22 / 51
過去5-1
しおりを挟む
二〇一三年 八月
未来から連絡があったのは事件の日の翌日で、司法解剖が終わった葵の遺体は、実来が付き添って京都まで帰るとの事だった。
時人の事を慮ったのか、電話では「もし大丈夫なようでしたら京都まで来はって下さい」と遠慮がちに告げ、葵の実家の住所を教えて恐らく葬儀場となるだろう斎場の場所も伝えられた。
葵の葬式、と聴いて時人はまだピンとこない。
読経をして、彼女のために祈って、荼毘に付して、『それ』をする事で彼女の魂は救われるのだろうか?
近親者や友人、知人が集まって彼女のために泣いて、それだけで、殴られ、罵倒され、犯されて滅多刺しにされた彼女は救われるのだろうか?
奪われてしまった彼女の人としての尊厳は、回復するのだろうか?
考えても分からない。
だが、
「必ず伺います」
酷い顔色で時人は目の前の空間をぼんやりと見つめたまま、葵の姉に約束した。
幾ら彼女の死を受け入れられなくても、彼女を送り出すセレモニーにだけは出席しなければならない。
「そう? どうもおおきに」
泣き腫らしてかすれてしまったが、芯のしっかりとした声で実来がスピーカーの向こうでほんの少し笑った。
**
京都滞在には、父が先に声を掛けて京都の中心部にあるホテルのいい部屋を取ってくれた。
時人の父にしては子煩悩な行動だが、あんなに何事にも無関心だった息子が、心から望んでいた女性を喪ってしまった事への配慮もあるのだろう。
息子が初めて子供として親を頼ってくれた時に、結果的にその期待に応えてやる事ができなかったという負い目もある。
関西では近親者しか通夜に参加しないという話だが、時人の存在はちゃんと美作家に通じているらしい。
まだ正式に付き合っている訳ではなかったが、葵から実来に、そして京都の両親にもいい人がいるという話が伝えられていたそうだ。
そのようにしてプライベートでの繋がりはないものの、企業的な繋がりがあったので、宇佐美家から美作家への電報や香典が送られたのも事実だ。
喪服でホテルを出てタクシーで斎場まで向かい、その入り口へ時人はどうしても進む事ができなかった。
夏の雨が蒸し暑い京都の地を濡らすなか、時人は黒い傘の持ち手を握ったまま、そこで足に根が生えてしまったように動けない。
黒い服を着た参列者が吸い込まれ、あの中では葵が生前の写真――恐らく笑顔で時人を迎えようとしている。
葵の最後の思い出が『それ』になってしまう。
だが、ちゃんとお別れをしなければ。
そう思うのに、どうしても足は動いてくれない。
そうやって、時人が傘を持ったまま棒立ちになってどれぐらい経っただろう。
斎場からまばらに人が出てきて、互いに挨拶をしながらゆっくりと時人の横を通り過ぎてゆく。
ざり
時人の中で何かがずれて、こすれた音がした。
違う。
間違えた。
こうじゃない。
間違えた。
ちゃんと出席するべきだった。
数珠も持って、香典も持ってきて、心の中で彼女に言うべき言葉も用意してきたはずなのに。
なんて事をしてしまったんだ。
ああ、俺は最後まで――一人じゃ何もできないみっともない男だ。
『あの日』以来時人の頬を濡らし続けている涙がまた目に浮かび、頬を伝ってゆく。
それを通行人に見られないように、時人はそっと傘で顔を隠した。
こうしていたら、何もかも取り零してしまう。
大切な人を両手の中から取り零し、もしかしたらこれからも何かを取り零し続けていくのかもしれない。
家族かもしれないし、彼女が置いていった姉や姪っ子たちかもしれない。
変わらなければ。
ぐっ、と奥歯を噛みしめ、もう通夜が終わってしまった斎場へ時人は入ってゆく。
喪服で溢れかえる大きな斎場の中を、人の流れに逆らうようにして進み、その奥に――葵はいた。
「……」
真っ白な百合や菊に囲まれて、葵が笑っている。
まだあの男に汚される前の写真なのだろう。
