誰も愛してくれないと言ったのは、あなたでしょう?〜冷徹家臣と偽りの妻契約〜

山田空

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32話

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​ルミナが生まれて数週間。屋敷の日常は、完璧な静寂ではなくなり、かすかな産声と、レオンの静かな足音で満たされていた。

​深夜、ルミナの小さな泣き声が響き渡ると、レオンはいつもエルナより早く目を覚ます。かつて侯爵家の「影」として、どんな微かな物音も見逃さなかった彼の警戒心は、今は愛する家族を守るための、最も繊細な感覚へと変わっていた。

​レオンはすぐさま寝台から起き上がり、静かに隣のルミナの揺り籠に近づいた。

​「どうしましたか、ルミナ。寒くはありませんか」

​彼は、領地資料を読む時のような真剣な表情で、ルミナの様子を観察する。彼の動作は非常に正確で、温度や湿度を測るように、揺り籠に手を伸ばす。

​しかし、夜中の授乳やオムツ替えといった「父親の任務」になると、レオンの冷徹な知性も、わずかに揺らぐ。

​「エルナ様、ルミナの機嫌が優れません。腹部の圧迫を避けた抱き方が、私の推測では最良ですが、この姿勢でよろしいでしょうか」

​レオンはルミナを抱き上げながら、戸惑いを見せた。

​エルナは微笑みながら、ゆっくりと寝台から体を起こした。夜のランプの光が、彼女の優しい横顔を照らしている。

​「大丈夫よ、レオン。そんなに難しく考えなくていいの」

​エルナはレオンの隣に立ち、そっとルミナを抱き直す。そして、レオンの手を取り、ミルクの入った哺乳瓶を優しく握らせた。

​「こうして、優しく口元に。ルミナが欲しがっているのは、あなたの完璧な姿勢ではなく、あなたの温もりなのよ」

​レオンは、エルナの手の温もり越しに、哺乳瓶を持つ。その手が、かつて侯爵の裏取引の契約書に署名し、冷酷に剣を握った手だとは、誰も想像できないだろう。

​ルミナは、父の温かい手に抱かれ、安心したようにミルクを飲み始めた。

​レオンは、その愛らしい光景を、息を詰めて見つめた。

「……こんなにも小さな手が、私の人生を、これほどまでに満たしてくれるとは」

​エルナは、ルミナがミルクを飲む間に、レオンの頬にそっとキスをした。

​「あなたは、最も素晴らしい父親よ、レオン。あなたが私たちに示してくれた『誠実さ』は、ルミナにもちゃんと伝わっているわ」

​レオンは、エルナの言葉に、心の奥底から癒されるのを感じた。侯爵家で受けた「道具としての任務」とは異なり、この「家族の任務」は、彼に真の喜びと存在価値を与えてくれた。 

​ルミナが飲み終わり、再び穏やかな眠りに就いた後。レオンはルミナを揺り籠に戻し、エルナと共に寝台に戻った。

​レオンは、エルナの背後からそっと抱きしめた。

​「エルナ様」

彼の声は、耳元で静かに響いた。

​「侯爵家との交渉、領地の管理、すべて私にとっては『任務』でした。しかし、ルミナの誕生と、この夜中の共同作業は、初めて**『心から望む仕事』**だと感じています」

​彼はエルナの首筋に顔を埋め、深く息を吸った。

​「私は、あなたという光に導かれ、影から解放されました。そして今、ルミナという、私たちの光が生まれました」

​「もう、何も怖くないわ」

エルナは、レオンの確かな腕の中で呟いた。

​「はい。私たちの家族は、誰にも引き裂くことのできない、愛と信頼の鎧を纏っている」

​夜明け前の静かな寝室で、二人は互いの温もりを感じながら、新しい家族の日常という名の、最も甘い誓いを交わした。レオンの黒衣の下には、もう冷たい鋼鉄の鎧はなく、愛する妻と娘を包む、温かい情熱だけがあった。
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