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11巻
11-3
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「次にパティ」
「ひゃ、ひゃい!」
身体を縮こませるパトリシア。助けを求めてルフェイルを見ても、彼は下書きに夢中であった。
彼女は涙目になってレクティファールを見詰めるが、哀しいかな、最近の彼は女の武器に対する抵抗力が高くなりつつある。ルフェイルであれば十分通用するのだが、レクティファールの細君たちは自宅に立て篭るくらいの行動派だ。パトリシアでは分が悪い。
ああ、凄くたくさん書き直しになるんだろうなぁと心の奥底で号泣し、パトリシアはレクティファールの言葉を待った。
「まず、この魔動式甲冑運用時における兵站の注意点というのは、凄く良いと思います。魔動式甲冑にも色々あって、特殊な機種だと製造元にしか在庫のない部品とかも使っていたりしますからね」
「え、うん」
「でも、こっちの魔動式甲冑の整備に関する報告書は、書き直すべきだと思います」
「――どこが駄目かなぁ」
褒められたことで一瞬華やいだパトリシアの表情が曇った。
「まず、専門用語が多過ぎる。こう言っては何ですけど、整備兵出身者でない人が理解できない言葉は割と多いんです。意外かもしれませんが、数字の単位だって言われなくちゃ分からない。整備兵の間では当たり前の工具だって、一般世間では使われない。だから、普通の他の兵科出身の指揮官は、その工具の名前さえ知らないなんてこともあります」
「うん、そういえばわたしも、昔は全然知らなかったなぁ」
パトリシアは、教官にネコ――猫車、荷車のこと――を持ってこいと言われて、野良猫を探し出して持っていったことがあった。教官は、怒るに怒れず、微妙な空気になったらしい。
「整備兵に対する教育制度の充実だとか、各製造元への出向だとかは、現場ならではの視点で重宝されるでしょう。細かい説明は訊かれてから答えるということで、大雑把に魔動式甲冑を運用する部隊と他の部隊の兵站の違いを強調してはいかがかと」
「うん、分かった」
頷き、ルフェイルの隣の席に戻るパトリシア。既に唸り始めたルフェイルにお茶を淹れると、彼女も筆を執って新たな戦いに赴いた。
「で、フェリス」
「え、ええ? ボク?」
いつの間にか作業を中断してレクティファールたちの会話に聞き耳を立てていたフェリスが、自分を指差し、上擦った声で問う。
「この訓練がどんな評価を受けるのか、フェリスの班長としての能力も大きく関わってくることでしょう」
「だ、だよねぇ」
冷や汗を垂らし、フェリスは自分の書いた書類を再確認した。大丈夫、間違っていないと何度も頷いた。
でも、不安は払拭できない。
「あのさ、レクト」
彼女は班長としての誇りを全力で冥界の彼方まで放り投げ、自分の書いた報告書の下書きを指し示した。
「ちょっと意見が欲しいんだけど……」
「――――」
レクティファールは無言。
もともと彼女は、上司として威厳のある種類の人物ではないが、さすがにそれを自分に聞いてくるのはどうかと思う。
「ダメ?」
小首を傾げ、潤んだ目で見上げるフェリス。
その仕草はマリアにでも教わったのですか、とレクティファールは心の中で大いに叫ぶ。動揺する内心を隠すためにふいと顔を背ける。その行動は、自分の仕草に絶対の自信を持っていたフェリスに衝撃を与えた。
「な、お、お義母様直伝の泣き落としが通用しない……!? 城の番兵さんたちはすぐに攻略できたのに!」
(やっぱりか、やっぱりですか)
男の本能を擽る術は、貴族子女の必須技能である。大なり小なり、何処の貴族や名家でも教えていることだ。
それこそ幼少の頃から徹底的に、男に媚びるためではなく、男を操るために。
(怖いなぁもう)
心が弱ければ他者不信になってしまうところだ。
レクティファールは妃候補の誰かを連れて街に繰り出すたび、彼女たちがその容姿を最大限活用する様子を見せ付けられている。おかげで慣れてしまったが、世間の男性諸氏はそれこそ入れ食いだろう。
恐らく、男がその地位や名声を武器にして異性を口説くことと同じなのだ。
「あう……どうしよう……このまま出す? でも折角の大金星だし、ここで躓くのも色んな人に申し訳ないし……」
レクティファールが助けてくれないと判断したフェリスは、それこそ隅々まで報告書を読み直している。時々自分で添削して書き直しているようだが、レクティファールからするとまだまだ甘い。
(ああ、そこはそうじゃないんですって、って、そっちをそうしたら……!)
