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1巻
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プロローグ
「ここで待っていてください」
焦る気持ちを抑えながら美琴はタクシーの扉が開くのを待った。
運転手の返事を耳の端で聞き流し、勢いよく飛び出す。
日中はサラリーマンで賑わうこのあたりも、午後九時になろうとしている今、帰宅途中の会社員がまばらに歩いているだけだ。
美琴はすでに施錠されてしまった正面玄関を素通りし、夜間の出入り口からビルに入った。
なぜこんな時間に会社に戻ってきたのかといえば、ひとえに「忘れ物をしたから」である。
どうしても今夜必要だった。もっと言えば、誰かに拾われる前に自分で見つけ出したかった。
――ビルの清掃員ならまだしも、同じ会社の人間に拾われたくない。
さいわい、裏口の扉付近に守衛室がある。そこは落とし物センターの役割も担っていた。
美琴は守衛室の外から様子を窺う。耳を澄ませても中から声は聞こえなかった。扉をノックするも人が出てくる気配はない。ドアノブに手をかけるとすでに施錠がされていた。
「……嘘でしょ……」
美琴はがくりと項垂れた。だが、落ち込んでいる暇はない。
もしかすると忘れたポーチはまだ届けられていないかもしれない。たしか会社を出るまであったはずだ。時間にして約四時間前のことで、届けられている可能性の方が低いかもしれない。
(どうか見つかっていませんように)
今日は週末の金曜日。おまけに半年に一度のボーナス支給日だ。
社内は朝から浮ついていた。先日給与改定があり、ボーナスが予定より多く支払われることになったからだ。美琴も少々、いや、かなり浮かれていた自覚はある。
そのせいで、こんな大事なものをまさか会社に忘れるなんて、自分で自分が信じられなかった。
(あぁ、もう。最悪……)
ただのポーチならここまで焦らなかった。普通のメイクポーチならば。
そう、美琴が会社に忘れたポーチにはアイシャドウやファンデーションといった可愛らしいものは入っていない。中には大人の玩具――吸引バイブやローター、避妊具、ローションなどアダルトグッズが入っている。
(もし、誰かに中身を見られたりしたら……、オワル)
エレベーターがオフィスのある八階に到着すると、記憶を辿るように美琴はお手洗いに向かった。仕事が終わり真っ先に向かったのがお手洗いだったからだ。
ひとつずつ個室を開けて確認する。手洗い場も入念に見回した。しかし、目的のものは見当たらない。
少しだけ焦る。いや、すごく焦っていた。
次に給湯室に向かった。お弁当箱を洗ったので、その時に忘れたのかもしれないと思ったが――
(ない。ないわ。……どこに行ったの。やっぱり守衛室なんじゃ……)
ポーチはなんの変哲もなく、可愛らしさも美しさもない機能性重視の黒い長方形のものだ。一般的なポーチより少々大きいかもしれないが、見た目は普通のポーチで充分に誤魔化せるはずだった。
それなのに心が落ち着かないのは、誰かに見つかることを懸念しているせいだろう。
なんとなく嫌な予感がするが、心配事の九割は起きないと説く本もある。
――うん、大丈夫。
それでも心のどこかで最悪のことを想像しながら給湯室からオフィスに向かった。首にぶら下げたセキュリティカードを入り口で翳す。ピッという電子音が鳴り、施錠が外れた。
扉を静かに開けて周囲を見回す。当然だが、部屋は真っ暗で人の気配がなかった。
そりゃそうだろう。誰がボーナスの入った週末にわざわざ好き好んで仕事をするだろうか。
そう考えるとオフィスに誰もいないのも頷ける。
美琴にとっては都合がよかったので、誰もいない様子に胸を撫で下ろした。その時だった。
「……誰だ」
不意に後ろからよく知った声に呼び止められた。驚いて肩が跳ねる。
――誰もいないと思っていたのに、まさか彼がいるなんて。
「……わたしです。越智です」
「は? ……越智さん?」
室内にいたのは、美琴の上司であり、副社長の蓮見慧士だった。美琴は彼の秘書をしている。
蓮見は訝しげに目を細め、美琴を食い入るように見つめた。まったくもって信用されていないが、彼がこのような反応を示す訳がある。
「……随分違うじゃないか」
「着替えましたので」
「それにしても違いすぎるだろ」
普段の美琴は眼鏡をかけ、背中まである長い黒髪を首の後ろでひとつに結んでいた。
メイクは最低限で、ファンデーションを塗って眉を描くのみだ。洋服は体のラインを拾わないゆったりめのものを選び、色は落ち着いたベーシックカラーが基本。靴はローヒールのパンプスかスニーカーの二択。
間違っても、今みたいにカラーコンタクトを装着し、髪を巻き、目元を華やかに彩って出勤しない。露出度の高い服装も、七センチヒールを履くこともなかった。八年間一度もプライベートの姿で蓮見に会ったことがない。
「まあいい。電気ぐらい点けろよ」
蓮見は言いながら自ら電気を点けてくれた。
「いるならはじめから点けてください」
一斉にオフィス全体の明かりが灯ったせいでとても眩しい。
美琴は眉を顰めつつデスクに辿りつくと、しゃがみ込んで引き出しを開けた。
(ポーチ、どこ? どこにいったの?)
「それにしても見事な化けっぷりだな。本気でわからなかった」
(あれ? ここじゃない?)
