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1巻
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だが、声はいい。スタイルも理想的だ。百八十センチと長身で、学生時代に競泳をしていたおかげか、肩幅も広く男性らしい体躯をしている。今も時々ジムのプールで泳いでいるらしく、今年三十五歳になるのに腹も出ていない。
そんな蓮見に強引に迫られるシチュエーションを想像して、なんだかそういう動画がありそうだと思ってしまった。そして、少しだけ心がぐらついてしまう。悪くない。悪くはない。
見られて興奮するタイプではないが、新たな性癖が開花する可能性は否めない。
(って、何を考えているの。仕事、仕事)
朝から蓮見に変なことを言われたせいか、余計なことを考えてしまった。
気持ちを引き締めてパソコンに向き直る。すると一件メールが届いていた。A社からだ。内容は再契約の意向について。
(……これ)
この会社とは以前契約を結んでいたが、当時の担当者の不手際から、クレームが入り契約を打ち切られていた。その後、蓮見が密かに関係を築き直しており、無事に再契約の意向を貰えたようだ。
「蓮見さん」
「ん? なんだ? 飯か?」
「違いますよ。メール見てください。A社さんからお返事です」
美琴は若干呆れながら今し方届いた吉報を蓮見に伝えた。
蓮見は会社名を聞いて表情を変える。カチカチとマウスの音が聞こえて、やがて大きな溜息を吐いた。
「おめでとうございます」
「まずはやっと、だな。信頼を取り戻すのはこれからだが」
蓮見は椅子の背もたれに体を預けると、どこか満足そうに表情を緩めた。
「越智さんも、色々ありがとう。何度も資料を作ってくれて助かった」
「いいえ。それが仕事ですから」
A社は会社設立後間もない頃から契約を交わしていた大切なお客様だ。現在蓮見は副社長としての立場上、顧客の担当をしないが、当時は蓮見がA社の担当で、数年前に件の担当者に引き継ぐまでずっといい関係を築いていた。
そんな思い入れのある企業だからこそ、蓮見が自ら足を運び謝罪し、時間の合間をぬっては担当者と食事をしたり、状況を確認したりと、ずっと関係の再構築を図っていた。
そしてようやくよい返事を貰えた。蓮見の努力が実り美琴も安堵する。あとはきちんと営業部に引き継ぐだけだ。
(松園くんだったらいいけど……)
美琴も営業成績の資料ぐらいは見る。その中でも松園は安定して顧客を増やしていた。
同期として彼の為人も知っている。蓮見が時間をかけて信頼を勝ち取ったこの案件を任せるなら彼がいいと思うが。
(……今のうちに……)
蓮見が嬉しそうに担当者と電話で話している。その様子を横目に美琴は席を立つと、いそいそと昼休憩のためにオフィスを後にした。
「あ、やっぱりここにいた」
三時を過ぎて給湯室でひと息ついていると、松園が顔を出した。
彼は嬉しそうに笑って美琴の隣に並び、壁にもたれかかる。
「お疲れ。聞いたよ、再契約の件」
先ほどの件が蓮見から営業部に伝わったようだ。一度落とした契約を巻き直すのは体力以上に精神力がいる。マイナスからのスタートを考えると、新規案件に力を注ぐ方がコスパはいいだろう。
しかし、営業部が諦めていた案件を蓮見が救い出した。その成果は大きい。
「もう聞いたんだ」
「うん。佐山部長と蓮見さんが急に真剣な顔で会議室に入ったから何事だって皆騒いでさ。これから誰が引き継ぐか決めると思う」
A社は規模が大きく、動く金額もそれなりになる。その数字が誰につくかによって、営業チームの目標や今抱えている他の案件担当が変わる可能性も充分あった。
「そうね。……松園くんの可能性もある?」
「もちろん、それは。ただ、……どうだろう。もしかすると佐山部長が持つかもしれない。ほら、前回の件をよく知っているし、……それに見た目的にも安心感が」
「見た目的にって」
美琴は思わず噴き出した。佐山は蓮見と同じ年だが、料理上手な愛妻のせいか、はたまた大好きなお菓子のせいか、恰幅がよくて実年齢以上に見える。蓮見と違う意味で彼もまた押し出しがよかった。
「でも実際、大きな企業だとそういうのも大切なんだ。俺の友人の話だけど、既婚者の方が信頼感が増すからって結婚していないのに左手の薬指に指輪しているし」
松園が肩を竦める。
「もちろんすべてが指輪のおかげではないけど、実際彼はトップセールスマンになって昇進して、給料もかなり貰っている。この間引っ越したって聞いて家に行ったけど、すごかったよ。二十八歳でこんな家に住めたら……ある意味勝ち組だよね」
美琴には〝稼ぎたい〟とか〝昇進したい〟という欲はないので、その気持ちはわからない。
ただ、モチベーションの指標としてはとてもわかりやすいと思った。
「あ、いたいた。松園くん」
話をしていると、営業部の山下絢羽が給湯室にやってきた。どうやら松園を探しに来たらしい。
「何? なんかあった?」
「プレゼン資料の件で」
山下は小柄で色白でとても可愛い顔をしている。営業部の面々とはデスクも離れているので顔を合わせる機会が少なく、親しくはなかった。
あまりじろじろと見るのも失礼だろう。彼女から視線を逸らしたところで、松園から声をかけられた。
「おっちー、また」
「うん」
手を上げて去っていく松園に手を振り返す。その際、一緒に立ち去ろうとした山下とばっちり目が合った。
(……え?)