上司を助けるのは部下の仕事であるが、上司の仕事を奪うことは部下の役割ではない。世の中では、副官や参謀が指揮官の権力を笠に着て、部隊を混乱に陥れるなんてことは珍しくない。そのせいで、レクティファールがフェリスを助けることに躊躇するのも仕方がなかった。
「あ、こっちの方が分かりやすいかな」
(ああ、それでは相手に違う意味と取られてしまう可能性が)
レクティファールは助けたくとも助けられないことに苦しみ、書類を書くフェリスの傍らに立ったまま硬直していた。
フェリスはフェリスで、レクティファールが自分を監視していると思い込んでいたし、何とも心の通じ合わないふたりであった。
◇ ◇ ◇
そうして班の面々が書類と格闘していると、玄関の呼び鈴が鳴った。
パトリシアが玄関に向かい、他の三人はそのまま書類仕事を続ける。しばし玄関でパトリシアと来客の会話が続き、その声を聞いたレクティファールの眉間に一本皺が寄る。
「何故でしょう」
フェリスとルフェイルには、玄関の会話が聞こえていない。
だから、レクティファールの言葉を、自分が提出した書類に不備が、という具合に受け止め、ふたりは同時に顔を青くした。
しかし、レクティファールはいつまで経っても問題点を指摘しない。ふたりの顔色は時間を経るごとに悪い方へひた走り、やがて我慢の限界に達したフェリスが、レクティファールに手を伸ばしたそのとき、ふたりの来客を伴ったパトリシアが戻ってきた。
「レクトくん、お客様」
少し首を傾げながら、パトリシアがレクティファールを呼ぶ。
レクティファールはその声に振り返り、無表情極まりないタキリと、居心地悪そうに身を竦ませるヘスティを見て、心底不思議そうな表情を浮かべる。
「いらっしゃいませ。珍しい取り合わせで」
それは、レクティファールの偽らざる本音であったが、タキリには何かの言い訳に聞こえたのかもしれない。
彼女は固い表情のまま、小さく口を開いた。
「――部屋へ」
「あ、はい」
レクティファールは椅子から立ち上がり、三人に一言断ってから自室に向かう。
そのあとを追うふたりの女性の姿に、残された三人は揃って疑問符を浮かべるのだった。
レクティファールの部屋に入ると、まずタキリが鍵を掛けた。
続いて遮音障壁を張り、さらに認識阻害の魔法まで展開する。まるで犯罪者にでもなった気分だと思いながら、レクティファールはふたりに椅子を勧め、自分は寝台の縁に腰掛けた。
来客を考えて、普段から椅子が二脚あったのは、パトリシアの慧眼である。
「それで、何かありました?」
「いえ、わたしは道案内に来ただけですので」
タキリの声は冷えた鋼のように、レクティファールには感じられた。最近あまり会っていなかったが、そこまで心労が溜まっていたのかと勘違いする。
「ならば、お疲れのようですし、今日はもう戻られた方が良いのでは?」
レクティファールの言葉で、タキリの頬に僅かな朱が差す。
「ええ……できればそうしたかったのですが、ハルベルン候補生については色々言い含められておりますので……」
俯き、呟くタキリ。
隣に座るヘスティがびくりと肩を揺らし、レクティファールに視線で助けを請う。不気味なタキリに圧倒されていた。
だが、レクティファールはそれを、慣れない場所で緊張しているのだと勘違いした。
「あ、ヘスティさん、これは失礼しました。何かご用とのことで」
「え? あの、ええ?」
ヘスティは、隣に座るタキリに何度もちらちらと目を向け、その額にしっかりと青筋が浮かんでいるのを見た。そして怯えた。
タキリは無表情になると、その整った相貌から、イズモ人形のような印象を見る者に強く与える。騎士学校の候補生たちの間で、能面総長などというあだ名を付けられるほどに、その表情は恐ろしさを感じさせる。
「あの、今日は、その、ええと、何だっけぇ!?」
レクティファールの位置からは、俯くタキリの顔は見えない。
しかし、ヘスティの位置からは横顔が見える。
ヘスティは慌てて自分の用件を済ませようとしたが、何のために来たのかすっかり失念していた。レクティファールの見舞いだったのだから、彼の元気な様子を確認した時点で、すでにその目的は果たされているのだ。むしろ、忘れてしまったというより、この部屋に来る必要がなかっただけである。
それなのに、ヘスティは必死になって目的を思い出そうとする。
研究者としては優秀な彼女であるが、人付き合いはあまり得意ではない。周囲からの期待を重圧と感じ、それから身を守るために他人との接触を抑えてきた弊害だった。
「――はぁ」
そんなヘスティの横で、タキリが大きく溜息を漏らす。
ヘスティは再度びくりと震えたが、タキリはそれに構わず顔を上げると、レクティファールに向かって言った。
「お茶を淹れます。厨房を貸してください」
「ええ、もちろん」
レクティファールが了承すると、タキリはヘスティひとりを残して部屋を出る。
扉が閉まる瞬間、タキリがじっとヘスティを見詰めた。
手早く用事をすませるように、とのことだろう。
「あの……」
タキリが去って数秒後、ヘスティが椅子に座ったまま両手の拳を固く握り、頭を下げた。
「ごめんなさい。あの子が……いえ、今回は我々がご迷惑をお掛けしました」
ヘスティの髪が流れ、顔を覆い隠す。
先ほどまでは大きく震えていた声が、今ははっきりとしていた。
「今回の件については、先ほど騎士学校側とも協議を行いました。今はまだ明かせませんが、しっかりとした補償が行われると思います」
「はい」
レクティファールはただ相づちを打つ。
慰める必要などありはしない。ヘスティは自分の責任の一端としてレクティファールに謝罪しているのだ。それを受け止めるのがレクティファールの責任である。
「イズルカは今、研究所に閉じこもっています。多分、わたしを危険に晒したと感じているのでしょう」
