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淫魔の誤算
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リリアリアは簡素なベッドのふちに腰かける。薄絹のベビードール越しに、シーツの冷たさが肌に伝わる。リリアリアは上半身をひねって、たしかめるようにベッドシーツに指を滑らせた。朝には小間使いが掛け替えて行ったことは知っているのに、この寝台にあの人が毎日体を横たえているのだと思うと、リリアリアの心臓は震えた。
屋敷の主人の娘たるリリアリアが、家付き騎士のディオンの部屋に、夜半を待って忍び込んだのには理由がある。
淫魔が支配する母権王国において、外つ国のような男女を縛る婚姻制度は存在しない。支配階級たる淫魔の女たちは自由に人間の男と交わり子を生す。従属者たる人間の側にはほとんど拒否権はないわけで、その男が権力者の愛妾でもない限り、淫魔たちは好き好きに男に手を出すものだ。
リリアリアもそうして生まれて、女の性にためらいなく、奔放に振る舞う母を見て育った。その母から性の手ほどきを受け、女と男がまぐわう素晴らしさを言い聞かせられた。
けれども――リリアリアは家督を継ぐ歳を迎えながら、未だ純潔だった。
しびれを切らした母親に男をあてがわれてもリリアリアは拒絶した。だれならばいいのか尋ねられても口をつぐんだ。
そうして後生大事に純潔を守る娘に母親はついに強硬策に打って出た。
「未通女に家督は渡せません。一年以内に処女を捨てなければあなたは廃嫡、爵位は返上させていただきます」
この横暴にはリリアリアもすっかり困り果てた。処女が家督を継げぬ道理はないと言い募るのは簡単だが、この邸を支配しているのが母親である以上、リリアリアには反論の権利は与えられても、横暴を差し止めるだけの力はない。かといって売り言葉に買い言葉で「はいわかりました」と言うわけにもいかない。
お嬢様のリリアリアにはひとりで生活しているだけの力はなかったし、なにより自分のわがままひとつで広大な邸で働く使用人たちを路頭に迷わせるのは忍びなかった。
ならば残された道はひとつなわけで――。
リリアリアは晩秋の外気にさらされた体をかすかに震わせる。月明かりだけが薄ぼんやりと部屋を照らす中、息を潜めてディオンの帰りを待つ。
ディオンはリリアリアよりもひとまわり年上の家付き騎士である。その無駄なく筋肉のついたしなやかな肢体を思い浮かべると、リリアリアの体はどうしようもなくうずいた。
リリアリアはディオンが好きだった。幼い頃は単なる年上の遊び相手であったが、長じてからはその優しさと頼もしさに惹かれ、気がつけば恋に落ちていた。性教育の一環として母とその愛妾が交わる姿を見たとき、リリアリアはそこに己とディオンの姿を重ね合わせ、自慰によって初めてオーガズムを迎えた。
淫魔の女は人間の男と自由に交わり、子を生す。女主人が男の小間使いを夜の褥に招き入れるのはよくあることで、それにならって娘は初潮を迎えてしばらくすれば男を知る。娘の純潔を散らせる男はたいていの場合は母親が見つくろって来る。よく慣れた自分の愛妾だったり、あるいは破瓜の痛みを和らげるために発育の未熟な年少者をあてがったりと様々だ。
無論、娘がこれと言った相手を選ぶこともある。そういうわけでリリアリアにもディオンを所望するチャンスはあった。しかしリリアリアは結局そうとは言えなかった。思春期の心が思い人の名を口にすることを恥じ入らせたのもあるが、もっとも大きかったのは、ディオンに嫌われたくないという一心であった。
けれどもだれか別の男で純潔を散らす、という選択もリリアリアはしなかった。そういう優柔不断な心がリリアリアを純潔のままで過ごさせ、ついには母親の強硬令を呼んでしまったのである。
母親に追い立てられ、ついにリリアリアも腹を括った。けれども選んだのはディオンに正直な思いを告げるということではなく、彼を騙して本懐を遂げるというものであった。
淫魔には人間にはない魔力がある。具体的には幻覚を見せる能力がそれである。これは国土防衛や戦争にも使われるが、日常生活においてはもっぱら夜の営みに用いられる。
淫魔とて男にいやいや相手をさせる、というのは憚られるわけで――もちろんそれがいいという御仁もいるのだが――そういうときに幻視を使うのである。相手の男がもっとも性的な魅力を感じる異性の姿を幻視させ、興奮をかき立てて行為に持ち込むというのが常套手段だが、たまにマンネリな性生活の刺激にも使われる。
ともかく幻視は淫魔のあいだではよく使われるものであった。
リリアリアはそれを今夜、ディオンに対して用いようとしていた。
ディオンには嫌われたくない。けれどもディオン以外とは交わりたくない。しかしそうするには思いを告げるしかない。――その堂々巡りの果てにリリアリアの小心で卑怯な心が持ち出したのが、ディオンに幻覚を見せて抱いてもらう、というものであった。そのためにリリアリアはディオンの部屋に忍び込んだのである。
息を吐く。かろうじて吐息は白くならなかった。
リリアリアは衣服としては心許ないベビードールに包まれた自身の肢体を見下ろす。初潮を迎えて体の端々は女性的な丸みを帯び始めた。乳房も手のひらにぎりぎり収まるほどに膨らんだが、母親にはまだ及ばない。なだらかな恥丘には、髪の色と同じ茂みが控えめにあった。
初潮を迎えたあと、母親の見つくろった男を拒絶したことでリリアリアは母と口論になった。「じゃあだれならいいの」という母親の至極もっともな疑問にリリアリアは口ごもった上、幼稚にもその場から逃げ出した。