純真無垢で透明な瞳がこちらを見ていて、その視線を受けて時人の涙腺が一気に崩壊してしまう。
「……っ」
秀麗な顔が歪み、鼻孔が膨らんで、喉から大きな声が出そうになったのを必死になって息を吸い込み、誤魔化した。
それでも、涙だけは誤魔化せない。
大粒の涙が次から次へと眦から溢れ、拭っても拭っても頬を伝ってゆく。
「あっ……、く、……ぐ、あぁっ!」
声を上げて号泣してしまいそうになるのを必死になって堪えると、そんな声が漏れてしまう。
だがそれを好奇の目で見る者は誰もいない。
ここにいる人たちは、皆同じ思いで彼女を見送りに来たのだから。
「お兄ちゃん?」
幼い声がして涙を拭う手を目元から離すと、一華と沙夜が黒いワンピースを着て時人を見上げていた。
まだ葬式というものの概念が分からないのだろう。
葵がいなくなってしまったという事も分からない、きょとんとした顔で時人を見上げている。
姉妹の姿を見て、時人の胸に溢れてくるのは悔恨の念。
この小さな子達が慕っていた葵を、守る事ができなかったという思い。
「いっちゃん、さっちゃん、……、ごめっ、……ごめんっ、ねっ」
また新しい涙が頬を濡らし、一華と沙夜の目の前でしゃがみ込んだ時人が泣く。
この子達の希望を守ってあげる事ができなかった。
この子達の優しい叔母を守れなかった。
そんな思いが溢れて涙となり、時人の頬を濡らす。
およそ成人男性らしからぬ純朴さで泣き崩れる時人を、幼い姉妹は顔を見合わせてから、そっと小さな手で時人の薄い色の髪を撫でてやる。
「お兄ちゃん、泣いたらダメよ」
「なんで『ごめんなさい』なの? 沙夜達、お兄ちゃんになんも怒ってないよ?」
幼い声がそう赦し、姉妹はおままごとのお母さんになった気分で、大きな子供を慰めてやる。
その優しい手は確かに葵の手にも似ていて――。
泣き崩れる時人とそれをあやす姉妹の側に、そっと実来が立っていた。
**
十分泣いて鼻をかんだ時人は、遅まきながら葵の祭壇の前の座布団に座り、線香を立てて長い間手を合わせていた。
それを葵の両親が見ている。
「あの人が葵の言っていた時人さんやの?」
憔悴しきった母の声に、実来が頷く。
「そう、わざわざ東京から足を運んでくれはったの。葵の事えらい大切にしてくれはっててね、ほんまに優しくてええ人なの。葵の男運が……、あの男やなくて最初に時人さんに結びついていたらねぇ」
葵の母は姉妹の母だけあって美しい人だが、その隣にいる夫同然に一気に老け込んだような表情をしていた。
「時人さんの親御さんの宇佐美さんからも、えらい丁寧なご挨拶があってな。ほんまに……、葵が時人さんと最初からええ仲になっとったら、って思うと……悔やまれる」
沈痛な声でそう言う葵の父の視線の先には、祈り続ける時人の姿がある。
誰もがありえなかった『もしも』の話をし、ありえなかった華やかな未来を想像しては、悲しい溜息をついていた。
「……今回は、……お悔やみ申し上げます」
酷い顔色になっても尚整った顔の時人が葵の両親に頭を下げ、香典を差し出す。
「通夜に参加できず……、すみません。どうしても……、受け入れられなくて……。ご家族やご親戚、ご友人が何よりもショックを受けてらっしゃるのは分かっているんですが……、いえ、すみません。これは言い訳ですね」
周囲は親族のみの酒宴の席となっていて、その片隅で時人、実来、葵の両親がいて、実来に纏わりつくように幼い姉妹もいた。
「お婆ちゃん、お兄ちゃんね、葵ちゃんとあっちっちだったんだよ」
実来の膝のあたりから沙夜が顔を覗かせ、祖母に向かって小声で言う。
「時人さん、葵によぉしてくれはったんですってねぇ」
疲れ切っているが、葵の母の顔は葵が成長して歳を重ねたらそうなるような、落ち着いた美貌だ。
その葵がなっていたかもしれない、将来の姿を見るのは正直辛い。
「いえ……、側にいながら葵さんを守れませんでした。……本当に、すみません」
