白の皇国物語

白沢戌亥

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第四章:万世流転編

第二〇話「准将の初恋」 その四

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 マリカーシェルとアンヌを背負ったレクティファールは、完全に日が落ちた街を歩いていた。
 その時間になれば、街中にはひっそりとした場所が幾つも現れる。
 特にマリカーシェルの自宅がある区画は昼間こそそれなりに人通りがあるが、夕刻を過ぎると一気に人の気配が消えていくのだ。
 その区画が官庁街の外れにあるからだ。
 中央の官庁はともかく、そのような区画に門を構える末端の官衙は昼間の限定された時間しか人がいない。ある程度の間隔を置いて警備衛視の待機所があるだけだ。
「周囲に商店とかもないですし、あまり人気がないんですよね。わたしはそれなりに気に入っているんですが」
 本来は役人たちの宿舎として作られ、しかし別のより大きく頑丈な宿舎が完成したことで、ここはある一定の者たち――軍人や寮暮らしのできない役人――を相手にする賃貸物件になった。
 ただ、周囲にある食堂は昼間しか開いていないし、もっとも近いところにある商店は官庁街の官僚たちを相手にするもので、これもまた早い時間に閉まってしまう。
 先の新しい宿舎には食堂もあれば商店もある。官僚の家族たちがその中だけでも暮らしていけるほどに充実した施設なのだ。
「私は静かでいいところだと思いますよ」
 それはレクティファールにとって本心からの言葉だった。
 彼の周囲には常に何らかの音とそれを発生させる存在があり、それが消えることはない。
「ただ、ご実家には戻らないのですか?」
「――ええ、弟も居ますし、わたしが戻ったところで両親は喜びませんから」
 ほんの一年前までであれば、家族はマリカーシェルを誇りに思っていただろう。
 先代皇王の時代でも後宮を決して荒らすことなく守り切った英雄のひとりで、若くして近衛軍の将官になったのだ。優れた軍人を輩出することがその役割のように考えているリア・マセリアの当主がそれを喜ばないはずはない。
 しかし、それもこの一年で随分と変わってしまった。
「ああ、あそこです」
 マリカーシェルが指差した先にあるのは、ごく一般的な鋼製骨格強化煉瓦造りの二階建ての建物だった。
 マリカーシェルは玄関にある個人認証機に手のひらをあてて扉を開けると、レクティファールを先導して玄関奥にある階段を上がっていく。
 そのあとに続きながら、レクティファールはこの建物の住人がその部屋数に較べて酷く少ないことを確かめていた。やはり、人気がある物件ではないようだ。
 やがてマリカーシェルの部屋に着いた。
 二階の角部屋だ。隣の部屋には住人はおらず、二階にある六つの部屋の内誰かが住んでいるのはマリカーシェルの部屋と、ふたつ部屋を挟んだ一カ所だけだった。
「どうぞ。アンヌはそちらの長椅子に寝かせておいてください」
「はい」
 部屋に通され、レクティファールは不躾にならない程度にそこを見回した。
 部屋の中心には椅子二脚と卓があり、他にはごく実用的な机と演算機に接続された中型通信機。あとは音声放送を聞くための受信機が脇棚の上にぽつんと置いてあるだけの部屋だった。
 脇棚の中にいくつかの本が収まっているのが見えたが、いずれも少し前に流行った小説で、彼女の職業を想像させるようなものは何もなかった。
「汚い部屋で申し訳ありません。掃除をする時間もあまり取れなくて」
 隣にある寝室から掛け布を持ってきたマリカーシェルが、長椅子で寝息を立てているアンヌにそれを掛ける。
 レクティファールはその間、椅子のひとつに座っていた。
 そしてマリカーシェルが居室に面した厨房でお湯を沸かしている間、ただじっとしてその姿を眺めていた。
「あの……あまりじっと見詰められると……」
 その視線にマリカーシェルが気付かないはずはなく、彼女はその凜々しい容貌を羞恥で赤く染めていた。やめて欲しい、の一言が口から出なかったのは、果たしてどのような理由だったのだろうか。
