14 / 38
富子
第5話 大切なもの
しおりを挟む奥の部屋には明かりはなく、優良が開け放った襖を超えて届く
座敷の点滅する照明の光を頼りにするしかない。チカチカする目で部屋を確認
すると、中には布団が敷いてあり、その上に紗矢が倒れこんでいた。
『紗矢、紗矢! 大丈夫?』
すぐに優良は紗矢を抱き起こそうとするが、なぜかその身体は異常に重くて
動かせない。
どういうことかと紗矢の小さな身体を改めて観察すると、顔の崩れた小さな
男の子が紗矢にしがみ付いて、優良をじっと見ている。そして優良と思い切り
目が合うと、「怒るのだめ」と妙に通る声で言った。
『…………!』
その気味の悪さに紗矢を抱きしめる腕の力が一瞬緩んでしまったが、すぐに
気を取り直した優良は改めてしっかりと紗矢を抱きしめた。
途端にそれが合図になったかのように、顔の崩れた男の子の顔が優良がいる
方へと迫ってくる。ギョッとして優良が顔を強張らせると、顔が近づくにつれ
て腐ったような異臭が鼻についた。
背後からは女も、ヒタヒタとゆっくりだが確実にこちらに近づいてくる足音
がする。
優良は、もう恐怖で動けなくなりそうだった。
でも自分ひとりならともかく、紗矢まで一緒に……なんて出来ない。
不気味さに卒倒しそうになりながら、男の子の身体を紗矢から引き離そうと
する。
すると男の子に触れた手にグジュとなんとも言えない冷たい触感がして、
思わず優良は悲鳴を上げてしまう。たが、それでもやはりここで引くわけには
いかない。優良は悲鳴だか掛け声だか分からないような大声を上げて、渾身の
力で男の子を紗矢から引き剥がそうとした。
しかし小さな体格なのに、男の子を振り払うことはできない。
異常な力で紗矢にしがみついてそこから動かない。
『離して! 離してよ! 紗矢は私の大事な娘なの!』
力では到底かなわないと思い知らされた優良は、無意識のうちに説得にかかって
いた。いや、もうそれくらいしか優良に出来ることはなかったのだ。
『いらないのでしょう?』
『怒るの、ダメ』
女と男の子が、再び繰り返す。
今度はしつこい。
何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
それは優良を幾度となく苛んできた呪いの言葉でもあった。
全くの他人から保育園の先生まで――今まで自分に投げかけられてきた
それらの言葉が、場面とともに優良の脳裏に蘇る。
『仕方ないでしょう! 私は一生懸命やっているのつもりなのに、仕事も家事も
育児も、うまくいかない。頑張っても、イライラして娘にあたってしまうし、
虐待疑惑までかけられるし! みんなが出来ることなのに、私はできない。
頑張っているのに!』
恐怖で張りつめていた心に過去の傷が突き刺さり、たまらず優良は叫んだ。
紗矢を抱きしめながら、その場にうずくまり、気づけば優良は涙を流していた。
『真実守りたいのなら、離れ、頭を下げ、他を失うことになろうとも厭わないはず』
『助けてって、言うの』
今までとは違う温度を感じる言葉に優良が頭を上げると、いつの間にか女は
男の子を胸に抱き、座敷の真ん中に立っていた。
この頃には照明は完全に消えていたが、やはり化け物の類なのか身体から光を
放つ二人の姿は、真っ暗闇の中でも優良の眼にもはっきりと見えた。
崩れた顔の恐ろし気な姿は影を潜め、二人はどこからみても小奇麗な女性と
可愛らしい子どもの姿へと変わっている。急な変化に優良が驚き戸惑っていると、
二人はにっこりと微笑んだかと思うと、スッと姿を消した。
唯一の光が失われ、後には真っ暗な離れで紗矢を抱く優良だけが残された。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
1
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる