暴君皇帝は二度目の人生でも騎士を愛する

蒼井あざらし

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21_十年前の約束

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「どうして僕の名前はクリスティアナなのですか?」

 そう訊いた時の母の顔を、クリスは今でも覚えている。母は誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべて、幼いクリスの頭を撫でた。クリスの長い髪を愛おしく撫でるその手つきに、クリスは子供ながらに母の心中を悟った。

 クリスは二人の兄とは母親が異なる。ミュラメント王妃はフェルノアとルイゼオを生んだ後に若くして亡くなり、その後に後妻として王室に入った女性がクリスの母親だった。ランゼという名のこの女性は、歴史ある血統と優れた容姿を持った心優しい女性であったが、その反面大きな欠点があった。かなり臆病で、気の小さい性格だったのだ。

 ランゼは既に皇子が二人いたことにより、自身の生んだ子供が王位継承権を持つことにずっと怯えていた。王位争いに自身が巻き込まれることも、自身の子供がもし王になった時に国母と言う責任を負うことも、蝶よ花よと育てられたランゼは全く望んでいなかったのだ。クリスの父親であるミュラメント王は当時神殺しの聖剣に選ばれていた実の兄と血生臭い王位争いをしており、そのこともランゼが過剰に怯える原因の一つになっていた。

 ミュラメント王室では騎士という身分にならなければ王位に就けないという暗黙の了解があった。その為、皇子として生まれた男児はほとんど騎士になることを前提に幼少から教育が施される。騎士道精神から始まり、剣技や軍の指揮、そして人民を守るための国防論を教えられるのだ。

 自身の子供が騎士になることを望まなかったランゼは、生まれた子供にクリスティアナという女性名を付けた。そして、まるで女児の様にクリスティアナの髪を伸ばさせ、本来なら幼少から行われるはずだった騎士教育を受けさせなかった。クリスが銀髪の兄二人とは違い、先代の聖剣の使い手と同じ金の髪をもって生まれたことも、ランゼを精神的に追い詰めた。

 そんなランゼの心境を知っていた二人の兄は、クリスのことを大いに可愛がってくれた。今思うとクリスに対して多少の同情もあったのかもしれないが、心が弱く時折ヒステリーを起こして泣く義理の母を安心させるためにやっていたのだろう。

 子供ながらに母の不安定さを理解していたクリスは、そんな自分の状況を変えようとは思わなかった。不器用ながらに自分を愛してくれる母と、騎士教育の合間を縫って遊びに来てくれる二人の兄を、クリスは心から愛していた。騎士に憧れはあったが、家族を困らせてまで騎士になりたいとは思っていなかったクリスは、自分は将来文官にでもなって兄達を支えようと思っていた。だが、その考えはクリスが八歳になった時に叶わない夢となってしまった。

 クリスが神殺しの聖剣に選ばれた時、誰もが驚いてその目を疑った。代々ミュラメントの血統に引き継がれる聖剣は、最も国を護るに相応しい騎士が選ばれるという言い伝えがあった。その為、聖剣の騎士には騎士教育を受けていた二人の兄――フェルノアとルイゼオのどちらかが選ばれると、誰もが思っていたのだ。

 その日から、クリスの日常は変わってしまった。クリスは聖剣に選ばれた人間として相応しい騎士になる為の教育を受けることになり、毎日厳しい訓練を受けることになった。誰よりも強い騎士になれと容赦なく剣で体中を打たれ、辛いと弱音を吐けば父親にこれでも先代の聖剣使いが受けた教育より大分優しくなったのだと頬を打たれた。そしてその合間に痣だらけの身体を引き摺って座学を受け、睡眠時間を削って宿題をやっているうちに朝日が昇り、また剣を握って体中を打たれるのだ。

 母はクリスが聖剣に選ばれた日から部屋に塞ぎ込んでしまい、クリスを見ると怯えて泣き出すようになった。二人の兄が今まで通り優しく接してくれたことがクリスにとって唯一の救いだったが、陰で二人が聖剣に選ばれなかった愚兄だと言われて涙を流していることをクリスは知っていた。

 そんな日々の中、クリスはずっと心中に疑問を抱いていた。自分はこんなこと望んでいなかった。なぜ聖剣が自分を選んだのか。なぜこんなに大切な家族を傷付けなければならないのか。自分は一体何のために、聖剣を持たなければならないのか。

 逃げ出したいと、こんな剣などいらないと、頭の中はそんなことばかりだった。兄の手前、そんなことは口が裂けても言えなかったが、クリスの中では少しずつ聖剣への嫌悪感が積み重なっていった。そのドロドロとした感情を、クリスは騎士教育で学んだ作り物の笑みで覆い隠した。その笑みはクリスの明るく快活な元の性格も一緒に覆い隠してしまったが、周囲の人間はやっと騎士らしくなってきたとクリスを褒め称えた。

 そして、まるで聖剣が正しかったとでも言うように、クリスの剣技がたったの一年で兄二人の実力を超えてしまったことも、クリスの心に影を落とした。

***

 十五歳の時、クリスはある目的の為に、一人帝国へ向かう船に乗っていた。出航手続きは思いの外簡単なもので、髪を黒く染め帝国の華族風の外套に身を包んだクリスの事を誰も疑わなかった。船に乗っている人間はほとんど帝国の華族や外交にきた文官ばかりで、上流階級特有の落ち着きと余裕があった。

 警備なども実に緩く、クリスは自由に船内を歩くことが出来た。この甘いともいえる警備や出航手続きは帝国独特のものであり、他の国ではあり得ない光景だった。あらゆる外敵を通さない神の門、天門結界と呼ばれる壁に守られている帝国に、密航者などいるはずが無いからだ。だが聖剣に選ばれた騎士であるクリスには関係のないことであった。

 クリスが船の甲板に出ると、びゅうっと強い風が髪をかき混ぜた。海のない聖国で育ったクリスにとって、海というものは珍しく、その広大な青さは心が躍る光景だった。遠くに視線を投げると、段々と陸地が近づいているのが分かる。深い森に囲まれた中心に、大きな都市が見えた。その血塗られた歴史に反して、帝国は遠目で見ても自然の豊かな美しい国だった。

 こんなに穏やかな気持ちになったのは何時振りだろうか。この七年間で、クリスはすっかり騎士らしい鍛えられた身体になり、幾度も剣だこが潰れた掌は固く大きな男の掌になっていた。もう聖国にはクリスに敵う剣の使い手はいなくなり、誰もが聖剣の騎士に相応しいと口をそろえて言うようになった。日々を辛いと感じることは無くなったが、何かを楽しいと思うこともなくなった。兄の視線も、母の悲鳴も、辛いと感じるにはとうに心が擦り減りすぎてしまっていた。

 今まで感じたことない解放感に浸りながら、不意に、逃げてしまおうかと、そんな気持ちがクリスの心を過ぎった。聖剣を海に投げ捨て、ただの一人の人間として生きていく。年相応に友人たちと冗談を言い合って遊び、好きなものを何でも食べて毎日暮らす。大人になったらそこそこに働いて、酒を飲んで、毎日を穏やかに楽しく生きていく。家族も国も捨て、そして騎士の心得も剣も捨てて、そんな風に生きていく。

 そんな妄想をしながら、クリスは一人自嘲の笑みを浮かべた。そんなこと出来るはずがないのに、一体自分は何を考えているのだろうか。クリスの人生には穏やかな未来などなく、国を護るために戦場で生きていくことが約束されている。

 聖剣に選ばれたあの日から、クリスの人生は剣の奴隷になったのだ。

***

 クリスが敵国であるこの久遠神帝国に来たのは父であるミュラメント王の命令だった。寿命で亡くなった先代神帝の跡を継ぐ新しい神帝を一目見てこいと言われたのだ。クリスは父がどうしてこんな命令を出したのか分からなかったが、王に逆らうことは許されない。その為、理由は変わらずともこうして帝国に密入国したのだ。

 帝国内にいた協力者のお陰で、クリスは特に疑われることもなく即位式に潜入することが出来た。玉座の間には帝国内の来賓が集められており、華族の子息という体で礼服に身を包んだクリスは、その中に自然に溶け込んでいた。