さっきまで可愛らしく微笑んでいた顔が突如般若のような形相に変わる。
なぜかキッと睨まれてしまった。その理由がわからずもやもやしてしまう。
(……何かしてしまった、のよね。きっと)
美琴は蟠りを感じながら、コーヒーを飲み干した。
休憩から戻ると、オフィスに険悪な空気が漂っていた。オフィスの一画に人が集まっており、その輪の中には蓮見がいる。
「あ、越智さん。いいところに戻ってきた。ちょっと来てくれ」
蓮見から呼ばれて、彼の元に向かう。営業部の面々が何か言いたげに蓮見を囲んでいた。
「どうかしましたか」
「A社の件、引き続き俺が担当することになった。サポートを頼みたい」
「はい」
「それと、週末に挨拶に行くから同行してくれ」
「は、い?」
言葉の意味をすぐに理解できなかった。蓮見が美琴を挨拶に同行させたことは一度もない。
「……わたしが、ですか?」
「そうだ」
唖然としていると、営業部の井上敦子が口を挟んだ。彼女はディレクションチームのマネージャーで、本来なら蓮見と挨拶に行く立場だ。しかし、蓮見から同行を断られたらしい。
「だから言ってるじゃないですか。越智さんではなくわたしが行きますって」
「俺のサポートは越智さんがすべてやってくれている。俺が案件を持つ以上、彼女がサポートにつくのは当然だ」
「ですが、ディレクションの経験もないじゃない……ですか」
美琴が勤める会社、Giwinはエンジニアに特化した人材紹介会社である。
会社名は〝Give〟(与える)と〝Win〟(勝利)を重ねた造語で、エンジニア出身の風間がエンジニアにとって働きやすい社会を作りたいという思いで立ち上げた。その中でも主にふたつのサービスがある。
ひとつは、純粋な人材紹介。エンジニアを紹介し、入社が決まればフィーを貰う。
もうひとつはプロジェクトありきで結成されるエンジニアチームの紹介だ。
ニーズによって、必要な能力を持つエンジニアをこちらで集めて、プロジェクト用のチームを作る。プロジェクト完遂後に契約終了というサービスだ。
後者のサービスは、カスタマーがエンジニアを雇用せずにプロダクト制作が可能となる。また、自社のエンジニアでは足りないリソースを最小限のコストで賄うこともできるので、会社の売上のほとんどがこちらの案件だ。
今回も後者のプロジェクトありきで発足するエンジニアチームの依頼だった。大規模なプロジェクトになるので、複数のエンジニアをアサインさせる必要がある。
求められる能力は、先方のプロジェクトを適切に把握し、プロジェクトに貢献できるエンジニアをリクルーティングすること。とはいえ、Giwinに登録しているエンジニアに声をかけるだけだ。主にフリーランスで働いている人たちなので、彼らの能力とスケジュールが合えば、あまり時間はかからずチームが編成される。
他にもプロジェクトの進行管理等ディレクション経験が必要だ。どれも美琴の普段の業務内容とは畑が違う。
井上はそれを説明しているのだが、蓮見は首を横に振った。
「ディレクションは俺がやる。越智さんは俺の手の回らない部分のサポートをしてくれればいい」
「……でも、それは蓮見さんの負担が大きいじゃないですか」
井上は美琴を一瞥すると不満げに言い放った。
「俺のサポートに関しては、越智さんが適任だ。意向を貰ったとはいえ、相手はまだうちを信用し切れていない。リスクヘッジも兼ねて、他社にも依頼している」
井上は苦虫を噛み潰したような顔を見せた。
「その状況で担当を替えると、より不信感が募るだろう。井上さんの気持ちもわかるが、今回は堪えてほしい」
蓮見の説得に、渋々言いたいことを呑み込んだらしい。
「……はい。取り乱してすみませんでした。越智さんもごめんなさい」
「いえ。経験がないのは本当のことですから」
井上が言う通り、美琴にディレクションの経験はない。だが、八年も蓮見と仕事をしてきたので阿吽の呼吸のようなものはある。
もちろん井上にもプライドがあるはずだ。大事な案件なのに、経験のない美琴が担当するのはいくら蓮見がよしと言えど、彼女は納得できなかったのだろう。少しだけ申し訳なく思う。
「越智さん、すぐにミーティングをしたい。会議室に」
「はい」
この一年、蓮見の代わりに先方と連絡をとっていたのは美琴なので、状況は理解できている。
ここで名誉挽回できるかどうかが、今後の業績にも大きく影響することも。
美琴は表情を引き締めると、蓮見の後を追いかけた。
「本日はありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします」
「失礼いたします」
美琴は蓮見と揃って深々と頭を下げた。買ったばかりのヒールのつま先を眺める。
前方の相手の気配が消えて、扉を閉めたエレベーターが動き出したと同時に頭を上げた。
「とりあえず、スタートは切れそうだな」
「ええ。よかったですね」
「あぁ。越智さんもここまでありがとう。来週からまたよろしく頼む」
「はい」
その週末、美琴は蓮見に付いて名古屋まで同行していた。ちょうど一時間ほど前に始まった会議は今し方終わり、契約書も無事再締結が完了。顧客からプロジェクトの詳細も伺えたので、週明けすぐに始動できるだろう。
「なんですか?」
「……いや。普段と違うから新鮮だな、と思ってさ」
蓮見からじっとりとした視線を感じたので首を傾げる。
彼は自分の顔を指さし、「か・お」と笑った。
「うちの奴らもみんな驚いていただろう?」
出張ということで、美琴は朝からきっちりメイクをして出社した。いつもののっぺりメイクではなく、百貨店のビューティーアドバイザー直伝のメイク方法だ。動画を見ながら施したが、なんとかうまくできた。
ただ、蓮見の言う通り、この顔で出社すると少々騒がれてしまった。
松園ですら「本当におっちー?」と恐る恐る尋ねてきたぐらいだ。
「どうして毎日そうしないのかと思ったんだ。せっかくの美人なのに」
「……面倒くさいからですね」
「準備がか?」
美琴は素直に頷いた。ただ、本心はそれとはまた違うところにある。
一番鬱陶しいのは、蓮見狙いの女性に絡まれることだ。仕事上、彼とコミュニケーションをとる回数は多く、ふたりきりで会議室にこもることもある。いくらこちらが真面目に仕事をしていても頭がお花畑になってしまった彼女たちは何をしてくるかわからない。以前、そんな女性に仕事を奪われそうにもなった。
そもそも未だ独身の蓮見も悪い。さっさと結婚してほしい。
「なんかうまいもんでも食って帰るか。時間はまだ少し早いが、腹減ってるだろ?」
「はい、急にお腹が減りました」
美琴は緊張のあまり昼食をほとんど食べられなかった。
せっかく蓮見に駅弁を買ってもらったのに、半分ほど残してしまった。残ったものは彼の胃袋の中だ。
場数も経験も違うので仕方ないけれど、通常運転すぎる彼がとても羨ましかった。
緊張感から解放されたせいか、まだ午後四時を少し回ったところだが、とても空腹を感じる。
「名古屋だとそうだな。ひつまぶし、天むす、どて煮、味噌カツ、手羽先……あたりが一般的か。何か食べたいものはあるか?」
「……おすすめはありますか?」
「おすすめか。なんだ、名古屋は初めてか?」
「はい。なので、これは食べた方がいいというものを教えてほしいです」
「食べた方がいいものか。正直店によるからなぁ……。うーん」
蓮見の間延びした声を聞きながら、駅のホームから景色を眺める。
この流れで考えれば、名古屋駅周辺で夕食を食べて解散だろう。
美琴は今夜名古屋に一泊し、明日の土曜の夜、東京に帰る。せっかく名古屋に来たのだから観光したい。頭の中は、すでに明日の予定でいっぱいだった。
「なら、名古屋名物を色々出してくれるところにするか」
「はい」
蓮見の提案に同意すると、彼は目尻の皺を深くして頬を緩めた。
蓮見行きつけの店に開店時間と同時に入店し、冷たいビールと手羽先で乾杯した。
向かい合って仕事の話をしながらグラスを傾ける。緊張と暑さでカラカラの喉を潤すアルコールはいつも以上に早く身体に回ったが、心地よい酔いに気分はよかった。
名古屋グルメを堪能し、店を出たのは、午後七時半になる頃。
生ぬるい夜風で火照った頬を冷ましつつ駅に向かって歩く。
「今日はありがとうございました。お食事もごちそうさまでした」
「いや、こちらこそ慣れないことをさせて悪かったな。おかげで助かったよ」
美琴を見る眼差しは随分と柔らかかった。目が赤いのはお酒の飲みすぎだ。
美琴はビールを二杯で留めたが、彼は焼酎に日本酒まで飲んでいた。
「松園くんたちはこうして会社のために頑張ってくれているんだと実感できてよかったです」
美琴は今日初めて彼らの仕事内容を知った。顧客と渡り合う姿は純粋に尊敬対象だ。
営業部の面々が蓮見に憧れる気持ちも少しわかった気がする。
「気をつけてお帰りください。わたしはここで」
新幹線の改札付近で美琴は立ち止まった。今夜泊まるホテルは地下鉄で一駅向こう。
蓮見を見送って地下鉄に乗ろうと考えていると、困惑した声が返ってきた。
「わたしはここでって、どういう」
「ホテルを取りましたので」
「なぜだ」
ついさっきまで柔らかかった表情が剣呑な顔つきに変わる。
蓮見の雰囲気が変わったことに驚いて一歩後ずさると、腕を掴まれてしまった。
「なぜって。せっかくなので明日は観光しようかと……ダメですか?」
「ダメじゃないが、言えよ」
「どうしてですか?」
「どうしてって……あのなぁ」
宿泊代はもちろん美琴の自腹だ。会社の経費ではない。
それとも、出張先で観光をしてはいけないという社内規則があったのだろうか。
出張前にひと通り目を通したが、そんな文言はどこにも見当たらなかった。
「どこのホテルに泊まるんだ?」
蓮見に腰を抱かれて自然と回れ右をする。改札が遠のき、今し方歩いてきた道を引き返した。
「あ、え?」
「どこのホテルなんだと聞いている」
蓮見に凄まれて美琴の頬が引き攣った。目が笑っていなくて怖い。仕方なくホテル名を告げると、また身体が方向転換した。
「あ、地下鉄で」
「タクシーの方が早い」
否応なく、タクシーに乗せられた。後から続いて蓮見も乗り込んでくる。どういうわけか彼は付いてくるらしい。後部座席でむっすりと腕を組んだ。
「ひとりで泊まるのか?」
「そうですが……どうしてわざわざ」
「心配だからだよ」
「そんな年齢じゃないですけど」
もう二十八歳だ。たとえ名古屋が初めてでも、ひとりでホテルぐらい行ける。
「新幹線……」
「まだある」
蓮見の言う通り、名古屋から東京に向かう最終の新幹線は午後十時過ぎだ。
今はまだ午後八時にもなっていないので、ホテルまで往復しても充分に間に合う。
「……泊まりにしては身軽じゃないか?」
「荷物は送ってあります」