あの最後の一瞬、イズルカの意思の宿った自動人形は、ヘスティの身に危険が及ぶと動きを止めた。それが動揺からくる一時的な動作不良だったのか、それとも彼女の安全を守るための明確な行動だったのかは定かではない。ただ、あの触腕種がヘスティから離れているというのだから、彼にとっては大きな出来事だったのだろう。
「機体の方は制御系を入れ替えることで対処できますし、開発に遅れはほとんど出ないと思います」
「そうですか、それは良かった」
レクティファールの言葉に、ヘスティは顔を上げる。
彼女はそこで、柔らかな笑みを浮かべる青年の姿を見た。
「皮肉ではありませんから、ご安心を。私としても、あの事故で国にとって有益な研究が頓挫することは望んでいません。幸か不幸か、我々軍人の命は、こと国防に関する限り、若干消費しやすい。お気になさらぬよう」
慰めではなく、単なる持論を述べるに止めたのは、レクティファールはヘスティの研究が今後の皇国に大きな利益をもたらすものと信じているからだ。あえて慰める必要はない。
この一件で、あの自動人形はより高度な制御系が搭載されるだろう。それはいずれ、より多くの生命を救うことに繋がるはずだ。
目の前の女性研究者には、それができるだけの能力がある。
そして何より、それを実現したいと思う心がある。
レクティファールという男には、それで十分だった。
「私は候補生という立場であそこにいました。我々候補生は、明日の皇国のためにここにいるのです。将来の皇国のためになるあなたの研究、その一助になったのなら、それは私たちにとって正しいことだった」
「はい……」
ヘスティは、ゴルーツの言った言葉の本当の意味が理解できた気がした。
責任とは不定形なのだ。その者が背負うべき責任は、その者にしか見えないし、触れられない。他の者には背負うことができない。
彼女の前にいる候補生は、その責任においてヘスティの研究を助けた。
ならば、ヘスティの負うべき責任とは、彼のもたらした情報を、より多くの成果へと繋げることだ。
「――ちょっと世間話、してもいいですか?」
ヘスティは小さく、ほんの僅か笑みを漏らし、レクティファールに訊ねた。
「ええ、もちろん」
レクティファールもまた、それに応えた。
ふたりは暫く笑い合い、タキリが戻ってくる頃には次世代の自動人形について意見を交わしていた。
「今日はありがとうございました。それと、お部屋を勝手にお借りして申し訳ありません」
「いえいえ、こちらこそ良い資料をいただきまして」
ヘスティが頭を下げ、タキリがその隣で同じように礼をする。
レクティファールはそんなふたりに苦笑しながら、ヘスティが帳面に書いたらしい手書きの次世代型自動人形の構想案を示す。
「ですが、よろしいので?」
「ええ、特に発表の予定もありませんし、私案のさらに私案みたいなものですから」
ヘスティとタキリがそろそろ帰ろうかと言い出したのは、日も暮れかけた頃だった。
タキリが自動人形にもそれなりの理解を持ち、ヘスティと意見を交わせるほどに優れた見識を持っていたのは、おそらくヘスティにとって幸運だっただろう。
レクティファールが仕事の残りを片付けるために部屋を出ても、ふたりはそのまま意見交換を続けた。その結果が、この構想案だ。
「まあ、完全自立行動型というか、人工知性による遠隔操作型というか、そういったものは以前から研究されていました。ただ、軍では何よりも確実性が求められますから……」
タキリの意見に、ヘスティが何度も頷く。
「そういうことなので、気にしないでください。もちろん、それをご覧になった上で何か助言などありましたら、そこに書いてある端末番号に連絡をください。研究所からの支給品ですが、その分通信範囲も広いので」
笑顔のヘスティをちらりと眺めつつ、タキリもまた懐から手帳を取り出して、そこに端末番号を書き付ける。
頁を破き、差し出した。
「以前の通信機は総長用だったので、新しいものがこちらになります。くれぐれも、ご自身で全て背負い込むことがないよう、お願いします」
レクティファールはそれを受け取り、少し目を逸らしながら礼を述べた。
「ありがとうございます。ええ、今度からは極力気をつけます」
今回の決闘騒動は、タキリの知らないうちに決定され、知らないうちに実行された。それが彼女の不満の種だが、面と向かってそれを告げるほど両者の間柄は近しいものではない。
タキリは深く溜息を吐き、悲しげに目を伏せた。
レクティファールはその様子に強く罪悪感を覚えたが、その場は堪える。
「それでは、失礼します」
ヘスティはふたりの様子を訝しんだようだが、自分が嘴を容れることではないと考え、そう言って小さくお辞儀をした。
タキリもそれに続き、一礼。顔を上げたとき、レクティファールに万感の思いを籠めた一瞥を向けることも忘れない。
「お気を付けて」
レクティファールはふたりを見送り、その姿が通りの角に消えるまで宿舎前に佇んだ。
そうして宿舎に戻ったレクティファールは、玄関の陰から様子を見ていた三人を見つけ、大きく嘆息することになる。
「お前の交友関係がさっぱり分からん」
ルフェイルのその言葉が、妙に胸に突き刺さった。
◇ ◇ ◇
一応、という形ではあるが、第〇八九班の提出するべき書類は一晩掛けて総て完成した。
一番手間取ったのは、この類の仕事を不得手とするルフェイルで、最後は意識が四界のいずれかに飛び去ってしまいそうになっていた。意味不明の単語を連呼したり、おもむろにパトリシアの胸を鷲掴んだり、フェリスの胸を見て鼻を鳴らしたりと、人格崩壊の一歩手前まで追い詰められていたようだ。
パトリシアはしょうがないなぁの一言で許したようだが、フェリスは頭から湯気を出して暴れだしそうになったところを、レクティファールに取り押さえられた。
