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『どこまで』するの?
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しおりを挟むその後はてっきり契約締結でお開きかと思ったのに、神宮寺さんは「恋人らしくするためにお互い慣れておくべきだ」と言い出した。
その結果、私は夕食をご馳走になったレストランの最上階へ泊まることになっている。
ホテルだということはわかっていたけれど、まさか自分が宿泊することになるとは思いもしていない。泊まる準備さえなにもなくて、やや困惑した。
「それで……どうするべき、でしょう」
荷物を胸に抱き込んだまま、ドアの前で立ち尽くす。
こういったところに慣れているのか、神宮寺さんはさっさと荷物を置いてソファに座っていた。
「少なくとも、そこに立ちっぱなしでいるのはおかしいだろうな」
「……連れてきたのは神宮寺さんです」
泊まると言われたときはもちろん断った。
けれど、恋人になると頷いてしまったときと同様、うまく言い負かされてしまって。
「とりあえず、こっちに来い」
「……はい」
右手と右足が同時に前へ出そうになる。
どくどくと心臓がうるさく高鳴っていた。
ひどく緊張して、だけどその気持ちを悟られないよう、少し距離をあけて隣に座る。
「荷物、置かないのか」
「そ……う、です、ね」
「……別に取って食うつもりはないんだが」
「わ、私だっていきなり襲われると思っているわけじゃないです」
「だったらなんでそんなに硬くなってる?」
「自分にもわかりません……」
「やっぱり慣れておかないとだめそうだな」
ふ、とまた神宮寺さんが笑った。
意外と笑うじゃないかと今まで噂を立てていた人たちに言いたくなる。
「荷物」
「あ、はい」
結局抱いたままだった荷物を取り上げられ、横に置かれた。
急に自分を守るものがなくなったような気がして、肩に力が入ってしまう。
「……俺は君をなんて呼べばいい?」
「……あ」
そういえば名前すら知らないのでは。
私は有名人の神宮寺さんを知っているけれど、向こうからすればこっちはただのスタッフの一人でしかない。
「相模志保、と言います」
「知ってる」
「……え」
「…………昼に聞いた」
昼というのはアキくんが乱入したあのときだろう。
無礼なスタッフの名前を聞いたと考えれば別におかしな話ではない。
その事実に私の心臓はますます縮み上がったけれど。
「……志保?」
「ひっ」
「……なんだ、その反応」
「ちょ、ちょっと心の準備ができていなくて」
名前を呼んだのはとても甘い声だった。
モデルに指示を出す、あの厳しい声しか知らなかったのに。
「苗字でお願いします……」
「……恋人同士でそれはおかしいだろう」
「あくまで契約の関係ですし……」
「……じゃあ、君も俺を苗字で呼ぶつもりなのか」
「他になんてお呼びすれば?」
「下の名前で。……そもそも知ってるのか?」
「知ってます。有名人ですから」
「光栄だな」
皮肉めいた口調は、あまり喜んでいるように聞こえない。
ふ、と鼻を鳴らしたのを見て、この人はどうやらこれが癖らしいと察する。
「……でも私、神宮寺さんは神宮寺さんとしか呼べません」
「そうか」
「だから私のことも相模でお願いします」
「わかった。……じゃあ、相模」
「はい」
「触っても?」
「えっ」
どういう意味だと問う前に、もう大きな手が近付いてくる。
(せめて返事を待たない?)
私が混乱していることなんて知りもせず、神宮寺さんは遠慮なく触れてきた。
と言っても、顔の真横の髪を軽くつままれただけだったけれど。
「あ、あの」
「これは地毛か?」
「は、はい。昔からちょっと茶色くて。高校でも染めてるんじゃないかって呼び出されたことがあるんです」
「確かにこの色なら言われるだろうな」
(……あ。また笑った)
至近距離で見てしまった笑顔は優しかった。
さっき距離をあけて座ったはずなのに、いつこんなにも近付いてしまっていたのだろう。
「ああ、それからもうひとつ聞き忘れていた」
「……なんですか?」
「今現在、恋人はいるのか? あるいは……そうなりたいと思っている相手は?」
聞くのが遅すぎやしないだろうか。
というより、私が承諾した時点で今の質問にはいと答えるのはおかしすぎる。
「いません。そういう相手も……その、恥ずかしい話ですが、まったく」
「結婚の予定もないわけだ」
「……二十八の女に言っていいことじゃないと思いますよ」
「もったいない」
さらりと指が滑って髪の毛先に絡まる。
そこに、神宮寺さんが口付けた。
「君の周りには見る目のない男しかいないんだな」
「えっ、あ、いえ」
(なに、今の? なんで?)
逃げ出さずにいるのが精いっぱいだなんて、この人にはわからないに違いない。
(そういうことを平然と言うから、今までいろんな人に勘違いされたんじゃないの?)
結局、軽く身を引いて逃れようとした。
だってどう考えてもおかしい。
「本物の恋人を必要としていないなら、そういうことは言うべきじゃないと思います」
「君も期待するのか?」
ぎょっとして目が合ってしまった。
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