「時人さん、東京で葵と何があったのか、実来にも私達にも知らへん事を……教えてくれはりませんか?」
葵の父がそう言って胡坐をかき、時人にビールを勧める。
関西では親族以外は焼香だけをして帰る事になっているが、時人にもこの酒宴に加われという事なのだろう。
それから時人は酒の力を借りてゆっくりと語り始めた。
幼い姉妹を交えて幸運な出会いがあった事。
彼女の人柄、優しさ、美貌、そして美しい音に惚れて、本来の彼氏である後藤に隠れて交際を始めていた事。
葵が後藤と別れたがっていた事。
葵がDVに遭いながらも自分に連絡をせず、彼女の異変に気付くのが遅れてしまった事。
葵を守るために宇佐美家で守ろうとした――、その矢先だったという事。
途中、どうしても涙が出てしまってハンカチで目元を拭い、そんな純粋で優しい時人に葵の両親も娘が惚れた男に納得をしていた。
葵が最初に出会って付き合ったのが時人なら――。
家柄も人柄も、外見も申し分ない、この最高の相手に赤い糸が真っ直ぐ結びついていたら――。
きっと今頃、あの周囲も温かくするような笑顔と共に、交際の報告を受けていたのだろうか。
「あの犯罪者は捕まったんですってね」
時人が話し終わった後の沈黙を、ポツリと葵の母が破る。
それに時人の膝の上の指がピクッと反応した。
「せいせいします。けど、死刑になってもあの犯罪者からあの子が受けた苦しみは、到底及ばしまへんけど」
「あいつが死んでも葵は帰って来ぃひん」
苦々しい口調で葵の父が言い、さして美味そうでもなくビールを煽る。
「時人さんに渡したいもんがあります。持って来ますさかい、待たはって下さい」
葵の母がそう言って静かに立ち上がり、荷物が置いてある方へと歩いてゆく。
「……お母さんがいぃひんさかい、今言うとくけど」
実来がポツリと言い、秘密を漏らす。
「……葵、妊娠したかもって喜んでた。時人さんと会うようになってから少しして、熱っぽかったり着床出血みたいなのがあったんやて。そやし、えらい喜んでて。けどピアノどうしようって言うてたんやけど、それでも嬉しそうやった」
「…………」
「……っ」
二重に喪われてしまった命に、父は黙し、時人は肩を震わせて涙を堪える。
母も、子も、助からなかったのだ。
「すみ、……っませんっ」
震える声で時人が言葉を絞り出し、それに葵の父は静かに首を振った。
「……時人さん、もぉええんです。あんさんは全力であの子を幸せにしてくれはった。あの子も幸せやったんやと思います。これ以上、あんさんが苦しむ事はありません」
そこに母が戻ってきて、時人に一通の手紙を手渡す。
「これ、こうなる前に葵から届いたんです。私達宛ての手紙の中にこの封筒が入っててね。いま大変な時やけど、もしもの事があったら時人さんて人に渡してって」
震える時人の手の中にあるのは、葵が選んだらしい桜の型押しがしてある綺麗な封筒。
「あの子、こういう小物とかは花柄が好きでねぇ。東京に行ってからよぉ私達にもメールやなくて手紙をくれたんですけど、その時も季節に合った花の絵柄とか、冬なら雪の結晶の柄の便箋とか……、気ぃ遣う子やったんです。その中でも桜が大好きで」
その一通の手紙の中に、葵の心遣いと優しさが込められている気がした。
「今……」
「いいえ、ええんです。この手紙は時人さんに読んで欲しいんでしょう。時人さん一人で、気持ちが落ち着かはった時に読んで下さい。内容も私達に知らせんでもええです。葵が時人さんに幸せにしてもらえてたって分かっただけで、もぉええんです」
それから両親は時人に何度も礼を言い、今度京都に来る事があったら美作の家に来てほしいという事や、東京でこれからも実来や孫達を宜しくと言って、親戚たちの酒宴の中へ戻って行った。
時人もその中にこれ以上長居することを選ばず、もう一度線香を立てて手を合わせて、明日の告別式には参加する旨を伝えて斎場を後にした。