「八年も一緒に仕事しているのにまったく気づかないって、それもどうですかね」
(だったら、ここ……でもない……)
「いやいや。普段の越智さんを知っていれば誰だってわかんねえよ」
話しかけてくる蓮見を適当にあしらいながら、美琴は肝心の物を夢中で探した。
(……っ、ない。ここにもない……っ)
トイレは個室まですべて確認した。給湯室の戸棚まで開けた。
引き出しをすべて開け、椅子をどけて、デスクの下に潜り込んでまで探したのに、見つからない。
今朝はたしかに鞄に入れた。それはしっかり覚えている。
(……そういえば、服を着替えた時は……)
今日は週末、ボーナス支給日。美琴は自分へのご褒美にホテルステイの予定だった。
ランクの高いホテルを選んだので、そのホテルに相応しい装いを、と思い、ホテルに向かう前に駅前にある商業ビルの広いレストルームで着替えた。別にホテルで着替えてもよかったのだが、なんとなくフロントにチェックインする時から、綺麗に着飾りたかったのだ。ポーチの中身もホテルで使うために持ってきていた。
(あぁっ、あっちだったかも。でも、もう閉まってる……よね)
今更だが、ポーチはオフィスではなく商業ビルのレストルームに忘れたのでは、と思い直した。残念ながらすでに閉館してしまっている。
(……仕方ない。明日連絡してみよう)
「さっきから何を探しているんだ」
デスクの下に潜り込んだまま固まっていると、頭上から不思議そうな声が落ちてきた。
頭をぶつけないように気遣いつつデスクの下から顔を上げる。
「……ポーチを忘れてしまいまして」
「探しているのはこれか?」
目の前に差し出されたのは、間違いなく探し求めていたポーチだった。
「え……っ、あ!」
声を上げ、よかった、と安堵していると蓮見がにんまりと意地悪そうに笑う。
「まさか、この持ち主が越智さんとはなぁ」
その口ぶり、その表情から恐れていたことが起きてしまったのだと悟った。
美琴が軽蔑した視線を向けると蓮見が呆れたように肩を竦める。
「一応言っておくが、見たくて見たんじゃない。振動していたからスイッチを切ろうとして」
「いいから、返してください」
ポーチに手を伸ばすも蓮見にひょいと躱されてしまう。
「どこにあったのか知りたくないか」
「……どこにあったんですか」
「給湯室だ。〝変な音が出るポーチを誰か忘れてないか〟って清掃員の方が困っていたから、ついさっき俺が引き取った」
八階のテナントは現在ひとつだけ。つまり忘れ物があれば必然的にこの会社の人間のものだ。
「こんなモノを会社に持ってくる不埒な奴はどこのどいつだと思っていたら……まさか越智さんだったとは……ふーん。なるほどなあ」
「……何が言いたいんですか」
「普段ドライなくせに、夜はウェットなのか」
「セクハラですか」
「この状況でその言葉、狡くないか?」
「狡くないです。返してください」
「えー、どうすっかなぁ」
「どうもこうもありません。早く返してください」
よりによって蓮見に拾われたとは、想像していた以上に最悪の展開だった。
「……返してもいいが、俺が風間に黙っておく義理はない。報告はさせてもらうぞ」
「え?」
「それでも返してほしいか?」
風間はこの会社の代表だ。蓮見は社長に報告するという。
「まぁ、自業自得だな。会社にこんなもの持ってきて、こともあろうに俺にバレるなんて運のツキだ」
美琴は大学在学中のインターンを経てそのまま入社して以降、ずっと蓮見の秘書をしていた。
そしてこれからもこの会社で彼の秘書として働くつもりだった。
(もし、風間さんがこの件を知ったら……っ)
頭の中に〝懲戒免職〟〝解雇〟という不穏な単語が浮かぶ。〝無職〟になった自分が面接で尽く落とされる未来まで想像できてしまった。
「……黙っといてやろうか? 風間に」
悄然と立ち尽くしていると蓮見に助け舟を出される。
後光が差し、彼が神様のように見えた。これからも誠心誠意働こうと決意する。
「あ、ありがとうございます!」
「玩具、使ってるトコロ見せてくれたらな」
しかし、呆気なくその気持ちは崩された。言葉を失っていると蓮見が口角を上げて笑う。
「交換条件」
「…………え?」
「玩具を使ってどんな風に乱れんのか見せてくれよ」
蓮見は少し俺様なところもあるが、他人の尊厳を傷つけるような人ではない。
仕事にはストイックで厳しい一面があるが、優しく包み込む力もある。加えて、面倒見のよさと明るく気さくな性格からも、従業員に慕われていた。
八年も蓮見の下で働いていたからこそ、美琴は彼の為人を知っている。
だからこそ尊敬もしていたのだ。それが、たった今の瞬間崩れ落ちてしまった。
ニヤニヤと笑う蓮見からは下衆オーラが漏れ出ている。
美琴は信じられない面持ちで彼を見つめ返した。
「なんてな」
しかし、下衆オーラを一瞬で消した蓮見は態度を軟化させた。
まるで人を揶揄って楽しんでいる子どものようにクツクツ笑っている。
美琴は彼がどこまで本気でどこまで冗談なのかもわからず、呆然としてしまう。
「ほらよ」と差し出されたが、自分のポーチなのに、受け取っていいのかもわからない。
戸惑っていると手の上にポンと置かれた。
「今度は忘れるなよ」
「……懲戒免職ですか?」
おずおずと受け取りながら自分の行く末を確認する。
今日この時点でさすがにクビにはなりたくない。
せめて転職期間、引き継ぎの猶予で一ヶ月、いや、二ヶ月はほしい。
