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晩餐の後、パーラーへ移り、わたしはレオナールに申し出た。

「ピアノを聴いて頂けますか?」

「珍しいね、何かあったのかい?」

わたしがこんな風に申し出る事は初めてで、驚かせた様だ。
わたしは平静を装って答えた。

「最近は扉を閉めて弾いていますので、誰かに聴いて頂きたくて…」

「それなら、喜んで聴かせて貰うよ」

レオナールは紅茶のカップを手に、椅子に座った。
わたしはピアノに向かい、指を鍵盤に伸ばした。

眠りを誘う様な、高音が多めの軽やかで、それでいて、ゆっくりとした調べの曲を選んだ。

レオナールの為だったが、弾き出すと、全てを忘れ、夢中になり弾いていた。
一曲、弾き終えた後、わたしは我に返り、レオナールの方を顔だけで振り向いた。
彼は前の時と同様に、椅子に体を預け、眠っている様だった。

わたしは足音を忍ばせ、ブランケットを取ると、レオナールにそっと掛けた。
それから、ピアノの元に戻り、今度は慎重に指を置いた。
静かに、眠りの妨げにならない様に…

二曲目を弾き終わり、振り返ると、まだレオナールは眠っている様だった。
わたしはそっと、椅子から降り、ソファに移った。
眠りを邪魔しない様に、そっと紅茶のカップを取り、口付けた。
そうしていると、暫くして、レオナールが目を覚ました。

「ああ、すまない、眠っていたかな?」

レオナールは体を起こし、額に手をやった。

「寝て下さって構いません、気持ち良く眠れましたか?」

わたしが訊くと、察しの良いレオナールは、それに気付いた様だ。
彼は疲れた様に嘆息した。

「サロモン先生に聞いたんだね?」

「わたしが聞いたのは、眠りが浅く、睡眠薬を飲まれているという事だけです。
原因は心にあると…教えて頂けますか?」

「それは、契約には入っていない、私の事には干渉しないでくれ」

レオナールの声に、苛立ちが見え、わたしは「はっ」と息を飲んだ。

「申し訳ありません…」

「いや、厳しく言ってすまなかった、君は優しい娘だ、心配してくれたんだね?
だけど、人には他人に触れて欲しくない事もあるんだ、いいね?」

レオナールは子供に言い聞かせる様に言う。
確かに、わたしは子供だ。
何も考えずに、彼の内に立ち入ろうとした。
自分の立場も忘れて…

「はい、もう聞いたりは致しません…
ですが、眠れるのでしたら、ピアノを弾かせて下さい。
わたしはあなたに助けられました、わたしもあなたの力にならせて下さい」

レオナールは目を伏せ、息を吐いた。

「そんな風に、恩を感じる必要は無いよ、私にも下心があったのだからね」

恩だけではない。
愛しているからだ___
だが、それを伝えれば、レオナールはわたしを遠避けるだろう…

「それでは、役を演じていると思って下さい…」

「役?」

「《夫に尽くす良妻》です。
わたしたちが契約だけの夫婦だとは、誰も思いません」

「成程…だが、君にばかり負担を掛ける事になる、それではいけない…」

真剣な目でじっと見つめられ、わたしの胸は喜びに震えた。

ああ、なんてお優しいのかしら!

だが、こんな風に言われてしまえば、自分を止める事など出来なくなってしまう。

「負担ではありません、
わたしにとって、人の役に立つ事は、遣り甲斐のある事です」

それは本当だ。
だけど、誰よりも、あなたの力になりたい…

レオナールは苦笑した。

「君は案外、頑固だね?君を説得するのは難しいらしい」

「はい、その通りです」

わたしは澄まして答え、紅茶を飲んだ。
それはすっかり冷めてしまっていた。

「紅茶を淹れ直しましょうか?」
「いや、もう部屋へ引き上げるよ、君はゆっくりして行きなさい」
「いえ、わたしも一緒に…」

レオナールが立ち上がり、わたしもソファを立った。

「ゆっくりして行ってもいいんだよ?」

彼の気遣いはわたしには無用だった。
わたしは出来る限り、一緒に居たいのだから…
わたしは自然に思わせる為、建前を引き出した。

「それでは、夫婦仲が冷めて見えますわ」
「君には苦労を掛けるね」

レオナールが苦笑する。
他人に負担を強いる事を、彼は良しとしないのだろう。

「そんな風におっしゃらないで下さい。
あなたはご存じ無いかもしれませんが、わたしは楽しんでいるのですから」

わたしが軽口で返すと、レオナールは微笑み、腕を差し出した。

「君を妻にして良かったよ」

わたしは咄嗟に視線を下げ、その腕に手を掛けた。

妻にして良かった、だなんて…
意味合いは違っていても、うれしさは止まらない。

レオナールと共に歩く階段が、無限に続けば良いのにと願ったのだった。


◇◇


わたしはお茶と菓子をワゴンに乗せ、庭園へ向かった。
ディアナを訪ねる為だ。
普段はメイドがしている事で、伯爵夫人自らがワゴンを押して行く事はない。
だが、ディアナと二人で話すには、こうするのが都合が良かった。

