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「……やはり、一度この目で確かめねばなるまい」
王宮の自室。カイル王子は、リリアからの「次のデートの予算案(という名の請求予定表)」を震える手で机に置いた。
婚約を破棄してからというもの、カイルの平穏は音を立てて崩れていた。
リリアは可愛らしいが、その維持費は小国の国家予算に匹敵する勢い。
そして何より、彼女といても「心が休まる」瞬間が一度もない。
(ナギなら……ナギなら、もっと静かに寄り添ってくれたはずだ)
カイルは、美化されすぎた過去の記憶に縋るように立ち上がった。
彼は、ナギが今ごろ「自分を失った悲しみで、部屋の隅で膝を抱えて泣いている」に違いないと確信していた。
公爵令嬢として完璧だった彼女にとって、王子の婚約者という地位を失うことは、人生の終わりも同義なのだから。
「……慈悲深い私だ。彼女がどれほど私を求めているか、確認してやるのも務めだろう」
カイルは、自分の歪んだ自尊心を満足させるためだけに、護衛も連れずにカーム公爵邸へと馬を走らせた。
「……お、おい、トム。今の音はなんだ?」
公爵邸の裏手に到着したカイルは、塀越しに聞こえてくる「地響き」のような音に耳を疑った。
ズゥゥン! という音が鳴るたびに、地面がわずかに揺れている。
「まさか、ナギが絶望のあまり、壁に頭を打ち付けているのか……!? ナギ、今助けてやるぞ!」
カイルは英雄気取りで裏門を潜り抜け、音のする広場へと駆け寄った。
しかし、そこで彼を待ち受けていたのは、彼の想像を宇宙の果てまで置き去りにする光景だった。
「……九十七、九十八、九十九、……百! よっしゃああ! 限界突破!」
「……見事だ。ナギ、今の最後の一回、大円筋の収縮が完璧だったぞ」
広場の中央。
そこには、袖を切り落としたボロ布のようなシャツを着て、巨大な「黒鉄の塊(推定二百キロ)」を肩に担いでスクワットを繰り返す、汗だくのナギ・カームの姿があった。
そしてその隣で、汗を拭くためのタオルを手に持ち、うっとりと彼女を見つめているのは、王国最精鋭の「氷の騎士」ことアイン・クロムウェル辺境伯。
「……なっ、な……なんだ、あれは……?」
カイルは、あまりの衝撃に足の力が抜け、生け垣に突っ込んだ。
彼が知るナギは、重い本を持つのも「手が疲れますわ」と微笑んでいた、儚い少女だったはずだ。
だが、目の前にいるのは、溢れ出る蒸気のような闘気を纏った「戦神」そのものである。
「……アイン! 次、あれを投げるわよ! 受け止めてちょうだい!」
「ああ。君の全力、私の全身で受け止めよう」
ナギが指差したのは、庭の片隅に置かれた、小型の馬車ほどもある大岩だった。
彼女はその岩の下に指先をかけると、信じられないことに「ふんぬっ!」という気合とともに、それを頭上まで持ち上げた。
「……せいやぁぁぁああ!!」
「……っ!? ナギィィィィイ!!」
カイルの絶叫が虚しく響く。
放り投げられた大岩は、美しい放物線を描き、アインの方へと飛んでいく。
アインはそれを、事もなげに両腕でキャッチし、ドォォォンと地面に着地させた。
「……ふぅ。……少し、重くなったか? ナギ、筋肉の質が変わったな」
「ええ。昨日のキングベアの肉が、良い感じに繊維に溶け込んでいるみたい!」
ナギは、タオルで豪快に顔を拭い、ガハハと笑った。
その顔には、失恋の陰りなど微塵もない。
あるのは、生命力の爆発と、満ち足りた幸福感だけだ。
「……な、ナギ……。お前、一体……」
カイルが、生け垣から這い出し、泥だらけの姿で二人の前に現れた。
ナギは、カイルの存在にようやく気づいたようで、眉をひそめて首を傾げた。
「あら、誰かと思えば、かぼちゃ……いえ、カイル元殿下。こんなところで砂遊びですか?」
「砂遊びではない! ナギ、その格好はなんだ! その岩はなんだ! そして、なぜクロムウェル辺境伯がここにいる!」
カイルが指を震わせて叫ぶ。
アインは、カイルを氷のような冷徹な瞳で見下ろした。