耳に息を吹きかければ動きは止められる、というパトリシアの助言通りにフェリスの腰を砕き、その場の平和を守ったレクティファールである。だが、同時に何かを失ったような気がしたのは錯覚ではないだろう。
腰を砕かれたフェリスは、真っ赤な顔のままレクティファールに抱き締められて完全に動きを止める。
そして、パトリシアが奇行を繰り返すルフェイルを何とか復帰させようと様々な試みを行った。結果を言えば、彼女がルフェイルの部屋から秘蔵の艶本を持ち出した時点で、ルフェイルの意識は一気に回復、そのまま艶本を開こうとするパトリシアを押しとどめながら、一気に書類を書き上げた。丁度、日の出の頃であった。
レクティファールはルフェイルの健闘ぶりに思わず涙し、ルフェイルもまた、自分の健闘を心の底から讃えてくれるレクティファールに感謝した。
何とも下らないことで友情を深めたふたりだが、その頃にはもう、ふたりのお嬢様は革椅子で丸くなっていたのである。
「では、書類は私が班長代理として提出しておきます」
「うむ、頼んだ。あと、今晩は祝勝会だ。遅れるなよ」
当たり前のようにパトリシアを抱え上げたルフェイルと、これまた当たり前のようにフェリスを抱えたレクティファールは、二階の廊下で、片や隈の浮かんだ顔で、片やいつもと変わらぬちょっと疲れた顔で別れた。
パトリシアは、このままルフェイルの部屋で寝かせるということだったから、とりあえず心配はないだろう。何故パトリシアの部屋に戻さないのかという疑問もあったが、単純にルフェイルの服を掴んで離さない彼女の姿が答えのように思えた。
とりあえず幼馴染に対しては非常に紳士的なルフェイルを信じ、レクティファールはフェリスを彼女の部屋まで連れて行ったのだが――
「鍵が、閉まってる?」
押しても引いても動かない扉。把手は固くレクティファールを拒絶し、フェリスに鍵は何処かと聞いても、返って来るのは寝言ばかり。
「最近、決闘の準備で疲れてたんでしょうねぇ」
そこに報告書の無慈悲な提出期限である。
翌日までに提出というのは、いささか性急過ぎるのではないかと思うレクティファールであったが、通常の訓練でも素早く正確に報告書を書く訓練も兼ねて翌日提出ということはある。分かりやすい報告書を素早く作成するのは、将校に不可欠な技能なのだと、彼は勝手に解釈していた。
「では、どうしたものでしょう」
まさかフェリスの身包みを剥いで鍵を探すわけにもいくまいと、レクティファールは世間一般の常識と現状を勘案し、とりあえず自分の部屋の寝台にフェリスを運ぶことにした。
片手でフェリスを抱き留めて、器用に自室に入るレクティファール。フェリスの体重は同年代の女性の平均体重よりも軽いから、レクティファールの負担も少ないものだった。無論、本人の前で口に出すつもりはないが。
「ふむ、これでよし」
寝台にフェリスを寝かせ、自分は制服に着替える。レクティファールは姿見の前で自分の姿を確認すると、目深に制帽を被って顔を隠した。
こんな早朝から出歩く者は少ないだろうが、昨日の決闘騒ぎで変に顔が売れてしまっている。タキリやフェリスから、あまり目立たないように行動して欲しいと頼まれていたのだ。
「まずは教官のところからですね。起きてると良いのですが」
第〇八九班は六日間の休暇を貰っている。
だが、担当教官は休暇に入っていないから、学校に行けば会えるだろう。
「――しかし何故でしょう」
レクティファールは、それなりに働いたはずの自分が学校まで行って書類を提出し、その間、仲間たちは眠りこけているという現実に少しだけ悲しくなった。
でも、泣かなかった。傍らで穏やかな表情を浮かべて眠るフェリスの顔を見ると、もう少し苦労してもいいかもしれないとも思えた。
第二章 その様、営々たる
皇国歴二〇〇九年の白の季節。この時期の皇国は、旧体制からの脱却という点で非常に活発な動きを見せていた。
その動きのもっとも大きなもの――〈《錬》五カ年計画〉と公式に称されるそれは、皇国を新たな形に作り替えるという点で、これまでどの皇王も行っていなかった手法を数多く取り入れていた。
第一に外交。
皇国外交の基本姿勢はこの時期、これまでの第八代皇王エーネンファウベの『融和外交』を粛々と見直し、『浸透外交』と呼ぶべきものへと密かに、緩やかに変化した。
融和外交が大陸やその外、他大陸へと根を張るためのものであったとするならば、浸透外交は大陸やそれ以遠の地域に枝葉を広げるためのものであった。武力以外の『チカラ』、経済力や文化を他地域へと浸透させ、少しずつ、穏やかに、しかし確実に世界へと広がっていく。他国に比して圧倒的な平均寿命を持つ皇国だからこそ選べた外交の形だ。
樹木は自分から人々に関わろうとはしない。しかしその生命力は凄まじく、方法さえ間違えなければ、枝ひとつになってもまだまだ生き続けることができる。そして、生き続けるうちに人々にこう思わせるのだ、「彼らと上手く付き合えば、甘い果実が手に入る」と。
決して積極的に干渉することなく、しかし自国の国益に沿った形に相手を誘導するその手法は、成否が外交官の手腕に大きく左右される。
だが、彼らはその期待に大いに応えた。
以降、皇国外交が後世〈黄金時代〉と呼ばれる時期に入るのは、名立たる皇国外交官たちの華やかな舞いや踊りによって、その外交手法が形作られたからなのだろう。
彼ら外交官の最も華やかな時代。巨大な武力同士の衝突による外交が主流となる以前の、最後の大舞台がこの時期だった。
第二に経済。
摂政主導の新たな都市建設計画のひとつに、巨大な港湾都市を建設するというものがあった。これは、他国との関わり、特に貿易額や税収を引き上げるための方策だ。