「フッ、懲戒免職って。風間には黙っていてやるよ」
「……っ、よかった」
心からホッとして、ヘナヘナと座り込んでしまった。しかし、続いた蓮見の言葉に身体が強張る。
「その代わり、貸しイチだからな」
「貸しって」
「さあて、何で返してもらおうかな」
いったい何を言われるのかと思いきや、蓮見は少し考えると言う。
「思いついたら返してもらうわ」
一生思いつかなくていい。その分仕事は頑張るから見逃してほしい。
「愉しみだ」
悪魔のように微笑まれて、美琴の背中に悪寒が走った。
第一章 バレた代償
いつもと同じ時刻の朝の通勤電車の中。通り過ぎゆく街並みは、特段変わらない。
だけど、美琴の心は憂鬱だった。車両中程の扉にもたれかかりながら、何度目かの溜息を吐き出す。
(……どんな顔で会えばいいの)
蓮見に会いたくなかった。会社に行くのが億劫だ。
インターン時代から八年も同じ会社に勤めているが、これほど会社に行きたくないのは初めてのことである。
それもこれもすべて蓮見のせいだ。見てしまったものはしょうがないが、せめて顔に出さないでほしかった。
週末からずっともやもやしている。
(……せめてもう少し楽しめたらよかったんだけど)
せっかくポーチが見つかったのに、うまく頭を切り替えることができなかった。
ホテルに戻り天蓋付きのふかふかベッドに横たわっても、この日のために購入したセクシーなランジェリーを身に着けてみても、気分は上がらなかった。
仕方なくAVを観て気分を上げようとしてみたが集中できない。
おまけになんの冗談か、たまたま再生した男優の声が蓮見にとても似ていた。
目を閉じればまるで蓮見に囁かれているようでベッドから跳ね起きたぐらいだ。
慌てて別の動画に替えたが、気分はさらに削がれて手遅れだった。
そして月曜からどんな顔で出社すればいいのかわからなくて悩んでいるうちに、疲れて寝てしまった。
結果、美琴は問題をすべて先送りした上、心はまったく晴れないまま、性欲を解放することもできず、ただラグジュアリーホテルで優雅にホテルステイしただけで終わった。
(過ぎたことは仕方がないけど)
どれだけ悩んでも、もう時間は戻らない。
それに蓮見は約束を守る男だ。風間に黙っていてくれると言ったのでそこは安心している。
ただ、何が怖いかというと、蓮見の言う〝貸し〟だ。
いったいどんな要求をされるのか想像もつかない。
仮に先日のように「ひとりでシているところを見せてくれ」と要求されたら、どうやって断ればいいのか。「やっぱり風間に~」と言われる可能性を考えると下手に断れない。
一番いいのは、何もなかったようにスルーしてくれることだが、あれほど愉しそうな顔をしていたので果たして見逃してくれるだろうか。
――あぁ、頭が痛い。
ぐったりとした気分で電車を降り、会社に辿り着くと正面玄関を通っていつも通り警備員に挨拶する。
始業三十分前のエレベーターホールは人がまばらだ。エレベーターはすぐにやってきてあっという間に八階へ到着した。
金曜の夜はあれほどもどかしかったのに、今は嘘みたいに早く感じる。
もしかすると時間によってエレベーターの速度が違うのではないかと訝しく思いながら、いつもよりなんとなく静かにそっとオフィスの扉を開けた。
「……おはよう……、ございます」
挨拶をしながら自分のデスクではなく、その後ろにある蓮見のデスクを見る。
ノートパソコンが出しっぱなしではあるが、あれはいつものことだ。本人の姿がデスクにないことを確認し、社内を見回す。
(……よかった。まだ来てないみたい)
蓮見の姿がないことに安堵して鞄を置くと、美琴は給湯室に向かった。
オフィス内にはウォーターサーバーがある。お湯も出るけれど、美琴は給湯室の薬缶でお湯を沸かす方が好きだった。温度もそうだが、お水が沸騰するまでぼんやりする時間がいい。
その後、淹れたての熱々コーヒーをフーフーしながら二十分ほどかけてゆっくりとそこで飲む。
頭がスッキリするし、眠気も飛んで仕事スイッチが入る。
それに給湯室は、オフィスから少し離れているので、ほとんど人が来ない。
ぼんやりしたりゆっくりしたりするには隠れた穴場なのだ。
さて、今日はどのコーヒーにしようかなと考えていると、そこにはまさかの先客がいた。
「おはよう。彼氏と楽しんだか?」
蓮見だった。わざわざ給湯室で美琴を待っていたらしい。
何か裏がありそうなほどの清々しい笑顔に、美琴は頬を引き攣らせた。
「……お、はようございます。……からし?」
「彼氏だ。か・れ・し」
「……はぁ。誰のですか」
怪訝に思いながら、いつものようにコーヒーを淹れる準備をする。
洗って干しておいた薬缶の中を軽く洗い流して水を溜めるとコンロを作動させた。
「誰のって……え? マジ?」
蓮見が何かひとり芝居をしている。
美琴は蓮見を放置して、引き出しの中からドリップバッグを取り出した。自分用のマグカップにセットしているともの言いたげな視線が飛んでくる。
「なんですか」
「……てっきり恋人と週末楽しんだのかと思ってさ。揶揄ってやろうと待っていたんだけど」
「暇ですか」
「部下のプライベートは把握しておいた方がいいだろ?」
「セクハラです」
「セクハラって。あのな、八年も一緒にいるのに浮いた話のひとつもない越智さんに男の影が見えて安心したんだよ。だからどんな奴でどんな状況か知っておいた方がいいと思ったんだ。……ほら、急に寿退職しますとか言われると会社も困るし」