「失礼。ただ、あまり見慣れた光景ではなかったものですから……」
 それは至極当然のことだ。
 レクティファールの前で湯を沸かすことがあったとしても、それは日常の動作の一部ではなく何らかの歴史と格式によって作られた儀礼の一部でしかない。真子がイズモの歴史と格式に従って湯を沸かし、茶を点てるように、だ。
 後宮では望めば熱湯であろうとぬるま湯であろうとすぐに差し出される。それを用意しているであろう乙女騎士たちの姿がレクティファールの目に入ることはほとんどないと言って良いだろう。
「ハルベルンのお屋敷でも、ですか?」
 マリカーシェルは薬缶から茶出しにお湯を注ぎ、続いて磁碗にそれを淹れた。
 ごく普通の紅茶であったが、マリカーシェルはレクティファールがこうしたごく安価な茶葉を嫌っていないことを知っていた。
 皇王としての彼に供される茶はどんな色で染まっていても良い香りと味を持っており、それに見合った価値が付されている。
「どうぞ」
「ありがとう」
 こんな遣り取りはもう数え切れないくらいに繰り返してきた。
 大半は後宮にある執務室で、それ以外は庭園にある四阿や乙女騎士たちの休憩室で。
 マリカーシェルは自分が淹れた茶を啜るレクティファールの横顔を眺め、どこか安堵する自分が居ることを再確認した。
 自分が目の前の男にとって価値のある存在であると手軽に確かめられるからだ。
(アンヌにはこんな想いをさせたくはないわね)
 妹のような親戚の娘は、視界の端で寝息を立てている。
 あと少ししたら起こして、島へと帰るよう言わなくてはならないだろう。船が出る埠頭まで送っていっても良いかもしれない。
「それを飲んだら、ハルベルンのお屋敷にお帰りください」
 ぐっと胸を締め付ける痛みに堪えながら、彼女は言った。
 レクティファールはそんなマリカーシェルの内心に気付く訳もなく、少し考える素振りを見せた。
「うーん、このまま帰ったら職場の同僚と浮気して帰る夫のように感じるのですが……」
 状況のみを吸い上げ、箇条書きにして並べれば確かにそのように見えるかもしれないが、今のマリカーシェルにとって、それは同等の喜びと羞恥を感じさせるものだった。
「わたしなどではその役目は到底担えません。わたしは所詮、ひとつの旅団を率いているだけの軍人なのですから」
「それは確かにその通りですが、私から見れば十分過ぎるほどに魅力的ですよ」
 レクティファールのその言葉に、マリカーシェルは笑って見せた。
 幾度も聞いた言葉だ。
 誰に教わったのか、そうした言葉は素直に口にした方が良いと助言されたらしい。
 しかしその言葉は、レクティファールを友人程度に好ましく思っている者には心地良いかもしれないが、それ以上の感情を抱いているものにとっては好ましさと同時に嫌悪を抱かせる。
 今のマリカーシェルにとって、レクティファールの言葉は嬉しさよりも辛さの方が大きかった。
「その言葉は、あなたを待っている奥様にどうぞ」
 紛う事なき本心だ。
 賞賛の言葉はそれを受けるに足る輝きを持つ者が得るべきであり、それは彼女にとって確かな逃げ道だった。
 だが、レクティファールにとってはそうではなかった。
「ああ、うん。彼女にもちゃんと伝えますよ。ただ――」
 彼は今日の天気の話をするかのように言った。
「私にとって、あなたは美しく頼りになる女性なのは間違いありません」
 マリカーシェルは自分の顔が歪むのを抑えきれなかった。
「あなたは……!」
 何故、自分にそのようなことを言うのか。
 一族の人々が思うように、ただ有能な副官として扱ってくれればそれで十分だというのに。
「マリカーシェル?」
「あなたは……」
 感情が昂ぶり、胸が痛くなる。
 しかし、彼女が言葉を口にするよりも早く、もうひとりの女性が声を上げた。
「あー! お姉様泣いてる!?」
 アンヌのその声に、マリカーシェルは内心救われたと思った。
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