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第14話 契約婚約の裏側
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夜明けを迎えた王都は、前日とは打って変わってざわめいていた。
民の間では、第二王子アーロンが反逆者の令嬢を奪い返したという噂が風のように広がっていた。
それを知らない者はいない。王太子に背き、王妃の権威をかすめ取るかのような行動など、かつて誰も見たことがなかった。
だがその頃、王城の一角では、さらに深い秘密が動き出していた。
王妃直属の侍女であるレナが、誰にも知られぬように一枚の書簡を届けようとしている。
宛名は――侯爵家当主、ルヴァン・グレイス。
かつてリシェルの父であった男だ。
「王妃殿下の直筆……。お届け先は確かにグレイス殿で?」
「はい、侍従長の命を受けております。内容は……陛下の御命に関するものとか」
「……わかった、責任を持って届けよう」
封書を受け取った侯爵は、震える手でそれを見つめた。
今は追放同然の身。娘を失い、妹の方は王家の庇護を受けながら家の名を汚した。
あの事件以来、彼の屋敷はすっかり寂れ、一族の誇りは崩れ去っていた。
封を切ると、そこにはこう記されていた。
“娘リシェルは生きている。王妃の庇護のもとにあり。だが、この国が覆う偽りを正すためには、あなたの証がいる”
その文を読み終えた瞬間、侯爵の目にかすかな光が戻る。
「……セリアの娘が、生きているのか」
深い息とともに、彼は机の引き出しからひとつの箱を取り出した。
古びた木箱の中には、古文書と一冊の誓書が収められている。
印章に刻まれた紋章は――グレイス家と王妃家、両家の契約を示す“婚約誓約書”だった。
それは十数年前、王妃と侯爵家が密かに交わした誓約である。
王家が政治的安定を望むため、将来リシェルを王太子に嫁がせることを約した書簡だった。だが、その裏にはもうひとつの条件があった。
“もし王家が腐敗に満ちるとき、グレイス家の娘は正義をもって王家を糺す者の伴侶となる”
侯爵はその文面を読み返し、呟いた。
「……まさかこの時代に、あの文が現実になるとは」
彼は立ち上がった。震える手で外套を羽織り、書簡を懐に入れる。
長年眠っていた誓約が、今再び息を吹き返すときだった。
一方そのころ、アーロンとリシェルは民の目から逃れるため、王都の外れの小修道院にいた。
修道女たちは王妃の密命を受け彼らを匿っており、古びた石造りの建物の中は外の喧騒と無縁の静けさに包まれていた。
「ここが安全なのは長くて三日。王妃陛下が直接お動きになるまで、耐えるしかありません」
修道長の言葉にアーロンは頷いた。
「感謝いたします。王妃が動けば、この理不尽は終わる」
「終わらせるには……力だけでなく、縁も必要です」
その言葉に、リシェルは首を傾げた。
「縁……ですか?」
「ええ。アーロン殿下と貴女の“婚約”。」
リシェルは息を呑んだ。
「婚約、ですって?」
アーロンも思わず顔を上げる。
「なぜそんなことを――?」
修道長はゆっくり微笑んだ。
「王家に敵対せず正義を貫くには、それなりの形が必要です。貴方方が“契約”によって結ばれれば、貴族たちの何割かは味方する。すべての悪政に“正統”を与えるのは、人の名ではなく契と印なのです」
短い沈黙が流れた。
リシェルは手をぎゅっと握りしめた。
「わたくしたちは、偽りの婚約だった。あのときはすべて政治でした。それをまた繰り返すのですか」
「違う」
アーロンがそっと声を出す。
「今回は正義のためでもあり、俺の意志のためだ。……君が俺と並んで歩くことを、誰にも否定させないために」
その声には決意があった。
だがリシェルの胸に、小さなためらいが生まれる。
愛と正義が交わる瞬間ほど、失う痛みが大きくなることを知っていたからだ。
「アーロン……わたしは、あなたの正義を汚したくないのです。あなたの名のために愛を使えば、それはまた誰かを苦しめる」
「君が思うようなことはしない。政治のためではなく、心で選んだ契約だ」
アーロンは手を差し伸べる。「――俺と共に誓え。この命が残る限り、君だけを守ると」
リシェルはその手を見つめ、ゆっくり首を振った。
「誓いだけでは、もう足りないのです。信じ合うには、真実が必要です。あなたが王族の血を証明したとき、わたしはそのとき初めて、誓います」
