと思い、唇を傷付けられたのは驚いたけれども、悲鳴を上げて逃げるほどの事でもない。
 それよりも頬に当たる彼の涙が何よりも愛しく、この行為こそが彼の真実だと葵の心が感じていた。だから葵は彼を受け入れようと決めたのだ。
 時人の突然の行動の意味は全て、その涙が語っていると女の直感が告げていた。

**

「……すみません、でした」
 葵の下半身に押し付けられていた時人の興奮も収まった頃、叱られた犬のようにしょげ返った時人が、背中を丸めて謝る。
 大きな手を顔に押し当て、深い溜息をつくその姿は自分自身に絶望しているように見えた。
 痩躯を縮めるようにして謝るその姿を見ては、葵としても怒る気が失せてしまう。
「気にしんで下さい」
 唇にまだ残る血の味を感じながら、葵がそっと時人の背中を撫でると、彼の背がピクッと震える。
 それからしばらくの沈黙があった。
「理由を説明してください」と葵が言わずとも時人は打ち明けるつもりだったし、葵も何となくそう言葉にして責める事をしなくても、時人が話してくれると思っていた。
「……吸血鬼って、……信じますか?」
 この世で一番恥ずかしい秘密を打ち明けるように時人が呟き、その単語に葵は心にポトリと落ちるような、ある種の納得を感じる。
「……時人さん、吸血鬼さんなんですか?」
 あの小さな姉妹に聞かせるような優しい声で葵が問い、何度も何度も優しく彼の丸まった背や髪を撫でた。
 まるで、全てを赦す聖母のように。
「……分かりません。俺は見ての通り日に当たっても生きてますし、偏食なだけで特にこれといった特徴もないんです。……ただ、五感が異様に発達しているという自覚はあります。その中で、何を嗅いでも不快でしかなかったのに、今日葵さんと出会ってあなたの香りだけが、凄くいい匂いだと思っていたんです。……正直、理性を保ち続けるのが難しかった」
 匂い、と言われて葵はつい自分の腕や手首の匂いを嗅いで確認してみるが、普段使っている香水や先ほどのシャワーで使ったシャンプーなどの香りしか、思い当たるものはない。
「……科学的な香料の匂いではないんです。きっと、あなたの血の香りです。甘くて、まるで水密か何かのようなとてもいい香りなんです」
 時人の言う吸血鬼とかそういう空想がかった話を疑う前に、葵は咄嗟に女としての本能が働いていた。
「……時人さん、今までもこうやって誰か他の女の人に同じ事しはったんですか?」
 葵の言葉に時人はやっと顔を上げ、葵の嫉妬している顔を見てから少しだけ笑う。
「いいえ、俺がこうやって血に反応したのは、葵さんが初めてです。こういう……手段を使って女性を口説いていると思いましたか?」
「……良かった。いえ、こう言うたら時人さん傷付かはるかもしやしまへんけど、時人さん……そないに器用な方やと思ってません」
 安堵の息をついて葵がそう言い、自分の言葉が時人を傷付けていないか気にしながらも、安心した感情をそのまま体で表現するように時人に抱き着いてきた。
 その体を受け止めて時人は、自分も変わっているが葵も相当変な女性なんだな、と少しおかしくなってしまった。
「怖くないんですか?」
「好きです」
 少し噛み合わない問いと答え。
 本当なら夕飯の支度をしなければならない時間になったのに、二人は肌を密着させてじっと言葉を交わし合っていた。
「……葵さん、宇佐美グループという名前を知っていますか?」
「ええ、大きな企業でしょう? CMとかでもよく聞きますし、えらい有名な会社とは知ってますが……」
「俺はそこの息子なんです」
 普段こういう事を表に出すと、その名につられて余計な人間が寄ってくる。葵をそういう人間だとは思わなかったが、いつもの癖で初めに話しておくのを忘れたのだ。
「まぁ……、品のあるお人やと思ってましたが、そうなんですね」
 けれど、葵の反応は時人が思った通り育ちのいい女性のもので、それ以上の余計な欲や詮索を見せる事はない。
「宇佐美グループの現会長は祖父がしている事になっていますが、本当は……違うんです」
「? どなたがしはってるんですか?」
「……名は宇佐美時左衛門。父から江戸生まれだと聞いています」
「江戸……」
「正月と盆になると一族が集まるのですが、それがまた異様なんです。撮影することは禁じられているので見せられないのですが、宇佐美家の代々の当主とされた人間が……ほぼ全員現役で顔を揃えるんです」
 時人の言葉を葵は不思議そうな顔で聞いていた。
「ほんまですか?」と言おうとして、言えない。
 そう言ってしまえば、時人が絶対に「そう思いますよね」と笑って誤魔化してしまうのが、目に見ているからだ。
「まるで呪いです。似たような者同士が顔を合わせて。女親だけが普通に命を終えてゆくんです」
「……吸血鬼なら、その、血を吸って仲間を作るとかはしないんですか?」
 葵は自分でも知っている空想上の化け物の特性を言ってみる。
「それは掟で決められています。下手に同種を作ってしまえば、現代社会に混乱をきたします。人とは絶対的に異なる永い時間を生きるため、言い方は少しいやらしいかもしれませんが、国籍やパスポートを改ざんできるぐらいの権力や財力がなければ、長命の吸血鬼が今の世の中を生きてゆくのは難しいんです。だから、容易に仲間を増やす事は禁じられています。人生のパートナーにしたいと思って相手の了承も得ていれば、一族の会議に掛けられて初めてそこで許可が下りるようになっています」
 迂闊にも自分が時人に血を与えてしまった事を思い出し、咄嗟に葵が自分の唇に手をやった。
 それを時人は悲しい目で見る。
「大丈夫。唇を少し傷付けた程度なら、葵さんはどうにもなりません」
「血を吸われると……なんで吸血鬼になってまうんですか?」
 映画や小説の中で、フィクションとして吸血鬼が題材に扱われている作品は、葵だって知っている。
 けれど、それが目の前に生きているとなると、その生き方や仕組みが不思議でならない。
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