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後編
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ウォルターは「もちろんいいとも」とこともなげに答えていた。ほとんど勝手に口が動いていた。
しかしその内心は先ほどまで凪いでいたにもかかわらず、一瞬にして嵐が吹き荒れ始め、船は難破しそうであった。
だがマリーは、ウォルターの心中など気づいた様子もなくイスに腰かけている婚約者へと、いささか早足で駆け寄る。マリーはウォルターに近づくと、そっと左手をウォルターの膝に置き、右手がウォルターの顎をなぞり頬へと添えられた。
いとけないキスだった。
ほんの一瞬、触れたかすらもすぐにわからなくなりそうなほどの、無垢な口づけ。キスと呼ぶことをためらうほどの、かすかな接触。しかしウォルターの唇に、マリーの唇が重なるそれは、たしかにキスであった。
マリーはそんなキスを一生懸命に何度かウォルターに贈る。
一方ウォルターはマリーからの口づけを純粋に喜ぶことができず、気が気でない。
――「練習がしたい」。マリーから告げられた言葉がぐるぐるとウォルターの脳裏で円を描き、陽気に踊り出しすらした。
「練習」ということは、「本番」があるということだ。……少なくとも、ウォルターはそう受け取った。ならば――その「本番」はいったいだれとするつもりなのか。マリーには……ウォルター以外の、「本番」のキスをしたいと思っている「本命」の相手がいるのか。
けれどもウォルターはマリーに怒ったり、詰め寄ったり、ましてや嫉妬丸出しの態度など取れるはずもなかった。「カッコイイ男」はそんなことはしないのである。少なくとも、ウォルターの中ではそうだ。悲しい男の見栄であった。
角度を変えて試行錯誤しながらウォルターにキスを贈っていたマリーは、やおらウォルターから顔を離すと上目遣いに問う。身長の関係で、たとえウォルターが座っていても、彼の頂点のほうがマリーの頭より高い位置にあるからだ。
「……うまくできた?」
心配そうな、不安げなマリーを見て、ウォルターは己の限界が見えた。いや、限界が見えたと思ったときにはもう、ウォルターはその線を通り越していた。
「……かわいいキスだったよ」
「『かわいいキス』……それは、いいということ? よくなかったということ?」
「マリーらしくていいという意味だが……。――それで、『本番』は一体だれとするつもりなんだ?」
明らかに嫉妬心がにじみ出た言葉だった。
マリーはウォルターの言葉を受けると、ゆっくりと、何度か瞬きをする。きょとんとした、無防備な表情だった。
「ウォルター」
マリーが、ウォルターの名前を呼んだ。
「うん」
ウォルターはそれに完璧な笑顔で答える。その心中が嫉妬と焦燥にまみれていると見抜くのが難しい、そういう微笑みだった。
「ウォルター」
もう一度、マリーがウォルターの名を呼んだ。
「……うん?」
マリーが再度己の名前を呼んだので、ウォルターの中に違和が生じる。
「ウォルター」と、マリーが三度ウォルターの名を呼んだところで、ウォルターは「もしや」と思い至った。
「……私とするつもりだったのかい?」
「? ウォルターとわたしは婚約者。だからキスをしてもおかしくないよね?」
「うん……そうだね……」
ウォルターの言葉を聞いて、マリーは不安そうな顔になった。そんな婚約者を見て、ウォルターはあわてて「違うんだ」と弁明する。
「君が『練習』と言ったから……てっきり『本番』をしたい相手がいるものだと」
「? 唇同士のキスはよほど親しくないとしないって教えてもらったけど」
「うん……そうだね……」
ウォルターは、体から力が抜けて行くのがわかった。特に肩はいつの間にか大いに力んでいたらしい。弛緩して、少しだけウォルターの肩が下がった。
「……なんで『練習』だなんて言い出したんだい?」
「『本番』さながらの『練習』が、いちばん力がつくと思って」
「そう……」
ウォルターには、マリーの思考は少々難解だった。「力がつくと思って」と無垢に言われても、「キスの力とはなんぞや?」という気持ちになった。
「好きなひととのキスは、しあわせな気持ちになれるって聞いた」
「うん……」
「だから、ウォルターがしあわせになれるようなキスがしたかった」
「そっか」
ウォルターには難解だったが、マリーの中ではきちんと理論立てて考えられた結果なのだろう。そんなに気合を入れて考えなくてもいいと思う反面、ウォルターを思っての言動なのだと考えると、その健気さには胸をかきむしりたくなるほどの衝動に襲われる。
しかしウォルターは顔をだらしなくでれでれとさせたい衝動を抑え込み、そっとマリーの腕を引っ張って顔を近づけた。
「『練習』はばっちりだったよ」
「そう?」
「だから……『本番』を――」
今度はウォルターからマリーに口づけを贈ろうとした……が。
「待って」
マリーがウォルターの口元を小さな手のひらで覆ってしまった。
「『本番』はまた今度」
「……え?」
「じゃあねウォルター。ばいばい」
マリーはそう言うや、あっという間にウォルターのいる書斎から出て行ってしまう。ウォルターは呆気に取られ、その可憐な背を見送ることしかできなかった。
後日――マリーの言っていた「本番」は、彼女が見つけた花畑の中で行われた。彩り豊かな花々が咲き乱れる中、婚約者同士で口づけをする。むずがゆくなるくらいロマンティックなシチュエーションであったが、それをプロデュースしたマリーは満足げだ。
ウォルターは、健気なマリーに対する愛しいという気持ちが溢れ出そうになり、内心で大いに暴れ狂ったことは言うまでもないだろう。そしてマリーの前では「カッコイイ男」でいるために、そんな様子はおくびにも出さなかったことも。