騒ぎを聞きつけたのか、あるいは母がやったのか、中庭のベンチに座ってうつむくリリアリアのもとにディオンがやって来たのはすぐだった。
「どうしたのです? 貴女が奥様と喧嘩なさるなんて珍しい」
日に焼けた精悍な顔つきの男をそのときは見ていられなくて、リリアリアはすぐに視線を地面に落とした。
「そういうときもあるわ」
そっけなく言ったあと、リリアリアは後悔した。
「……お母様が、その……初めての相手を見つくろってくれたのだけれど……わたしが嫌だって言ったから」
「お嫌でしたら、はっきりそう言うべきですよ」
ディオンの言葉にリリアリアは密かに安堵のため息を漏らした。
ディオンはいつだってリリアリアには優しい。砂糖よりも甘く、甘やかしてくれるから、リリアリアはいつだって勘違いしないように必死だ。
「そうだけど……でもいつかはしないといけないわけだし」
リリアリアが嫡子である以上、いずれは彼女も母として子を生すのが定めである。それは初心な彼女とて理解していた。
「そうお急ぎになられることはありませんよ。お嬢様は月のものが来たばかりなのですし、これから自然にそうしたいと思う相手と巡り合うこともありましょう」
その相手はあなたなの――と言えたら良かったが、あいにくと奥手のリリアリアには誘惑なぞ夢のまた夢であった。
同時に暗に子供だとディオンに断言されてしまい、リリアリアは少し傷ついた。大人になったつもりはなかったが、けれども大人の入り口をくぐったのは事実なわけで――そんな複雑な乙女心ゆえにリリアリアはディオンの言葉に落ち込む。ひとまわりも上のディオンからすれば、リリアリアが他愛ない子供であるのもまた事実であったからだ。
あれから数年が経った。リリアリアの体は成熟期に入り、うぬぼれを抜きにしても以前よりは色気のあるものへと変化した。それは女としての機も熟したということで、リリアリアも人並みの性欲を抱くようになっていた。ディオンに抱かれることを空想すれば、体は顕著に反応する。胸の頂きはぷくりとベビードールの布地を押し上げ、レースの下着はしっとりと濡れるのだ。
――ディオン。
リリアリアがその小さな唇に思い人の名を含ませたとき、廊下から人の気配が近づいて来る。床を踏む革靴のゆっくりとした、重々しい音はディオンのものに相違なかった。
ああ、ついに来てしまった。リリアリアの心臓は高鳴りを速くして、体中で音を立てる。めまいを起こしそうなほどの緊張に襲われるが、もうここまで来てしまったのだ。あとはやるしかない。リリアリアは部屋の入口である樫の木でできた扉を凝視した。
深夜であることに配慮してか、扉はゆっくりと開いた。油の足りない黒い蝶つがいがかすかに耳障りな音を立てる。
やがて大きな影が部屋に差し込む。部屋の主――ディオンの帰還である。
ディオンは寝台に座るリリアリアと目が合うと、その隙のない切れ長の目をわずかに見開かせた。驚きで言葉も出ないといった様子の彼を見て、リリアリアは胸が痛むのを感じた。今、ディオンの茶褐色の瞳にはリリアリアが映っているが――彼が見ているのは自分ではないのだ。リリアリアの知らない、ディオンの好いた相手。
リリアリアがディオンに思いを告げられなかったのには、もうひとつ理由がある。それは、どうやら彼には思い人がいるらしいという事実を知ってしまったからだ。
人間の主人たる淫魔たちは当然の義務として彼らの「繁殖」に気を配らねばならない。人間の男を独占してはやがて種が絶えてしまう。それは彼らを使役する淫魔たちには避けねばならないことであった。
そうであるから淫魔たちは自らの下で働く人間を、積極的につがわせようとする。婚姻制度はないものの、それに近しい形でカップルを定めるのだ。
粗雑な淫魔は人間の意志を尊重することなどせず、強制的に子供を産ませてしまう。だがリリアリアの母はある程度すり合わせをしてつがいを決めてやっていた。それは優しさゆえ――というよりは、無理やりつがわせては子供を産ませるのに主人がいちいち指図することになるが、好意を持つ相手同士であればそのようなことをせずとも自然と子供が殖えて行く。だから人間の意見を聞くというのは、最初に労力を使うことでのちのちの面倒なやり取りを省く、くらいの意味しかない。
壮年のディオンも当然ながらそろそろ子供を、とリリアリアの母に声をかけられたことがある。そのときに彼ははっきりと、思い人がいると言ったのだ。それが方便であるのか、リリアリアには判断がつかなかった。
「そう、好いた相手がいるのね」
「はい」
「それはこの邸の人間なのかしら? それとも外の?」
「それは、まあ……」
言葉を濁すディオンに、リリアリアの母は面白げに微笑む。
「あらそう。まあしばらくは好きにしなさいな。けれどあなたの血には期待しているのよ? いずれは子を生してもらいますからね」
いずれディオンはだれかとつがって、子供を作る。その事実にリリアリアは打ちのめされた。生物としての当然の帰結を、リリアリアは頭の端にすら上らせたことがなかったのである。
おぼろげながらもディオンに抱かれることをリリアリアが画策し始めたのは、そのときからであった。
だいじょうぶ、幻視は効いている。その証拠に、ディオンの瞳はじきに欲望の色に染め上げられ、とろけてしまった。ごくりと生唾を飲み込む動きに合わせ、太い首にある立派な喉仏が上下する。どこか焦点の合わない瞳がリリアリアの体を見る。体の隅々を舐めるようなその視線に、リリアリアは高まりを覚えた。
「ディオン」
名前を呼べば、ディオンはハッとした表情を見せてから、手のひらで顔の右半分を覆い、首を振った。
「いけません。いけません……こんなことは――」