「ふーん」
蓮見の視線が痛い。居た堪れず美琴は窓の外に視線を向けた。
タクシーはそれほど時間をかけず、目的地のホテルに到着する。すると、蓮見までそこで降りてしまった。
「ここで大丈夫です。って、どうして」
唖然としていると、蓮見が先にホテルに入っていく。
「あの夜の借りを返してもらおうと思ってさ。どうせ持ってきてんだろ、玩具箱」
上から下に舐めるように動いた視線に酔いが醒めていく。
否定できない美琴を見て、蓮見が「やっぱりな」と唇だけで笑った。
「どうやってそれを使うか見せてくれよ。――それでチャラだ」
にんまりとほくそ笑んだ顔は、この世のものとは思えないほど妖しく意地悪だった。
蓮見Side
蓮見から見た「越智美琴」は、真面目でいつも淡々と仕事をする部下だった。
無遅刻無欠勤。適度に有給を消化し、勤務態度は至って真面目。効率よく仕事し、納期は守り、こちらの意図を汲んで機転を利かせる柔軟性もある。代表の風間や副社長の自分にも忖度せずに意見を述べる度胸もあり、蓮見は自分の秘書を気に入っていた。
ただ、他人への興味関心は薄く職場の有志の集まりはいつもパスだ。もう少し付き合いをよくしても……と思わなくもないが無理をさせるのも違う。打てば響くような会話はできるし、冗談も通じる。彼女が社内で孤立しているわけではないので、必要以上に人と関わらないスタンスを蓮見は静かに見守っていた。
そんな美琴との出会いは、彼女が二十歳の頃だ。当時の蓮見は猫の手も借りたいほど忙しく、しかし、秘書がいない状況だった。いや、いたはいた。応募はあったし入社もした。
だが、蓮見の外見から異性としての好意を持たれることが多く、誰も長続きしなかった。
採用→入社(研修)→問題発生→退職を繰り返し、いい加減うんざりしていた頃、大学二年生の美琴がインターンに応募してきた。彼女を面接し蓮見は即採用を決めた。
簡潔な受け答えができて、素直に人の話に耳を傾ける態度が印象的だった。質問に対して自分で咀嚼し、わからないことを尋ね返す姿勢もいい。仕事には興味を示したが、蓮見を見て顔色や声色を変えることがない点も採用ポイントだった。
また、美琴は他人への興味が薄いらしく、そんなところも蓮見には都合がよかった。授業や休日の過ごし方を尋ねれば、面白みのない真面目な回答ばかりが返ってくる。一言で言えば地味だった。それは蓮見にとっていい意味だ。過去に、露出度の高い洋服を着てきた女性がいたこともあり、念のため、社内の服装規定について説明した。しかし、彼女の反応の薄さに興味関心を伺うと首を傾げられた。趣味を尋ねれば「貯金」と答え、理由を聞いて納得した。初対面にもかかわらず、信頼度が増した瞬間だった。
そんな彼女の一番の評価点は、蓮見の雑な態度にめげないメンタル面の強さがあることだ。蓮見の立場上、どうしてもつきっきりで仕事を教えることが難しく、また蓮見自身、本音をオブラートに包んだり遠回しに伝えたりすることが苦手だ。美琴が職場に来ても一日顔を合わせない日もあれば、右も左もわからない彼女に、電話やメールで指示をしたこともある。仕事の基本の「き」も知らない彼女に酷だとは思ったが、それでも美琴は自分の力で乗り越えようと頑張っていた。
蓮見は幼い頃から競泳に明け暮れ、スポーツの世界で生きてきた。頑張ることは当たり前で、自分が周囲より厳しいものを求めている自覚もある。だけど、美琴はそれに喰らい付いてくるガッツがあった。そんな彼女の姿勢は好ましく、教え甲斐もあり、どんどん成長していく姿を見ることが楽しかった。
蓮見との距離感を誤らず、関係性を誤解しない。また、多少率直な物言いをしても受け止めてくれる――蓮見にとって必要最低条件を満たす秘書はいつしか頼りになる相棒に成長していた。だから、それとなく就活の状況を尋ねようと思っていた矢先に、美琴から「新卒の募集はあるか」と尋ねられた時、素直に嬉しかった。
ただ、美琴がアルバイトから正社員になっても、どれだけ月日が流れても、他人との関わり方や外見への興味は変わらないままだった。
ベーシックカラーの洋服はいつもゆったりとした作りのものだ。教育ママのような銀縁フレームの眼鏡に、最低限のメイク。伸びっぱなしの黒髪はいつも後頭部より下でひとつに結ばれている。その結んでいるゴムだって、黒の太い、飾りも何もないシンプルなものだ。
もう少し洋服やおしゃれに興味を持てばいいのに……と思っていたが、それを言えばセクハラになる。社内規定に違反しているわけではなく、周囲を不愉快にさせているわけではない。年齢にしては落ち着いた服装なので、もう少し人生を楽しめよ、と親戚のおじさんのような気持ちを持っただけ。つまり、蓮見にとって美琴はよい人材ではあるが、異性としてまったくの圏外だった。
だからあの夜、綺麗に着飾った美琴を見て大いに戸惑った。
眼鏡を外した素顔も、蠱惑的な赤い唇も、太く長い黒のアイラインも。
――こんなにも変わるのか。
離れていく後ろ姿は、とてもいやらしく蓮見を誘っているように見えた。
背中から腰に向けての曲線も、腰から尻に向けての膨らみも、健康的で肉付きのいい脚も、くっきりと浮かぶ腱ですら、蓮見を煽っていた。
それなのに、声をかけるといつものような平坦な声が返ってくる。他人事のようなそっけない返しは彼女の地だ。わかっていてもそのことに興奮した。ちょっと鬱陶しそうに、迷惑そうに顔を顰められて、なぜか胸が弾んだ。