蓮見が後頭部を掻きながら気まずそうに目を逸らす。
「それにこんな話、仕事中に聞く方がセクハラだろ」
「……まあ。でも聞き方というものがありますよね」
「すまん。茶化してやりたくて仕方なかった」
「子どもですか」
「すまんすまん」
素直に謝った蓮見に、美琴は残念なものを見るような目を向けた。
外側だけなら、蓮見はルックスもスタイルも抜群で包容力のある大人の男性だ。
面倒見がよく付き合いもいいので人に慕われもする。
誰とでも気さくに話すコミュ力お化けで、きっとあまり嫌われるタイプではない。
ただし、意外と知られていないが、どうしようもないぐらい子どもっぽい一面もある。
美琴を揶揄いたくて、朝早く給湯室に来て待ち伏せしていたぐらいだ。
どれだけ子どもじみた思考なんだ、と呆れてしまう。
こぽこぽとお湯を注いでいるとふわりと香ばしい匂いが給湯室いっぱいに広がった。
いい匂い、と目を閉じてその香りを堪能していると、空気を壊されてしまう。
「……つまり、玩具はひとりで使うのか」
ぴきっと美琴のこめかみに青筋が浮かぶ。ひとりで何かに納得している蓮見と目が合った。
「口が滑った、悪い」
「まったく誠意が感じられませんが?」
「謝っているだろ」
美琴はマグカップを持ったまま蓮見を睨んだ。
ここまで知られてしまえばもう開き直るしかない。
今更セクハラだのどうだのと騒いだところで仕方がないのだ。
もっとも、今朝、蓮見の顔を見た瞬間に色んなものに諦めがついてしまった。
「悪かったって。貸しをどうやって返してもらおうか考えていたんだよ。恋人の有無によって変わるだろ」
「……え、変わるんですか」
美琴は思わず聞き返した。
「変わるだろ」
「変わりませんよ」
「変わるな」
「変わりません」
「何が変わるんですか?」
その会話に入ってきたのは、営業部の松園雄也だった。美琴の同期であり営業部のエースだ。彼は爽やかな笑顔で蓮見に挨拶すると、美琴に「俺にもコーヒーください」とねだった。
「お湯、足りるかしら」
「足りる分だけでいいよ。沸かしている時間ないし」
松園は自分のマグカップを戸棚から取り出すと、美琴が使った後のドリップバッグをマグカップにセットした。それを見た蓮見が口を挟む。
「新しいものを出せばいいのに」
「まだ使えますし、これおっちーの私物ですから」
「私物?」
「はい」
「それをなぜ松園が飲む」
「いつも分けてもらっているんです。おっちーは優しいから」
ねー、と笑顔を向けられて美琴も笑みを返す。蓮見は理解できないと眉根を寄せた。
「松園くんにはご馳走してもらうことも多いし、お返しにならないけど」
「充分だよ。あ、お湯ちょうどよかった。すみません、蓮見さんの分はないですけど」
「いや。俺は」
「そうだ。蓮見さん猫舌ですもんね。だったら俺が冷たいコーヒー買ってあげますよ。お金ください」
「なぜそうなる」
松園は「ほら、行きますよ」と蓮見を促した。
出ていく間際の松園と視線が交わる。彼はへたくそなウインクをすると「コーヒーご馳走様」と言ってオフィスに戻ってしまった。
会話を聞かれていないとは思うが、美琴が困っていたのは気づいていたらしい。
(……助けられちゃったな)
松園は美琴が給湯室で休憩していることを知っている唯一の同僚だ。そして、朝のこの時間を大事にしていることも知っている。だからこそ気を遣ってくれたのだろう。
(どこかの誰かさんと大違いね)
美琴はいつもより少し急ぎめにコーヒーを飲み干すと、マグカップをさっと洗い、オフィスに戻った。
『たまには昼飯に出ないか?』
何を思ったのか、蓮見から突然昼食に誘われた。
社内チャットが飛んできて、仕事のことかと早々に開いたらこれである。
『お弁当持ってきています』
簡潔にそう返すと、すぐに返事が来た。
『夜にすれば?』
『腐ります。もったいない』
今は夏だ。いくら冷蔵庫に入れているとはいえ、朝に作ったお弁当を夜に食べるのは避けたい。
『じゃあ、今夜は?』
「は?」
思わず声が出た。正気かと恐る恐る振り返る。頬杖を突き、デスクトップ画面を眺めていた蓮見と目が合った。意味深に微笑まれて慌てて前を向く。
(なんなのよ……あれ)
本当に面倒くさい人に見つかってしまった。
風間に黙っていてくれることはありがたいが、蓮見はもう美琴をおもちゃとしてしか見ていない。
その証拠にどうやって愉しもうかな、とばかりにニマニマしている。
上司の機嫌がよいのはいいことだが、それに自分が関わっていると思うとよくはない。むしろ気分は最悪だ。
(そもそも、恋人の有無で返し方が変わるってどういうことよ)
一応蓮見のことは信じているが、何を求められるのか怖い。
副社長という立場上、会社に迷惑をかけるような真似はしないだろうが、それでも美琴が嫌なことかどうかは別問題だ。
(……もし、本当に見せろって言われたら)
あの時、蓮見に「見せてくれ」と言われて驚いたものの嫌悪感はなかった。
もちろん「この人、何を言っているの」という理解し難い気持ちはあったが。
しかし根っこのところで、美琴は蓮見を嫌ってはいない。彼を異性として意識したことはないが、定期的に蓮見に好意を持つ女性が出てくるのも頷ける。
蓮見は外見がいい。少し長めの焦茶色の髪は仕事中整髪剤で後ろに流されており、凛々しい眉が確固たる自信を表す。高い鼻梁に薄い唇はシャープな輪郭の中で適切に位置していた。二重の目元は笑うと目尻に皺を作り、くしゃっと潰れる。
それが女性陣には堪らないらしい。――美琴の好みからは外れているが。
「ここで待っていてください」
焦る気持ちを抑えながら美琴はタクシーの扉が開くのを待った。
運転手の返事を耳の端で聞き流し、勢いよく飛び出す。
日中はサラリーマンで賑わうこのあたりも、午後九時になろうとしている今、帰宅途中の会社員がまばらに歩いているだけだ。
美琴はすでに施錠されてしまった正面玄関を素通りし、夜間の出入り口からビルに入った。
なぜこんな時間に会社に戻ってきたのかといえば、ひとえに「忘れ物をしたから」である。
どうしても今夜必要だった。もっと言えば、誰かに拾われる前に自分で見つけ出したかった。
――ビルの清掃員ならまだしも、同じ会社の人間に拾われたくない。
さいわい、裏口の扉付近に守衛室がある。そこは落とし物センターの役割も担っていた。
美琴は守衛室の外から様子を窺う。耳を澄ませても中から声は聞こえなかった。扉をノックするも人が出てくる気配はない。ドアノブに手をかけるとすでに施錠がされていた。
「……嘘でしょ……」
美琴はがくりと項垂れた。だが、落ち込んでいる暇はない。
もしかすると忘れたポーチはまだ届けられていないかもしれない。たしか会社を出るまであったはずだ。時間にして約四時間前のことで、届けられている可能性の方が低いかもしれない。
(どうか見つかっていませんように)
今日は週末の金曜日。おまけに半年に一度のボーナス支給日だ。
社内は朝から浮ついていた。先日給与改定があり、ボーナスが予定より多く支払われることになったからだ。美琴も少々、いや、かなり浮かれていた自覚はある。
そのせいで、こんな大事なものをまさか会社に忘れるなんて、自分で自分が信じられなかった。
(あぁ、もう。最悪……)
ただのポーチならここまで焦らなかった。普通のメイクポーチならば。
そう、美琴が会社に忘れたポーチにはアイシャドウやファンデーションといった可愛らしいものは入っていない。中には大人の玩具――吸引バイブやローター、避妊具、ローションなどアダルトグッズが入っている。
(もし、誰かに中身を見られたりしたら……、オワル)
エレベーターがオフィスのある八階に到着すると、記憶を辿るように美琴はお手洗いに向かった。仕事が終わり真っ先に向かったのがお手洗いだったからだ。
ひとつずつ個室を開けて確認する。手洗い場も入念に見回した。しかし、目的のものは見当たらない。
少しだけ焦る。いや、すごく焦っていた。
次に給湯室に向かった。お弁当箱を洗ったので、その時に忘れたのかもしれないと思ったが――
(ない。ないわ。……どこに行ったの。やっぱり守衛室なんじゃ……)
ポーチはなんの変哲もなく、可愛らしさも美しさもない機能性重視の黒い長方形のものだ。一般的なポーチより少々大きいかもしれないが、見た目は普通のポーチで充分に誤魔化せるはずだった。
それなのに心が落ち着かないのは、誰かに見つかることを懸念しているせいだろう。
なんとなく嫌な予感がするが、心配事の九割は起きないと説く本もある。
――うん、大丈夫。
それでも心のどこかで最悪のことを想像しながら給湯室からオフィスに向かった。首にぶら下げたセキュリティカードを入り口で翳す。ピッという電子音が鳴り、施錠が外れた。
扉を静かに開けて周囲を見回す。当然だが、部屋は真っ暗で人の気配がなかった。
そりゃそうだろう。誰がボーナスの入った週末にわざわざ好き好んで仕事をするだろうか。
そう考えるとオフィスに誰もいないのも頷ける。
美琴にとっては都合がよかったので、誰もいない様子に胸を撫で下ろした。その時だった。
「……誰だ」
不意に後ろからよく知った声に呼び止められた。驚いて肩が跳ねる。
――誰もいないと思っていたのに、まさか彼がいるなんて。
「……わたしです。越智です」
「は? ……越智さん?」
室内にいたのは、美琴の上司であり、副社長の蓮見慧士だった。美琴は彼の秘書をしている。
蓮見は訝しげに目を細め、美琴を食い入るように見つめた。まったくもって信用されていないが、彼がこのような反応を示す訳がある。
「……随分違うじゃないか」
「着替えましたので」
「それにしても違いすぎるだろ」
普段の美琴は眼鏡をかけ、背中まである長い黒髪を首の後ろでひとつに結んでいた。
メイクは最低限で、ファンデーションを塗って眉を描くのみだ。洋服は体のラインを拾わないゆったりめのものを選び、色は落ち着いたベーシックカラーが基本。靴はローヒールのパンプスかスニーカーの二択。
間違っても、今みたいにカラーコンタクトを装着し、髪を巻き、目元を華やかに彩って出勤しない。露出度の高い服装も、七センチヒールを履くこともなかった。八年間一度もプライベートの姿で蓮見に会ったことがない。
「まあいい。電気ぐらい点けろよ」
蓮見は言いながら自ら電気を点けてくれた。
「いるならはじめから点けてください」
一斉にオフィス全体の明かりが灯ったせいでとても眩しい。
美琴は眉を顰めつつデスクに辿りつくと、しゃがみ込んで引き出しを開けた。
(ポーチ、どこ? どこにいったの?)
「それにしても見事な化けっぷりだな。本気でわからなかった」
(あれ? ここじゃない?)
「八年も一緒に仕事しているのにまったく気づかないって、それもどうですかね」
(だったら、ここ……でもない……)
「いやいや。普段の越智さんを知っていれば誰だってわかんねえよ」
話しかけてくる蓮見を適当にあしらいながら、美琴は肝心の物を夢中で探した。
(……っ、ない。ここにもない……っ)
トイレは個室まですべて確認した。給湯室の戸棚まで開けた。
引き出しをすべて開け、椅子をどけて、デスクの下に潜り込んでまで探したのに、見つからない。
今朝はたしかに鞄に入れた。それはしっかり覚えている。
(……そういえば、服を着替えた時は……)
今日は週末、ボーナス支給日。美琴は自分へのご褒美にホテルステイの予定だった。
ランクの高いホテルを選んだので、そのホテルに相応しい装いを、と思い、ホテルに向かう前に駅前にある商業ビルの広いレストルームで着替えた。別にホテルで着替えてもよかったのだが、なんとなくフロントにチェックインする時から、綺麗に着飾りたかったのだ。ポーチの中身もホテルで使うために持ってきていた。
(あぁっ、あっちだったかも。でも、もう閉まってる……よね)
今更だが、ポーチはオフィスではなく商業ビルのレストルームに忘れたのでは、と思い直した。残念ながらすでに閉館してしまっている。
(……仕方ない。明日連絡してみよう)
「さっきから何を探しているんだ」
デスクの下に潜り込んだまま固まっていると、頭上から不思議そうな声が落ちてきた。
頭をぶつけないように気遣いつつデスクの下から顔を上げる。
「……ポーチを忘れてしまいまして」
「探しているのはこれか?」
目の前に差し出されたのは、間違いなく探し求めていたポーチだった。
「え……っ、あ!」
声を上げ、よかった、と安堵していると蓮見がにんまりと意地悪そうに笑う。
「まさか、この持ち主が越智さんとはなぁ」
その口ぶり、その表情から恐れていたことが起きてしまったのだと悟った。
美琴が軽蔑した視線を向けると蓮見が呆れたように肩を竦める。
「一応言っておくが、見たくて見たんじゃない。振動していたからスイッチを切ろうとして」
「いいから、返してください」
ポーチに手を伸ばすも蓮見にひょいと躱されてしまう。
「どこにあったのか知りたくないか」
「……どこにあったんですか」
「給湯室だ。〝変な音が出るポーチを誰か忘れてないか〟って清掃員の方が困っていたから、ついさっき俺が引き取った」
八階のテナントは現在ひとつだけ。つまり忘れ物があれば必然的にこの会社の人間のものだ。
「こんなモノを会社に持ってくる不埒な奴はどこのどいつだと思っていたら……まさか越智さんだったとは……ふーん。なるほどなあ」
「……何が言いたいんですか」
「普段ドライなくせに、夜はウェットなのか」
「セクハラですか」
「この状況でその言葉、狡くないか?」
「狡くないです。返してください」
「えー、どうすっかなぁ」
「どうもこうもありません。早く返してください」
よりによって蓮見に拾われたとは、想像していた以上に最悪の展開だった。
「……返してもいいが、俺が風間に黙っておく義理はない。報告はさせてもらうぞ」
「え?」
「それでも返してほしいか?」
風間はこの会社の代表だ。蓮見は社長に報告するという。
「まぁ、自業自得だな。会社にこんなもの持ってきて、こともあろうに俺にバレるなんて運のツキだ」
美琴は大学在学中のインターンを経てそのまま入社して以降、ずっと蓮見の秘書をしていた。
そしてこれからもこの会社で彼の秘書として働くつもりだった。
(もし、風間さんがこの件を知ったら……っ)
頭の中に〝懲戒免職〟〝解雇〟という不穏な単語が浮かぶ。〝無職〟になった自分が面接で尽く落とされる未来まで想像できてしまった。
「……黙っといてやろうか? 風間に」
悄然と立ち尽くしていると蓮見に助け舟を出される。
後光が差し、彼が神様のように見えた。これからも誠心誠意働こうと決意する。
「あ、ありがとうございます!」
「玩具、使ってるトコロ見せてくれたらな」
しかし、呆気なくその気持ちは崩された。言葉を失っていると蓮見が口角を上げて笑う。
「交換条件」
「…………え?」
「玩具を使ってどんな風に乱れんのか見せてくれよ」
蓮見は少し俺様なところもあるが、他人の尊厳を傷つけるような人ではない。
仕事にはストイックで厳しい一面があるが、優しく包み込む力もある。加えて、面倒見のよさと明るく気さくな性格からも、従業員に慕われていた。
八年も蓮見の下で働いていたからこそ、美琴は彼の為人を知っている。
だからこそ尊敬もしていたのだ。それが、たった今の瞬間崩れ落ちてしまった。
ニヤニヤと笑う蓮見からは下衆オーラが漏れ出ている。
美琴は信じられない面持ちで彼を見つめ返した。
「なんてな」
しかし、下衆オーラを一瞬で消した蓮見は態度を軟化させた。
まるで人を揶揄って楽しんでいる子どものようにクツクツ笑っている。
美琴は彼がどこまで本気でどこまで冗談なのかもわからず、呆然としてしまう。
「ほらよ」と差し出されたが、自分のポーチなのに、受け取っていいのかもわからない。
戸惑っていると手の上にポンと置かれた。
「今度は忘れるなよ」
「……懲戒免職ですか?」
おずおずと受け取りながら自分の行く末を確認する。
今日この時点でさすがにクビにはなりたくない。
せめて転職期間、引き継ぎの猶予で一ヶ月、いや、二ヶ月はほしい。
「フッ、懲戒免職って。風間には黙っていてやるよ」
「……っ、よかった」