「――ディオン」
葛藤を見せるディオンに向け、リリアリアは今度は魔力を込めた声で名を呼んだ。抗いがたいその響きに、寝台の上で好いた相手が淫らな姿で待つ光景に、ディオンの鉄の意志はなすすべもなく溶かされて行く。
「……ねえ、好きにしていいよ。わたしを抱いて――めちゃくちゃにして」
その言葉を告げるのに、リリアリアは苦労した。震える声を精一杯押し込めて、なんでもないようにふるまって、ディオンを誘惑する。
ディオンはそれでも、なにかに耐えるような顔でその場に突っ立ったままリリアリアを見ていた。
焦ったリリアリアは寝台から腰を上げると、自分よりもずっと大きなディオンの体にしがみつき、そのがっしりとした腰に細い腕を回す。
「ディオン、ねえ、おねがい。……は、孕ませて。ディオンの、種で……孕みたいの」
ディオンの盛り上がった胸板へ柔らかな乳房をぐいと押しつける。そうして頭ふたつぶんは上にあるディオンの顔を見上げた。リリアリアの腹には、ディオンの硬くなったものが当たっていた。
ディオンの瞳の奥でなにかが揺らめくのを、リリアリアは見た。それは欲望の炎だった。
次の瞬間にはリリアリアは寝台へと押し倒され、その華奢な体はすっかりディオンの体の陰に隠れてしまった。
押し倒された衝撃に目をつむったリリアリアは、次に瞼を開けたとき、自らの上にいる男を見て息を飲んだ。そこにいるのは雄だった。リリアリアの知る男ではない――雄がいた。獰猛な色をたたえた双眸が、これから種付けをする雌を捉えていた。
奥からあふれ出るものを受け、もはや下着の用をなしていない布を取り去られたのを合図に、リリアリアは快楽の海へと飲み込まれて行った。
ディオンの愛撫は荒々しくも優しかった。愛おしいものを扱うその手つきを意識するたびに、リリアリアの胸は痛みを訴えたが、それもすぐに喜悦の鼓動に上書きされて行った。
ディオンの鍛え上げられた巨躯の下でリリアリアは身じろぎすることも許されず、その体を暴かれ、処女雪のような肌に鬱血痕と噛み跡を散らされた。
そうして言葉もないままにふたりは昂って行く。
リリアリアが愛撫だけで達してしまいそうになったところで、ディオンの体が彼女から離れた。剣だこのある筋張った手が、リリアリアの足首をつかみ、大きく開かせる。ディオンの下腹部にあるものを見れば、彼もまたリリアリア同様限界が近いのは明らかであった。
リリアリアのだれも立ち入ったことがない場所の奥まで、ディオンが押し入るのに時間はかからなかった。
体を揺さぶられ、内臓を押し上げるような圧迫感と、脳天まで突き上げるような甘い痺れに、リリアリアはすすり泣きに似た声を上げる。その顔は陶酔に緩みきっていた。
リリアリアの頭はもはや論理立ててなにかを考えるということができず、その小さな唇は壊れたように何度もディオンの名を呼んだ。
リリアリアの顔が汗と涙でぐちゃぐちゃになり、ディオンの動きがよりいっそう荒々しいものに変わったとき、彼は女の名前を呼んだ。
「――リリアリアっ」
リリアリアは始め、理解できなかった。
しかしそのとろけきった脳にディオンの言葉が浸透すると、それは快楽となってリリアリアの足の先まで駆け抜けた。それは今の彼女にとって、致命的だった。
――どうして。
リリアリアのその問いは、発せられることなくひときわ大きな嬌声に飲み込まれ、消えた。
「お嬢様」
ディオンから気遣うような声をかけられても、リリアリアは枕から顔を上げなかった。欲望のままに体を動かし、あるいは動かされ、すっかり体力を消耗してしまったというのもある。しかし最大の理由は、羞恥ゆえであった。
ディオンはリリアリアの幻視にかかっていなかったわけではない。ただ――幻視をかけようとかけまいと、結果は同じであったというだけの話だ。
「恥ずかしい。もうやだ」
震える声でそうつぶやけば、かたわらにいるディオンが密かに笑う気配がした。
「……恥ずかしいのは私もなのですが」
「うそ」
「うそではありません。魔力の声に酔ったとはいえ、お嬢様を相手に理性をなくすなど……」
「だって、そういうふうにしたんだもの。もしそうできなかったのなら困るわ。これでも学校じゃ魔力の成績は良くて――」
恥ずかしさゆえにリリアリアは饒舌となった。それにつられるようにして思わずディオンの方へ顔をやれば、柔和な色の双眸と視線が合う。リリアリアはたちまちのうちに先ほどの情事を思い出してしまった。
先ほどまではあの瞳が獰猛なけだもののような顔でリリアリアを見下ろしていたのである。あの目には、リリアリアのすべてが隠しようもなく映ってしまった。そう考えると恥ずかしくてたまらない。
「まあ、とにかくお嬢様――なぜあのようなことをなされたのですか?」
ディオンの核心を暴こうとする言葉に、リリアリアは心臓を跳ねさせる。
「夜伽のお相手でしたら、言ってくださればいいものを。このような粗末な部屋で……」
困ったような顔をして、ディオンはリリアリアの銀の髪に手を伸ばす。そのまま無骨な指を差し入れると、あやすような手つきでリリアリアの頭を撫でた。その感触にリリアリアは思わずうっそりと目を細めてしまう。
「それともこのようなやり方がお好きなのですか?」
「ち、ちがう!」
「では、なぜ」
「それは……ディオンと、したかったから……」
「私と?」
目を瞬かせるディオンに対し、リリアリアは月明かりの下でもわかるほどに耳を紅潮させる。
「ディオンと……初めてはディオンとが良かったの! でも、でも……どうしても言えなかったから……だから、ディオンの好きな人の姿になれば、抱いてくれると思って……」
勢いに任せて口を突いた言葉はしかし、じきに尻すぼまりとなってしまう。