変だった。もっと困らせたい、もっと虐めたい。そんな欲望が渦巻く。椅子を退け、しゃがみ込み、四つん這いになった姿を見て、ごくりと生唾を呑み込んだ。
まさか忘れ物が、アダルトグッズがたくさん入ったポーチだとは思わなかったが。
――全然興味のないふりして変態って、最高かよ。
そんな蓮見に強引に迫られるシチュエーションを想像して、なんだかそういう動画がありそうだと思ってしまった。そして、少しだけ心がぐらついてしまう。悪くない。悪くはない。
見られて興奮するタイプではないが、新たな性癖が開花する可能性は否めない。
(って、何を考えているの。仕事、仕事)
朝から蓮見に変なことを言われたせいか、余計なことを考えてしまった。
気持ちを引き締めてパソコンに向き直る。すると一件メールが届いていた。A社からだ。内容は再契約の意向について。
(……これ)
この会社とは以前契約を結んでいたが、当時の担当者の不手際から、クレームが入り契約を打ち切られていた。その後、蓮見が密かに関係を築き直しており、無事に再契約の意向を貰えたようだ。
「蓮見さん」
「ん? なんだ? 飯か?」
「違いますよ。メール見てください。A社さんからお返事です」
美琴は若干呆れながら今し方届いた吉報を蓮見に伝えた。
蓮見は会社名を聞いて表情を変える。カチカチとマウスの音が聞こえて、やがて大きな溜息を吐いた。
「おめでとうございます」
「まずはやっと、だな。信頼を取り戻すのはこれからだが」
蓮見は椅子の背もたれに体を預けると、どこか満足そうに表情を緩めた。
「越智さんも、色々ありがとう。何度も資料を作ってくれて助かった」
「いいえ。それが仕事ですから」
A社は会社設立後間もない頃から契約を交わしていた大切なお客様だ。現在蓮見は副社長としての立場上、顧客の担当をしないが、当時は蓮見がA社の担当で、数年前に件の担当者に引き継ぐまでずっといい関係を築いていた。
そんな思い入れのある企業だからこそ、蓮見が自ら足を運び謝罪し、時間の合間をぬっては担当者と食事をしたり、状況を確認したりと、ずっと関係の再構築を図っていた。
そしてようやくよい返事を貰えた。蓮見の努力が実り美琴も安堵する。あとはきちんと営業部に引き継ぐだけだ。
(松園くんだったらいいけど……)
美琴も営業成績の資料ぐらいは見る。その中でも松園は安定して顧客を増やしていた。
同期として彼の為人も知っている。蓮見が時間をかけて信頼を勝ち取ったこの案件を任せるなら彼がいいと思うが。
(……今のうちに……)
蓮見が嬉しそうに担当者と電話で話している。その様子を横目に美琴は席を立つと、いそいそと昼休憩のためにオフィスを後にした。
「あ、やっぱりここにいた」
三時を過ぎて給湯室でひと息ついていると、松園が顔を出した。
彼は嬉しそうに笑って美琴の隣に並び、壁にもたれかかる。
「お疲れ。聞いたよ、再契約の件」
先ほどの件が蓮見から営業部に伝わったようだ。一度落とした契約を巻き直すのは体力以上に精神力がいる。マイナスからのスタートを考えると、新規案件に力を注ぐ方がコスパはいいだろう。
しかし、営業部が諦めていた案件を蓮見が救い出した。その成果は大きい。
「もう聞いたんだ」
「うん。佐山部長と蓮見さんが急に真剣な顔で会議室に入ったから何事だって皆騒いでさ。これから誰が引き継ぐか決めると思う」
A社は規模が大きく、動く金額もそれなりになる。その数字が誰につくかによって、営業チームの目標や今抱えている他の案件担当が変わる可能性も充分あった。
「そうね。……松園くんの可能性もある?」
「もちろん、それは。ただ、……どうだろう。もしかすると佐山部長が持つかもしれない。ほら、前回の件をよく知っているし、……それに見た目的にも安心感が」
「見た目的にって」
美琴は思わず噴き出した。佐山は蓮見と同じ年だが、料理上手な愛妻のせいか、はたまた大好きなお菓子のせいか、恰幅がよくて実年齢以上に見える。蓮見と違う意味で彼もまた押し出しがよかった。
「でも実際、大きな企業だとそういうのも大切なんだ。俺の友人の話だけど、既婚者の方が信頼感が増すからって結婚していないのに左手の薬指に指輪しているし」
松園が肩を竦める。
「もちろんすべてが指輪のおかげではないけど、実際彼はトップセールスマンになって昇進して、給料もかなり貰っている。この間引っ越したって聞いて家に行ったけど、すごかったよ。二十八歳でこんな家に住めたら……ある意味勝ち組だよね」
美琴には〝稼ぎたい〟とか〝昇進したい〟という欲はないので、その気持ちはわからない。
ただ、モチベーションの指標としてはとてもわかりやすいと思った。
「あ、いたいた。松園くん」
話をしていると、営業部の山下絢羽が給湯室にやってきた。どうやら松園を探しに来たらしい。
「何? なんかあった?」
「プレゼン資料の件で」
山下は小柄で色白でとても可愛い顔をしている。営業部の面々とはデスクも離れているので顔を合わせる機会が少なく、親しくはなかった。
あまりじろじろと見るのも失礼だろう。彼女から視線を逸らしたところで、松園から声をかけられた。
「おっちー、また」
「うん」
手を上げて去っていく松園に手を振り返す。その際、一緒に立ち去ろうとした山下とばっちり目が合った。
(……え?)