その港湾都市では、あらゆる国家のあらゆる企業が税に関する優遇措置を得られ、自国より安い税金で拠点を構えることが可能だった。また、雇用の自由を保証され、港湾を併設しているが故に、商品を流通させることもまた容易い。
軍港と接していることで危険が多いのではないかと言う商人もいたが、逆に言えば衛視詰所の隣で商売をするようなものだ。衛視詰所を狙ってくる暴漢は防ぐことはできないが、商店を狙ってくる強盗は防ぐことができる。そして、その衛視詰所が要塞じみた防衛機能を持っているというなら、詰所を狙う暴漢も大いに減る。
さらに、都市に併設される軍港が近衛海軍の拠点となることが明かされると、都市の安全性に対して懐疑的であった商人たちも、前向きな態度を取るようになった。それは、職業柄大陸の情勢に詳しい商人たちが、皇国に拠点を構えることで大きな利を得られると判断したという面もある。
この時期、人材や物資そして資金が多く流れ込んだ皇国は、まるでこれまでの鬱憤をはらすかのように積極的になっている。「今儲けるならアルトデステニアに行くべきだ」というのは、アルストロメリア穀物商人組合の寄り合いで、ひとりの商人が開口一番叫んだ言葉である。彼はその通りに皇国で手広い商売をはじめ、その組合を乗っ取るほどに強い力を得た。
皇国経済を活性化させるきっかけのひとつと考えられていたこの都市は、政界財界の期待を証明するかのように、同時に計画された他の都市の中で最も早く建設が開始された。
「ひゃ、ひゃい!」
身体を縮こませるパトリシア。助けを求めてルフェイルを見ても、彼は下書きに夢中であった。
彼女は涙目になってレクティファールを見詰めるが、哀しいかな、最近の彼は女の武器に対する抵抗力が高くなりつつある。ルフェイルであれば十分通用するのだが、レクティファールの細君たちは自宅に立て篭るくらいの行動派だ。パトリシアでは分が悪い。
ああ、凄くたくさん書き直しになるんだろうなぁと心の奥底で号泣し、パトリシアはレクティファールの言葉を待った。
「まず、この魔動式甲冑運用時における兵站の注意点というのは、凄く良いと思います。魔動式甲冑にも色々あって、特殊な機種だと製造元にしか在庫のない部品とかも使っていたりしますからね」
「え、うん」
「でも、こっちの魔動式甲冑の整備に関する報告書は、書き直すべきだと思います」
「――どこが駄目かなぁ」
褒められたことで一瞬華やいだパトリシアの表情が曇った。
「まず、専門用語が多過ぎる。こう言っては何ですけど、整備兵出身者でない人が理解できない言葉は割と多いんです。意外かもしれませんが、数字の単位だって言われなくちゃ分からない。整備兵の間では当たり前の工具だって、一般世間では使われない。だから、普通の他の兵科出身の指揮官は、その工具の名前さえ知らないなんてこともあります」
「うん、そういえばわたしも、昔は全然知らなかったなぁ」
パトリシアは、教官にネコ――猫車、荷車のこと――を持ってこいと言われて、野良猫を探し出して持っていったことがあった。教官は、怒るに怒れず、微妙な空気になったらしい。
「整備兵に対する教育制度の充実だとか、各製造元への出向だとかは、現場ならではの視点で重宝されるでしょう。細かい説明は訊かれてから答えるということで、大雑把に魔動式甲冑を運用する部隊と他の部隊の兵站の違いを強調してはいかがかと」
「うん、分かった」
頷き、ルフェイルの隣の席に戻るパトリシア。既に唸り始めたルフェイルにお茶を淹れると、彼女も筆を執って新たな戦いに赴いた。
「で、フェリス」
「え、ええ? ボク?」
いつの間にか作業を中断してレクティファールたちの会話に聞き耳を立てていたフェリスが、自分を指差し、上擦った声で問う。
「この訓練がどんな評価を受けるのか、フェリスの班長としての能力も大きく関わってくることでしょう」
「だ、だよねぇ」
冷や汗を垂らし、フェリスは自分の書いた書類を再確認した。大丈夫、間違っていないと何度も頷いた。
でも、不安は払拭できない。
「あのさ、レクト」
彼女は班長としての誇りを全力で冥界の彼方まで放り投げ、自分の書いた報告書の下書きを指し示した。
「ちょっと意見が欲しいんだけど……」
「――――」
レクティファールは無言。
もともと彼女は、上司として威厳のある種類の人物ではないが、さすがにそれを自分に聞いてくるのはどうかと思う。
「ダメ?」
小首を傾げ、潤んだ目で見上げるフェリス。
その仕草はマリアにでも教わったのですか、とレクティファールは心の中で大いに叫ぶ。動揺する内心を隠すためにふいと顔を背ける。その行動は、自分の仕草に絶対の自信を持っていたフェリスに衝撃を与えた。
「な、お、お義母様直伝の泣き落としが通用しない……!? 城の番兵さんたちはすぐに攻略できたのに!」
(やっぱりか、やっぱりですか)
男の本能を擽る術は、貴族子女の必須技能である。大なり小なり、何処の貴族や名家でも教えていることだ。
それこそ幼少の頃から徹底的に、男に媚びるためではなく、男を操るために。
(怖いなぁもう)
心が弱ければ他者不信になってしまうところだ。
レクティファールは妃候補の誰かを連れて街に繰り出すたび、彼女たちがその容姿を最大限活用する様子を見せ付けられている。おかげで慣れてしまったが、世間の男性諸氏はそれこそ入れ食いだろう。
恐らく、男がその地位や名声を武器にして異性を口説くことと同じなのだ。
「あう……どうしよう……このまま出す? でも折角の大金星だし、ここで躓くのも色んな人に申し訳ないし……」
レクティファールが助けてくれないと判断したフェリスは、それこそ隅々まで報告書を読み直している。時々自分で添削して書き直しているようだが、レクティファールからするとまだまだ甘い。
(ああ、そこはそうじゃないんですって、って、そっちをそうしたら……!)