もはやリリアリアはやぶれかぶれであった。
「悪いことだってわかってたけど……本当は幻視がかかっているうちに部屋から出る予定で――」
「お嬢様」
気がつけばうつむきがちになっていたリリアリアは、顔を上げてディオンを見た。ディオンはどこか困ったような、半ば呆れたような顔をしてリリアリアを見ている。
「……お嬢様。私は幻視にはかかっていましたよ」
「……知ってるけど」
「しかしそれは、意味がなかった」
「最後には解けてしまったもの」
「……お嬢様」
ディオンは深いため息をつく。しかしその理由がわからず、リリアリアは困惑した顔をさらすしかない。
「私は、幻視にはかかっていましたよ」
「……それはさっきも聞いたわ」
「かかっていましたが、それは意味がなかったんです」
「……?」
「ですから、最初から私にはお嬢様の姿は、お嬢様の姿そのままにしか見えていなかったんです。幻視が効いているにも関わらず。……この意味、おわかりになりますよね?」
リリアリアはややあってから、今度は首まで肌を赤く染め上げた。
「え? え? ……え?」
「ですから恥ずかしいんですよ。今までこれでも、貴女の前では格好をつけていたつもりなんです。なのに、貴女に獣欲を抱いていたなどと――」
「え? ディオン、待って。待って。だって、ディオンは好きな人がいるってお母様に――」
「それは貴女のことです。けれども奥様を前にしてお嬢様に懸想しているなどとは口が裂けても言えませんから」
ディオンから告げられる怒涛の真実に、リリアリアは目を回してしまいそうになる。
そうしてかろうじてでてきた言葉は
「じゃあ、わたしの計画は無駄だったの……? ぜ、ぜんぶ……?」
という、茫然自失としたものだった。
がっくりと寝台のシーツに沈むリリアリアを見て、さすがに気の毒に思ったのか、ディオンは慰めるようにそのまろい頬を撫でる。
「まったくの無駄、とは言いがたいですけれどね」
「でも……そんな……だって……」
「私からお嬢様を求めるなど、許されませんし」
人間が淫魔に従属する存在である以上、その主人の肉体を求めるなどということはあってはならない。たとえ狂おしいほどに恋慕の情を募らせようとも、その思いの丈をぶちまけることなど許されようはずもなかった。人間が淫魔に触れられる瞬間――それは彼女らが許したときだけなのだ。
「ああ、でもやはり、言ってくだされば良かったのに」
「だって……恥ずかしいし、それに、嫌われたくなかったから……」
「幻視は良いのですか?」
「ディオンがだれかのものになるなら、嫌われてもいいかなって……。だって、だって、わたしの姿そのままが映るなんて思わなかったし――」
どこに出しても恥ずかしくのない立派な奥手のリリアリアが奔放にふるまえたのは、ひとえに「別人として映っているだろう」という思い込みにあった。リリアリアであって、リリアリアではない。だからこそ、勇気を振り絞って卑猥な言葉すら口にすることができたのだが……。
リリアリアは、とても慎ましやかとは言いがたい誘惑の言葉の数々を思い出し、悶絶した。
「……もうやだ」
「これに懲りたのならもう小手先を利かせようとするのはやめることですね。今度からは素直に閨へ呼べばいいのです」
「……そうする」
「そうしてください」
「うん……」
不機嫌そうに枕へ顔を埋める姿は子供っぽいと断言してしまって差し支えないわけだが、そのことにリリアリアは気づかない。だが、ディオンからすればそんなリリアリアの姿が愛おしい。
ディオンはリリアリアが少しでも長く子供であればいいと思っていた。豊かな銀糸の髪はいつも柔らかく白波を打ち、紫水晶をはめ込んだかのような瞳は無邪気に輝く。薄紅色に色づく頬と、抜けるように白い肌。簡単に手折れてしまいそうな華奢な手足と細腰。淫魔というものは総じて容姿に優れているが、ディオンはリリアリアのような可憐な淫魔は知らなかった。
年を重ねるごとに無垢な美しさの中に女の性を感じさせる艶やかさを加えるリリアリアが、いつ子供のベールを脱ぎ捨てるのか、ディオンは気が気ではなかった。だから初潮を迎えたリリアリアが母親が見つくろった男をことごとく拒否したとき、ディオンは内心では喜びを抑えきれなかった。だから意地悪くもリリアリアに「まだ男を知らなくてもいい」などと吹き込んだのである。
リリアリアがずっと少女のままでいるとは、ディオンも思ってはいない。けれどもリリアリアの膨らんだ柔らかなつぼみを綻ばせるのは、きっと自分以外の男なのだろうと思うと、ディオンはどうしようもなく嫉妬してしまうのであった。
――だが、蓋を開けてみればリリアリアの心はディオンのもので、彼女の純潔は他でもないディオンによって散らされたのである。
ディオンはこの好機を逃すつもりはなかった。リリアリアが思うほどディオンはできた大人ではないし、むしろ貪欲な獣も同然であった。だから彼はこれからリリアリアの愛妾になんとしても収まろうとするだろうし、その手でリリアリアを母にしようとするだろう。
「……ねえ、なんで笑ってるの」
リリアリアが唇を尖らせてディオンを見る。そんな仕草のひとつひとつが愛らしく、ディオンは笑みを押さえきれない。
「いえ、お可愛らしいなと思いまして」
「ディオンはそうやってすぐわたしを子供扱いする……」
「そんなことはありませんよ?」
子供を抱く趣味はディオンにはないし、ましてや孕ませようなどとは画策することもない。だがリリアリアにはそれが伝わらないようで、彼女はぷいとディオンに背を向けてしまう。ディオンが悪戯心を起こしてその白い肩を甘噛みすれば、色気のない声がリリアリアから上がった。
今はまだ噛み合わないふたりの思いを抱いて、夜は更けていく。
