風のフルーティスト -Canary-

蒼乃悠生

文字の大きさ
29 / 55
第四章 ドアの鍵は君が持っている

4 電気ケトルが転がる部屋

しおりを挟む


    ■ ■ ■


 アパートのドアの前に着いた。長い間使われた茶色いサビがある、重たいドア。
 少し前までここにいた。奈良栄ならさか先輩と、夏希なつき、そして私。
 今はもう私が呼んだ救急車はいない。救急隊員の走る音、野次馬で集まってきた人々のざわめく声、動転して叫ぶ私。それらが全てなくなって、静けさを取り戻していた。
 ザワザワと、心が騒ぐ。
 怖いことが起きた場所だよ、と。まだ危ないかもしれないよ、と。
 だけど、きっかけだった先輩はもうここにはいない、筈。
 そうわかっているのに、頭の隅で先輩の姿がチラつく。払い除けようとしているのに彼は名を呼んで、私に笑いかける。折り曲げたフルートを持って、脚で腹を蹴りながら笑う。
 そんな彼が、実は部屋に隠れているんじゃないかと、考えてしまう。
「…………」
 持っている鍵を、鍵穴に差し込めずにいた。恐怖で手が震えるのだ。
 すると福岡ふくおかくんは横に立つ。石のように固まった手から、するりと鍵が抜かれた。
 そして彼は、躊躇うことなくドアの鍵を鍵穴に差し込む。
 ガチャリと鍵の開いた音がすると、一気に体が強張った。
「先、入りますね」
 顔を引き締めて、彼は先に入っていった。
 照明器具が点いていない、真っ暗な部屋。物音一つない。とても静かだ。
 普段ならどうとも思わない、いつも見ていた光景。なのに、今は違う。その暗さが不気味に見えた。
「だ、誰も、いるわけがない。きっと、きっと」
 ハッハッと、息を強く、短く吐く。
 確かに先輩は部屋を出て行った。それはちゃんと見た。
 でももし、彼が合鍵を勝手に作っていたら。事を荒げた私の口封じの為に、部屋に戻っていたら。
 そう考えたら、先輩が〝いない筈〟と〝もしいたら〟がグチャグチャに混ざり合い、頭の中が真っ黒になる。頭の奥が痺れて、手も足も動かない。
 もしここに先輩がいたら、どうなるかなんて容易に想像できる。その予想を描いた瞬間、背中がぞっとした。
福岡ふくおかくん、待って! もし先輩がいたら危ない……ッ!」
 前を歩く彼の腕を掴もうと、手を伸ばした。
 先輩が夏希なつきだけではなく、福岡ふくおかくんにまで手を出したら。彼ならきっと男の子には容赦なく、怪我だけでは済まさないかもしれない。それだけは阻止しなければ。
 しかし、指先が腕に届く前に、彼は部屋の照明のスイッチを点けた。
「大丈夫ですよ。俺、これでも男なんで」
 部屋が明るくなり、彼の顔がはっきりと見える。
 どうして私の為にここまでしてくれるのだろう。危ない目にも遭うかもしれないのに、彼は私より前へ進んでいくのだろう。
「明るいところで見ると、怪我、結構酷いですね」
 彼は私の顔を見て、目を見張る。
「そんなことないよ」私は首を横に振った。
「私の怪我なんて大したことない。助けに来てくれた夏希なつきは、熱湯をかぶってしまったから……ピアノを弾く大事な両手をダメに、してしまったから……私の怪我なんて……」
 床に転がる電気ケトル。
 私の視線に気づいた福岡ふくおかくんは、その矛先を見ると、納得したかのように床を濡らす水を見下ろした。
 それから彼は、静かに部屋を見渡した。
 荒れたままの部屋。テーブルは倒されて横になったまま。食器棚の中にある食器は乱れたまま。そして、床に転がるフルートに目をやると、彼は優しい手つきでそっと手にとった。
「……酷いことをする」
 その声は低く、怒りがこもっていた。
「管自体が曲がっているので、ダメかもしれませんが、一回修理に出してみましょ」
「ううん、いいよ。お金の無駄だもん」
 私でもわかる。直らないって。キィも歪んで、深い傷もついて、なによりも横笛らしからぬ湾曲した体。
「でも、これは大切な楽器でしょ?」
 そう言われて、いつの間にか落としていた視線を上げる。彼と目が合うと、「ね?」と言われた。
 うん、そうなの。
「お母さんと離婚しただけでもつらかったのに……癌で死んじゃうんだもん……」
 同じモデルの楽器は沢山ある。でも、お父さんから買って貰った楽器は別物。
 私は、初めて貰った楽器を中学三年の時に壊してしまった。お父さんの悲しそうな顔を見て、もう二度と壊さないと誓った。
 そう誓ったのに、お父さんとの約束を破ってしまった。どちらも同じような姿になってしまった。
「……お父さんから買って貰った楽器なのに……ッ」
 お父さん、ごめんなさい。
「もう、この世には、いないから」
 お父さん、許して。
「お父さんに謝れない……ッ」
 込み上げてくる感情。泣き腫らした目が痛いのに、真っ赤な目から飽きずに涙が溢れる。
 突然、頭の上に温かいものが置かれた。
「きっと、お父さんも許してますよ」
 眞野まのくんは頭をポンポンと撫でた。大きな手で、父のように優しく。
 彼は楽器ケースに入らないフルートをタオルで包み、袋に入れる。大切なものを扱ってくれる姿を見て、「ありがとう」と伝えた。
「ここにいるだけでもつらいでしょ。眞野まのさんは座っててください。あとのことは俺がやりますんで」
 そう言うと、福岡ふくおかくんは床に転がる電気ケトルをキッチンカウンターに置く。
 彼に言われて気づく。胸に手を添えると、心臓がバクバクとしていた。私は気持ちが落ち着くまで、彼の言葉に甘えてベッドに腰かけた。
「ねぇ、福岡ふくおかくん」
 名前を呼んだ時、不意になにか重たい物が落ちた音がした。
「え?」
 二人の視線はほぼ同時に、音が聞こえたベランダへ向けられる。
 一体なんの音だろうと意識が向き、押し黙った。その音への違和感があり、どうしても気に掛かる。部屋に入る前の不安要素が蘇った。
 暫しの間、部屋の中に沈黙が流れた。
「……」
「……」
 シーンと静まり返る。耳を澄ましてみるが、それからは音らしい音はなかった。
 部屋の中はテレビがついていない。音楽も流していない。音が出る要素はない筈。
福岡ふくおかくん、今の音……」
 私がなにを言いたいのかわかっているようで、彼は暫くベランダを凝視してから口を開いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