さっきまで可愛らしく微笑んでいた顔が突如般若のような形相に変わる。
なぜかキッと睨まれてしまった。その理由がわからずもやもやしてしまう。
(……何かしてしまった、のよね。きっと)
美琴は蟠りを感じながら、コーヒーを飲み干した。
休憩から戻ると、オフィスに険悪な空気が漂っていた。オフィスの一画に人が集まっており、その輪の中には蓮見がいる。
「あ、越智さん。いいところに戻ってきた。ちょっと来てくれ」
蓮見から呼ばれて、彼の元に向かう。営業部の面々が何か言いたげに蓮見を囲んでいた。
「どうかしましたか」
「A社の件、引き続き俺が担当することになった。サポートを頼みたい」
「はい」
「それと、週末に挨拶に行くから同行してくれ」
「は、い?」
言葉の意味をすぐに理解できなかった。蓮見が美琴を挨拶に同行させたことは一度もない。
「……わたしが、ですか?」
「そうだ」
唖然としていると、営業部の井上敦子が口を挟んだ。彼女はディレクションチームのマネージャーで、本来なら蓮見と挨拶に行く立場だ。しかし、蓮見から同行を断られたらしい。
「だから言ってるじゃないですか。越智さんではなくわたしが行きますって」
「俺のサポートは越智さんがすべてやってくれている。俺が案件を持つ以上、彼女がサポートにつくのは当然だ」
「ですが、ディレクションの経験もないじゃない……ですか」
美琴が勤める会社、Giwinはエンジニアに特化した人材紹介会社である。
会社名は〝Give〟(与える)と〝Win〟(勝利)を重ねた造語で、エンジニア出身の風間がエンジニアにとって働きやすい社会を作りたいという思いで立ち上げた。その中でも主にふたつのサービスがある。
ひとつは、純粋な人材紹介。エンジニアを紹介し、入社が決まればフィーを貰う。
もうひとつはプロジェクトありきで結成されるエンジニアチームの紹介だ。
ニーズによって、必要な能力を持つエンジニアをこちらで集めて、プロジェクト用のチームを作る。プロジェクト完遂後に契約終了というサービスだ。
後者のサービスは、カスタマーがエンジニアを雇用せずにプロダクト制作が可能となる。また、自社のエンジニアでは足りないリソースを最小限のコストで賄うこともできるので、会社の売上のほとんどがこちらの案件だ。
今回も後者のプロジェクトありきで発足するエンジニアチームの依頼だった。大規模なプロジェクトになるので、複数のエンジニアをアサインさせる必要がある。
求められる能力は、先方のプロジェクトを適切に把握し、プロジェクトに貢献できるエンジニアをリクルーティングすること。とはいえ、Giwinに登録しているエンジニアに声をかけるだけだ。主にフリーランスで働いている人たちなので、彼らの能力とスケジュールが合えば、あまり時間はかからずチームが編成される。
他にもプロジェクトの進行管理等ディレクション経験が必要だ。どれも美琴の普段の業務内容とは畑が違う。
井上はそれを説明しているのだが、蓮見は首を横に振った。
「ディレクションは俺がやる。越智さんは俺の手の回らない部分のサポートをしてくれればいい」
「……でも、それは蓮見さんの負担が大きいじゃないですか」
井上は美琴を一瞥すると不満げに言い放った。
「俺のサポートに関しては、越智さんが適任だ。意向を貰ったとはいえ、相手はまだうちを信用し切れていない。リスクヘッジも兼ねて、他社にも依頼している」
井上は苦虫を噛み潰したような顔を見せた。
「その状況で担当を替えると、より不信感が募るだろう。井上さんの気持ちもわかるが、今回は堪えてほしい」
蓮見の説得に、渋々言いたいことを呑み込んだらしい。
「……はい。取り乱してすみませんでした。越智さんもごめんなさい」
「いえ。経験がないのは本当のことですから」
井上が言う通り、美琴にディレクションの経験はない。だが、八年も蓮見と仕事をしてきたので阿吽の呼吸のようなものはある。
もちろん井上にもプライドがあるはずだ。大事な案件なのに、経験のない美琴が担当するのはいくら蓮見がよしと言えど、彼女は納得できなかったのだろう。少しだけ申し訳なく思う。
「越智さん、すぐにミーティングをしたい。会議室に」
「はい」
この一年、蓮見の代わりに先方と連絡をとっていたのは美琴なので、状況は理解できている。
ここで名誉挽回できるかどうかが、今後の業績にも大きく影響することも。
美琴は表情を引き締めると、蓮見の後を追いかけた。
「本日はありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします」
「失礼いたします」
美琴は蓮見と揃って深々と頭を下げた。買ったばかりのヒールのつま先を眺める。
前方の相手の気配が消えて、扉を閉めたエレベーターが動き出したと同時に頭を上げた。
「とりあえず、スタートは切れそうだな」
「ええ。よかったですね」
「あぁ。越智さんもここまでありがとう。来週からまたよろしく頼む」
「はい」
その週末、美琴は蓮見に付いて名古屋まで同行していた。ちょうど一時間ほど前に始まった会議は今し方終わり、契約書も無事再締結が完了。顧客からプロジェクトの詳細も伺えたので、週明けすぐに始動できるだろう。
「なんですか?」
「……いや。普段と違うから新鮮だな、と思ってさ」
蓮見からじっとりとした視線を感じたので首を傾げる。
彼は自分の顔を指さし、「か・お」と笑った。
「うちの奴らもみんな驚いていただろう?」