たしかなのは、すでにふたりは互いに囚われ、離れがたい関係になってしまっているということだけである。それがもたらす帰結がどういった形で実を生らせるかは――言葉にするだけ野暮であろう。
屋敷の主人の娘たるリリアリアが、家付き騎士のディオンの部屋に、夜半を待って忍び込んだのには理由がある。
淫魔が支配する母権王国において、外つ国のような男女を縛る婚姻制度は存在しない。支配階級たる淫魔の女たちは自由に人間の男と交わり子を生す。従属者たる人間の側にはほとんど拒否権はないわけで、その男が権力者の愛妾でもない限り、淫魔たちは好き好きに男に手を出すものだ。
リリアリアもそうして生まれて、女の性にためらいなく、奔放に振る舞う母を見て育った。その母から性の手ほどきを受け、女と男がまぐわう素晴らしさを言い聞かせられた。
けれども――リリアリアは家督を継ぐ歳を迎えながら、未だ純潔だった。
しびれを切らした母親に男をあてがわれてもリリアリアは拒絶した。だれならばいいのか尋ねられても口をつぐんだ。
そうして後生大事に純潔を守る娘に母親はついに強硬策に打って出た。
「未通女に家督は渡せません。一年以内に処女を捨てなければあなたは廃嫡、爵位は返上させていただきます」
この横暴にはリリアリアもすっかり困り果てた。処女が家督を継げぬ道理はないと言い募るのは簡単だが、この邸を支配しているのが母親である以上、リリアリアには反論の権利は与えられても、横暴を差し止めるだけの力はない。かといって売り言葉に買い言葉で「はいわかりました」と言うわけにもいかない。
お嬢様のリリアリアにはひとりで生活しているだけの力はなかったし、なにより自分のわがままひとつで広大な邸で働く使用人たちを路頭に迷わせるのは忍びなかった。
ならば残された道はひとつなわけで――。
リリアリアは晩秋の外気にさらされた体をかすかに震わせる。月明かりだけが薄ぼんやりと部屋を照らす中、息を潜めてディオンの帰りを待つ。
ディオンはリリアリアよりもひとまわり年上の家付き騎士である。その無駄なく筋肉のついたしなやかな肢体を思い浮かべると、リリアリアの体はどうしようもなくうずいた。
リリアリアはディオンが好きだった。幼い頃は単なる年上の遊び相手であったが、長じてからはその優しさと頼もしさに惹かれ、気がつけば恋に落ちていた。性教育の一環として母とその愛妾が交わる姿を見たとき、リリアリアはそこに己とディオンの姿を重ね合わせ、自慰によって初めてオーガズムを迎えた。
淫魔の女は人間の男と自由に交わり、子を生す。女主人が男の小間使いを夜の褥に招き入れるのはよくあることで、それにならって娘は初潮を迎えてしばらくすれば男を知る。娘の純潔を散らせる男はたいていの場合は母親が見つくろって来る。よく慣れた自分の愛妾だったり、あるいは破瓜の痛みを和らげるために発育の未熟な年少者をあてがったりと様々だ。
無論、娘がこれと言った相手を選ぶこともある。そういうわけでリリアリアにもディオンを所望するチャンスはあった。しかしリリアリアは結局そうとは言えなかった。思春期の心が思い人の名を口にすることを恥じ入らせたのもあるが、もっとも大きかったのは、ディオンに嫌われたくないという一心であった。
けれどもだれか別の男で純潔を散らす、という選択もリリアリアはしなかった。そういう優柔不断な心がリリアリアを純潔のままで過ごさせ、ついには母親の強硬令を呼んでしまったのである。
母親に追い立てられ、ついにリリアリアも腹を括った。けれども選んだのはディオンに正直な思いを告げるということではなく、彼を騙して本懐を遂げるというものであった。
淫魔には人間にはない魔力がある。具体的には幻覚を見せる能力がそれである。これは国土防衛や戦争にも使われるが、日常生活においてはもっぱら夜の営みに用いられる。
淫魔とて男にいやいや相手をさせる、というのは憚られるわけで――もちろんそれがいいという御仁もいるのだが――そういうときに幻視を使うのである。相手の男がもっとも性的な魅力を感じる異性の姿を幻視させ、興奮をかき立てて行為に持ち込むというのが常套手段だが、たまにマンネリな性生活の刺激にも使われる。
ともかく幻視は淫魔のあいだではよく使われるものであった。
リリアリアはそれを今夜、ディオンに対して用いようとしていた。
ディオンには嫌われたくない。けれどもディオン以外とは交わりたくない。しかしそうするには思いを告げるしかない。――その堂々巡りの果てにリリアリアの小心で卑怯な心が持ち出したのが、ディオンに幻覚を見せて抱いてもらう、というものであった。そのためにリリアリアはディオンの部屋に忍び込んだのである。
息を吐く。かろうじて吐息は白くならなかった。
リリアリアは衣服としては心許ないベビードールに包まれた自身の肢体を見下ろす。初潮を迎えて体の端々は女性的な丸みを帯び始めた。乳房も手のひらにぎりぎり収まるほどに膨らんだが、母親にはまだ及ばない。なだらかな恥丘には、髪の色と同じ茂みが控えめにあった。
初潮を迎えたあと、母親の見つくろった男を拒絶したことでリリアリアは母と口論になった。「じゃあだれならいいの」という母親の至極もっともな疑問にリリアリアは口ごもった上、幼稚にもその場から逃げ出した。
騒ぎを聞きつけたのか、あるいは母がやったのか、中庭のベンチに座ってうつむくリリアリアのもとにディオンがやって来たのはすぐだった。
「どうしたのです? 貴女が奥様と喧嘩なさるなんて珍しい」
日に焼けた精悍な顔つきの男をそのときは見ていられなくて、リリアリアはすぐに視線を地面に落とした。
「そういうときもあるわ」
