輪廻の果てに咲く桜

臣桜

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 二〇一三年 七月

「時人さん」
 日差しの中で葵が微笑む。
 葵に誘われて、時人は吉祥寺へ来ていた。
「ここ、ヴィーガンのためのカフェなんですって」
「ヴィーガンって?」
 きょとんとする時人に、葵が優しく笑ってみせる。
「時人さんは厳密にはちゃうのかも分からしまへんけど、ベジタリアンの中でも動物性のもんを一切取らへんお人をそう呼ぶんですって。こういうカフェやレストランは調べたら結構あって、ベジタリアンに優しいお食事を出してくれはるんですって」
「へぇ、サンドウィッチとかですか?」
 時人はそういう事は調べた事がなく、自宅でも食卓に出された物を好き嫌いして食べているだけだ。
「ううん、例えばハンバーグとかも、お肉とか使わへんで作ってくれはってるみたい」
「え? そんな事ができるんですか?」
 知らない世界が開けた気がした。
「調べたら、お豆腐とかお豆さんとか使てできるみたいなんです。他にも高野豆腐を使ったドライカレーとか。世界は広いんですねぇ」
 そう言って白い歯を見せて笑う葵は、また時人の先を行ってこちらに手を差し出していた。

 時人の閉ざされていた世界を、葵が開拓していってくれる。
 時人一人なら道を探す事すら諦めていた場所を、葵はとんでもない方向からグイグイと進んで、光のある道へ連れて行ってくれる。

「……俺、知りませんでした。そう言えば、うちの料理人もそんな事を言っていたのかもしれません」
「……料理人さんの言わはる事に、お耳貸さへんかったんですか?」
 母親のように優しく尋ねてくる葵に答える時人の声は、どこかばつが悪そうだ。
「俺は世界に興味がなかったんです。何もかもがグレーに見えて……、どうすれば自分が快適に過ごせるかとか、自分で考える事もしませんでした」
「可哀想な人ですね」
 穏やかな葵の言葉は、決して時人を侮辱したものではない。
 心の底から、目の前の美しい化け物を憐れんでいた。
「私でええんなら、一緒に色んな事してきましょ? 一緒に美味しいもん食べて、デートして。そや、今度遊園地に行ってみません? 映画もええですね。水族館も。動物園も」
「……はい」
 目の前で次々と自分の知らない世界を提示し、光の中で笑う葵はお世辞なしに時人には女神として映る。
 昼間の吉祥寺で周りには人が大勢いるというのに、時人の目には涙が浮かんでしまい、彼はそれを乱暴に拭った。
「うふふ、時人さんは泣き虫さんですね」
 好きな女性にそう言われて恥ずかしくなり、時人は照れ臭さを隠すために葵の手を握ってカフェに入り込んだ。
 初めて入る吉祥寺のカフェというのは平時の時人には無関係なお洒落な世界で、店内にはお洒落な食べ物に敏感そうな若い女性が多く座っている。
 恐らくカフェで出た食事の写真を撮って、SNSに投稿したりしているのだろう。
「私、リゾットにします。グルテンフリーなんですって。デザートも美味しそうですね。時人さんは?」
 さっさと決めてしまった葵がそう言い、時人は視線をメニューにさまよわせる。
 こういう所に友人と来た事などない。
 大学ではいつも野菜サンドウィッチや飲み物を飲むだけだ。
 それがこうやって自分が思いを寄せた女性とのデートだなんて、気持ちが浮ついてしまって何が美味しいとか想像する所ではない。
「えっと……」
「煮込んだもんとかは苦手なんでしたっけ? ランチプレートとかスープが苦手でしたら、このベジバーガーとかはどうです?」
「あぁ、いいかもしれませんね。プレート料理よりは食べやすいかもしれません」
 大まかなメニュー内容を決めてしまうと、あとはデザートとドリンクを決めてオーダーし、葵が女性らしくショーケースのデザートを気にする。
「凄いですね。こんなにメニューが豊富で、普通の料理と変わらなさそうなのに肉や魚を使っていないだなんて。正直有機ルイボスティーとか穀物コーヒーとかも、普通の物とどう違うのかよく分からないんですが、ベジタリアンのルールを厳しく守っている人には、とてもいい店なんでしょうね」
「そうですねぇ」
 葵がのんびりと答え、水を一口くちにした。
「時人さんは、なんでお肉やお魚が駄目なんですか?」
 気を遣ったような、それでもきちんと核心をついた問い。
「それは……肉や魚に血があるからです。温かい料理も、その血潮みたいな熱気に気持ち悪さを感じてしまって」
「あぁ……」
 察したように葵がうんうんと頷いてみせる。
「そう思わはるんなら、無理しんでええんです。食べられるもんだけ食べても、人は生きてけます。私が調べたネットのサイトでは、なるべくしてなったヴィーガンは自分に必要な栄養素だけでも生きてけるんですって」
「そう……、なんですか」
「誰にだって苦手なもんはありますし、それを私は強制しようとも思いません。初めは不健康やな、って思って私の手料理食べてくれへんのかな、って思ったんですが、それは私の主観の押し付けですもんね。もし――、もし時人さんに私の手料理をご馳走する事があったら、ヴィーガン用のお料理をご馳走したいんです」
「え?」
 話が思いもよらない方向へ行き、時人が瞬きをする。
「あのね、ネットの動画あるでしょう? あれでお料理のレシピを紹介したり、作り方を紹介してるチャンネルがあるんです。その中でやっぱりヴィーガンの人がいはって、このカフェで出てるようなお洒落なお料理の作り方を教えてくれはるんです。それ見て勉強したら、私でも時人さんが食べられるようなもん作れんのかなぁ? って」
「……」
 カフェの中にいるというのに、一陣の風が吹き抜けた気がした。
 雲ひとつない晴天の大空に、とても美しい浅葱色の一滴が透明な音をたてて波紋を広げていく幻想。

 この女性は――、俺を愛してくれようとしている。
 俺が吸血鬼という事も、偏食な所も受け入れて、前向きに寄り添っていってくれようとしている。
 彼女と一緒にいて、何度こうやって感動しただろう。
 彼女と出会えてよかった。
 彼女を好きになってよかった。
 彼女が――、欲しい。
 どうしようもなく、葵さんが好きだ。

「ほらぁ、時人さんまた泣きそうな顔してはる」
 クスクスと葵が笑い、他の客に時人の顔を見られないように、イチャついている振りをして両手で時人の顔を覆った。
「時人さんの涙、綺麗ですね。……ふふ、私だけの泣き虫の吸血鬼さん」
 歌うような声が時人の耳を打ち、葵の繊細な指先が時人の前髪の先をくすぐる。
 母親にだってこんな風に優しく甘やかされた事はないかもしれない。
 いつも、宇佐美の家を継ぐ息子として相応しいように、厳しく育てられてきた。
 同時に人間ではない事から、人の中でいかに怪しまれず生きていくかという事も入念に教え込まれ、そればかりに気を取られていた両親は、時人に親としての愛情を与える事を少し忘れ気味だったのかもしれない。
「……葵さんは、温かいです。心も、笑顔も、この優しい手も」
 照れ臭いながらも時人が涙の光る目でそっと笑うと、窓から差し込む光を浴びて葵がとろけるように笑った。
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