「……これは殿下。失礼、今は公務中ではありませんので。私は今、ナギ嬢の『魂の研鑽』をサポートしているところです。邪魔をしないでいただきたい」
「サポート!? 辺境伯、君は正気か!? この女は、私に捨てられて、頭がおかしくなっているんだ! 岩を投げる令嬢など、この世にいていいはずがない!」
カイルの言葉に、ナギの瞳がすっと細くなった。
彼女はアインの横を通り過ぎ、カイルの目の前に立った。
身長差はあるはずなのに、カイルは彼女に見下ろされているような錯覚に陥る。
「……カイル殿下。一つ、勘違いをなさらないで」
ナギは、カイルの鼻先で指をパチンと鳴らした。
「私が岩を投げているのは、あなたを忘れるためではありません。……単純に、この岩の向こうに『最高の肉』が待っているような気がするからですわ」
「な……肉……?」
「ええ。今の私にとって、あなたの愛(笑)なんて、この岩の一片よりも軽いのです。……さあ、アイン。トレーニングを続けましょう。次は、あの木を素手で根こそぎ抜くわよ!」
「ああ。君が抜くなら、私はそれを支えて薪(まき)にしよう」
二人は、カイルをまるで「道端に転がっている小石」のように無視して、再びトレーニングを開始した。
「……っ、……っ! 馬鹿な……。こんなことが、許されるはずが……!」
カイルは、自分が捨てたはずの女が、自分よりも遥かに強大な「本物の男」と、自分には想像もできないほど輝かしい日常を過ごしている現実に、膝から崩れ落ちた。
「……おーほっほっほ! アイン、見て! あのかぼちゃ頭、震えてるわよ! きっと私の広背筋の美しさに、恐怖したのね!」
「……ああ。君の背中は、どんな名画よりも雄弁だ」
ナギの高笑いが、秋の空にどこまでも響き渡る。
カイルの「真実の愛」への執着は、この野生の光景を前に、完膚なきまでに粉砕されたのだった。
「……あ、殿下。お帰りの際は、そこの泥、拭いていってくださいね。庭師のトムがうるさいですから」
エラが、どこからともなく現れて雑巾を差し出した。
カイルは、それを掴む力すら残っておらず、ただただ、遠ざかるナギの逞しい背中を見つめ続けるしかなかった。
王宮の自室。カイル王子は、リリアからの「次のデートの予算案(という名の請求予定表)」を震える手で机に置いた。
婚約を破棄してからというもの、カイルの平穏は音を立てて崩れていた。
リリアは可愛らしいが、その維持費は小国の国家予算に匹敵する勢い。
そして何より、彼女といても「心が休まる」瞬間が一度もない。
(ナギなら……ナギなら、もっと静かに寄り添ってくれたはずだ)
カイルは、美化されすぎた過去の記憶に縋るように立ち上がった。
彼は、ナギが今ごろ「自分を失った悲しみで、部屋の隅で膝を抱えて泣いている」に違いないと確信していた。
公爵令嬢として完璧だった彼女にとって、王子の婚約者という地位を失うことは、人生の終わりも同義なのだから。
「……慈悲深い私だ。彼女がどれほど私を求めているか、確認してやるのも務めだろう」
カイルは、自分の歪んだ自尊心を満足させるためだけに、護衛も連れずにカーム公爵邸へと馬を走らせた。
「……お、おい、トム。今の音はなんだ?」
公爵邸の裏手に到着したカイルは、塀越しに聞こえてくる「地響き」のような音に耳を疑った。
ズゥゥン! という音が鳴るたびに、地面がわずかに揺れている。
「まさか、ナギが絶望のあまり、壁に頭を打ち付けているのか……!? ナギ、今助けてやるぞ!」
カイルは英雄気取りで裏門を潜り抜け、音のする広場へと駆け寄った。
しかし、そこで彼を待ち受けていたのは、彼の想像を宇宙の果てまで置き去りにする光景だった。
「……九十七、九十八、九十九、……百! よっしゃああ! 限界突破!」
「……見事だ。ナギ、今の最後の一回、大円筋の収縮が完璧だったぞ」
広場の中央。
そこには、袖を切り落としたボロ布のようなシャツを着て、巨大な「黒鉄の塊(推定二百キロ)」を肩に担いでスクワットを繰り返す、汗だくのナギ・カームの姿があった。
そしてその隣で、汗を拭くためのタオルを手に持ち、うっとりと彼女を見つめているのは、王国最精鋭の「氷の騎士」ことアイン・クロムウェル辺境伯。