そっけなく言ったあと、リリアリアは後悔した。
「……お母様が、その……初めての相手を見つくろってくれたのだけれど……わたしが嫌だって言ったから」
「お嫌でしたら、はっきりそう言うべきですよ」
ディオンの言葉にリリアリアは密かに安堵のため息を漏らした。
ディオンはいつだってリリアリアには優しい。砂糖よりも甘く、甘やかしてくれるから、リリアリアはいつだって勘違いしないように必死だ。
「そうだけど……でもいつかはしないといけないわけだし」
リリアリアが嫡子である以上、いずれは彼女も母として子を生すのが定めである。それは初心な彼女とて理解していた。
「そうお急ぎになられることはありませんよ。お嬢様は月のものが来たばかりなのですし、これから自然にそうしたいと思う相手と巡り合うこともありましょう」
その相手はあなたなの――と言えたら良かったが、あいにくと奥手のリリアリアには誘惑なぞ夢のまた夢であった。
同時に暗に子供だとディオンに断言されてしまい、リリアリアは少し傷ついた。大人になったつもりはなかったが、けれども大人の入り口をくぐったのは事実なわけで――そんな複雑な乙女心ゆえにリリアリアはディオンの言葉に落ち込む。ひとまわりも上のディオンからすれば、リリアリアが他愛ない子供であるのもまた事実であったからだ。
あれから数年が経った。リリアリアの体は成熟期に入り、うぬぼれを抜きにしても以前よりは色気のあるものへと変化した。それは女としての機も熟したということで、リリアリアも人並みの性欲を抱くようになっていた。ディオンに抱かれることを空想すれば、体は顕著に反応する。胸の頂きはぷくりとベビードールの布地を押し上げ、レースの下着はしっとりと濡れるのだ。
――ディオン。
リリアリアがその小さな唇に思い人の名を含ませたとき、廊下から人の気配が近づいて来る。床を踏む革靴のゆっくりとした、重々しい音はディオンのものに相違なかった。
ああ、ついに来てしまった。リリアリアの心臓は高鳴りを速くして、体中で音を立てる。めまいを起こしそうなほどの緊張に襲われるが、もうここまで来てしまったのだ。あとはやるしかない。リリアリアは部屋の入口である樫の木でできた扉を凝視した。
深夜であることに配慮してか、扉はゆっくりと開いた。油の足りない黒い蝶つがいがかすかに耳障りな音を立てる。
やがて大きな影が部屋に差し込む。部屋の主――ディオンの帰還である。
ディオンは寝台に座るリリアリアと目が合うと、その隙のない切れ長の目をわずかに見開かせた。驚きで言葉も出ないといった様子の彼を見て、リリアリアは胸が痛むのを感じた。今、ディオンの茶褐色の瞳にはリリアリアが映っているが――彼が見ているのは自分ではないのだ。リリアリアの知らない、ディオンの好いた相手。
リリアリアがディオンに思いを告げられなかったのには、もうひとつ理由がある。それは、どうやら彼には思い人がいるらしいという事実を知ってしまったからだ。
人間の主人たる淫魔たちは当然の義務として彼らの「繁殖」に気を配らねばならない。人間の男を独占してはやがて種が絶えてしまう。それは彼らを使役する淫魔たちには避けねばならないことであった。
そうであるから淫魔たちは自らの下で働く人間を、積極的につがわせようとする。婚姻制度はないものの、それに近しい形でカップルを定めるのだ。
粗雑な淫魔は人間の意志を尊重することなどせず、強制的に子供を産ませてしまう。だがリリアリアの母はある程度すり合わせをしてつがいを決めてやっていた。それは優しさゆえ――というよりは、無理やりつがわせては子供を産ませるのに主人がいちいち指図することになるが、好意を持つ相手同士であればそのようなことをせずとも自然と子供が殖えて行く。だから人間の意見を聞くというのは、最初に労力を使うことでのちのちの面倒なやり取りを省く、くらいの意味しかない。
壮年のディオンも当然ながらそろそろ子供を、とリリアリアの母に声をかけられたことがある。そのときに彼ははっきりと、思い人がいると言ったのだ。それが方便であるのか、リリアリアには判断がつかなかった。
「そう、好いた相手がいるのね」
「はい」
「それはこの邸の人間なのかしら? それとも外の?」
「それは、まあ……」
言葉を濁すディオンに、リリアリアの母は面白げに微笑む。
「あらそう。まあしばらくは好きにしなさいな。けれどあなたの血には期待しているのよ? いずれは子を生してもらいますからね」
いずれディオンはだれかとつがって、子供を作る。その事実にリリアリアは打ちのめされた。生物としての当然の帰結を、リリアリアは頭の端にすら上らせたことがなかったのである。
おぼろげながらもディオンに抱かれることをリリアリアが画策し始めたのは、そのときからであった。
だいじょうぶ、幻視は効いている。その証拠に、ディオンの瞳はじきに欲望の色に染め上げられ、とろけてしまった。ごくりと生唾を飲み込む動きに合わせ、太い首にある立派な喉仏が上下する。どこか焦点の合わない瞳がリリアリアの体を見る。体の隅々を舐めるようなその視線に、リリアリアは高まりを覚えた。
「ディオン」
名前を呼べば、ディオンはハッとした表情を見せてから、手のひらで顔の右半分を覆い、首を振った。
「いけません。いけません……こんなことは――」
「――ディオン」
葛藤を見せるディオンに向け、リリアリアは今度は魔力を込めた声で名を呼んだ。抗いがたいその響きに、寝台の上で好いた相手が淫らな姿で待つ光景に、ディオンの鉄の意志はなすすべもなく溶かされて行く。
「……ねえ、好きにしていいよ。わたしを抱いて――めちゃくちゃにして」