出張ということで、美琴は朝からきっちりメイクをして出社した。いつもののっぺりメイクではなく、百貨店のビューティーアドバイザー直伝のメイク方法だ。動画を見ながら施したが、なんとかうまくできた。
ただ、蓮見の言う通り、この顔で出社すると少々騒がれてしまった。
松園ですら「本当におっちー?」と恐る恐る尋ねてきたぐらいだ。
「どうして毎日そうしないのかと思ったんだ。せっかくの美人なのに」
「……面倒くさいからですね」
「準備がか?」
美琴は素直に頷いた。ただ、本心はそれとはまた違うところにある。
一番鬱陶しいのは、蓮見狙いの女性に絡まれることだ。仕事上、彼とコミュニケーションをとる回数は多く、ふたりきりで会議室にこもることもある。いくらこちらが真面目に仕事をしていても頭がお花畑になってしまった彼女たちは何をしてくるかわからない。以前、そんな女性に仕事を奪われそうにもなった。
そもそも未だ独身の蓮見も悪い。さっさと結婚してほしい。
「なんかうまいもんでも食って帰るか。時間はまだ少し早いが、腹減ってるだろ?」
「はい、急にお腹が減りました」
美琴は緊張のあまり昼食をほとんど食べられなかった。
せっかく蓮見に駅弁を買ってもらったのに、半分ほど残してしまった。残ったものは彼の胃袋の中だ。
場数も経験も違うので仕方ないけれど、通常運転すぎる彼がとても羨ましかった。
緊張感から解放されたせいか、まだ午後四時を少し回ったところだが、とても空腹を感じる。
「名古屋だとそうだな。ひつまぶし、天むす、どて煮、味噌カツ、手羽先……あたりが一般的か。何か食べたいものはあるか?」
「……おすすめはありますか?」
「おすすめか。なんだ、名古屋は初めてか?」
「はい。なので、これは食べた方がいいというものを教えてほしいです」
「食べた方がいいものか。正直店によるからなぁ……。うーん」
蓮見の間延びした声を聞きながら、駅のホームから景色を眺める。
この流れで考えれば、名古屋駅周辺で夕食を食べて解散だろう。
美琴は今夜名古屋に一泊し、明日の土曜の夜、東京に帰る。せっかく名古屋に来たのだから観光したい。頭の中は、すでに明日の予定でいっぱいだった。
「なら、名古屋名物を色々出してくれるところにするか」
「はい」
蓮見の提案に同意すると、彼は目尻の皺を深くして頬を緩めた。
蓮見行きつけの店に開店時間と同時に入店し、冷たいビールと手羽先で乾杯した。
向かい合って仕事の話をしながらグラスを傾ける。緊張と暑さでカラカラの喉を潤すアルコールはいつも以上に早く身体に回ったが、心地よい酔いに気分はよかった。
名古屋グルメを堪能し、店を出たのは、午後七時半になる頃。
生ぬるい夜風で火照った頬を冷ましつつ駅に向かって歩く。
「今日はありがとうございました。お食事もごちそうさまでした」
「いや、こちらこそ慣れないことをさせて悪かったな。おかげで助かったよ」
美琴を見る眼差しは随分と柔らかかった。目が赤いのはお酒の飲みすぎだ。
美琴はビールを二杯で留めたが、彼は焼酎に日本酒まで飲んでいた。
「松園くんたちはこうして会社のために頑張ってくれているんだと実感できてよかったです」
美琴は今日初めて彼らの仕事内容を知った。顧客と渡り合う姿は純粋に尊敬対象だ。
営業部の面々が蓮見に憧れる気持ちも少しわかった気がする。
「気をつけてお帰りください。わたしはここで」
新幹線の改札付近で美琴は立ち止まった。今夜泊まるホテルは地下鉄で一駅向こう。
蓮見を見送って地下鉄に乗ろうと考えていると、困惑した声が返ってきた。
「わたしはここでって、どういう」
「ホテルを取りましたので」
「なぜだ」
ついさっきまで柔らかかった表情が剣呑な顔つきに変わる。
蓮見の雰囲気が変わったことに驚いて一歩後ずさると、腕を掴まれてしまった。
「なぜって。せっかくなので明日は観光しようかと……ダメですか?」
「ダメじゃないが、言えよ」
「どうしてですか?」
「どうしてって……あのなぁ」
宿泊代はもちろん美琴の自腹だ。会社の経費ではない。
それとも、出張先で観光をしてはいけないという社内規則があったのだろうか。
出張前にひと通り目を通したが、そんな文言はどこにも見当たらなかった。
「どこのホテルに泊まるんだ?」
蓮見に腰を抱かれて自然と回れ右をする。改札が遠のき、今し方歩いてきた道を引き返した。
「あ、え?」
「どこのホテルなんだと聞いている」
蓮見に凄まれて美琴の頬が引き攣った。目が笑っていなくて怖い。仕方なくホテル名を告げると、また身体が方向転換した。
「あ、地下鉄で」
「タクシーの方が早い」
否応なく、タクシーに乗せられた。後から続いて蓮見も乗り込んでくる。どういうわけか彼は付いてくるらしい。後部座席でむっすりと腕を組んだ。
「ひとりで泊まるのか?」
「そうですが……どうしてわざわざ」
「心配だからだよ」
「そんな年齢じゃないですけど」
もう二十八歳だ。たとえ名古屋が初めてでも、ひとりでホテルぐらい行ける。
「新幹線……」
「まだある」
蓮見の言う通り、名古屋から東京に向かう最終の新幹線は午後十時過ぎだ。
今はまだ午後八時にもなっていないので、ホテルまで往復しても充分に間に合う。
「……泊まりにしては身軽じゃないか?」
「荷物は送ってあります」
「ふーん」
蓮見の視線が痛い。居た堪れず美琴は窓の外に視線を向けた。
タクシーはそれほど時間をかけず、目的地のホテルに到着する。すると、蓮見までそこで降りてしまった。
「ここで大丈夫です。って、どうして」
唖然としていると、蓮見が先にホテルに入っていく。