心からホッとして、ヘナヘナと座り込んでしまった。しかし、続いた蓮見の言葉に身体が強張る。
「その代わり、貸しイチだからな」
「貸しって」
「さあて、何で返してもらおうかな」
いったい何を言われるのかと思いきや、蓮見は少し考えると言う。
「思いついたら返してもらうわ」
一生思いつかなくていい。その分仕事は頑張るから見逃してほしい。
「愉しみだ」
悪魔のように微笑まれて、美琴の背中に悪寒が走った。
第一章 バレた代償
いつもと同じ時刻の朝の通勤電車の中。通り過ぎゆく街並みは、特段変わらない。
だけど、美琴の心は憂鬱だった。車両中程の扉にもたれかかりながら、何度目かの溜息を吐き出す。
(……どんな顔で会えばいいの)
蓮見に会いたくなかった。会社に行くのが億劫だ。
インターン時代から八年も同じ会社に勤めているが、これほど会社に行きたくないのは初めてのことである。
それもこれもすべて蓮見のせいだ。見てしまったものはしょうがないが、せめて顔に出さないでほしかった。
週末からずっともやもやしている。
(……せめてもう少し楽しめたらよかったんだけど)
せっかくポーチが見つかったのに、うまく頭を切り替えることができなかった。
ホテルに戻り天蓋付きのふかふかベッドに横たわっても、この日のために購入したセクシーなランジェリーを身に着けてみても、気分は上がらなかった。
仕方なくAVを観て気分を上げようとしてみたが集中できない。
おまけになんの冗談か、たまたま再生した男優の声が蓮見にとても似ていた。
目を閉じればまるで蓮見に囁かれているようでベッドから跳ね起きたぐらいだ。
慌てて別の動画に替えたが、気分はさらに削がれて手遅れだった。
そして月曜からどんな顔で出社すればいいのかわからなくて悩んでいるうちに、疲れて寝てしまった。
結果、美琴は問題をすべて先送りした上、心はまったく晴れないまま、性欲を解放することもできず、ただラグジュアリーホテルで優雅にホテルステイしただけで終わった。
(過ぎたことは仕方がないけど)
どれだけ悩んでも、もう時間は戻らない。
それに蓮見は約束を守る男だ。風間に黙っていてくれると言ったのでそこは安心している。
ただ、何が怖いかというと、蓮見の言う〝貸し〟だ。
いったいどんな要求をされるのか想像もつかない。
仮に先日のように「ひとりでシているところを見せてくれ」と要求されたら、どうやって断ればいいのか。「やっぱり風間に~」と言われる可能性を考えると下手に断れない。
一番いいのは、何もなかったようにスルーしてくれることだが、あれほど愉しそうな顔をしていたので果たして見逃してくれるだろうか。
――あぁ、頭が痛い。
ぐったりとした気分で電車を降り、会社に辿り着くと正面玄関を通っていつも通り警備員に挨拶する。
始業三十分前のエレベーターホールは人がまばらだ。エレベーターはすぐにやってきてあっという間に八階へ到着した。
金曜の夜はあれほどもどかしかったのに、今は嘘みたいに早く感じる。
もしかすると時間によってエレベーターの速度が違うのではないかと訝しく思いながら、いつもよりなんとなく静かにそっとオフィスの扉を開けた。
「……おはよう……、ございます」
挨拶をしながら自分のデスクではなく、その後ろにある蓮見のデスクを見る。
ノートパソコンが出しっぱなしではあるが、あれはいつものことだ。本人の姿がデスクにないことを確認し、社内を見回す。
(……よかった。まだ来てないみたい)
蓮見の姿がないことに安堵して鞄を置くと、美琴は給湯室に向かった。
オフィス内にはウォーターサーバーがある。お湯も出るけれど、美琴は給湯室の薬缶でお湯を沸かす方が好きだった。温度もそうだが、お水が沸騰するまでぼんやりする時間がいい。
その後、淹れたての熱々コーヒーをフーフーしながら二十分ほどかけてゆっくりとそこで飲む。
頭がスッキリするし、眠気も飛んで仕事スイッチが入る。
それに給湯室は、オフィスから少し離れているので、ほとんど人が来ない。
ぼんやりしたりゆっくりしたりするには隠れた穴場なのだ。
さて、今日はどのコーヒーにしようかなと考えていると、そこにはまさかの先客がいた。
「おはよう。彼氏と楽しんだか?」
蓮見だった。わざわざ給湯室で美琴を待っていたらしい。
何か裏がありそうなほどの清々しい笑顔に、美琴は頬を引き攣らせた。
「……お、はようございます。……からし?」
「彼氏だ。か・れ・し」
「……はぁ。誰のですか」
怪訝に思いながら、いつものようにコーヒーを淹れる準備をする。
洗って干しておいた薬缶の中を軽く洗い流して水を溜めるとコンロを作動させた。
「誰のって……え? マジ?」
蓮見が何かひとり芝居をしている。
美琴は蓮見を放置して、引き出しの中からドリップバッグを取り出した。自分用のマグカップにセットしているともの言いたげな視線が飛んでくる。
「なんですか」
「……てっきり恋人と週末楽しんだのかと思ってさ。揶揄ってやろうと待っていたんだけど」
「暇ですか」
「部下のプライベートは把握しておいた方がいいだろ?」
「セクハラです」
「セクハラって。あのな、八年も一緒にいるのに浮いた話のひとつもない越智さんに男の影が見えて安心したんだよ。だからどんな奴でどんな状況か知っておいた方がいいと思ったんだ。……ほら、急に寿退職しますとか言われると会社も困るし」
蓮見が後頭部を掻きながら気まずそうに目を逸らす。
「それにこんな話、仕事中に聞く方がセクハラだろ」
「……まあ。でも聞き方というものがありますよね」