その言葉を告げるのに、リリアリアは苦労した。震える声を精一杯押し込めて、なんでもないようにふるまって、ディオンを誘惑する。
ディオンはそれでも、なにかに耐えるような顔でその場に突っ立ったままリリアリアを見ていた。
焦ったリリアリアは寝台から腰を上げると、自分よりもずっと大きなディオンの体にしがみつき、そのがっしりとした腰に細い腕を回す。
「ディオン、ねえ、おねがい。……は、孕ませて。ディオンの、種で……孕みたいの」
ディオンの盛り上がった胸板へ柔らかな乳房をぐいと押しつける。そうして頭ふたつぶんは上にあるディオンの顔を見上げた。リリアリアの腹には、ディオンの硬くなったものが当たっていた。
ディオンの瞳の奥でなにかが揺らめくのを、リリアリアは見た。それは欲望の炎だった。
次の瞬間にはリリアリアは寝台へと押し倒され、その華奢な体はすっかりディオンの体の陰に隠れてしまった。
押し倒された衝撃に目をつむったリリアリアは、次に瞼を開けたとき、自らの上にいる男を見て息を飲んだ。そこにいるのは雄だった。リリアリアの知る男ではない――雄がいた。獰猛な色をたたえた双眸が、これから種付けをする雌を捉えていた。
奥からあふれ出るものを受け、もはや下着の用をなしていない布を取り去られたのを合図に、リリアリアは快楽の海へと飲み込まれて行った。
ディオンの愛撫は荒々しくも優しかった。愛おしいものを扱うその手つきを意識するたびに、リリアリアの胸は痛みを訴えたが、それもすぐに喜悦の鼓動に上書きされて行った。
ディオンの鍛え上げられた巨躯の下でリリアリアは身じろぎすることも許されず、その体を暴かれ、処女雪のような肌に鬱血痕と噛み跡を散らされた。
そうして言葉もないままにふたりは昂って行く。
リリアリアが愛撫だけで達してしまいそうになったところで、ディオンの体が彼女から離れた。剣だこのある筋張った手が、リリアリアの足首をつかみ、大きく開かせる。ディオンの下腹部にあるものを見れば、彼もまたリリアリア同様限界が近いのは明らかであった。
リリアリアのだれも立ち入ったことがない場所の奥まで、ディオンが押し入るのに時間はかからなかった。
体を揺さぶられ、内臓を押し上げるような圧迫感と、脳天まで突き上げるような甘い痺れに、リリアリアはすすり泣きに似た声を上げる。その顔は陶酔に緩みきっていた。
リリアリアの頭はもはや論理立ててなにかを考えるということができず、その小さな唇は壊れたように何度もディオンの名を呼んだ。
リリアリアの顔が汗と涙でぐちゃぐちゃになり、ディオンの動きがよりいっそう荒々しいものに変わったとき、彼は女の名前を呼んだ。
「――リリアリアっ」
リリアリアは始め、理解できなかった。
しかしそのとろけきった脳にディオンの言葉が浸透すると、それは快楽となってリリアリアの足の先まで駆け抜けた。それは今の彼女にとって、致命的だった。
――どうして。
リリアリアのその問いは、発せられることなくひときわ大きな嬌声に飲み込まれ、消えた。
「お嬢様」
ディオンから気遣うような声をかけられても、リリアリアは枕から顔を上げなかった。欲望のままに体を動かし、あるいは動かされ、すっかり体力を消耗してしまったというのもある。しかし最大の理由は、羞恥ゆえであった。
ディオンはリリアリアの幻視にかかっていなかったわけではない。ただ――幻視をかけようとかけまいと、結果は同じであったというだけの話だ。
「恥ずかしい。もうやだ」
震える声でそうつぶやけば、かたわらにいるディオンが密かに笑う気配がした。
「……恥ずかしいのは私もなのですが」
「うそ」
「うそではありません。魔力の声に酔ったとはいえ、お嬢様を相手に理性をなくすなど……」
「だって、そういうふうにしたんだもの。もしそうできなかったのなら困るわ。これでも学校じゃ魔力の成績は良くて――」
恥ずかしさゆえにリリアリアは饒舌となった。それにつられるようにして思わずディオンの方へ顔をやれば、柔和な色の双眸と視線が合う。リリアリアはたちまちのうちに先ほどの情事を思い出してしまった。
先ほどまではあの瞳が獰猛なけだもののような顔でリリアリアを見下ろしていたのである。あの目には、リリアリアのすべてが隠しようもなく映ってしまった。そう考えると恥ずかしくてたまらない。
「まあ、とにかくお嬢様――なぜあのようなことをなされたのですか?」
ディオンの核心を暴こうとする言葉に、リリアリアは心臓を跳ねさせる。
「夜伽のお相手でしたら、言ってくださればいいものを。このような粗末な部屋で……」
困ったような顔をして、ディオンはリリアリアの銀の髪に手を伸ばす。そのまま無骨な指を差し入れると、あやすような手つきでリリアリアの頭を撫でた。その感触にリリアリアは思わずうっそりと目を細めてしまう。
「それともこのようなやり方がお好きなのですか?」
「ち、ちがう!」
「では、なぜ」
「それは……ディオンと、したかったから……」
「私と?」
目を瞬かせるディオンに対し、リリアリアは月明かりの下でもわかるほどに耳を紅潮させる。
「ディオンと……初めてはディオンとが良かったの! でも、でも……どうしても言えなかったから……だから、ディオンの好きな人の姿になれば、抱いてくれると思って……」
勢いに任せて口を突いた言葉はしかし、じきに尻すぼまりとなってしまう。
もはやリリアリアはやぶれかぶれであった。
「悪いことだってわかってたけど……本当は幻視がかかっているうちに部屋から出る予定で――」
「お嬢様」
気がつけばうつむきがちになっていたリリアリアは、顔を上げてディオンを見た。ディオンはどこか困ったような、半ば呆れたような顔をしてリリアリアを見ている。