**
帰り道、時人はフラリと立ち寄った居酒屋で浴びるように酒を飲んだ。
酒の美味い不味いも気にしないような飲みっぷりだったが、それで望むような酔い方はできるはずもなかった。
ただホテルに戻ったら泥のように眠りたかっただけなのに、具合が悪くて堪らない。
帰りのタクシーの中、何度も何度も封筒に書かれた「宇佐美時人様」という綺麗な文字に目を滑らせ、静かに嗚咽した。
実来が気を遣って通夜に参加する事を許してくれたのに、自分は通夜に参加せず、なんと失礼な事をしてしまったのだろう。
葵の祭壇を目にしたショックと、彼女の死を認めて手を合わせてしまった事実。それが時人に現実を教えているのに、自分は彼女の遺族に対してとても失礼な事をしてしまった。
疲れ果てた体でホテルの前で車を降り、フロントでカードキーを受け取って酷い気分で部屋へ戻った。
京都の滞在では葬儀の二日間の他に、父が気分転換をしてこいとの意味で一週間スイートルームを押さえておいてくれていた。
黒いネクタイを緩めて水を飲み、それから服を脱いでバスルームへ入った。
途中、洗面所の大きな鏡に酷い顔色をした男が映った気がしたが、無視をする。
頭からシャワーを浴び、長時間壁に手を付いて黙って下を向いていた。
流れる。
水も、時も、人も。
一つの流れが合わさり、別れ、一つの大きなうねりになってゆく。
葵の魂は今どこにいるのだろう?
「葵さん……」
湯気の立つバスルームに、時人の乾ききった声が落ちた。
未来から連絡があったのは事件の日の翌日で、司法解剖が終わった葵の遺体は、実来が付き添って京都まで帰るとの事だった。
時人の事を慮ったのか、電話では「もし大丈夫なようでしたら京都まで来はって下さい」と遠慮がちに告げ、葵の実家の住所を教えて恐らく葬儀場となるだろう斎場の場所も伝えられた。
葵の葬式、と聴いて時人はまだピンとこない。
読経をして、彼女のために祈って、荼毘に付して、『それ』をする事で彼女の魂は救われるのだろうか?
近親者や友人、知人が集まって彼女のために泣いて、それだけで、殴られ、罵倒され、犯されて滅多刺しにされた彼女は救われるのだろうか?
奪われてしまった彼女の人としての尊厳は、回復するのだろうか?
考えても分からない。
だが、
「必ず伺います」
酷い顔色で時人は目の前の空間をぼんやりと見つめたまま、葵の姉に約束した。
幾ら彼女の死を受け入れられなくても、彼女を送り出すセレモニーにだけは出席しなければならない。
「そう? どうもおおきに」
泣き腫らしてかすれてしまったが、芯のしっかりとした声で実来がスピーカーの向こうでほんの少し笑った。
**
京都滞在には、父が先に声を掛けて京都の中心部にあるホテルのいい部屋を取ってくれた。
時人の父にしては子煩悩な行動だが、あんなに何事にも無関心だった息子が、心から望んでいた女性を喪ってしまった事への配慮もあるのだろう。
息子が初めて子供として親を頼ってくれた時に、結果的にその期待に応えてやる事ができなかったという負い目もある。
関西では近親者しか通夜に参加しないという話だが、時人の存在はちゃんと美作家に通じているらしい。
まだ正式に付き合っている訳ではなかったが、葵から実来に、そして京都の両親にもいい人がいるという話が伝えられていたそうだ。
そのようにしてプライベートでの繋がりはないものの、企業的な繋がりがあったので、宇佐美家から美作家への電報や香典が送られたのも事実だ。
喪服でホテルを出てタクシーで斎場まで向かい、その入り口へ時人はどうしても進む事ができなかった。
夏の雨が蒸し暑い京都の地を濡らすなか、時人は黒い傘の持ち手を握ったまま、そこで足に根が生えてしまったように動けない。
黒い服を着た参列者が吸い込まれ、あの中では葵が生前の写真――恐らく笑顔で時人を迎えようとしている。
葵の最後の思い出が『それ』になってしまう。
