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第七章 ユーリと氷の女王

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オレの手渡したカップを小さな両手で
包み込むように持って、
ふうふうと冷ましながらそれを飲む
ユーリ様は本当に愛らしい。
このまま何時間でも見ていられるし、
恣意的にもっと出発を遅らせたくなる。

でも、それは出来ない。
ユーリ様の希望は最速での到着だ。
 
ダーヴィゼルド領で何らかの異変が
起きている。
しかも、自領の始末は自領で付けるが
モットーの、中央に迷惑をかけることを
嫌うあの誇り高い公爵が自ら黒封筒を
使って魔法による転送までして
助力を願ったのだ。

それを聞いた時に、ユーリ様は
確実にダーヴィゼルド領へ
向かう事になるだろうと思った。

あとはそこにどれほどの緊急性が
あるかということだ。

リオン殿下がそれを確かめるために
席を外した時、ユーリ様は自ら
ダーヴィゼルド領までかかる時間を
尋ねられた。
通常の場合と、緊急の場合と。
両方の時間を教えれば迷いなく
早く着く方を選ばれた。

山道を行くと言うユーリ様を
心配する侍女とのやり取りを
聞いていると、どうやらいくらでも
早く着きたいようだった。

ならば、ともう一つの方法を示す。

ノイエ領視察に利用したあの馬で
随行する騎士と休息時間を
最小まで減らす。

行く道はただの山道ではなく、
戦時や非常事態の時に使う
普段の山越えでも滅多に使わない道。
崖を駆け降り、川を飛び越える
最速の道程だ。

さて、ユーリ様のお覚悟はいかほどか。

オレの女神ならば、もしかして
その道を選んでくれるのか。

選んで欲しい。
何者よりも尊いその身さえ投げ打って、
助けを求める者達に救いの手を
差し伸べて欲しい。

不敬にも、そんな身勝手な理想と
願望を押し付けてつい試すように
問い掛けてしまった。

『かなりの強行軍になりますよ。
その覚悟はおありで?』

そんなオレに、ユーリ様はきっぱりと
言い切った。

『やります。頑張ります。』

まさかの即答だ。

そこに一切の迷いはなく、
あの冬の夜空の星のように静かに
オレを見つめ返してくるその瞳は
いつも以上に美しい。
金色の光がきらきらと強く輝きを放ち、
ユーリ様の決心の固さを伝えてきて
オレの胸を打つ。完敗だ。
ユーリ様の御心を試すようなことを
言った己の浅ましさを恥じた。

やっぱりオレの心は醜く汚い。
ユーリ様の高潔さに比べると
なんて卑しいのだろう。

頭を垂れて、許しを得るように
その手を取り口付けると
手の甲をオレの額に押し頂いた。

柔らかく温かい感触が額から広がり、
オレの心の冷え冷えとした醜いところを
溶かしてくれるような気がした。

幼い頃、オレに触れてくる奴らの体温は
ただただ気色悪いだけだったのに、
それがユーリ様だというだけで
今はこんなにも心地良く、
いつまでもこうしていられる。

そうしていたら、戻ってきた殿下に
一体何をしているのかと問われたので
祈りと感謝を捧げているのだと正直に言えば、
なぜかユーリ様は赤面して狼狽えた。

謙遜などせずにオレの思いをそのまま
受け入れてくれればいいのに。
そう思ったが、オレの言葉とその所作に
その都度反応して様々な顔を見せてくれる
そんなユーリ様もたまらなく愛しい。

この愛しさは敬愛なのか、それとも
それ以外のものなのか。自分でも分からない。
いずれにせよ、ユーリ様がそこにいるだけで
オレの世界はこれまでにないほど
美しく色付くことだけは明確な事実だ。

ダーヴィゼルド領までの道は険しく
かなりの強行軍になるが、
ユーリ様が一緒だと思えばそれは
全く苦ではなく、むしろ楽しみで
仕方がなかった。

そしてダーヴィゼルド領に向かっての
出発後もユーリ様には感嘆させられた。

リオン殿下には休憩をしっかりと
取るように言われていたし、
元よりオレもそのつもりだった。

ユーリ様には強行軍になると言ったが、
そこまで無理をさせるつもりもなかった。

しかしユーリ様は不思議な回復力を
持つ金のリンゴを携えて、
最初の食事もその後の小休憩も、
全て馬上で済ませてしまった。

これではリオン殿下に申し開きできない。
そう思ってこんな休み方をしたのは
殿下には内緒ですよ、と言えば
ユーリ様もそう思っていたのか
私達だけの秘密ですね!と笑った。

私達、と言う中には当然同行している
デレクも入っているのだが、
同じ馬の背に乗るオレとユーリ様
2人だけの秘密のように思われて、
心の内が甘く痺れた。
秘密。なんと甘美で美しい響きだろう。