「……お嬢様。私は幻視にはかかっていましたよ」
「……知ってるけど」
「しかしそれは、意味がなかった」
「最後には解けてしまったもの」
「……お嬢様」
ディオンは深いため息をつく。しかしその理由がわからず、リリアリアは困惑した顔をさらすしかない。
「私は、幻視にはかかっていましたよ」
「……それはさっきも聞いたわ」
「かかっていましたが、それは意味がなかったんです」
「……?」
「ですから、最初から私にはお嬢様の姿は、お嬢様の姿そのままにしか見えていなかったんです。幻視が効いているにも関わらず。……この意味、おわかりになりますよね?」
リリアリアはややあってから、今度は首まで肌を赤く染め上げた。
「え? え? ……え?」
「ですから恥ずかしいんですよ。今までこれでも、貴女の前では格好をつけていたつもりなんです。なのに、貴女に獣欲を抱いていたなどと――」
「え? ディオン、待って。待って。だって、ディオンは好きな人がいるってお母様に――」
「それは貴女のことです。けれども奥様を前にしてお嬢様に懸想しているなどとは口が裂けても言えませんから」
ディオンから告げられる怒涛の真実に、リリアリアは目を回してしまいそうになる。
そうしてかろうじてでてきた言葉は
「じゃあ、わたしの計画は無駄だったの……? ぜ、ぜんぶ……?」
という、茫然自失としたものだった。
がっくりと寝台のシーツに沈むリリアリアを見て、さすがに気の毒に思ったのか、ディオンは慰めるようにそのまろい頬を撫でる。
「まったくの無駄、とは言いがたいですけれどね」
「でも……そんな……だって……」
「私からお嬢様を求めるなど、許されませんし」
人間が淫魔に従属する存在である以上、その主人の肉体を求めるなどということはあってはならない。たとえ狂おしいほどに恋慕の情を募らせようとも、その思いの丈をぶちまけることなど許されようはずもなかった。人間が淫魔に触れられる瞬間――それは彼女らが許したときだけなのだ。
「ああ、でもやはり、言ってくだされば良かったのに」
「だって……恥ずかしいし、それに、嫌われたくなかったから……」
「幻視は良いのですか?」
「ディオンがだれかのものになるなら、嫌われてもいいかなって……。だって、だって、わたしの姿そのままが映るなんて思わなかったし――」
どこに出しても恥ずかしくのない立派な奥手のリリアリアが奔放にふるまえたのは、ひとえに「別人として映っているだろう」という思い込みにあった。リリアリアであって、リリアリアではない。だからこそ、勇気を振り絞って卑猥な言葉すら口にすることができたのだが……。
リリアリアは、とても慎ましやかとは言いがたい誘惑の言葉の数々を思い出し、悶絶した。
「……もうやだ」
「これに懲りたのならもう小手先を利かせようとするのはやめることですね。今度からは素直に閨へ呼べばいいのです」
「……そうする」
「そうしてください」
「うん……」
不機嫌そうに枕へ顔を埋める姿は子供っぽいと断言してしまって差し支えないわけだが、そのことにリリアリアは気づかない。だが、ディオンからすればそんなリリアリアの姿が愛おしい。
ディオンはリリアリアが少しでも長く子供であればいいと思っていた。豊かな銀糸の髪はいつも柔らかく白波を打ち、紫水晶をはめ込んだかのような瞳は無邪気に輝く。薄紅色に色づく頬と、抜けるように白い肌。簡単に手折れてしまいそうな華奢な手足と細腰。淫魔というものは総じて容姿に優れているが、ディオンはリリアリアのような可憐な淫魔は知らなかった。
年を重ねるごとに無垢な美しさの中に女の性を感じさせる艶やかさを加えるリリアリアが、いつ子供のベールを脱ぎ捨てるのか、ディオンは気が気ではなかった。だから初潮を迎えたリリアリアが母親が見つくろった男をことごとく拒否したとき、ディオンは内心では喜びを抑えきれなかった。だから意地悪くもリリアリアに「まだ男を知らなくてもいい」などと吹き込んだのである。
リリアリアがずっと少女のままでいるとは、ディオンも思ってはいない。けれどもリリアリアの膨らんだ柔らかなつぼみを綻ばせるのは、きっと自分以外の男なのだろうと思うと、ディオンはどうしようもなく嫉妬してしまうのであった。
――だが、蓋を開けてみればリリアリアの心はディオンのもので、彼女の純潔は他でもないディオンによって散らされたのである。
ディオンはこの好機を逃すつもりはなかった。リリアリアが思うほどディオンはできた大人ではないし、むしろ貪欲な獣も同然であった。だから彼はこれからリリアリアの愛妾になんとしても収まろうとするだろうし、その手でリリアリアを母にしようとするだろう。
「……ねえ、なんで笑ってるの」
リリアリアが唇を尖らせてディオンを見る。そんな仕草のひとつひとつが愛らしく、ディオンは笑みを押さえきれない。
「いえ、お可愛らしいなと思いまして」
「ディオンはそうやってすぐわたしを子供扱いする……」
「そんなことはありませんよ?」
子供を抱く趣味はディオンにはないし、ましてや孕ませようなどとは画策することもない。だがリリアリアにはそれが伝わらないようで、彼女はぷいとディオンに背を向けてしまう。ディオンが悪戯心を起こしてその白い肩を甘噛みすれば、色気のない声がリリアリアから上がった。
今はまだ噛み合わないふたりの思いを抱いて、夜は更けていく。
たしかなのは、すでにふたりは互いに囚われ、離れがたい関係になってしまっているということだけである。それがもたらす帰結がどういった形で実を生らせるかは――言葉にするだけ野暮であろう。
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