だが、ちゃんとお別れをしなければ。
そう思うのに、どうしても足は動いてくれない。
そうやって、時人が傘を持ったまま棒立ちになってどれぐらい経っただろう。
斎場からまばらに人が出てきて、互いに挨拶をしながらゆっくりと時人の横を通り過ぎてゆく。
ざり
時人の中で何かがずれて、こすれた音がした。
違う。
間違えた。
こうじゃない。
間違えた。
ちゃんと出席するべきだった。
数珠も持って、香典も持ってきて、心の中で彼女に言うべき言葉も用意してきたはずなのに。
なんて事をしてしまったんだ。
ああ、俺は最後まで――一人じゃ何もできないみっともない男だ。
『あの日』以来時人の頬を濡らし続けている涙がまた目に浮かび、頬を伝ってゆく。
それを通行人に見られないように、時人はそっと傘で顔を隠した。
こうしていたら、何もかも取り零してしまう。
大切な人を両手の中から取り零し、もしかしたらこれからも何かを取り零し続けていくのかもしれない。
家族かもしれないし、彼女が置いていった姉や姪っ子たちかもしれない。
変わらなければ。
ぐっ、と奥歯を噛みしめ、もう通夜が終わってしまった斎場へ時人は入ってゆく。
喪服で溢れかえる大きな斎場の中を、人の流れに逆らうようにして進み、その奥に――葵はいた。
「……」
真っ白な百合や菊に囲まれて、葵が笑っている。
まだあの男に汚される前の写真なのだろう。
純真無垢で透明な瞳がこちらを見ていて、その視線を受けて時人の涙腺が一気に崩壊してしまう。
「……っ」
秀麗な顔が歪み、鼻孔が膨らんで、喉から大きな声が出そうになったのを必死になって息を吸い込み、誤魔化した。
それでも、涙だけは誤魔化せない。
大粒の涙が次から次へと眦から溢れ、拭っても拭っても頬を伝ってゆく。
「あっ……、く、……ぐ、あぁっ!」
声を上げて号泣してしまいそうになるのを必死になって堪えると、そんな声が漏れてしまう。
だがそれを好奇の目で見る者は誰もいない。
ここにいる人たちは、皆同じ思いで彼女を見送りに来たのだから。
「お兄ちゃん?」
幼い声がして涙を拭う手を目元から離すと、一華と沙夜が黒いワンピースを着て時人を見上げていた。
まだ葬式というものの概念が分からないのだろう。
葵がいなくなってしまったという事も分からない、きょとんとした顔で時人を見上げている。
姉妹の姿を見て、時人の胸に溢れてくるのは悔恨の念。
この小さな子達が慕っていた葵を、守る事ができなかったという思い。
「いっちゃん、さっちゃん、……、ごめっ、……ごめんっ、ねっ」
また新しい涙が頬を濡らし、一華と沙夜の目の前でしゃがみ込んだ時人が泣く。
この子達の希望を守ってあげる事ができなかった。
この子達の優しい叔母を守れなかった。
そんな思いが溢れて涙となり、時人の頬を濡らす。
およそ成人男性らしからぬ純朴さで泣き崩れる時人を、幼い姉妹は顔を見合わせてから、そっと小さな手で時人の薄い色の髪を撫でてやる。
「お兄ちゃん、泣いたらダメよ」
「なんで『ごめんなさい』なの? 沙夜達、お兄ちゃんになんも怒ってないよ?」
幼い声がそう赦し、姉妹はおままごとのお母さんになった気分で、大きな子供を慰めてやる。
その優しい手は確かに葵の手にも似ていて――。
泣き崩れる時人とそれをあやす姉妹の側に、そっと実来が立っていた。
**
十分泣いて鼻をかんだ時人は、遅まきながら葵の祭壇の前の座布団に座り、線香を立てて長い間手を合わせていた。
それを葵の両親が見ている。
「あの人が葵の言っていた時人さんやの?」
憔悴しきった母の声に、実来が頷く。
「そう、わざわざ東京から足を運んでくれはったの。葵の事えらい大切にしてくれはっててね、ほんまに優しくてええ人なの。葵の男運が……、あの男やなくて最初に時人さんに結びついていたらねぇ」
葵の母は姉妹の母だけあって美しい人だが、その隣にいる夫同然に一気に老け込んだような表情をしていた。
