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前編
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その行動の原動力や背景に、たいそうな思想や意志があったわけではなかった。
ただアニカにとってユエリアは大切な友達だった。穏やかで理知的で、ときにストイックすぎるきらいはあるものの、ユエリアはアニカにとって親友とも言うべき存在だった。
アニカは友人として、ユエリアが血のにじむような努力を重ね、節制を体現したかのような思慮深い振る舞いをその目で見てきた。
「平民聖女」などと下に見られることがあってなお、ユエリアはそんな言葉の主にすら慈愛の心がけを絶やさない。
だから――ユエリアに向けられた呪いから、彼女をかばうのはアニカにとってはごく自然な行いだった。
そこには「ユエリアは聖女だから守らなければ」というような情動はなく、ただ親しい友人の危機に体が動いたにすぎなかった。
アニカの家は領地を持たない新興男爵家だ。であれば神殿に擁される「聖女」としてもてはやされるユエリアに恩を売る動機は、じゅうぶんにあると見られるかもしれない。
けれどもその瞬間、アニカを動かしたのは打算ではなかった。それだけはたしかだった。
アニカは、ユエリアの悲鳴じみた声を聞いた。自分の名前を呼ぶ――否、叫ぶ親友の声を。
しかし急速に体から力が失われ、くずおれるアニカの体を抱き支えたのは、大きな手のひらとがっしりとした腕。ユエリアではない、男性のもの。
まぶたが落ちたアニカは、感覚でそれだけを察することができたが、意識を保てたのはそこまでだった。
「落ち着いて聞いて欲しいの。アニカ、貴女は愛の女神の呪いを受けて――魅了体質になってしまったの。呪いを解く方法は恐らく『真実の愛』以外にないと思うわ」
アニカには見慣れない、神殿の一室に据え置かれたベッドの上で目を覚ませば、そばには泣きそうな顔をしたユエリアがいた。
ユエリアはよく通る美しくも穏やかな声で、アニカに告げた。その口調は極めて冷静かつ、内容は簡潔だったが、そう言った彼女の目元は少しはれぼったかった。
アニカは間の抜けた声を出した。声、というよりもそれは単に空気が穴を通った音に近かった。
「戸惑う気持ちはわかるわ。でもひとまず、魅了体質になってしまった、ということだけは頭に叩き込んで欲しいの」
魅了体質――。それは神代には当然のようにあったという、ひとつの天賦の才。その才を持つ者は、他者の好意を増幅させ、自身に惹きつけさせてやまなかったらしい。
今よりもずっと神々との距離が近く、人間の中に混じっていた時代の話だ。ゆえに神々と人間の境も曖昧で、人間の身であっても神のような恐るべき力を持つ者もいたと言う。
アニカは、そんな力が突然その身に宿ったと告げられたのだった。
だがそれは決して喜ばしいことではない。ユエリアが「呪い」と表現したことからも、よくわかる。
受け取りようによっては魅了体質とは「祝福」なのかもしれない。だが今の時代では「呪い」も同然なのだ。
アニカが目覚めたとき、神殿の一室にいた理由がそうだ。アニカは、魅了体質を得たことが判明した時点から、速やかに神殿によって保護の名目で軟禁されたのだ。
魅了体質はあまりに危険すぎる。神代でなお当時から、その才を持つ者は「毒婦」などと穏やかならざる表現をされ、伝承されてきたのだ。
おまけにアニカの魅了体質は、彼女が意識を失っているあいだですら発動したとユエリアは言う。
「どうも、この世界に存在するランダムな相手を魅了しているみたいなの。アニカには制御不能の能力……これは正しく『呪い』ね」
アニカが眠っているあいだに、幾人かが神殿に押しかけてきたとユエリアは言った。
魅了の条件は未だ不確定であったが、その幾人かはアニカとはいずれも顔見知りだった。老若男女を問わない人間が、アニカを求めて神殿まで探し当て、なおかつ無理に押し入ろうとしてきたと聞き、アニカは目を覚ましてからようやく恐怖心を抱くに至った。
「その方たちは幸い、わたくしの解呪祈祷が通用しましたからすでに解呪した上でお帰りいただいているのだけれど……。とにかく、本元の『呪い』を解かない限りはそういったことが起こり続けると考えていいと思うの」
「本元の『呪い』」とはすなわち、アニカがユエリアの代わりに受けた――愛の女神の呪い。
昼下がりの王立学園に突如として降臨した愛の女神は、その指先ひとつでユエリアに呪いをかけようとした。だがそれはアニカがかばったことで叶わなかった。
「すぐにザーグが駆けつけてきてくれたからかしら? 愛の女神は武神とは古来より仲が悪いと言うから……ザーグが武神の末裔だったから、あれ以上の被害は出なかったのかもしれないわ」
アニカがユエリアをかばって呪いを受けたと言っても、相手は神。再度ユエリアを狙って呪いを放てばいいだけのことだとアニカはこのときにようやく思い至ったわけだが、そうはならなかった。
ザーグ。気高くも勇猛な武神の末裔にして、聖女ユエリアの護衛騎士を務める青年。隙のない鋭い切れ長の目が、恐ろしくも凛々しいとして、一部の女子生徒や婦女には大変な人気がある。
そんな彼は、愛の女神が現れたとき、ユエリアからは距離のある位置にいた。
「ごめんなさいアニカ。わたくしに向けられた呪いだというのに……」
「気にしないで、ユエリア。あの場にザーグがいなかったのは……わたしのせいでもあるんだし……」
あのとき、あの場にザーグがいなかったのは、ユエリアが彼にそう願ったからだった。
聖女ユエリアの護衛騎士であるザーグは、片時も離れずユエリアを守るのが仕事である。たとえ学園内であっても、そうだ。
しかしユエリアに頼まれれば、ザーグはそれをむげにできない。
そしてあのとき、ザーグに少し離れているようユエリアが願った理由は――
「わたしがコイバナをして、隙を作ったから……」
アニカの恋の話。
アニカは、ユエリアの護衛騎士であるザーグに片思いをしている最中だった。だから、ザーグには聞かせられなかったわけである。
しかし結果として、愛の女神にその隙を狙われてしまった。
アニカがユエリアをかばったのは、たしかに彼女が大切な友人だからというのもそうだったが、自身の恋の話をするためにユエリアとふたりきりになっていたから、というのも理由としてはあった。
「……とにかく、アニカの安全のためにも今は神殿からは出ないほうがいいとわたくしは思うの。不自由するでしょうけど……」
「不自由……かはまだよくわからないけれど……出ないほうがいいというのにはちゃんと納得しているから」
「それならいいけれど……。それで、呪いを解く方法なのだけれど――」
アニカは、「それは無理」と断言したくなった。
愛の女神の呪いを解く方法。それには「真実の愛」が必要というのが、古来よりの定番かつ定説だった。
「『真実の愛』って言われても……」
アニカにはすでに思い人がいる。それは先述した通り、ユエリアの護衛騎士のザーグだ。
アニカはユエリアに相談を持ちかけるなど積極的に行動していた一方、心のどこかでこの恋は叶わないと思っていた。
高潔な武神の血を引くザーグが、聖女であるユエリアに深い敬愛の情を抱いていることをアニカは知っている。彼のことをよく見ているからこそ、わかるのだ。
ザーグにとって一番はユエリア。ユエリアは、ザーグが守るべき存在。
彼のことをよく見てきたからこそ、アニカは己の恋が叶う余地を見いだせなかったのだ。
「――引き続き、神殿総出で解呪の方法を探すから、アニカは今日はひとまず休んで」
ユエリアの優しい言葉にアニカが黙ってうなずいた。
気がつけば、外からは鮮烈な夕暮れの光が部屋へと差し込んでいる。夜はもうすぐそこまで迫っていた。
ただアニカにとってユエリアは大切な友達だった。穏やかで理知的で、ときにストイックすぎるきらいはあるものの、ユエリアはアニカにとって親友とも言うべき存在だった。
アニカは友人として、ユエリアが血のにじむような努力を重ね、節制を体現したかのような思慮深い振る舞いをその目で見てきた。
「平民聖女」などと下に見られることがあってなお、ユエリアはそんな言葉の主にすら慈愛の心がけを絶やさない。
だから――ユエリアに向けられた呪いから、彼女をかばうのはアニカにとってはごく自然な行いだった。
そこには「ユエリアは聖女だから守らなければ」というような情動はなく、ただ親しい友人の危機に体が動いたにすぎなかった。
アニカの家は領地を持たない新興男爵家だ。であれば神殿に擁される「聖女」としてもてはやされるユエリアに恩を売る動機は、じゅうぶんにあると見られるかもしれない。
けれどもその瞬間、アニカを動かしたのは打算ではなかった。それだけはたしかだった。
アニカは、ユエリアの悲鳴じみた声を聞いた。自分の名前を呼ぶ――否、叫ぶ親友の声を。
しかし急速に体から力が失われ、くずおれるアニカの体を抱き支えたのは、大きな手のひらとがっしりとした腕。ユエリアではない、男性のもの。
まぶたが落ちたアニカは、感覚でそれだけを察することができたが、意識を保てたのはそこまでだった。
「落ち着いて聞いて欲しいの。アニカ、貴女は愛の女神の呪いを受けて――魅了体質になってしまったの。呪いを解く方法は恐らく『真実の愛』以外にないと思うわ」
アニカには見慣れない、神殿の一室に据え置かれたベッドの上で目を覚ませば、そばには泣きそうな顔をしたユエリアがいた。
ユエリアはよく通る美しくも穏やかな声で、アニカに告げた。その口調は極めて冷静かつ、内容は簡潔だったが、そう言った彼女の目元は少しはれぼったかった。
アニカは間の抜けた声を出した。声、というよりもそれは単に空気が穴を通った音に近かった。
「戸惑う気持ちはわかるわ。でもひとまず、魅了体質になってしまった、ということだけは頭に叩き込んで欲しいの」
魅了体質――。それは神代には当然のようにあったという、ひとつの天賦の才。その才を持つ者は、他者の好意を増幅させ、自身に惹きつけさせてやまなかったらしい。
今よりもずっと神々との距離が近く、人間の中に混じっていた時代の話だ。ゆえに神々と人間の境も曖昧で、人間の身であっても神のような恐るべき力を持つ者もいたと言う。
アニカは、そんな力が突然その身に宿ったと告げられたのだった。
だがそれは決して喜ばしいことではない。ユエリアが「呪い」と表現したことからも、よくわかる。
受け取りようによっては魅了体質とは「祝福」なのかもしれない。だが今の時代では「呪い」も同然なのだ。
アニカが目覚めたとき、神殿の一室にいた理由がそうだ。アニカは、魅了体質を得たことが判明した時点から、速やかに神殿によって保護の名目で軟禁されたのだ。
魅了体質はあまりに危険すぎる。神代でなお当時から、その才を持つ者は「毒婦」などと穏やかならざる表現をされ、伝承されてきたのだ。
おまけにアニカの魅了体質は、彼女が意識を失っているあいだですら発動したとユエリアは言う。
「どうも、この世界に存在するランダムな相手を魅了しているみたいなの。アニカには制御不能の能力……これは正しく『呪い』ね」
アニカが眠っているあいだに、幾人かが神殿に押しかけてきたとユエリアは言った。
魅了の条件は未だ不確定であったが、その幾人かはアニカとはいずれも顔見知りだった。老若男女を問わない人間が、アニカを求めて神殿まで探し当て、なおかつ無理に押し入ろうとしてきたと聞き、アニカは目を覚ましてからようやく恐怖心を抱くに至った。
「その方たちは幸い、わたくしの解呪祈祷が通用しましたからすでに解呪した上でお帰りいただいているのだけれど……。とにかく、本元の『呪い』を解かない限りはそういったことが起こり続けると考えていいと思うの」
「本元の『呪い』」とはすなわち、アニカがユエリアの代わりに受けた――愛の女神の呪い。
昼下がりの王立学園に突如として降臨した愛の女神は、その指先ひとつでユエリアに呪いをかけようとした。だがそれはアニカがかばったことで叶わなかった。
「すぐにザーグが駆けつけてきてくれたからかしら? 愛の女神は武神とは古来より仲が悪いと言うから……ザーグが武神の末裔だったから、あれ以上の被害は出なかったのかもしれないわ」
アニカがユエリアをかばって呪いを受けたと言っても、相手は神。再度ユエリアを狙って呪いを放てばいいだけのことだとアニカはこのときにようやく思い至ったわけだが、そうはならなかった。
ザーグ。気高くも勇猛な武神の末裔にして、聖女ユエリアの護衛騎士を務める青年。隙のない鋭い切れ長の目が、恐ろしくも凛々しいとして、一部の女子生徒や婦女には大変な人気がある。
そんな彼は、愛の女神が現れたとき、ユエリアからは距離のある位置にいた。
「ごめんなさいアニカ。わたくしに向けられた呪いだというのに……」
「気にしないで、ユエリア。あの場にザーグがいなかったのは……わたしのせいでもあるんだし……」
あのとき、あの場にザーグがいなかったのは、ユエリアが彼にそう願ったからだった。
聖女ユエリアの護衛騎士であるザーグは、片時も離れずユエリアを守るのが仕事である。たとえ学園内であっても、そうだ。
しかしユエリアに頼まれれば、ザーグはそれをむげにできない。
そしてあのとき、ザーグに少し離れているようユエリアが願った理由は――
「わたしがコイバナをして、隙を作ったから……」
アニカの恋の話。
アニカは、ユエリアの護衛騎士であるザーグに片思いをしている最中だった。だから、ザーグには聞かせられなかったわけである。
しかし結果として、愛の女神にその隙を狙われてしまった。
アニカがユエリアをかばったのは、たしかに彼女が大切な友人だからというのもそうだったが、自身の恋の話をするためにユエリアとふたりきりになっていたから、というのも理由としてはあった。
「……とにかく、アニカの安全のためにも今は神殿からは出ないほうがいいとわたくしは思うの。不自由するでしょうけど……」
「不自由……かはまだよくわからないけれど……出ないほうがいいというのにはちゃんと納得しているから」
「それならいいけれど……。それで、呪いを解く方法なのだけれど――」
アニカは、「それは無理」と断言したくなった。
愛の女神の呪いを解く方法。それには「真実の愛」が必要というのが、古来よりの定番かつ定説だった。
「『真実の愛』って言われても……」
アニカにはすでに思い人がいる。それは先述した通り、ユエリアの護衛騎士のザーグだ。
アニカはユエリアに相談を持ちかけるなど積極的に行動していた一方、心のどこかでこの恋は叶わないと思っていた。
高潔な武神の血を引くザーグが、聖女であるユエリアに深い敬愛の情を抱いていることをアニカは知っている。彼のことをよく見ているからこそ、わかるのだ。
ザーグにとって一番はユエリア。ユエリアは、ザーグが守るべき存在。
彼のことをよく見てきたからこそ、アニカは己の恋が叶う余地を見いだせなかったのだ。
「――引き続き、神殿総出で解呪の方法を探すから、アニカは今日はひとまず休んで」
ユエリアの優しい言葉にアニカが黙ってうなずいた。
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