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4.前夜祭の長い夜Ⅰ
私の勇者さま
しおりを挟む「あっ!」
気のせいか、両手が一瞬だけ白く光ったような気がしたのだ。そして開きっ放しだった職業的視覚は、ありえない速さで回復する勇者の体力を確かに捉えた。
「……ん……」
それまでぴくりともしなかった勇者が苦痛に顔を歪め、両の目を開く。
「……………………どっ、道具屋さん?」
最初の沈黙は、間違いなく魔物か何かと見誤ったに違いない。鉄槌を携えた血塗れナイの艶姿に、横になったまま青ざめた顔の勇者が目を見開いていた。
「どこか、具合の悪いところはございませんかっ?」
「どうして、こんなところまで……」
光り輝いたのはほんの一瞬で、ナイの両手は元の暗緑色に戻っていた。しかしナイは祈りが女神に通じたものと信じ、打ち震えながらも密かに感謝の祈りを捧げた。
「道具屋兼薬草師の私が来たからには、もう大丈夫です!」
ナイは皮の薬袋から体力回復効果もあるとっておきの万能薬を取り出して渡し、村で起こっている出来事を簡単に語って聞かせた。遅ればせながら、ナイも毒消しを口にする。しかし話せば話すほど、勇者の反応はどんどん弱くなっていく。
「一緒に村に戻って下さい、勇者さま。いまは村人と酒場の剣士さまがアンデットキメラと戦っていますが、戦況は明らかに不利です」
「いまさら、僕なんかが行ったって……」
勇者は途方に暮れたように俯いた。齧り掛けの万能薬の糖衣の欠片が、口の端から零れる。ちなみに万能薬は複数の薬草を混ぜ込んであるので、非常にまずい。苦みか辛みかエグ味なのか、どの味に備えればいいのかわからないからだ。この世界では、固形の万能薬は一般的に糖衣錠である。でもまずいものは、どうやってもまずい。
「何の役にも立ちはしないよ。いっそマシューさんが僕の代わりに勇者になってくれれば、きっとみんなその方が――」
「――勇者さまの、馬鹿っ!」
ナイは勇者の頬を引っ叩いた。両目が涙で一杯になったナイは、勇者が持ち直した感動と相まって周りが見えなくなっていた。ナイはそのまま叫び続ける。
「勇者さまが、最初っから強いわけがないじゃないですかっ! 酒場の剣士さまもそう仰ってらしたですっ! ついこの間まで、ただの村の少年……ですよね? だったわけだしっ! 酒場の剣士さまだって、脱いだら凄かったですっ! あわわっ、凄いの意味が違いますよっ、魔物との戦いとかで、体中傷だらけだったってことですっ! あの凄腕の剣士さまにだって半人前の時があったんですっ! 勇者さまだって、剣士さまにじっくり鍛えて貰えば、あっという間に強くおなりのはずですっ!」
ひと息で言い切ってから涙を拭うと、目の前にいたはずの勇者がいなかった。
「ゆっ、勇者さま?」
ナイは忘れていた。ロブが冒険者時代に使っていた鉄槌を軽々と振り回せるほど、自分の筋力が増強されていることに。案の定、勇者はランタンの光も届かぬ彼方に吹き飛び、仰向けに倒れ白目を剥いていた。
――勇者さまが死んじゃったら、どうしよう……。
ナイはぼろぼろと涙をこぼしながら、ぐったりしている勇者のところまで走って行って縋り付いた。
「だから、そんな悲しいこと、仰らないで下さい。あなたは、私たちの……いいえ」
ナイは鼻を啜りながら続ける。
「私にとって、あなたはたったひとりの、勇者さまなんですから」
「うん……わかってる」
受け身を取ったのか、勇者は一瞬目を回しただけですぐに意識を取り戻したようだ。どの辺りから聞いていたのか定かではないが、勇者は照れ笑いを浮かべながら身体を起こす。思わずナイは赤面して縮こまり、下を向いた。
「あー、わかってるって言うのは、僕が勇者だってことであって……えっと、その」
勇者も困ったように下を向き、二人の間に微妙な空気が漂い始める。
次の瞬間だった。
「ウオゥゲェェェッ!」
世にも奇妙な音が、北の荒れ野に響き渡った。
大猫が胃から毛玉を盛大に吐き出したのだ。あれだけ身繕いを繰り返していれば、毛玉も溜まるだろう。淡い雰囲気は儚くも霧散し、ナイはほっとして胸をなで下ろす。いや、そんなことをしている場合ではなかったのだけれど。
「ええっと、道具屋さん……じゃなくて。君の名前、なんて言うんだっけ?」
「……ナイです」
「よし、ナイさん。急いで村に戻ろう」
「はいっ! 勇者さまっ!」
万能薬を丸ごと口に押し込み立ち上がった勇者は、子リスのように頬の膨らんだ顔で恥ずかしそうに微笑みつつもナイに手を差し出した。
よく考えれば、名を呼ばれるのは初めてではなかったか。手袋が見当たらないことに気付いて一瞬戸惑ったが、勇者はかまわずナイの手を取る。ナイは躊躇いながらも、勇者の手をそっと握り返して立ち上がった。
そして北の祠を目前にして、ナイ達はもと来た道を急いで引き返した。二人と一匹の前に立ちふさがる魔物は、もはや北の祠の周辺には残っていなかった。
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