上司を助けるのは部下の仕事であるが、上司の仕事を奪うことは部下の役割ではない。世の中では、副官や参謀が指揮官の権力を笠に着て、部隊を混乱に陥れるなんてことは珍しくない。そのせいで、レクティファールがフェリスを助けることに躊躇するのも仕方がなかった。
「あ、こっちの方が分かりやすいかな」
(ああ、それでは相手に違う意味と取られてしまう可能性が)
レクティファールは助けたくとも助けられないことに苦しみ、書類を書くフェリスの傍らに立ったまま硬直していた。
フェリスはフェリスで、レクティファールが自分を監視していると思い込んでいたし、何とも心の通じ合わないふたりであった。
◇ ◇ ◇
そうして班の面々が書類と格闘していると、玄関の呼び鈴が鳴った。
パトリシアが玄関に向かい、他の三人はそのまま書類仕事を続ける。しばし玄関でパトリシアと来客の会話が続き、その声を聞いたレクティファールの眉間に一本皺が寄る。
「何故でしょう」
フェリスとルフェイルには、玄関の会話が聞こえていない。
だから、レクティファールの言葉を、自分が提出した書類に不備が、という具合に受け止め、ふたりは同時に顔を青くした。
しかし、レクティファールはいつまで経っても問題点を指摘しない。ふたりの顔色は時間を経るごとに悪い方へひた走り、やがて我慢の限界に達したフェリスが、レクティファールに手を伸ばしたそのとき、ふたりの来客を伴ったパトリシアが戻ってきた。
「レクトくん、お客様」
少し首を傾げながら、パトリシアがレクティファールを呼ぶ。
レクティファールはその声に振り返り、無表情極まりないタキリと、居心地悪そうに身を竦ませるヘスティを見て、心底不思議そうな表情を浮かべる。
「いらっしゃいませ。珍しい取り合わせで」
それは、レクティファールの偽らざる本音であったが、タキリには何かの言い訳に聞こえたのかもしれない。
彼女は固い表情のまま、小さく口を開いた。
「――部屋へ」
「あ、はい」
レクティファールは椅子から立ち上がり、三人に一言断ってから自室に向かう。
そのあとを追うふたりの女性の姿に、残された三人は揃って疑問符を浮かべるのだった。
レクティファールの部屋に入ると、まずタキリが鍵を掛けた。
続いて遮音障壁を張り、さらに認識阻害の魔法まで展開する。まるで犯罪者にでもなった気分だと思いながら、レクティファールはふたりに椅子を勧め、自分は寝台の縁に腰掛けた。
来客を考えて、普段から椅子が二脚あったのは、パトリシアの慧眼である。
「それで、何かありました?」
「いえ、わたしは道案内に来ただけですので」
タキリの声は冷えた鋼のように、レクティファールには感じられた。最近あまり会っていなかったが、そこまで心労が溜まっていたのかと勘違いする。
「ならば、お疲れのようですし、今日はもう戻られた方が良いのでは?」
レクティファールの言葉で、タキリの頬に僅かな朱が差す。
「ええ……できればそうしたかったのですが、ハルベルン候補生については色々言い含められておりますので……」
俯き、呟くタキリ。
隣に座るヘスティがびくりと肩を揺らし、レクティファールに視線で助けを請う。不気味なタキリに圧倒されていた。
だが、レクティファールはそれを、慣れない場所で緊張しているのだと勘違いした。
「あ、ヘスティさん、これは失礼しました。何かご用とのことで」
「え? あの、ええ?」
ヘスティは、隣に座るタキリに何度もちらちらと目を向け、その額にしっかりと青筋が浮かんでいるのを見た。そして怯えた。
タキリは無表情になると、その整った相貌から、イズモ人形のような印象を見る者に強く与える。騎士学校の候補生たちの間で、能面総長などというあだ名を付けられるほどに、その表情は恐ろしさを感じさせる。
「あの、今日は、その、ええと、何だっけぇ!?」
レクティファールの位置からは、俯くタキリの顔は見えない。
しかし、ヘスティの位置からは横顔が見える。
ヘスティは慌てて自分の用件を済ませようとしたが、何のために来たのかすっかり失念していた。レクティファールの見舞いだったのだから、彼の元気な様子を確認した時点で、すでにその目的は果たされているのだ。むしろ、忘れてしまったというより、この部屋に来る必要がなかっただけである。
それなのに、ヘスティは必死になって目的を思い出そうとする。
研究者としては優秀な彼女であるが、人付き合いはあまり得意ではない。周囲からの期待を重圧と感じ、それから身を守るために他人との接触を抑えてきた弊害だった。
「――はぁ」
そんなヘスティの横で、タキリが大きく溜息を漏らす。
ヘスティは再度びくりと震えたが、タキリはそれに構わず顔を上げると、レクティファールに向かって言った。
「お茶を淹れます。厨房を貸してください」
「ええ、もちろん」
レクティファールが了承すると、タキリはヘスティひとりを残して部屋を出る。
扉が閉まる瞬間、タキリがじっとヘスティを見詰めた。
手早く用事をすませるように、とのことだろう。
「あの……」
タキリが去って数秒後、ヘスティが椅子に座ったまま両手の拳を固く握り、頭を下げた。
「ごめんなさい。あの子が……いえ、今回は我々がご迷惑をお掛けしました」
ヘスティの髪が流れ、顔を覆い隠す。
先ほどまでは大きく震えていた声が、今ははっきりとしていた。
「今回の件については、先ほど騎士学校側とも協議を行いました。今はまだ明かせませんが、しっかりとした補償が行われると思います」
「はい」
レクティファールはただ相づちを打つ。
慰める必要などありはしない。ヘスティは自分の責任の一端としてレクティファールに謝罪しているのだ。それを受け止めるのがレクティファールの責任である。
「イズルカは今、研究所に閉じこもっています。多分、わたしを危険に晒したと感じているのでしょう」
あの最後の一瞬、イズルカの意思の宿った自動人形は、ヘスティの身に危険が及ぶと動きを止めた。それが動揺からくる一時的な動作不良だったのか、それとも彼女の安全を守るための明確な行動だったのかは定かではない。ただ、あの触腕種がヘスティから離れているというのだから、彼にとっては大きな出来事だったのだろう。
「機体の方は制御系を入れ替えることで対処できますし、開発に遅れはほとんど出ないと思います」
「そうですか、それは良かった」