「あの夜の借りを返してもらおうと思ってさ。どうせ持ってきてんだろ、玩具箱」
上から下に舐めるように動いた視線に酔いが醒めていく。
否定できない美琴を見て、蓮見が「やっぱりな」と唇だけで笑った。
「どうやってそれを使うか見せてくれよ。――それでチャラだ」
にんまりとほくそ笑んだ顔は、この世のものとは思えないほど妖しく意地悪だった。
蓮見Side
蓮見から見た「越智美琴」は、真面目でいつも淡々と仕事をする部下だった。
無遅刻無欠勤。適度に有給を消化し、勤務態度は至って真面目。効率よく仕事し、納期は守り、こちらの意図を汲んで機転を利かせる柔軟性もある。代表の風間や副社長の自分にも忖度せずに意見を述べる度胸もあり、蓮見は自分の秘書を気に入っていた。
ただ、他人への興味関心は薄く職場の有志の集まりはいつもパスだ。もう少し付き合いをよくしても……と思わなくもないが無理をさせるのも違う。打てば響くような会話はできるし、冗談も通じる。彼女が社内で孤立しているわけではないので、必要以上に人と関わらないスタンスを蓮見は静かに見守っていた。
そんな美琴との出会いは、彼女が二十歳の頃だ。当時の蓮見は猫の手も借りたいほど忙しく、しかし、秘書がいない状況だった。いや、いたはいた。応募はあったし入社もした。
だが、蓮見の外見から異性としての好意を持たれることが多く、誰も長続きしなかった。
採用→入社(研修)→問題発生→退職を繰り返し、いい加減うんざりしていた頃、大学二年生の美琴がインターンに応募してきた。彼女を面接し蓮見は即採用を決めた。
簡潔な受け答えができて、素直に人の話に耳を傾ける態度が印象的だった。質問に対して自分で咀嚼し、わからないことを尋ね返す姿勢もいい。仕事には興味を示したが、蓮見を見て顔色や声色を変えることがない点も採用ポイントだった。
また、美琴は他人への興味が薄いらしく、そんなところも蓮見には都合がよかった。授業や休日の過ごし方を尋ねれば、面白みのない真面目な回答ばかりが返ってくる。一言で言えば地味だった。それは蓮見にとっていい意味だ。過去に、露出度の高い洋服を着てきた女性がいたこともあり、念のため、社内の服装規定について説明した。しかし、彼女の反応の薄さに興味関心を伺うと首を傾げられた。趣味を尋ねれば「貯金」と答え、理由を聞いて納得した。初対面にもかかわらず、信頼度が増した瞬間だった。
そんな彼女の一番の評価点は、蓮見の雑な態度にめげないメンタル面の強さがあることだ。蓮見の立場上、どうしてもつきっきりで仕事を教えることが難しく、また蓮見自身、本音をオブラートに包んだり遠回しに伝えたりすることが苦手だ。美琴が職場に来ても一日顔を合わせない日もあれば、右も左もわからない彼女に、電話やメールで指示をしたこともある。仕事の基本の「き」も知らない彼女に酷だとは思ったが、それでも美琴は自分の力で乗り越えようと頑張っていた。
蓮見は幼い頃から競泳に明け暮れ、スポーツの世界で生きてきた。頑張ることは当たり前で、自分が周囲より厳しいものを求めている自覚もある。だけど、美琴はそれに喰らい付いてくるガッツがあった。そんな彼女の姿勢は好ましく、教え甲斐もあり、どんどん成長していく姿を見ることが楽しかった。
蓮見との距離感を誤らず、関係性を誤解しない。また、多少率直な物言いをしても受け止めてくれる――蓮見にとって必要最低条件を満たす秘書はいつしか頼りになる相棒に成長していた。だから、それとなく就活の状況を尋ねようと思っていた矢先に、美琴から「新卒の募集はあるか」と尋ねられた時、素直に嬉しかった。
ただ、美琴がアルバイトから正社員になっても、どれだけ月日が流れても、他人との関わり方や外見への興味は変わらないままだった。
ベーシックカラーの洋服はいつもゆったりとした作りのものだ。教育ママのような銀縁フレームの眼鏡に、最低限のメイク。伸びっぱなしの黒髪はいつも後頭部より下でひとつに結ばれている。その結んでいるゴムだって、黒の太い、飾りも何もないシンプルなものだ。
もう少し洋服やおしゃれに興味を持てばいいのに……と思っていたが、それを言えばセクハラになる。社内規定に違反しているわけではなく、周囲を不愉快にさせているわけではない。年齢にしては落ち着いた服装なので、もう少し人生を楽しめよ、と親戚のおじさんのような気持ちを持っただけ。つまり、蓮見にとって美琴はよい人材ではあるが、異性としてまったくの圏外だった。
だからあの夜、綺麗に着飾った美琴を見て大いに戸惑った。
眼鏡を外した素顔も、蠱惑的な赤い唇も、太く長い黒のアイラインも。
――こんなにも変わるのか。
離れていく後ろ姿は、とてもいやらしく蓮見を誘っているように見えた。
背中から腰に向けての曲線も、腰から尻に向けての膨らみも、健康的で肉付きのいい脚も、くっきりと浮かぶ腱ですら、蓮見を煽っていた。
それなのに、声をかけるといつものような平坦な声が返ってくる。他人事のようなそっけない返しは彼女の地だ。わかっていてもそのことに興奮した。ちょっと鬱陶しそうに、迷惑そうに顔を顰められて、なぜか胸が弾んだ。
変だった。もっと困らせたい、もっと虐めたい。そんな欲望が渦巻く。椅子を退け、しゃがみ込み、四つん這いになった姿を見て、ごくりと生唾を呑み込んだ。
まさか忘れ物が、アダルトグッズがたくさん入ったポーチだとは思わなかったが。
――全然興味のないふりして変態って、最高かよ。
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