「すまん。茶化してやりたくて仕方なかった」
「子どもですか」
「すまんすまん」
素直に謝った蓮見に、美琴は残念なものを見るような目を向けた。
外側だけなら、蓮見はルックスもスタイルも抜群で包容力のある大人の男性だ。
面倒見がよく付き合いもいいので人に慕われもする。
誰とでも気さくに話すコミュ力お化けで、きっとあまり嫌われるタイプではない。
ただし、意外と知られていないが、どうしようもないぐらい子どもっぽい一面もある。
美琴を揶揄いたくて、朝早く給湯室に来て待ち伏せしていたぐらいだ。
どれだけ子どもじみた思考なんだ、と呆れてしまう。
こぽこぽとお湯を注いでいるとふわりと香ばしい匂いが給湯室いっぱいに広がった。
いい匂い、と目を閉じてその香りを堪能していると、空気を壊されてしまう。
「……つまり、玩具はひとりで使うのか」
ぴきっと美琴のこめかみに青筋が浮かぶ。ひとりで何かに納得している蓮見と目が合った。
「口が滑った、悪い」
「まったく誠意が感じられませんが?」
「謝っているだろ」
美琴はマグカップを持ったまま蓮見を睨んだ。
ここまで知られてしまえばもう開き直るしかない。
今更セクハラだのどうだのと騒いだところで仕方がないのだ。
もっとも、今朝、蓮見の顔を見た瞬間に色んなものに諦めがついてしまった。
「悪かったって。貸しをどうやって返してもらおうか考えていたんだよ。恋人の有無によって変わるだろ」
「……え、変わるんですか」
美琴は思わず聞き返した。
「変わるだろ」
「変わりませんよ」
「変わるな」
「変わりません」
「何が変わるんですか?」
その会話に入ってきたのは、営業部の松園雄也だった。美琴の同期であり営業部のエースだ。彼は爽やかな笑顔で蓮見に挨拶すると、美琴に「俺にもコーヒーください」とねだった。
「お湯、足りるかしら」
「足りる分だけでいいよ。沸かしている時間ないし」
松園は自分のマグカップを戸棚から取り出すと、美琴が使った後のドリップバッグをマグカップにセットした。それを見た蓮見が口を挟む。
「新しいものを出せばいいのに」
「まだ使えますし、これおっちーの私物ですから」
「私物?」
「はい」
「それをなぜ松園が飲む」
「いつも分けてもらっているんです。おっちーは優しいから」
ねー、と笑顔を向けられて美琴も笑みを返す。蓮見は理解できないと眉根を寄せた。
「松園くんにはご馳走してもらうことも多いし、お返しにならないけど」
「充分だよ。あ、お湯ちょうどよかった。すみません、蓮見さんの分はないですけど」
「いや。俺は」
「そうだ。蓮見さん猫舌ですもんね。だったら俺が冷たいコーヒー買ってあげますよ。お金ください」
「なぜそうなる」
松園は「ほら、行きますよ」と蓮見を促した。
出ていく間際の松園と視線が交わる。彼はへたくそなウインクをすると「コーヒーご馳走様」と言ってオフィスに戻ってしまった。
会話を聞かれていないとは思うが、美琴が困っていたのは気づいていたらしい。
(……助けられちゃったな)
松園は美琴が給湯室で休憩していることを知っている唯一の同僚だ。そして、朝のこの時間を大事にしていることも知っている。だからこそ気を遣ってくれたのだろう。
(どこかの誰かさんと大違いね)
美琴はいつもより少し急ぎめにコーヒーを飲み干すと、マグカップをさっと洗い、オフィスに戻った。
『たまには昼飯に出ないか?』
何を思ったのか、蓮見から突然昼食に誘われた。
社内チャットが飛んできて、仕事のことかと早々に開いたらこれである。
『お弁当持ってきています』
簡潔にそう返すと、すぐに返事が来た。
『夜にすれば?』
『腐ります。もったいない』
今は夏だ。いくら冷蔵庫に入れているとはいえ、朝に作ったお弁当を夜に食べるのは避けたい。
『じゃあ、今夜は?』
「は?」
思わず声が出た。正気かと恐る恐る振り返る。頬杖を突き、デスクトップ画面を眺めていた蓮見と目が合った。意味深に微笑まれて慌てて前を向く。
(なんなのよ……あれ)
本当に面倒くさい人に見つかってしまった。
風間に黙っていてくれることはありがたいが、蓮見はもう美琴をおもちゃとしてしか見ていない。
その証拠にどうやって愉しもうかな、とばかりにニマニマしている。
上司の機嫌がよいのはいいことだが、それに自分が関わっていると思うとよくはない。むしろ気分は最悪だ。
(そもそも、恋人の有無で返し方が変わるってどういうことよ)
一応蓮見のことは信じているが、何を求められるのか怖い。
副社長という立場上、会社に迷惑をかけるような真似はしないだろうが、それでも美琴が嫌なことかどうかは別問題だ。
(……もし、本当に見せろって言われたら)
あの時、蓮見に「見せてくれ」と言われて驚いたものの嫌悪感はなかった。
もちろん「この人、何を言っているの」という理解し難い気持ちはあったが。
しかし根っこのところで、美琴は蓮見を嫌ってはいない。彼を異性として意識したことはないが、定期的に蓮見に好意を持つ女性が出てくるのも頷ける。
蓮見は外見がいい。少し長めの焦茶色の髪は仕事中整髪剤で後ろに流されており、凛々しい眉が確固たる自信を表す。高い鼻梁に薄い唇はシャープな輪郭の中で適切に位置していた。二重の目元は笑うと目尻に皺を作り、くしゃっと潰れる。
それが女性陣には堪らないらしい。――美琴の好みからは外れているが。
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