レクティファールの言葉に、ヘスティは顔を上げる。
彼女はそこで、柔らかな笑みを浮かべる青年の姿を見た。
「皮肉ではありませんから、ご安心を。私としても、あの事故で国にとって有益な研究が頓挫することは望んでいません。幸か不幸か、我々軍人の命は、こと国防に関する限り、若干消費しやすい。お気になさらぬよう」
慰めではなく、単なる持論を述べるに止めたのは、レクティファールはヘスティの研究が今後の皇国に大きな利益をもたらすものと信じているからだ。あえて慰める必要はない。
この一件で、あの自動人形はより高度な制御系が搭載されるだろう。それはいずれ、より多くの生命を救うことに繋がるはずだ。
目の前の女性研究者には、それができるだけの能力がある。
そして何より、それを実現したいと思う心がある。
レクティファールという男には、それで十分だった。
「私は候補生という立場であそこにいました。我々候補生は、明日の皇国のためにここにいるのです。将来の皇国のためになるあなたの研究、その一助になったのなら、それは私たちにとって正しいことだった」
「はい……」
ヘスティは、ゴルーツの言った言葉の本当の意味が理解できた気がした。
責任とは不定形なのだ。その者が背負うべき責任は、その者にしか見えないし、触れられない。他の者には背負うことができない。
彼女の前にいる候補生は、その責任においてヘスティの研究を助けた。
ならば、ヘスティの負うべき責任とは、彼のもたらした情報を、より多くの成果へと繋げることだ。
「――ちょっと世間話、してもいいですか?」
ヘスティは小さく、ほんの僅か笑みを漏らし、レクティファールに訊ねた。
「ええ、もちろん」
レクティファールもまた、それに応えた。
ふたりは暫く笑い合い、タキリが戻ってくる頃には次世代の自動人形について意見を交わしていた。
「今日はありがとうございました。それと、お部屋を勝手にお借りして申し訳ありません」
「いえいえ、こちらこそ良い資料をいただきまして」
ヘスティが頭を下げ、タキリがその隣で同じように礼をする。
レクティファールはそんなふたりに苦笑しながら、ヘスティが帳面に書いたらしい手書きの次世代型自動人形の構想案を示す。
「ですが、よろしいので?」
「ええ、特に発表の予定もありませんし、私案のさらに私案みたいなものですから」
ヘスティとタキリがそろそろ帰ろうかと言い出したのは、日も暮れかけた頃だった。
タキリが自動人形にもそれなりの理解を持ち、ヘスティと意見を交わせるほどに優れた見識を持っていたのは、おそらくヘスティにとって幸運だっただろう。
レクティファールが仕事の残りを片付けるために部屋を出ても、ふたりはそのまま意見交換を続けた。その結果が、この構想案だ。
「まあ、完全自立行動型というか、人工知性による遠隔操作型というか、そういったものは以前から研究されていました。ただ、軍では何よりも確実性が求められますから……」
タキリの意見に、ヘスティが何度も頷く。
「そういうことなので、気にしないでください。もちろん、それをご覧になった上で何か助言などありましたら、そこに書いてある端末番号に連絡をください。研究所からの支給品ですが、その分通信範囲も広いので」
笑顔のヘスティをちらりと眺めつつ、タキリもまた懐から手帳を取り出して、そこに端末番号を書き付ける。
頁を破き、差し出した。
「以前の通信機は総長用だったので、新しいものがこちらになります。くれぐれも、ご自身で全て背負い込むことがないよう、お願いします」
レクティファールはそれを受け取り、少し目を逸らしながら礼を述べた。
「ありがとうございます。ええ、今度からは極力気をつけます」
今回の決闘騒動は、タキリの知らないうちに決定され、知らないうちに実行された。それが彼女の不満の種だが、面と向かってそれを告げるほど両者の間柄は近しいものではない。
タキリは深く溜息を吐き、悲しげに目を伏せた。
レクティファールはその様子に強く罪悪感を覚えたが、その場は堪える。
「それでは、失礼します」
ヘスティはふたりの様子を訝しんだようだが、自分が嘴を容れることではないと考え、そう言って小さくお辞儀をした。
タキリもそれに続き、一礼。顔を上げたとき、レクティファールに万感の思いを籠めた一瞥を向けることも忘れない。
「お気を付けて」
レクティファールはふたりを見送り、その姿が通りの角に消えるまで宿舎前に佇んだ。
そうして宿舎に戻ったレクティファールは、玄関の陰から様子を見ていた三人を見つけ、大きく嘆息することになる。
「お前の交友関係がさっぱり分からん」
ルフェイルのその言葉が、妙に胸に突き刺さった。
◇ ◇ ◇
一応、という形ではあるが、第〇八九班の提出するべき書類は一晩掛けて総て完成した。
一番手間取ったのは、この類の仕事を不得手とするルフェイルで、最後は意識が四界のいずれかに飛び去ってしまいそうになっていた。意味不明の単語を連呼したり、おもむろにパトリシアの胸を鷲掴んだり、フェリスの胸を見て鼻を鳴らしたりと、人格崩壊の一歩手前まで追い詰められていたようだ。
パトリシアはしょうがないなぁの一言で許したようだが、フェリスは頭から湯気を出して暴れだしそうになったところを、レクティファールに取り押さえられた。
耳に息を吹きかければ動きは止められる、というパトリシアの助言通りにフェリスの腰を砕き、その場の平和を守ったレクティファールである。だが、同時に何かを失ったような気がしたのは錯覚ではないだろう。
腰を砕かれたフェリスは、真っ赤な顔のままレクティファールに抱き締められて完全に動きを止める。
そして、パトリシアが奇行を繰り返すルフェイルを何とか復帰させようと様々な試みを行った。結果を言えば、彼女がルフェイルの部屋から秘蔵の艶本を持ち出した時点で、ルフェイルの意識は一気に回復、そのまま艶本を開こうとするパトリシアを押しとどめながら、一気に書類を書き上げた。丁度、日の出の頃であった。
レクティファールはルフェイルの健闘ぶりに思わず涙し、ルフェイルもまた、自分の健闘を心の底から讃えてくれるレクティファールに感謝した。
何とも下らないことで友情を深めたふたりだが、その頃にはもう、ふたりのお嬢様は革椅子で丸くなっていたのである。
