時戻りのカノン

臣桜

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願い

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 移動途中で祖母から『家に着いたらチャイムは押さず、勝手に入ってきてどうぞ』とメッセージが入っていた。

 鍵は所持しているので、タクシーで祖母宅に着いたあとは言葉に甘えて勝手に入らせてもらった。

 一階はレッスン室しかないので、静まりかえっている。

 時刻は二十一時台なので祖母はまだ起きているだろう。

(挨拶だけはしておこう)

 途中、玄関にある鏡に自分の姿が映った。

(……酷い顔色)

 花音の顔は青白く、数時間も経っていないうちに疲れ切っている。

(でも……)

 胸の奥はズキズキと痛み、精神的な疲労で花音の心は「もう嫌だ」と叫んでいた。

 ほんの少し気を緩めれば、滂沱の涙を流し生きるすべての気力を失っていただろう。

 けれど、僅かな希望があるのなら、それに縋ってから絶望しても遅くない。

(最後まで諦めない……!)

 鏡の中の自分を見て唇を引き結び、目に強い光を宿して花音は深呼吸した。

 階段を上がり、二階のリビングダイニングに続くドアを開ける。

「お祖母ちゃん」

 十一月になり、夜はすっかり冷えているので花音は薄いコートを着ている。

 コートを着たままリビングに入ると、ロッキングチェアに座っていた祖母がこちらを見た。

 安野もいて、二人はお茶を飲みながらテレビを見て、寝る前の時間を過ごしていたようだった。

「花音。急だったわね」

「うん……。練習室Cの、黒いアップライトピアノ弾かせて。そう長い時間は掛からないから」

 心臓病で死ななかったこの世界の祖母も、あのピアノの不思議な力、梨理の事は分かっているのだろうか。

 様々な感情を込めて祖母を見つめると、彼女は穏やかな表情で頷いた。

「望むように弾けるといいわね。気持ちを込めて、聴かせたい相手に届くように弾くのよ」

「……うん!」

 祖母は六年ピアノから遠ざかっていた花音が、急にピアノを弾くと言い出しても何も言わない。

 けれど言葉の奥に彼女の想いが秘められている気がした。

 ――救ってみせる。

 祖母を救えたのなら、秀真だって救ってみせる。

 それ以上の我が儘は言わないから、愛した人が生きている世界にいさせてほしい。

 花音は祖母と安野にペコリと頭を下げると、踵を返し一階に下りた。

 暗い一階の廊下の電気をつけ、花音は練習室Cに入る。

「梨理さん」

 コートを脱いでソファに置き、花音は誰もいないこぢんまりとした練習室で彼女に呼びかける。

「以前は助けてくれてありがとう。お陰でお祖母ちゃんの命を救う事ができました。あれから、好きな人ができて結婚できるかもしれない事になりました。……でも、その人が殺されてしまったんです」

 姿の見えない梨理に語りかけながら、花音は静かに涙を流す。

「多くは望みません。私はただ、秀真さんに生きていてほしいんです。彼とただ一緒にいたいだけ……」

 歯を食いしばり、頬を濡らす涙を手で拭った。

「お願いします! 梨理さんにばかりお願い事を聞いてもらって、図々しいのは分かっています。私ができる事なら、梨理さんの望む事を叶えます。だから……、力を貸してください……!」

 誰もいない空間にバッと頭を下げたあと、花音はコンクールの時のように緊張してアップライトピアノの蓋を開けた。

 椅子の高さを調節し、座ったあとに楽譜のない譜面台を見つめる。

『気持ちを込めて、聴かせたい相手に届くよう弾くのよ』

 先ほどの祖母の言葉が脳裏に蘇る。

 ――伝えたいのは……。

 秀真、梨理の二人ともだ。

 愛していると、会いたいと伝えたい。

 あなたの声がもう一度聴きたいと、音色に乗せて届けたい。
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