輪廻の果てに咲く桜

臣桜

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「お婆ちゃん、こんにちは。美弥だよ」
 坪庭を抜けた奥はシンとしていて、時が止まったようだ。
 それでも掃除がよく行き届いていて、古くても埃臭さなどはない。
 開かれた襖の前で美弥が正座をし、座椅子に座って目を閉じている曾祖母に向かって大きな声を出した。
「入るね」
 沙夜はこういう古い家での礼儀を美弥に教えなかったが、初めて美作の家に連れて来られてから、美弥は自分から和文化や作法というものに興味を持った。
 やはり、時人に似合うには色んなものを身に付けなければならないと、幼い彼女なりに思ったからだ。
 畳の縁を踏まないように移動し、座椅子で眠るように目を閉じている昭に声を掛ける。
「お婆ちゃん、美弥だよ。こんにちは」
 三度目の大きな声に、昭は薄っすらと目を開け、こちらを覗き込んでいる美しい少女に微笑みかける。
「ああ、葵。お帰り」
「ただいま、お婆ちゃん」
 昭が夢うつつの人になってしまったのは、夫を喪ってからだ。
 それから昭に会いに行っても、こうやって美弥を葵と間違える事がよくある。
 けれど、美弥は無理に昭の夢を壊そうとしない。
 葵という女性が若い歳で酷い亡くなり方をしたのは知っているし、自分はどうやらその葵に生き写しらしい。
 初めこそ呆けたかもしれない昭に戸惑いと苛つきを感じ、何度も「私は美弥だよ」と繰り返したのだ。だが沙夜や実来にやんわりと「仕方のない事だ」と言われた事もあり、今ではそんな反応に慣れてしまっている。
 葵の生前の写真を見て自分で似ているのかな? と思う程度なのに、美弥の周りの人間はしみじみと「似てるねぇ」と言うのだ。
 その「似てるね」は、美弥という人格を否定した言葉のように聞こえる時もあり、美弥はそれが自分の被害妄想だと分かっているのだが、どうしても周囲の人たちに『葵さん』と比べられているような気がしてならない。
 だからその葵と自分を混同している昭の存在は、初めこそ本当にもどかしかったのだ。
 けれど、まだ二十歳の娘を喪った親の気持ちは想像する事しかできない。
 それでも自分がその娘にそっくりなら老い先の短い昭を思いやって、葵のふりをして優しくしてあげたいと思う気持ちがあるのも確かだ。
「外は桜が綺麗やったでしょう。お母さん、葵の好きなお花見団子買っておいたさかいね」
「どうもありがとう」
 昭がゆっくりと体を起こそうとするので、美弥はそれを手伝ってやる。
「久し振りに葵のお茶が飲みたいわぁ」
 話に聞けば、葵という女性は美人でプロピアニストを目指していただけではなく、名家の娘らしく礼儀作法も他の家の娘に恥じない腕だったらしい。
「しばらく点ててなかったから、今練習中なの。もうちょっと待ってね」
 勿論、美弥だって茶道や華道に興味を示していない訳ではない。時人の隣に立つには、それぐらいできなくては困る。
 だが、美弥の家は一般家庭だ。
 茶道や華道を習うには教室に通う費用が要り、それを道楽として習うには少々経済的に厳しい。
 住んでいる区のセンターで参加費を払って教えてくれる教室に通っても、一通りやる事が分かるぐらいで、主流は奥様たちの交流だ。

 やりたいけれど、きっと『葵さん』みたいに上手にはできない。
 もしできたとしても、比べられたらどうしよう?

 そんな気持ちを抱えながら、美弥は昭に優しく接する。
「今日ね、お友達も連れて来ているの。高校の卒業旅行でね、数日の間ちょっとうるさくなるかもしれないけれど、許してね?」
「あぁ、ええよ、ええよ。お友達とたんと遊びよし。お母さん、葵に習いごとばっかりであんまり遊ばせられへんかったさかいね。遊べる時にたんと遊びよし」
 障子の向こうにある日本庭園から、少し湿った空気が吹き込んでくる。
 それに乗って老人特有の匂いがした。
 この古い家の女主人としての責任や、若い娘を失ってから辛い人生を歩んできた一人の母としての匂い。
 小さくなってしまった体は、年相応に軽くなっている。
 静かな、静かなこの屋敷の奥で、昭は思い出に包まれたまま逝ってしまうのだろうか?
 病院のベッドの上でないだけ、まだマシなのだろうか?
 そんな感傷を感じながら、美弥はそっと息をついた。
 が、その美弥の象牙のような肌を、しわを刻んだ手が優しく撫でてやる。
「葵、女の子が溜息をついたらあかんえ? 幸せが逃げてまうさかい。葵には時人さんがいはるんやろ? あんなハンサムで優しい人、よぉ探したね。お腹の赤ちゃんは順調やの?」
「……うん、順調だよ」
 美弥の声が震えた。

 お婆ちゃんの事は好きだよ。
 大好き。
 私を葵さんと重ねてしまうのも、仕方がないと思ってるの。
 でもね、昔の葵さんの情報を私に伝えないで。
 どうしても……、思い出には敵わないのかって、思ってしまうから。

 薄々は分かっていた。
 時人が自分達家族に関わるのは、『葵さん』という人がいたからという事。
 中学三年生のあの晩、勇気を出して時人のベッドに潜り込んだ時、彼が寝言で幸せそうに呟いた名前。

 葵さん。

 知っている。
 自分が戦おうとしている人は、もうこの世にいない人。
 不戦勝してしまった人。
 だからこそ時人は『葵さん』の影を求め続け、――恐らく自分たち家族にも良くしてくれている。
 だから――、『葵さん』そっくりの自分に優しいのかもしれない。

「うっ……」
 悔しくて、悲しくて、思わず涙を零してしまった美弥を、昭が優しく撫でてやる。
「ほぉら、泣かんどき。妊娠中は不安定な時期もあるけど、ちゃあんとええ子が生まれるよう、お母さんが神社にお参りしておくさかいね」
「うん……っ」
 優しい曾祖母を傷付けないようにそう返事をし、「また後で来るね」と言い残して美弥は逃げるようにして昭の部屋を後にした。
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