「時人さんの親御さんの宇佐美さんからも、えらい丁寧なご挨拶があってな。ほんまに……、葵が時人さんと最初からええ仲になっとったら、って思うと……悔やまれる」
沈痛な声でそう言う葵の父の視線の先には、祈り続ける時人の姿がある。
誰もがありえなかった『もしも』の話をし、ありえなかった華やかな未来を想像しては、悲しい溜息をついていた。
「……今回は、……お悔やみ申し上げます」
酷い顔色になっても尚整った顔の時人が葵の両親に頭を下げ、香典を差し出す。
「通夜に参加できず……、すみません。どうしても……、受け入れられなくて……。ご家族やご親戚、ご友人が何よりもショックを受けてらっしゃるのは分かっているんですが……、いえ、すみません。これは言い訳ですね」
周囲は親族のみの酒宴の席となっていて、その片隅で時人、実来、葵の両親がいて、実来に纏わりつくように幼い姉妹もいた。
「お婆ちゃん、お兄ちゃんね、葵ちゃんとあっちっちだったんだよ」
実来の膝のあたりから沙夜が顔を覗かせ、祖母に向かって小声で言う。
「時人さん、葵によぉしてくれはったんですってねぇ」
疲れ切っているが、葵の母の顔は葵が成長して歳を重ねたらそうなるような、落ち着いた美貌だ。
その葵がなっていたかもしれない、将来の姿を見るのは正直辛い。
「いえ……、側にいながら葵さんを守れませんでした。……本当に、すみません」
「時人さん、東京で葵と何があったのか、実来にも私達にも知らへん事を……教えてくれはりませんか?」
葵の父がそう言って胡坐をかき、時人にビールを勧める。
関西では親族以外は焼香だけをして帰る事になっているが、時人にもこの酒宴に加われという事なのだろう。
それから時人は酒の力を借りてゆっくりと語り始めた。
幼い姉妹を交えて幸運な出会いがあった事。
彼女の人柄、優しさ、美貌、そして美しい音に惚れて、本来の彼氏である後藤に隠れて交際を始めていた事。
葵が後藤と別れたがっていた事。
葵がDVに遭いながらも自分に連絡をせず、彼女の異変に気付くのが遅れてしまった事。
葵を守るために宇佐美家で守ろうとした――、その矢先だったという事。
途中、どうしても涙が出てしまってハンカチで目元を拭い、そんな純粋で優しい時人に葵の両親も娘が惚れた男に納得をしていた。
葵が最初に出会って付き合ったのが時人なら――。
家柄も人柄も、外見も申し分ない、この最高の相手に赤い糸が真っ直ぐ結びついていたら――。
きっと今頃、あの周囲も温かくするような笑顔と共に、交際の報告を受けていたのだろうか。
「あの犯罪者は捕まったんですってね」
時人が話し終わった後の沈黙を、ポツリと葵の母が破る。
それに時人の膝の上の指がピクッと反応した。
「せいせいします。けど、死刑になってもあの犯罪者からあの子が受けた苦しみは、到底及ばしまへんけど」
「あいつが死んでも葵は帰って来ぃひん」
苦々しい口調で葵の父が言い、さして美味そうでもなくビールを煽る。
「時人さんに渡したいもんがあります。持って来ますさかい、待たはって下さい」
葵の母がそう言って静かに立ち上がり、荷物が置いてある方へと歩いてゆく。
「……お母さんがいぃひんさかい、今言うとくけど」
実来がポツリと言い、秘密を漏らす。
「……葵、妊娠したかもって喜んでた。時人さんと会うようになってから少しして、熱っぽかったり着床出血みたいなのがあったんやて。そやし、えらい喜んでて。けどピアノどうしようって言うてたんやけど、それでも嬉しそうやった」
「…………」
「……っ」
二重に喪われてしまった命に、父は黙し、時人は肩を震わせて涙を堪える。
母も、子も、助からなかったのだ。
「すみ、……っませんっ」
震える声で時人が言葉を絞り出し、それに葵の父は静かに首を振った。
「……時人さん、もぉええんです。あんさんは全力であの子を幸せにしてくれはった。あの子も幸せやったんやと思います。これ以上、あんさんが苦しむ事はありません」