その言葉にアーロンは少しだけ目を細めた。
そして、彼女の強さに微笑む。
「……なるほど。君は本当に俺より勇敢だ」
「勇敢なのではありません。ただ、逃げる場所をもう失っただけです」
アーロンは立ち上がり、修道長に向き直った。
「三日後、印璽を奪い返します。母上が生きておられる間に、全てを終わらせる」
「王都の守備は厳重です。行けば死ぬ覚悟を」
「覚悟なら、ずっと前に済ませた」
外では、春の雨が降り始めていた。
リシェルは修道院の壁に寄り添い、濡れた窓の外を見る。
雨は静かに地面を打ち、遠くで鐘が鳴る。
――三日。
短すぎる時間。けれど、それが二人に残された全てだった。
その夜、修道院の回廊を歩いていたリシェルは、誰かの気配を感じて立ち止まった。
「……誰?」
灯を掲げてのぞき込むと、そこに立っていたのは一人の男だった。
濡れた外套、灰色の瞳、そして見覚えのある紋章。
「おまえが……リシェルだな」
「あなたは?」
「ルヴァン・グレイス――おまえの父だ」
リシェルは息を詰まらせた。胸の奥で何かが崩れる音がする。
「どうして……今になって……」
「おまえを守るために逃げ隠れてきた。だが、もう逃げている時ではない。これを持ってきた」
彼は胸の内から一通の書簡を取り出した。
封印には、王妃とグレイス家の紋章が並んでいた。
「これはおまえの運命を変える。おまえがただの令嬢でも、ただの犠牲でもないことを証明する書だ。“王家とグレイス家の誓約”がここにある」
「誓約……?」
「王家が正しい血を失えば、グレイス家の娘がそれを補う伴侶となる。それがこの国の“未来の盟約”だ。セリア――おまえの母は、それを知って死んだ」
雨音が強くなり、鐘の音が消えた。
リシェルは震える手で書簡を受け取り、父の目を見つめた。
その視線は、確かに血の繋がりを感じさせるものだった。
「リシェル。この誓約を持って、アーロン殿下と歩め」
「父上……」
「王でも王太子でもない。“真なる王”を導くのは、おまえの選択だ」
そして彼は踵を返し、雨の闇に消えていった。
リシェルは立ち尽くし、胸の中で燃えるような鼓動を感じた。
母の死、王家の偽り、そして今、この手に渡った真実。
――契約は偽りではなかった。
それは、未来を結び直すための“誓い”だった。
リシェルは灯を握り締めた。
「アーロン……あなたに、伝えなくては」
雨の夜が過ぎ、空の端にわずかな光が差し始める。
その光の中で、彼女はもう迷わなかった。
続く
民の間では、第二王子アーロンが反逆者の令嬢を奪い返したという噂が風のように広がっていた。
それを知らない者はいない。王太子に背き、王妃の権威をかすめ取るかのような行動など、かつて誰も見たことがなかった。
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かつてリシェルの父であった男だ。
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「はい、侍従長の命を受けております。内容は……陛下の御命に関するものとか」
「……わかった、責任を持って届けよう」
封書を受け取った侯爵は、震える手でそれを見つめた。
今は追放同然の身。娘を失い、妹の方は王家の庇護を受けながら家の名を汚した。
あの事件以来、彼の屋敷はすっかり寂れ、一族の誇りは崩れ去っていた。
封を切ると、そこにはこう記されていた。
“娘リシェルは生きている。王妃の庇護のもとにあり。だが、この国が覆う偽りを正すためには、あなたの証がいる”
その文を読み終えた瞬間、侯爵の目にかすかな光が戻る。
「……セリアの娘が、生きているのか」
深い息とともに、彼は机の引き出しからひとつの箱を取り出した。
古びた木箱の中には、古文書と一冊の誓書が収められている。
印章に刻まれた紋章は――グレイス家と王妃家、両家の契約を示す“婚約誓約書”だった。
それは十数年前、王妃と侯爵家が密かに交わした誓約である。
王家が政治的安定を望むため、将来リシェルを王太子に嫁がせることを約した書簡だった。だが、その裏にはもうひとつの条件があった。
“もし王家が腐敗に満ちるとき、グレイス家の娘は正義をもって王家を糺す者の伴侶となる”
侯爵はその文面を読み返し、呟いた。
「……まさかこの時代に、あの文が現実になるとは」
彼は立ち上がった。震える手で外套を羽織り、書簡を懐に入れる。
長年眠っていた誓約が、今再び息を吹き返すときだった。
一方そのころ、アーロンとリシェルは民の目から逃れるため、王都の外れの小修道院にいた。
修道女たちは王妃の密命を受け彼らを匿っており、古びた石造りの建物の中は外の喧騒と無縁の静けさに包まれていた。
「ここが安全なのは長くて三日。王妃陛下が直接お動きになるまで、耐えるしかありません」
修道長の言葉にアーロンは頷いた。
「感謝いたします。王妃が動けば、この理不尽は終わる」
「終わらせるには……力だけでなく、縁も必要です」
その言葉に、リシェルは首を傾げた。
「縁……ですか?」
「ええ。アーロン殿下と貴女の“婚約”。」
リシェルは息を呑んだ。
「婚約、ですって?」
アーロンも思わず顔を上げる。
「なぜそんなことを――?」
修道長はゆっくり微笑んだ。
「王家に敵対せず正義を貫くには、それなりの形が必要です。貴方方が“契約”によって結ばれれば、貴族たちの何割かは味方する。すべての悪政に“正統”を与えるのは、人の名ではなく契と印なのです」
短い沈黙が流れた。
リシェルは手をぎゅっと握りしめた。
「わたくしたちは、偽りの婚約だった。あのときはすべて政治でした。それをまた繰り返すのですか」
「違う」
アーロンがそっと声を出す。
「今回は正義のためでもあり、俺の意志のためだ。……君が俺と並んで歩くことを、誰にも否定させないために」
その声には決意があった。
だがリシェルの胸に、小さなためらいが生まれる。
愛と正義が交わる瞬間ほど、失う痛みが大きくなることを知っていたからだ。
「アーロン……わたしは、あなたの正義を汚したくないのです。あなたの名のために愛を使えば、それはまた誰かを苦しめる」
「君が思うようなことはしない。政治のためではなく、心で選んだ契約だ」
アーロンは手を差し伸べる。「――俺と共に誓え。この命が残る限り、君だけを守ると」
リシェルはその手を見つめ、ゆっくり首を振った。
「誓いだけでは、もう足りないのです。信じ合うには、真実が必要です。あなたが王族の血を証明したとき、わたしはそのとき初めて、誓います」
その言葉にアーロンは少しだけ目を細めた。
そして、彼女の強さに微笑む。
「……なるほど。君は本当に俺より勇敢だ」
「勇敢なのではありません。ただ、逃げる場所をもう失っただけです」
アーロンは立ち上がり、修道長に向き直った。
「三日後、印璽を奪い返します。母上が生きておられる間に、全てを終わらせる」
「王都の守備は厳重です。行けば死ぬ覚悟を」
「覚悟なら、ずっと前に済ませた」
外では、春の雨が降り始めていた。
リシェルは修道院の壁に寄り添い、濡れた窓の外を見る。
雨は静かに地面を打ち、遠くで鐘が鳴る。
――三日。
短すぎる時間。けれど、それが二人に残された全てだった。
その夜、修道院の回廊を歩いていたリシェルは、誰かの気配を感じて立ち止まった。
「……誰?」
灯を掲げてのぞき込むと、そこに立っていたのは一人の男だった。
濡れた外套、灰色の瞳、そして見覚えのある紋章。
「おまえが……リシェルだな」
「あなたは?」
「ルヴァン・グレイス――おまえの父だ」
リシェルは息を詰まらせた。胸の奥で何かが崩れる音がする。
「どうして……今になって……」
「おまえを守るために逃げ隠れてきた。だが、もう逃げている時ではない。これを持ってきた」
彼は胸の内から一通の書簡を取り出した。
封印には、王妃とグレイス家の紋章が並んでいた。
「これはおまえの運命を変える。おまえがただの令嬢でも、ただの犠牲でもないことを証明する書だ。“王家とグレイス家の誓約”がここにある」
「誓約……?」
「王家が正しい血を失えば、グレイス家の娘がそれを補う伴侶となる。それがこの国の“未来の盟約”だ。セリア――おまえの母は、それを知って死んだ」
雨音が強くなり、鐘の音が消えた。
リシェルは震える手で書簡を受け取り、父の目を見つめた。
その視線は、確かに血の繋がりを感じさせるものだった。
「リシェル。この誓約を持って、アーロン殿下と歩め」
「父上……」
「王でも王太子でもない。“真なる王”を導くのは、おまえの選択だ」
そして彼は踵を返し、雨の闇に消えていった。
リシェルは立ち尽くし、胸の中で燃えるような鼓動を感じた。
母の死、王家の偽り、そして今、この手に渡った真実。
――契約は偽りではなかった。
それは、未来を結び直すための“誓い”だった。
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