「……なっ、な……なんだ、あれは……?」
カイルは、あまりの衝撃に足の力が抜け、生け垣に突っ込んだ。
彼が知るナギは、重い本を持つのも「手が疲れますわ」と微笑んでいた、儚い少女だったはずだ。
だが、目の前にいるのは、溢れ出る蒸気のような闘気を纏った「戦神」そのものである。
「……アイン! 次、あれを投げるわよ! 受け止めてちょうだい!」
「ああ。君の全力、私の全身で受け止めよう」
ナギが指差したのは、庭の片隅に置かれた、小型の馬車ほどもある大岩だった。
彼女はその岩の下に指先をかけると、信じられないことに「ふんぬっ!」という気合とともに、それを頭上まで持ち上げた。
「……せいやぁぁぁああ!!」
「……っ!? ナギィィィィイ!!」
カイルの絶叫が虚しく響く。
放り投げられた大岩は、美しい放物線を描き、アインの方へと飛んでいく。
アインはそれを、事もなげに両腕でキャッチし、ドォォォンと地面に着地させた。
「……ふぅ。……少し、重くなったか? ナギ、筋肉の質が変わったな」
「ええ。昨日のキングベアの肉が、良い感じに繊維に溶け込んでいるみたい!」
ナギは、タオルで豪快に顔を拭い、ガハハと笑った。
その顔には、失恋の陰りなど微塵もない。
あるのは、生命力の爆発と、満ち足りた幸福感だけだ。
「……な、ナギ……。お前、一体……」
カイルが、生け垣から這い出し、泥だらけの姿で二人の前に現れた。
ナギは、カイルの存在にようやく気づいたようで、眉をひそめて首を傾げた。
「あら、誰かと思えば、かぼちゃ……いえ、カイル元殿下。こんなところで砂遊びですか?」
「砂遊びではない! ナギ、その格好はなんだ! その岩はなんだ! そして、なぜクロムウェル辺境伯がここにいる!」
カイルが指を震わせて叫ぶ。
アインは、カイルを氷のような冷徹な瞳で見下ろした。
「……これは殿下。失礼、今は公務中ではありませんので。私は今、ナギ嬢の『魂の研鑽』をサポートしているところです。邪魔をしないでいただきたい」
「サポート!? 辺境伯、君は正気か!? この女は、私に捨てられて、頭がおかしくなっているんだ! 岩を投げる令嬢など、この世にいていいはずがない!」
カイルの言葉に、ナギの瞳がすっと細くなった。
彼女はアインの横を通り過ぎ、カイルの目の前に立った。
身長差はあるはずなのに、カイルは彼女に見下ろされているような錯覚に陥る。
「……カイル殿下。一つ、勘違いをなさらないで」
ナギは、カイルの鼻先で指をパチンと鳴らした。
「私が岩を投げているのは、あなたを忘れるためではありません。……単純に、この岩の向こうに『最高の肉』が待っているような気がするからですわ」
「な……肉……?」
「ええ。今の私にとって、あなたの愛(笑)なんて、この岩の一片よりも軽いのです。……さあ、アイン。トレーニングを続けましょう。次は、あの木を素手で根こそぎ抜くわよ!」
「ああ。君が抜くなら、私はそれを支えて薪(まき)にしよう」
二人は、カイルをまるで「道端に転がっている小石」のように無視して、再びトレーニングを開始した。
「……っ、……っ! 馬鹿な……。こんなことが、許されるはずが……!」
カイルは、自分が捨てたはずの女が、自分よりも遥かに強大な「本物の男」と、自分には想像もできないほど輝かしい日常を過ごしている現実に、膝から崩れ落ちた。
「……おーほっほっほ! アイン、見て! あのかぼちゃ頭、震えてるわよ! きっと私の広背筋の美しさに、恐怖したのね!」
「……ああ。君の背中は、どんな名画よりも雄弁だ」
ナギの高笑いが、秋の空にどこまでも響き渡る。
カイルの「真実の愛」への執着は、この野生の光景を前に、完膚なきまでに粉砕されたのだった。
「……あ、殿下。お帰りの際は、そこの泥、拭いていってくださいね。庭師のトムがうるさいですから」
エラが、どこからともなく現れて雑巾を差し出した。
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