そこに母が戻ってきて、時人に一通の手紙を手渡す。
「これ、こうなる前に葵から届いたんです。私達宛ての手紙の中にこの封筒が入っててね。いま大変な時やけど、もしもの事があったら時人さんて人に渡してって」
震える時人の手の中にあるのは、葵が選んだらしい桜の型押しがしてある綺麗な封筒。
「あの子、こういう小物とかは花柄が好きでねぇ。東京に行ってからよぉ私達にもメールやなくて手紙をくれたんですけど、その時も季節に合った花の絵柄とか、冬なら雪の結晶の柄の便箋とか……、気ぃ遣う子やったんです。その中でも桜が大好きで」
その一通の手紙の中に、葵の心遣いと優しさが込められている気がした。
「今……」
「いいえ、ええんです。この手紙は時人さんに読んで欲しいんでしょう。時人さん一人で、気持ちが落ち着かはった時に読んで下さい。内容も私達に知らせんでもええです。葵が時人さんに幸せにしてもらえてたって分かっただけで、もぉええんです」
それから両親は時人に何度も礼を言い、今度京都に来る事があったら美作の家に来てほしいという事や、東京でこれからも実来や孫達を宜しくと言って、親戚たちの酒宴の中へ戻って行った。
時人もその中にこれ以上長居することを選ばず、もう一度線香を立てて手を合わせて、明日の告別式には参加する旨を伝えて斎場を後にした。
**
帰り道、時人はフラリと立ち寄った居酒屋で浴びるように酒を飲んだ。
酒の美味い不味いも気にしないような飲みっぷりだったが、それで望むような酔い方はできるはずもなかった。
ただホテルに戻ったら泥のように眠りたかっただけなのに、具合が悪くて堪らない。
帰りのタクシーの中、何度も何度も封筒に書かれた「宇佐美時人様」という綺麗な文字に目を滑らせ、静かに嗚咽した。
実来が気を遣って通夜に参加する事を許してくれたのに、自分は通夜に参加せず、なんと失礼な事をしてしまったのだろう。
葵の祭壇を目にしたショックと、彼女の死を認めて手を合わせてしまった事実。それが時人に現実を教えているのに、自分は彼女の遺族に対してとても失礼な事をしてしまった。
疲れ果てた体でホテルの前で車を降り、フロントでカードキーを受け取って酷い気分で部屋へ戻った。
京都の滞在では葬儀の二日間の他に、父が気分転換をしてこいとの意味で一週間スイートルームを押さえておいてくれていた。
黒いネクタイを緩めて水を飲み、それから服を脱いでバスルームへ入った。
途中、洗面所の大きな鏡に酷い顔色をした男が映った気がしたが、無視をする。
頭からシャワーを浴び、長時間壁に手を付いて黙って下を向いていた。
流れる。
水も、時も、人も。
一つの流れが合わさり、別れ、一つの大きなうねりになってゆく。
葵の魂は今どこにいるのだろう?
「葵さん……」
湯気の立つバスルームに、時人の乾ききった声が落ちた。
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
女帝の遺志(第二部)-篠崎沙也加と女子プロレスラーたちの物語
kazu106
大衆娯楽
勢いを増す、ブレバリーズ女子部と、直美。
率いる沙也加は、自信の夢であった帝プロマット参戦を直美に託し、本格的に動き出す。
一方、不振にあえぐ男子部にあって唯一、気を吐こうとする修平。
己を見つめ直すために、女子部への入部を決意する。
が、そこでは現実を知らされ、苦難の道を歩むことになる。
志桜里らの励ましを受けつつ、ひたすら練習をつづける。
遂に直美の帝プロ参戦が、現実なものとなる。
その壮行試合、沙也加はなんと、直美の相手に修平を選んだのであった。
しかし同時に、ブレバリーズには暗い影もまた、歩み寄って来ていた。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる