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25話
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舞踏会から数日後。社交界での二人の評判は一変し、レオンの屋敷には公爵領からの祝いの品や、新たな取引を持ちかける書状が殺到していた。エルナは、レオンの助けを借りながら、それらの対応に追われていた。
ある穏やかな朝、レオンが領地を巡回に出かけている間に、一通の訪問を告げる書状が届いた。
差出人の名を見たエルナは、思わず息を呑んだ。それは、レオンのかつての主人、侯爵家の紋章だった。
しかし、書状は侯爵自身からではなく、侯爵家と血縁関係にあるローゼ・クレメント侯爵夫人からのものだった。
「侯爵夫人? どうして……」
エルナは眉をひそめた。ローゼ侯爵夫人は、社交界でも特に厳格で格式を重んじる人物として知られており、かつてエルナに対しても冷淡だった。
訪問の目的は「旧知のレオン・ヴァイスハルト氏へ、侯爵家からの挨拶」という形式的なものだったが、エルナにはそれが試探であると直感できた。
(レオンは、あの家とは完全に縁を切ったはず。なぜ今、侯爵家が接触を試みるのだろう)
エルナはすぐにレオンに連絡を取らせたが、夫人が屋敷に到着する方が早かった。
ローゼ侯爵夫人は、黒い馬車から降り立つと、冷ややかな視線でレオンの質素な屋敷を見渡した。彼女の侍女の背後には、レオンの過去を知るらしい、年配の使用人が控えている。
「ご無沙汰しております、ローゼ様」
エルナは、かつての社交界の経験を活かし、完璧な礼儀をもって応対した。
「あなたが、エルナ様ね。立派になられたようだわ。まさか、あの冷徹なヴァイスハルトを捕まえるとは」
ローゼの口調は丁寧だが、その目にはエルナとレオンの関係を「不釣り合い」だと見下す色が宿っていた。
応接間に通された侯爵夫人は、本題を切り出した。
「ヴァイスハルト氏がお戻りになるまで、少しお話を聞かせてくれるかしら。私たちは、彼が突然、侯爵家を辞した理由を、いまだに把握できていないのよ」
エルナは、レオンが侯爵家を辞した理由が、自分を救うためだったことを知っている。それを他人に明かすつもりはなかった。
「レオンは、自分の領地の管理に専念したかっただけだと伺っております」
「ふふ。ヴァイスハルトは、領地のことなど、ただの**『任務』としか見ていなかった男よ。彼の才能は、貴族社会の裏側でこそ輝くものだった。彼は、侯爵の『影』**だったのだから」
ローゼ夫人は、そこで言葉を区切り、鋭い視線でエルナを射抜いた。
「あなたが彼を甘やかし、その才能を閉ざしたのではないかと、少し心配しているわ」
それは、エルナが侯爵家で常に聞かされてきた**「お前のせいで」**という非難と同じ種類の毒だった。
その時、外から馬車の音が聞こえた。レオンが戻ってきたのだ。
レオンはローゼ侯爵夫人の姿を見て、一瞬で、全身の空気が凍りついたように変わった。彼の表情は、舞踏会で見せた怒りよりも、さらに深く、閉ざされた苦痛の色を帯びた。
「ローゼ様」
レオンの声は、感情を完全に押し殺し、氷のように冷たかった。
「ヴァイスハルト。お久しぶりね」
夫人は優雅に微笑んだ。
レオンは、エルナの隣に立つと、彼女の背に触れ、自分の存在で彼女を守った。
「侯爵家にご迷惑をおかけしたようでしたら、申し訳ありません。しかし、私とエルナは今、この領地の当主夫妻です。侯爵家とは、一切の関わりを持ちません」
ローゼ夫人は、レオンの固い決意に感心したように言った。
「そう強情にならないで。あなたの才能は必要よ。それに、ヴァイスハルト……」
夫人は、背後の年配の使用人を指し示した。
「覚えていらっしゃるでしょう。彼は、あなたが**『あの屋敷』**で育った頃の世話役よ。彼に、あなたの近況を報告させたかっただけ」
エルナは、レオンの体が、ほんの一瞬、揺らぐのを感じた。
「レオン、あの屋敷って……」
エルナが尋ねようとした瞬間、レオンは冷徹な仮面を貼り付け、その言葉を遮った。
「……ローゼ様。私の過去は、あなたの詮索すべきことではありません。お帰りください」
レオンの拒絶は明確だったが、ローゼ夫人は、目的を果たしたかのように満足げに立ち上がった。
「残念だわ。ヴァイスハルト。いつか、**『才能は血筋に縛られる』**ことを思い知る日が来るでしょう」
夫人はそう言い残し、立ち去った。
レオンは、扉が閉まる音を聞くと、すぐにエルナを振り返り、その肩を強く掴んだ。
「エルナ様、大丈夫ですか。不快な思いをさせてしまった」
「わたしは大丈夫。それより、レオンこそ……」
エルナは、レオンの瞳の奥に、ローゼ夫人の言葉が呼び起こした深いトラウマを見逃さなかった。
「あの屋敷とは、どういうこと? あなたは、侯爵家の側近になる前、どこにいたの?」
レオンは、掴んでいたエルナの肩から手を離し、静かにテラスの方へ歩み寄った。そして、初めて、その黒衣の下に隠してきた、過去の重荷をエルナに語り始めた。
「私は……あの侯爵家が、かつて支配していた領地の、貧しい平民の生まれです」
彼の声は、静かでありながら、深く、エルナの心に突き刺さった。
ある穏やかな朝、レオンが領地を巡回に出かけている間に、一通の訪問を告げる書状が届いた。
差出人の名を見たエルナは、思わず息を呑んだ。それは、レオンのかつての主人、侯爵家の紋章だった。
しかし、書状は侯爵自身からではなく、侯爵家と血縁関係にあるローゼ・クレメント侯爵夫人からのものだった。
「侯爵夫人? どうして……」
エルナは眉をひそめた。ローゼ侯爵夫人は、社交界でも特に厳格で格式を重んじる人物として知られており、かつてエルナに対しても冷淡だった。
訪問の目的は「旧知のレオン・ヴァイスハルト氏へ、侯爵家からの挨拶」という形式的なものだったが、エルナにはそれが試探であると直感できた。
(レオンは、あの家とは完全に縁を切ったはず。なぜ今、侯爵家が接触を試みるのだろう)
エルナはすぐにレオンに連絡を取らせたが、夫人が屋敷に到着する方が早かった。
ローゼ侯爵夫人は、黒い馬車から降り立つと、冷ややかな視線でレオンの質素な屋敷を見渡した。彼女の侍女の背後には、レオンの過去を知るらしい、年配の使用人が控えている。
「ご無沙汰しております、ローゼ様」
エルナは、かつての社交界の経験を活かし、完璧な礼儀をもって応対した。
「あなたが、エルナ様ね。立派になられたようだわ。まさか、あの冷徹なヴァイスハルトを捕まえるとは」
ローゼの口調は丁寧だが、その目にはエルナとレオンの関係を「不釣り合い」だと見下す色が宿っていた。
応接間に通された侯爵夫人は、本題を切り出した。
「ヴァイスハルト氏がお戻りになるまで、少しお話を聞かせてくれるかしら。私たちは、彼が突然、侯爵家を辞した理由を、いまだに把握できていないのよ」
エルナは、レオンが侯爵家を辞した理由が、自分を救うためだったことを知っている。それを他人に明かすつもりはなかった。
「レオンは、自分の領地の管理に専念したかっただけだと伺っております」
「ふふ。ヴァイスハルトは、領地のことなど、ただの**『任務』としか見ていなかった男よ。彼の才能は、貴族社会の裏側でこそ輝くものだった。彼は、侯爵の『影』**だったのだから」
ローゼ夫人は、そこで言葉を区切り、鋭い視線でエルナを射抜いた。
「あなたが彼を甘やかし、その才能を閉ざしたのではないかと、少し心配しているわ」
それは、エルナが侯爵家で常に聞かされてきた**「お前のせいで」**という非難と同じ種類の毒だった。
その時、外から馬車の音が聞こえた。レオンが戻ってきたのだ。
レオンはローゼ侯爵夫人の姿を見て、一瞬で、全身の空気が凍りついたように変わった。彼の表情は、舞踏会で見せた怒りよりも、さらに深く、閉ざされた苦痛の色を帯びた。
「ローゼ様」
レオンの声は、感情を完全に押し殺し、氷のように冷たかった。
「ヴァイスハルト。お久しぶりね」
夫人は優雅に微笑んだ。
レオンは、エルナの隣に立つと、彼女の背に触れ、自分の存在で彼女を守った。
「侯爵家にご迷惑をおかけしたようでしたら、申し訳ありません。しかし、私とエルナは今、この領地の当主夫妻です。侯爵家とは、一切の関わりを持ちません」
ローゼ夫人は、レオンの固い決意に感心したように言った。
「そう強情にならないで。あなたの才能は必要よ。それに、ヴァイスハルト……」
夫人は、背後の年配の使用人を指し示した。
「覚えていらっしゃるでしょう。彼は、あなたが**『あの屋敷』**で育った頃の世話役よ。彼に、あなたの近況を報告させたかっただけ」
エルナは、レオンの体が、ほんの一瞬、揺らぐのを感じた。
「レオン、あの屋敷って……」
エルナが尋ねようとした瞬間、レオンは冷徹な仮面を貼り付け、その言葉を遮った。
「……ローゼ様。私の過去は、あなたの詮索すべきことではありません。お帰りください」
レオンの拒絶は明確だったが、ローゼ夫人は、目的を果たしたかのように満足げに立ち上がった。
「残念だわ。ヴァイスハルト。いつか、**『才能は血筋に縛られる』**ことを思い知る日が来るでしょう」
夫人はそう言い残し、立ち去った。
レオンは、扉が閉まる音を聞くと、すぐにエルナを振り返り、その肩を強く掴んだ。
「エルナ様、大丈夫ですか。不快な思いをさせてしまった」
「わたしは大丈夫。それより、レオンこそ……」
エルナは、レオンの瞳の奥に、ローゼ夫人の言葉が呼び起こした深いトラウマを見逃さなかった。
「あの屋敷とは、どういうこと? あなたは、侯爵家の側近になる前、どこにいたの?」
レオンは、掴んでいたエルナの肩から手を離し、静かにテラスの方へ歩み寄った。そして、初めて、その黒衣の下に隠してきた、過去の重荷をエルナに語り始めた。
「私は……あの侯爵家が、かつて支配していた領地の、貧しい平民の生まれです」
彼の声は、静かでありながら、深く、エルナの心に突き刺さった。
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