「陛下がお越しになります」

 その言葉と共に、その場にいた全員が玉座に向かって頭を下げた。クリスも周囲に合わせて頭を下げていると、玉座に誰かが座った気配がした。

「……お、面を上げよ」

 陛下と呼ばれるには余りにもか細い声で、新しい神帝の命令が下る。

 初めて彼を見た時の印象は、ごく普通の子供だと思った。垢ぬけた綺麗な顔立ちをしていたが、それ以外は本当にどこにでもいる自分と同じ年頃の子供だった。大人たちにかしずかれて戸惑ったように曖昧な笑みを浮かべ、身の置き場がなさそうに玉座に遠慮がちに座っていた。

 人に命令をしたり大人に平然とかしずかれたりすることは、クリスの様に身分の高い人間として生まれないと身に付かない特別な技能だ。今玉座に座っている子供には、その技能が全く備わっていなかった。

 久遠神帝国の神帝は血縁ではなく神託によって選ばれることは有名な話だが、まさか本当にこんなごく普通の少年が選ばれるとは思いもしていなかった。国を運営するには、途方もない努力と膨大な知識、そして大きな責務を伴う。あの少年は今までに生きてきた中で、国を統べる教育など欠片も受けたことが無かっただろう。幾ら神秘が色濃く残る帝国だったとしても、あんな少年に国の長としての器があるなど、クリスには到底信じられないことだった。

 だが、『新しい神帝を確認してくる』という父の命令は達成した。結局父の思惑は分からなかったが、もうこの敵地に長居する必要はない。

 新しい神帝に挨拶をする人々を横目に、クリスは玉座の間からそっと抜けだしだ。そして宮内の空き室で元の洋服に着替え、予め決めてあった待ち合わせの場所に向かう。宮の裏側にある広い庭園、その中にある小さな庵にクリスが辿り着くと、まるで影のように静かに立っている初老の男性がいた。

「もうよろしいのですか」

 この夜月と名乗る男が、クリスをここまで手引きしてくれた協力者だった。

「はい、父の命は達成しましたから」

 クリスがそう返すと、夜月は頷いて「馬車を手配してきます」と庵から離れていった。

 一人になったクリスは僅かに緊張が解けるのを感じ、微かにほっと息を吐いた。夜月のそつのない様子から察するに、宮内でそれなりに権力を掌握している人物なのだろう。初めて夜月に会った時、クリスは真っ先に帝国に対する裏切りの理由を聞いた。夜月は簡潔に、だが嘘ではない様子でこう言った。

『先々代の神帝様に仕えていた時に、ミュラメント王に助けて頂いた恩義があります』

 クリスは、生まれた時から一度も自分の父親の事が理解出来なかった。父と夜月の間に何があったかは分からないが、きっと聞いても何も教えてはくれないのだろう。

 聖国に帰ったら父に何と報告しようかと考えていた時、不意に茂みから人影が現れた。鍛えられた機敏さで直ぐにクリスは庵の柱に身を隠す。夜月ではない。出来るだけ穏便に済ませたいが、いざという時は武力を行使するしかない。

 クリスは腰に下げている聖剣に、ゆっくり手にかけた。

「あの……」

 自信がなさそうな呼びかけに、クリスはそっと柱から様子を伺った。だが、そこに現れた人物の姿を見た途端、クリスは驚きのあまり固まってしまった。

 現れたのは、つい先ほどまで玉座に座っていた少年だった。つまり、新しい神帝だった。

「急にごめんなさい。どうしても貴方と話がしたくて」

 クリスが返事を返さずとも、向こうは自分がここにいることを知っている様だった。一体どうして神帝が、という疑問に思考が埋め尽くされる。黙ってやり過ごそうかと思ったが、神帝は一向にその場から立ち去ろうとしない。

「どうしてここに?」
「夜月さんが教えてくれました」

 業を煮やしたクリスが身を隠したまま返事をすると、神帝は返事がもらえて嬉しかったのか、明るい声でそう言った。

「貴方に、聖剣に選ばれたクリスティアナ第三皇子様にお願いがあるのです」

 その言葉に、クリスは柱の陰から離れ、神帝の前に歩み出た。神帝はもう自分が何者なのか知っている。周囲には誰も潜んでいる様子はなく、神帝は一人でこの場に来たようだった。どうして神帝が自分に会いに来たのか分からないが、夜月が裏切ったのかもしれない。クリスは外套の下で聖剣を握りしめたまま、神帝の顔を見詰めた。