しかしその内心は先ほどまで凪いでいたにもかかわらず、一瞬にして嵐が吹き荒れ始め、船は難破しそうであった。
だがマリーは、ウォルターの心中など気づいた様子もなくイスに腰かけている婚約者へと、いささか早足で駆け寄る。マリーはウォルターに近づくと、そっと左手をウォルターの膝に置き、右手がウォルターの顎をなぞり頬へと添えられた。
いとけないキスだった。
ほんの一瞬、触れたかすらもすぐにわからなくなりそうなほどの、無垢な口づけ。キスと呼ぶことをためらうほどの、かすかな接触。しかしウォルターの唇に、マリーの唇が重なるそれは、たしかにキスであった。
マリーはそんなキスを一生懸命に何度かウォルターに贈る。
一方ウォルターはマリーからの口づけを純粋に喜ぶことができず、気が気でない。
――「練習がしたい」。マリーから告げられた言葉がぐるぐるとウォルターの脳裏で円を描き、陽気に踊り出しすらした。
「練習」ということは、「本番」があるということだ。……少なくとも、ウォルターはそう受け取った。ならば――その「本番」はいったいだれとするつもりなのか。マリーには……ウォルター以外の、「本番」のキスをしたいと思っている「本命」の相手がいるのか。
けれどもウォルターはマリーに怒ったり、詰め寄ったり、ましてや嫉妬丸出しの態度など取れるはずもなかった。「カッコイイ男」はそんなことはしないのである。少なくとも、ウォルターの中ではそうだ。悲しい男の見栄であった。
角度を変えて試行錯誤しながらウォルターにキスを贈っていたマリーは、やおらウォルターから顔を離すと上目遣いに問う。身長の関係で、たとえウォルターが座っていても、彼の頂点のほうがマリーの頭より高い位置にあるからだ。
「……うまくできた?」
心配そうな、不安げなマリーを見て、ウォルターは己の限界が見えた。いや、限界が見えたと思ったときにはもう、ウォルターはその線を通り越していた。
「……かわいいキスだったよ」
「『かわいいキス』……それは、いいということ? よくなかったということ?」
「マリーらしくていいという意味だが……。――それで、『本番』は一体だれとするつもりなんだ?」
明らかに嫉妬心がにじみ出た言葉だった。
マリーはウォルターの言葉を受けると、ゆっくりと、何度か瞬きをする。きょとんとした、無防備な表情だった。
「ウォルター」
マリーが、ウォルターの名前を呼んだ。
「うん」
ウォルターはそれに完璧な笑顔で答える。その心中が嫉妬と焦燥にまみれていると見抜くのが難しい、そういう微笑みだった。
「ウォルター」
もう一度、マリーがウォルターの名を呼んだ。
「……うん?」
マリーが再度己の名前を呼んだので、ウォルターの中に違和が生じる。
「ウォルター」と、マリーが三度ウォルターの名を呼んだところで、ウォルターは「もしや」と思い至った。
「……私とするつもりだったのかい?」
「? ウォルターとわたしは婚約者。だからキスをしてもおかしくないよね?」
「うん……そうだね……」
ウォルターの言葉を聞いて、マリーは不安そうな顔になった。そんな婚約者を見て、ウォルターはあわてて「違うんだ」と弁明する。
「君が『練習』と言ったから……てっきり『本番』をしたい相手がいるものだと」
「? 唇同士のキスはよほど親しくないとしないって教えてもらったけど」
「うん……そうだね……」
ウォルターは、体から力が抜けて行くのがわかった。特に肩はいつの間にか大いに力んでいたらしい。弛緩して、少しだけウォルターの肩が下がった。
「……なんで『練習』だなんて言い出したんだい?」
「『本番』さながらの『練習』が、いちばん力がつくと思って」
「そう……」
ウォルターには、マリーの思考は少々難解だった。「力がつくと思って」と無垢に言われても、「キスの力とはなんぞや?」という気持ちになった。
「好きなひととのキスは、しあわせな気持ちになれるって聞いた」
「うん……」
「だから、ウォルターがしあわせになれるようなキスがしたかった」
「そっか」
ウォルターには難解だったが、マリーの中ではきちんと理論立てて考えられた結果なのだろう。そんなに気合を入れて考えなくてもいいと思う反面、ウォルターを思っての言動なのだと考えると、その健気さには胸をかきむしりたくなるほどの衝動に襲われる。
しかしウォルターは顔をだらしなくでれでれとさせたい衝動を抑え込み、そっとマリーの腕を引っ張って顔を近づけた。
「『練習』はばっちりだったよ」
「そう?」
「だから……『本番』を――」
今度はウォルターからマリーに口づけを贈ろうとした……が。
「待って」
マリーがウォルターの口元を小さな手のひらで覆ってしまった。
「『本番』はまた今度」
「……え?」
「じゃあねウォルター。ばいばい」
マリーはそう言うや、あっという間にウォルターのいる書斎から出て行ってしまう。ウォルターは呆気に取られ、その可憐な背を見送ることしかできなかった。
後日――マリーの言っていた「本番」は、彼女が見つけた花畑の中で行われた。彩り豊かな花々が咲き乱れる中、婚約者同士で口づけをする。むずがゆくなるくらいロマンティックなシチュエーションであったが、それをプロデュースしたマリーは満足げだ。
ウォルターは、健気なマリーに対する愛しいという気持ちが溢れ出そうになり、内心で大いに暴れ狂ったことは言うまでもないだろう。そしてマリーの前では「カッコイイ男」でいるために、そんな様子はおくびにも出さなかったことも。
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