「では、書類は私が班長代理として提出しておきます」
「うむ、頼んだ。あと、今晩は祝勝会だ。遅れるなよ」
当たり前のようにパトリシアを抱え上げたルフェイルと、これまた当たり前のようにフェリスを抱えたレクティファールは、二階の廊下で、片や隈の浮かんだ顔で、片やいつもと変わらぬちょっと疲れた顔で別れた。
パトリシアは、このままルフェイルの部屋で寝かせるということだったから、とりあえず心配はないだろう。何故パトリシアの部屋に戻さないのかという疑問もあったが、単純にルフェイルの服を掴んで離さない彼女の姿が答えのように思えた。
とりあえず幼馴染に対しては非常に紳士的なルフェイルを信じ、レクティファールはフェリスを彼女の部屋まで連れて行ったのだが――
「鍵が、閉まってる?」
押しても引いても動かない扉。把手は固くレクティファールを拒絶し、フェリスに鍵は何処かと聞いても、返って来るのは寝言ばかり。
「最近、決闘の準備で疲れてたんでしょうねぇ」
そこに報告書の無慈悲な提出期限である。
翌日までに提出というのは、いささか性急過ぎるのではないかと思うレクティファールであったが、通常の訓練でも素早く正確に報告書を書く訓練も兼ねて翌日提出ということはある。分かりやすい報告書を素早く作成するのは、将校に不可欠な技能なのだと、彼は勝手に解釈していた。
「では、どうしたものでしょう」
まさかフェリスの身包みを剥いで鍵を探すわけにもいくまいと、レクティファールは世間一般の常識と現状を勘案し、とりあえず自分の部屋の寝台にフェリスを運ぶことにした。
片手でフェリスを抱き留めて、器用に自室に入るレクティファール。フェリスの体重は同年代の女性の平均体重よりも軽いから、レクティファールの負担も少ないものだった。無論、本人の前で口に出すつもりはないが。
「ふむ、これでよし」
寝台にフェリスを寝かせ、自分は制服に着替える。レクティファールは姿見の前で自分の姿を確認すると、目深に制帽を被って顔を隠した。
こんな早朝から出歩く者は少ないだろうが、昨日の決闘騒ぎで変に顔が売れてしまっている。タキリやフェリスから、あまり目立たないように行動して欲しいと頼まれていたのだ。
「まずは教官のところからですね。起きてると良いのですが」
第〇八九班は六日間の休暇を貰っている。
だが、担当教官は休暇に入っていないから、学校に行けば会えるだろう。
「――しかし何故でしょう」
レクティファールは、それなりに働いたはずの自分が学校まで行って書類を提出し、その間、仲間たちは眠りこけているという現実に少しだけ悲しくなった。
でも、泣かなかった。傍らで穏やかな表情を浮かべて眠るフェリスの顔を見ると、もう少し苦労してもいいかもしれないとも思えた。
第二章 その様、営々たる
皇国歴二〇〇九年の白の季節。この時期の皇国は、旧体制からの脱却という点で非常に活発な動きを見せていた。
その動きのもっとも大きなもの――〈《錬》五カ年計画〉と公式に称されるそれは、皇国を新たな形に作り替えるという点で、これまでどの皇王も行っていなかった手法を数多く取り入れていた。
第一に外交。
皇国外交の基本姿勢はこの時期、これまでの第八代皇王エーネンファウベの『融和外交』を粛々と見直し、『浸透外交』と呼ぶべきものへと密かに、緩やかに変化した。
融和外交が大陸やその外、他大陸へと根を張るためのものであったとするならば、浸透外交は大陸やそれ以遠の地域に枝葉を広げるためのものであった。武力以外の『チカラ』、経済力や文化を他地域へと浸透させ、少しずつ、穏やかに、しかし確実に世界へと広がっていく。他国に比して圧倒的な平均寿命を持つ皇国だからこそ選べた外交の形だ。
樹木は自分から人々に関わろうとはしない。しかしその生命力は凄まじく、方法さえ間違えなければ、枝ひとつになってもまだまだ生き続けることができる。そして、生き続けるうちに人々にこう思わせるのだ、「彼らと上手く付き合えば、甘い果実が手に入る」と。
決して積極的に干渉することなく、しかし自国の国益に沿った形に相手を誘導するその手法は、成否が外交官の手腕に大きく左右される。
だが、彼らはその期待に大いに応えた。
以降、皇国外交が後世〈黄金時代〉と呼ばれる時期に入るのは、名立たる皇国外交官たちの華やかな舞いや踊りによって、その外交手法が形作られたからなのだろう。
彼ら外交官の最も華やかな時代。巨大な武力同士の衝突による外交が主流となる以前の、最後の大舞台がこの時期だった。
第二に経済。
摂政主導の新たな都市建設計画のひとつに、巨大な港湾都市を建設するというものがあった。これは、他国との関わり、特に貿易額や税収を引き上げるための方策だ。
その港湾都市では、あらゆる国家のあらゆる企業が税に関する優遇措置を得られ、自国より安い税金で拠点を構えることが可能だった。また、雇用の自由を保証され、港湾を併設しているが故に、商品を流通させることもまた容易い。
軍港と接していることで危険が多いのではないかと言う商人もいたが、逆に言えば衛視詰所の隣で商売をするようなものだ。衛視詰所を狙ってくる暴漢は防ぐことはできないが、商店を狙ってくる強盗は防ぐことができる。そして、その衛視詰所が要塞じみた防衛機能を持っているというなら、詰所を狙う暴漢も大いに減る。
さらに、都市に併設される軍港が近衛海軍の拠点となることが明かされると、都市の安全性に対して懐疑的であった商人たちも、前向きな態度を取るようになった。それは、職業柄大陸の情勢に詳しい商人たちが、皇国に拠点を構えることで大きな利を得られると判断したという面もある。
この時期、人材や物資そして資金が多く流れ込んだ皇国は、まるでこれまでの鬱憤をはらすかのように積極的になっている。「今儲けるならアルトデステニアに行くべきだ」というのは、アルストロメリア穀物商人組合の寄り合いで、ひとりの商人が開口一番叫んだ言葉である。彼はその通りに皇国で手広い商売をはじめ、その組合を乗っ取るほどに強い力を得た。
皇国経済を活性化させるきっかけのひとつと考えられていたこの都市は、政界財界の期待を証明するかのように、同時に計画された他の都市の中で最も早く建設が開始された。
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