 神帝は玉座に座らせられていた時とは違い、自然体の表情をしていた。顔立ち自体は鋭い中性的な美しさがあるが、声音や表情は優し気であり、心根の素直な人物であることが窺えた。

「お願いとは何でしょう」

 今のところ危害を加えるつもりはないようだが、クリスはとにかく神帝が何のためにこの場所に現れたのかを知る必要があった。神帝は僅かに逡巡した後に、覚悟を決めた様に言葉を発した。

「もし、僕が悪い神帝になったら、僕を殺してくれませんか」

 一瞬、言葉の意味が分からなかった。クリスは聞いた言葉を脳内で何度か反芻し、やっと意味を理解する。だが、理解できたのは言葉の意味だけであり、それ以外の事は何も分からなかった。

「……何故そんな望みを?」

 やっとの思いでクリスが言葉を返すと、神帝は淡々と、だがどこか悲し気に話し出した。

「僕は五年前、戦争で父を亡くしました。母は父が亡くなった時、神様の決めたことだから父の死は正しいことなのだと、僕に言いました」

 その理論は異常だと、クリスには思える。だが、思想は国や育ちによって千差万別であることも分かっていたため、クリスにはその母親が間違っていると無責任に言う事も出来ない。

「この国では神帝の、神様のやったことは全部正しいことになります。でも僕は……そんな神様にはなりたくありません。でも、神帝になったらきっとこの僕の気持ちも消えてしまいます。明日、この身に神様が宿ったら、僕は本当に神帝になるのですから」

 神帝に神性が宿ることはクリスも知っていた。だがその神性というものが宿した本人の精神に干渉するものなのだろうか。もしそうだとしたら、神託によって神帝が選ばれることにも多少納得がいく。神性を宿せば神帝としての自我が生まれ、宿した本人の精神性は無視されるということだからだ。

「こんなお願いをしてごめんなさい。でも、聖剣を持つ貴方にしか頼めないことなのです」

 そう言った彼は、真っすぐにクリスを見詰めて、そして笑みを浮かべた。恐怖や悔恨の無い、どこか達観したような、だが希望を持っている目だった。

 クリスはこんな光のように笑う少年が背負った重荷に気付くと同時に、自分が間違っていたことを知った。この少年は、確かに国を統べる覚悟も、器も持っていたのだ。彼は、自分とは違う。自分は、今まで自分の運命から逃げてばかりだった。騎士という身分を捨てたい、聖剣から逃げ出したいと、そればかり考えていた。そして、どうして自分が聖剣に選ばれたのだと、運命を呪い続けていた。

 だが、この少年は自分の運命を逃げずに受け入れ、そして押し付けられた運命にさえ自分で責任をとろうとしている。こんなに優しく高潔な人間が神帝に選ばれてしまうとは、何て運命とは残酷なものなのだろうかと思った。だが、同時に彼の高潔さがクリスには眩しく、鮮烈な憧れの存在として目に映った。

 クリスは祈里にゆっくり歩み寄り、そっと手をとった。もうクリスの頭には敵国だとか、神帝だとか、そんな考えは一切無くなっていた。お互いの身分も、国も、その全てを投げ捨てて、クリスはこの優しく、強い一人の人間に、自分の全てを捧げたいと思った。

「約束します」

 彼の手は自分と違って柔らかく、そして暖かかった。

「貴方の神を憎む気持ちを邪魔するものがあったのなら、私が必ず倒します。たとえそれが、貴方自身だったとしても」

 これは騎士の誓いではない。騎士としてではなく、クリスティアナという一人の人間が交わした約束だった。

「ありがとう」

 そう言った彼の笑みが心底嬉しそうに見えて、クリスは少し泣きたくなった。

 この時、クリスはようやく自分の人生を、運命を理解することが出来た。きっと自分は、彼のために聖剣に選ばれたのだ。
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