「本当に、奥様お一人で大丈夫ですか?」

リリーたちには、心配されたが、わたしは余裕の笑みを見せ、
「大丈夫よ」と請け負った。
下女をしていた事もある身だ、お茶のワゴンを庭に運ぶ事位は簡単だった。

あれからディアナは毎日の様に通って来ている。
レオナールが勧めた通りに、馬車を止め、馬を使って。
貴族の娘であれば、乗馬が出来ても不思議ではないが、彼女は得意な様だった。
普段、馬を使わないのは、「はしたないと思われるから」だった。
その通りで、貴婦人が乗馬で買い物等に出掛ければ目立ち、
皆が顔を顰める事は確かだ。

「ディアナ!お茶にしませんか?」

わたしは散った花びらを搔き集めていたディアナに声を掛けた。
服装も随分軽装になっていて、飾りの少ないドレスで、足元はブーツ、
髪もシンプルにシニヨンに纏めている。
軽装だからか、化粧も少し薄くなった。

ディアナは顔を上げ、笑顔を見せた。

「ありがとう!直ぐに手を洗って来るわ!」

わたしはディアナを待つ間に、テーブルのセッティングをした。
サンドイッチと菓子の皿を並べ、カップにコーヒーを注ぎ、ミルクを注ぐ。
ディアナと一緒の時には、わたしもカフェオレを飲む様になった。

わたしはコーヒーをカップに注ぎ、サンドイッチと菓子を取り分け皿に取る。
これは、ガストン用だ。
わたしたちだけでお茶をするのは憚られるし、ディアナもいつもガストンに運んでいた。
ディアナは庭の事を教えて貰っているからか、ガストンには敬意を払っていた。

「こっちはガストン用ね?運んであげるわ」

ディアナがそれを運んで行き、ガストンは手を止め、それを受け取っていた。


「ああ、美味しいわ…」

ディアナがカフェオレを飲み、満足そうな声を漏らした。
わたしもカフェオレを飲む。

「ディアナ、調子はいかがですか?」
「ええ、問題無いわ、それより、話したい事があるんでしょう?」
「分かりましたか!?」
「分かるわよ、メイドを連れていないんだから、レオナールと何かあったの?
ベッドに誘われなくなった?」

ディアナの言葉に、わたしはドギマギしつつ、平静を装った。

「そういう事では無いんです…
先日、サロモン先生からお聞きしたのですが、レオナールは眠りが浅いらしく、
睡眠薬を飲んでいると…ディアナはご存じでしたか?」

「一緒だと眠れないから寝室は別にする、とは言われたわ。
ただの言い訳だと思って、『失礼な人ね!何が悪いか言いなさいよ!
本当は私が嫌いなんでしょう!』って、責め立てたんだけど…本当だったのね?」

ディアナの顔が曇った。

「ああ、私の方こそ、酷い妻だったわ!」

「仕方ありません、レオナールも触れては欲しくない様ですから…
原因は心にあるとサロモン先生に言われ、尋ねてみましたが、教えては貰えませんでした。
ディアナと結婚する以前からなのですね…
ディアナは何か心当たりはありませんか?」

ディアナは頭を振った。
だが、何かを思い出し、「もしかしたら…」とそれを話してくれた。

「私が知る中で、レオナールの一番の不幸は…
彼の母親の死よ」

わたしはこれまで、母親の話を聞いていなかった事に気付いた。
父親である前伯爵は、4年近く前に病で亡くなった。
その話は貴族の間でも有名だったが、母親の話は聞いた事が無かった。

「ディアナ、教えて頂けますか?」

「ええ、だけど、私も詳しい事は知らないのよ?
親戚の間でも彼女の名は口に出してはいけない、そんな雰囲気があったわ。
レオナールの母親マリアンヌは、彼が9歳の時に、館の池に落ちて亡くなっているの。
遺書は無かったみたいだけど、館の池は深くも無いから、事故にしては不自然で…
自害だろうと言われているわ…」

「まぁ!!」

「原因は分からないわ、誰も知らないの。
夫婦仲が悪かったという話も聞かないし、伯爵が女遊びをしていたという話も聞かないから…
その池は直ぐに埋められて、今は弔いの為に樹が植えられているわ」

「そんな事があったのですね…」

突然に母親を亡くすなんて…それも、自害かもしれないなんて…
9歳の子供には辛過ぎる。

わたしも両親を突然亡くした時は辛かった。
『心中だったんだろう』と言われた時、
どうして、わたしたちを置いて行ってしまったのかと、責めたい気持ちだった。

レオナールも同じだろうか?
彼は子供の心で、何を感じたのだろう?

「それが原因だと思う?」

「分かりませんが、きっと、酷く傷ついたでしょう…」

レオナールが結婚を嫌う理由、恋愛を軽視する理由は、そこにある気がした。

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