秘められた薫り

La Mistral
恋愛
エブリスタにて、トレンド#恋愛で最高位 55位を獲得した作品です。 「愛しているよ」という夫の言葉が、今の美咲には虚しい空気にしか聞こえない。 欠けていたのは、理性を焼き尽くすような衝動。 ​クライアントの慎吾と交わす視線。ビジネスという仮面の下で共有される、剥き出しの欲望。 指先が触れる。名前を呼ばれる。ただそれだけで、美咲の積み上げてきた「良き妻」としての世界は音を立てて崩れ去る。 ​完璧なアリバイ、塗り固めた嘘。 夫の隣で微笑みながら、心は別の男の指先を求めている。 一度知ってしまった濃厚な「薫り」は、もう彼女を元の場所へは戻してくれない。 ​守るべき家庭と、抗えない本能。 二つの世界の境界線で、美咲が選ぶ「最後の一線」とは――。 欲望の熱に浮かされた女の、美しくも残酷な堕落の記録。

遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜

小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。 でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。 就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。 そこには玲央がいる。 それなのに、私は玲央に選ばれない…… そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。 瀬川真冬 25歳 一ノ瀬玲央 25歳 ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。 表紙は簡単表紙メーカーにて作成。 アルファポリス公開日 2024/10/21 作品の無断転載はご遠慮ください。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」 ――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。 額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。 涙すら出なかった。 なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。 ……よりによって、元・男の人生を。 夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。 「さようなら」 だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。 慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。 別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。 だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい? 「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」 はい、あります。盛りだくさんで。 元・男、今・女。 “白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。 -----『白い結婚の行方』シリーズ ----- 『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

旅は道連れ、世は情け?と言われて訳あり伯爵家の子息のパートナーになりました

さこの
恋愛
両親を亡くし、遺品整理のため王都を訪れたブランシュ。 手放すはずだったアンティークをきっかけに、ひょんなことから伯爵家の跡取り・ユーゴと出会う。 無愛想で口が悪く、女性に冷たいその男は、なぜかブランシュの世話を焼き、面倒事にも付き合ってくれる。 王都ではかつて「親友に婚約者を奪われ、失恋して姿を消した男」と噂されていたユーゴ。 だがその噂は、誰かの悪意によって作られた嘘だった。 過去の誤解。すれ違い。 そして少しずつ見えてくる、本当の彼の姿。 気づけばブランシュは思ってしまう。 ――この人は、優しすぎて損をしている。 面倒くさがりな伯爵子息と、無自覚な令嬢の、 すれ違いだらけの甘め異世界ラブコメディ

バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました

美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?

橘若頭と怖がり姫

真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。 その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。 高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。

処理中です...