ダーヴィゼルドの滞在中にそんな
甘い響きを持つ『2人だけの秘密』が
もっと増えれば、とつい願ってしまう。

険しい山道の道中、崖を駆け降りても
歯を食い縛って我慢をし、
幅の広い急流を一息に大きく
飛び越えても息を詰めてじっと
馬のたてがみに掴まっていた
ユーリ様は本当に辛抱強い。

険しい道を行くことになって
申し訳ないとデレクが詫びれば、
大変だった事ほど後から良い思い出に
なるのだと笑って、
さして気にする風でもない。

そんなことよりも昼食の方が楽しみだと
目を輝かせてデレクがかき混ぜる小鍋を
見つめて楽しそうにしていた。

そんなユーリ様がいればただの野営料理すら
いつもより遥かに美味く感じられる。

共にいる者が違うだけでここまでオレの
人生は感じ方が違うのかと驚きだった。

ユーリ様の髪を整えていた時もそうだ。

髪を整えるなど、あの奴隷時代に
こなしていた仕事の中でも造作もない。

わがままな王族の命じるままにさせられた
複雑な髪結いに比べれば、編み込みを少し
加えた程度の三つ編みなど物足りない位だ。
時間があればもっと美しくユーリ様を
仕立てることもできるのに。

そう思いながら手触りの良い髪の毛を
整えていると不思議な気分になった。

あれほど嫌で堪らず思い出したくもなかった
身分ある者への身の回りの世話や奉仕も、
ユーリ様のためならいくらでもこの身を
尽くせる気がする。
そうだ、ダーヴィゼルドの滞在中は
オレがユーリ様の身の回りの世話を
するのも良いのかもしれない。

まさかあの奴隷時代の仕事に感謝する事になり、
自ら進んで誰かに奉仕したいと思うとは
あの当時の自分では想像だにしなかった事だ。
生きて来て良かった。とまた養父の
言葉を実感することになった。

紅茶を飲み終えた後は、ユーリ様を
再びオレの前に乗せて馬にまたがる。

空を見上げれば、ダーヴィゼルド領の
方角は薄暗い。あちらは雪か。
念のため撥水仕様のローブでオレの上から
ユーリ様も包み込むように覆った。

「ユーリ様、この先はもう崖や
渓流はありません。多少足は速めますが
平坦な道が多くなりますから、
オレに体を預けて下さい。
眠くなったら遠慮なく寄りかかって。」

腹も満ち、体も暖まればその小さな体に
知らずたまっている疲労に加えて
馬の駆ける定期的な振動に、
睡魔が襲ってくるだろう。

そう思いしっかりと支えながら言えば、

「ええ?シェラさんに手綱を
任せっぱなしで私だけが眠るなんて
ダメです!私、起きてられますよ⁉︎」

かわいらしい抗議の声を上げて
若干不満げな顔をされたが、
その姿はただただ愛らしいだけだ。

しかも、そんな事を言っていたのに
駆け始めてそれほど経たないうちに
こくりこくりとうたたねをし始めた。

やはり、無意識でも疲労は
たまっているのだ。
昼食のために馬を降りた時も
かなり足がふらついていたのだから。

向こうに着いて、少しでも休息を
取れれば良いが状況が気になる。

ユーリ様には内密に、殿下から
頼まれているのは最悪の状況下での
オレの任務だ。

魔物の影響を受けたカイゼル殿は
あのヒルダ様の強力な氷牢結界でも
閉じ込めておくのがやっとだと言う。

気を抜けば死人が出てもおかしくない
その変わり様にはさすがのヒルダ様も、
もしも癒し子様でも治せなく
周りに被害が出るようであれば最悪
処断・・・つまり殺害も止むなし、と
苦渋の決断をされた。

最愛の夫だと言うのに、1人の犠牲で
領民が助かると思えば非情な判断も厭わない。
さすがは国にその名を知られた女傑、
北方守護伯にして竜退治の女公爵
ヒルデガルド・ダーヴィゼルドだ。

素晴らしい領主であり、恐ろしくもある。
しかしその判断は美しく尊い。
敬意を払い、いくらでも喜んで
汚れ仕事を請け負おうと思った。

そのためにオレは殿下から、
ユーリ様がノイエ領で祝福付与をした
結界石で作った魔物祓い用の
短剣を預かっている。
それならば魔物の影響を受けた
カイゼル殿もなんなく斃せるだろう。

ユーリ様はカイゼル殿の救済を、
オレは殺害を。

二律背反のその使命はどちらに転ぶのか。
どうかユーリ様の悲しむ結果には
ならないで欲しい。
カイゼル殿を救う道が残されていますように。
オレの懐ですやすやと眠るユーリ様を
そっと抱きしめてそう願った。













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