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第一章

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「俺は本音で伝えている。それじゃ駄目なのか? 言葉にしたくないなら、それを言ってくれるまで待てば良いじゃないか」

 アンと同じように打ち解ける事が出来れば、オリヴィアはいずれ俺に何でも話してくれる筈だ。まだ自分がそこまで到達していない事なんぞ分かり切っている。オリヴィアとアンは長く一緒に過ごしていた分の絆がある。それを簡単に越える事は出来ない、と分かっているのだ。
 オリヴィアが傍に居てくれるだけで、そして笑ってさえいてくれれば、それで良い。彼女には幸せになって欲しい、幸せにしたい。
 あわよくば好きになって欲しい、なんぞ──そんな我儘は言わない。一度たりとも──「愛している」という言葉に返事がなくても構わない。

(ただ、オリヴィアを傷付けたくないだけ、嫌われたくないだけなんだ)

「でもな、お前らがオシドリ夫婦、っていうのは俺分かっているからさ……」

 床に落としていた視線を上げると、シェルフはソバカスだらけの頬を掻きながらバツが悪そうな表情をしていた。
「言い過ぎてごめん」と謝罪したシェルフにイアンは首を横に振った。
 イアンは陸軍時代の能面顔とは打って変わり、経理課に配属されてから表情を崩した。夫の評判は妻の社交に影響を及ぼす、とジェシカから聞いたイアンは、社交でオリヴィアが孤立する事を恐れ愛想がない自分を変えようと努力した。
 オリヴィアにしか興味がないイアンは彼女以外の女性への対応が分からず、サーレンを見本にした。お陰で物腰が柔らかく、話しかけやすい雰囲気を作り出す事に成功したが経歴のせいでで誰も近寄りたがらない。そんな中、教育係に任されたシェルフだけは、任された責任もあってか遠巻きにする事はなく積極的に話しかけてきてくれた。一度も誘いに乗った事はなかったが、イアンを恐れる事はなく最初に飲みへ誘ったのはシェルフだ。彼がイアンに頻繁に話しかけ、イアンがそれに対応するのを見て、他の経理課の人間達もイアンに言葉をかけてくれるようになった。この空間に居やすくなったのはシェルフのお陰だとイアンは感謝している。

(きっと、彼は元から面倒見の良い男なんだろう)

 軍の階級はイアンの方が上だ。それにシェルフは年下でもある。上下関係が厳しい軍隊でシェルフのような先程の態度は許される事ではないが、イアンは気にしなかった。ただ、真面目に意見を述べてくれる彼は良い男だ、と思った程だ。
 だから、彼に相談をしようと思った。彼の事だ、真面目に話を聞いてくれるだろう。

 シェルフはイアンとの会話に一旦区切りがついたと思って椅子に座り直した。それから、ペンを取り、請求書作成の続きに入ろうとするとまたもやイアンから話しかけられた。──のだが……質問の意図が分からなかった。

「本ってなに?」
「妻をモノで釣らない方法、っていう本だ」
「ん?」

 シェルフは首を捻った。イアンの目は至って真剣でふざけた事を言っているように見えなかった。

「シェルフの話を聞くと、俺が読んだ妻を喜ばせる為には、まず貢ぎ物をしろ、という本は間違いだった、って事だ。否定はするな、って本も」
「おぉ……?」
「モノで釣らず、貢ぎ物はせず、どうやってオリヴィアを喜ばせるか知りたい」
「そんな本……」

(あるか……? そんな事よりこいつは、本を見て勉強してんのか? っていうか、妻を喜ばせる為に貢げとか、どんな本読んでんだ)
 
「そんなの歴代の彼女から学べば良いじゃん。何をしたら喜んだとか覚えてるだろ?」
「俺はオリヴィア一筋だ。オリヴィア以外の女の事なんて知らん」

(その言い方って……オリヴィアちゃん以外と経験した事ないって事? 四年前まで童貞だったの?)

 イアンが陸軍時代から本基地内で女性兵士から声を掛けられている姿をシェルフは何度も目にした事があった。当時は愛想がなくても、実力があって、男前とあれば当然の事だと思う。しかしイアンは据え膳を食わなかった。冷たくあしらう姿を何度も目撃した事がある。

(……って事は本当に)
 
 疑惑が脳裏に浮かんだが、シェルフは首を横に振った。
 
(こんなイケメンが、経験人数一人とかの筈ねぇよ)
 僕が知らないところで、遊んでいる筈だ。
(でも、オリヴィアちゃん命だからな……あり得るのか……?)
 でも、まぁ……一途って事だよな。悪い事じゃない。

「無駄な筋肉だな……」とシェルフは思ってしまった。その肉体にその顔面でモテまくるなら、僕は沢山の女の子と遊ぶ。

「本はあるのか?」

 イアンに再度訊ねられて、シェルフは腕を組んで考える仕草をした。それから、

「オリヴィアちゃんを喜ばせたいのって、モノ以外で、って事だよな? イアンは言葉で伝えてるけど、それが功を成していないんだよな?」
「成していない」

 イアンから落ち込んだ声音でそう言われてしまい、シェルフは気分を変える為にコホンと咳き込んだ。

「二人は夫婦だから、言葉よりも伝わる方法なんて沢山あるだろ? それはどうなんだ? 頻度は?」 
「だから、それはなんだ。教えてくれ。そして頻度ってなんの頻度だ? 俺がオリヴィアに愛を告白する頻度か?」
「いや、言葉より伝わる方法、って言ってんじゃん。夫婦なら二人でやる事あるだろ」
「あー……チェス?」
「なんでチェスだよ」

 思わず突っ込んだがイアンの顔に「意味が分からない」と書いてある。
 シェルフはシェルフで「言葉で伝わらないなら身体で語り合うじゃんか、即ちセックスだよ、それはお二人さん、ちゃんと出来てんの?」なんて訊けないだろ、職場なんだし、悟れよ……とイアンの鈍さに若干苛つき始めていた。しかし、イアンにシェルフの言いたい事が伝わっておらず、シェルフは「しょうがねぇ」と吐いた。──こいつは、はっきり言わないと伝わらないタイプなんだな。

「言葉で伝わらなきゃさ」とイアンの耳に小声で呟いた。

「身体でコミュニケーションを取るんだよ。セックスって意味! ベッドの中だと聞き辛い事とか訊けたりするし、素直になったりもするもんだろ? 相手に対してもっと愛情が増すだろ? そう言ったコミュニケーションはどうなんだ、って訊いてんの、俺は! そういうのでイアンは喜ばせているか? 一方的になったりしてないか?」

 と小声で早口で伝えてみる。
 言い終わって満足して息を洩らしてからイアンの横顔を見ると、ポカンと間抜けな顔をしていてシェルフは面食らってしまう。何故、ここで間抜けな顔をするんだ、お前は。
「おい」と呼びかけると、反応がない。暫くイアンの様子が戻るのを待っていると──ゆっくりとイアンの顔がシェルフへ向いた。彼は──青褪めていた。それはもう、真っ蒼に。

(図星だったのか? 一方的なのか……?)
 
 その体格で向かってこられると、怖いよな……とオリヴィアに勝手に同情しつつイアンに声を掛けた。

「どうした、大丈夫か?」
「俺はオリヴィアが嫌がる事は一切しない」
「おう」
「ふしだらな事はしない」

 きっぱり言い切ったイアン。
 頭に疑問を浮かべるシェルフ。

(嫌がる事はしない、って事は……今も拒否しているって事だよな……? て事は、清い関係じゃん)
 イアンはオリヴィアちゃん一筋、さっきの言動から女性経験はない……と予想される。

 イアンの女性に対しての振る舞いがサーレン元将軍のように紳士的だったのは、単に真似たんじゃ──……扱いが分からないから。

「本の話に戻ろう。妻を喜ばせる為の本はあるか?」
「『女性の扱い方』って本に詳しく書いてある」
「雑念が入るから読んだ事はない」

(睦事のハウツー本だけど、それを読んだ事がない……)
 初心者用の教本を読んだ事がない……って?

 ある疑惑が頭の中をグルフル回っているからだ。

(え、まさか、本当に? Dのつく?)

 え?  本当になら、「無駄な筋肉だな……」と思ってしまった。それと、良く「可愛い嫁の前で我慢できるな……」とも思った。
 
「あるのか? ないのか?」

(そう聞きたいのは僕だよ)

「聞いた事ないかな……」

 そう言うとイアンはひどく残念そうな表情を浮かべた。表情を見せられたら、訊ねられる筈がない。

「ちなみにシェルフは今まで何をして喜んでもらえた?」
「僕の話……? 僕はそうだな」

 付き合った人数が多い訳ではないが、歴代の彼女に何をして喜んで貰えたかシェルフは思い出そうとした。初めての彼女には手料理を振舞ったっけ……。でも、そんな記憶も「イアンは童貞……?」っていうのが離れてくれず、イアンに上手く思い出を語る事ができなかった。

「僕、独身だからさ、結婚をしている人に聞くのが一番じゃないかな……恋人の喜ばし方しか僕はしらないし。た、たしか、ユング将軍って結婚歴長いよね。イアンの屋敷に奥さんが勤めてるんじゃなかった? 将軍に長い婚姻生活を過ごす為のコツとか訊いたらになるんじゃ?」

 そう言ってシェルフはユングへ丸投げした。
 すると、イアンは「将軍に聞くのは良い案だな」と納得してくれて胸を撫で下ろす。
 ドッと疲れが出て、シェルフはこの日仕事が全く進まなかった。
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